中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文「三性説の研究」を全文掲載します。
今号は最終回。
卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。
■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■
※前日からのつづき
四 無住涅槃
1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献
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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に 塚田毬子 ◆◇
四 無住涅槃
1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
ここまで『摂大乗論』の理論編を検討し、筆者の実践を理論づけてきた。
それでは、この実践にはどんな意味があるのか。問題の解決とは何を意味するのかを考察したい。
第8、9、10章では無分別智について述べられ、実践による結果が示されている。
第8章において無分別智の性格が説明され、それが第9章で二分依他の展開である無住涅槃として説明される。
第10章では、無分別智を仏の三身という点から述べている。本論文では、第8、9章について検討を加えてみたい。
2 『摂大乗論』における無住涅槃
8章において、無分別智について言語でできる限りの説明が行われる。無分別智とは円成実性の達する智で
人法無我の智であり、真如に達する智である。無分別智の依り所は心ではないが、心から生じたものであり、
心というのは分裂を指し、依他起性から円成実性に至ることが示されている。
16節において、無分別智を得た後に、後得智を得るということが述べられる。
後得智とは、涅槃にとどまらない無住涅槃の立場が示される。 無住涅槃については第9章1節において簡潔に述べられている。
菩薩たちの〔障害の〕断除は、〔声聞たちと同じく涅槃であるが、ただし涅槃には〕止まらないという
涅槃(無住涅槃)である。それを定義づけるならば、およそ汚染を捨離すると共に、輪廻は捨離しない
〔という、この二つの〕ことへの依り所があり、すなわち依り所の転回(転依)なるものがあることである。
その中で、“輪廻”というのは、汚染分に属するかの他に依る実存であり、
“涅槃”〔すなわち煩悩など汚染の捨離〕とは、清浄分に属する同じ〔他に依る実存〕である。
〔この二つのことへの〕“依り所がある”とは、これら二分あるものとしての他に依る実存そのものである。
〔依り所の〕“転回”とは、他に依る実存が、それ自体に対する対治が起こされたとき、
汚染分であることを停止して清浄分に転回することである。(『摂大乗論』第9章1節、長尾 1987, pp.298-299)
ここでの菩薩とは、知らるべき真実をその対象とする大乗の菩薩である。煩悩を滅して涅槃に入ることは、
それに向かって進むべきものだが、最終目標ではない。『摂大乗論』においては、最終目標は設定されない。
その最終目標が設定されない状態を何というかというと、無住涅槃と呼ばれる。
涅槃に達して、そこから出てこないことは、涅槃に執着しているとみなされる。
無住涅槃は、涅槃に達していながら、どこにも安住しないあり方だ。変化があるのは分裂の中だけであるから、
分裂の中に身を置いて、ひたすら分裂を深め続けることを行う。ひたすら運動をおこし続けることを、
自ら選択することである。それこそが真の意味での涅槃であるとした。
これが、『摂大乗論』においてアサンガが示す、問題を解決することの意味である。
しかし、無住涅槃で菩薩が運動を起こしているにもかかわらず、衆生が救われないのはなぜかと問いが立つ。
その答えが第8章23節に述べられている。
(1)それらの衆生には〔財宝や地位などを与えようとする菩薩の神通力を〕妨げるような業がある
と見られるからであり、(2)もしその財富の施与がなされることとなれば、〔そのことが彼らにとって〕
善事をなすことへの妨げとなることが見られるからであり、(3)〔逆に財富が与えられないならば、
彼らは貧困に苦しみ〕この世を厭う思いがまのあたりに起ることが見られるからであり、
(4)もしその財富が与えられることとなれば、〔そのことが却って〕悪事を積み重ねることの原因となる
ことが見られるからであり、(5)またその財富が与えられたことそのことが、それ以外の極めて多数の
衆生に損害を与える原因ともなることが見られるからである。
それ故、貧窮に苦しむ衆生が現にあるとみられるのである。(『摂大乗論』第8章23節、長尾 1987, pp.294-295)
ここでアサンガは、衆生が救われないのは菩薩のほうに問題があるのではなく、衆生のほうに問題があるとした。
これは正しいと思われる。外側から働きかけても、内側が追いついていなければ反応できない。
自分の中に根があるものにしか反応できないのである。外側から与えられれば救われるというものではない。
では、どうやったら衆生の内面は追いつくのか。それは、自分で何とかするしかないが、自分の意志では
何ともすることができない性質のものである。意識下の分裂の深さは、自分で認識することも、
コントロールすることもできない。そこで『摂大乗論』では、その根本原因を業であるとした。
それは先天的で、選べない。輪廻でしか説明することができないものであるとした。
以上、問いを解決することの意味と、その困難に対するアサンガの思想を確認した。
無住涅槃は、涅槃にあっても執着を許さず、汚染された現実世界の中に身を置き、
分裂を深め続ける無限の運動であることが理解された。
結論
本論文では、筆者自身の問題意識を唯識説を媒介にして深めることを目的として、
筆者自身のこれまでの実践を唯識説で理論付け、『摂大乗論』を検討してきた。
なぜ人間は問題を自覚し、それを解決しようとするのか。そして問題を解決することは何を意味するのか。
それは、以下のように結論付けられる。
人間は内面に分裂を持ち、それが反映した世界で生きている。これが現実世界のあり方である。
分裂は絶えず運動を起こしているから、人間は外界と常に関係し、関係は絶えず変化している。
意識下で分裂が深まると、それが意識上に外化し、問題となって自覚される。なぜ問題となって自覚されるのか。
それは、現象を認識で把握することには限界があり、純粋な理解というのは不可能であるからだ。
人間は問題を自覚すると、自分の意志で問題を解決するために行動を起こすことができる。
そして他者にはたらきかけることによって、関係を変化させることができる。
それは、関係し合っている自分と他者を変化させることになる。それにより、問題が解決に向かうと、
自分自身が以前より明確になっていく。より自分自身に迫ることができる。そして、より分裂が深まり、
また外化して、次の問題が自覚される。以下、無限の繰り返しである。現実世界から分裂は無くならず、
真如に到達することはできない。ただ、分裂を深め続けることによって、自分自身に無限に迫っていくことができる。
その性質を持つのは人間だけであり、これがもっとも人間的な生き方と言える。
分裂があるという人間の本質が根源にあり、それが人間の生き方を規定する。
そしてそれを生きることにより、再び人間の本質に迫っていくことができる。
人間は自らの意志で、変化しようと思って変化するのではない。
そうではなく、変化する性質を持つ存在であるから、変化することができるのである。
人間はその性質として分裂を持ち、その分裂が運動を起こしている。
運動は意識的に起こそうと思って起こすものでも、起こさなければならないものでもない。
運動は分裂が決めるものである。運動により分裂が深まると、問題が外化する。
問題が自覚されたら、人間は行動によってその問題を解決に向かわせることができる。
そこで初めて、人間の意志がはたらく。問題が外化されるのは分裂の仕組みによるものであり、
運動が起きるのも分裂の仕組みによるもので、その問題は意識下でどの程度分裂が深まれば外化するのか、
認識では把握できない。それは自分自身で意志することのできない領域である。
何をしたら分裂が深まるかは分からない。次に自覚される問題が、行動の結果を示す。
行動している間は、それが正解かはわからない。筆者は自分の内面を直視しないという自分の問題を自覚し、
引きこもりを辞めるという行動をとったが、これがどのような結果をもたらすかは、次に自覚される問題が示す。
人間は分裂に乗っ取られ、分裂に突き動かされて生きている。分裂こそが人間の本質である。
人間は分裂の深さにより、それぞれに違う問題を持っている。それを選択することはできない。
問題を選択できないのは、自分を選択できないのと同様である。自分は自分から離れることができない。
自分が自分に生れてきたことは全くの偶然であり、生まれ、育ち、名前、身体、環境などは先天的なものである。
そして自分の問題は、自分が関係した現実世界の中から生まれた、自分だけにしかない特殊なものである。
人間は誰しも、その人にしかない特殊な問題を持っており、内的な深まりと外的なはたらきかけが一致した時に、
その問題を自覚し、解決に向かうことができる。内外のどちらが欠けても、転換は起こらない。
それは、人間が関係の中に生きているからだ。自分自身の問題を解決させようとして起こす行動は、
必ず他者と関係することになる。自他を分別して自分という存在があると思っていても、
自分一人で生きることは生命活動として不可能である。人は何かと関係しないでは誕生せず、
生命を維持することもできない。そして関係し合いながら、現実世界全体が変化を続けていく。
自分の問題意識を深めることは、他人に関係し、働きかけることになる。
人間は内的な分裂がなければ変化できないが、外的な分裂にも触れなければ変化できない。
それは分裂を自覚する際にも、解決のために行動する際にも当てはまる。
筆者が引きこもりを辞めようと思ったとき、筆者の内的な条件は意識下で揃いつつあったが、
それは他者からの批判によってはじめて意識上に外化した。そして問題を解決するため、
外界と関係することで今までの自分を壊そうとしている。では、外界とのどのような関係が転換をもたらすか。
それは、どんな関係においても転換が起るわけではない。関係する他者に自分と通じる問題意識が無ければ、
転換は起こらない。Aは筆者のあり方を問題だと思い、筆者を批判した。
それを問題に思わない他者から批判は出てこない。Aが問題意識をもって筆者の問題に切り込み、
筆者は自分の問題を自覚することができた。このように問題意識が共鳴する他者との関係において、
問題は深まると言える。
現実世界で、時として自分の中に否応なく響いてくるものと出会うことがある。
自分を引っ張り上げてくれるような対象に出会い、世界が見違えるような経験をすることがある。
そしてそれにより自分のあり方が変わる可能性が考えられる。それは何が響いているかというと、
問題意識が響いている。ある対象が持つ、自分が引き付けられる強さの正体は、その対象が持つ問題意識の深さであり、
自分の内面の分裂がそれに反応し、響き合っている。筆者が引きこもっている際に接していた音楽や本、映画は、
当時の問題意識に響き、筆者のあり方に影響を与えたものであった。
しかし問題意識が変化した今、それらは以前のようには響かない。
自分の問題意識が引き付けられる対象を感覚し、判断することで、自分自身が少しずつ変化していく可能性があると言える。
筆者が『摂大乗論』をテキストとして選択したことも、筆者の問題意識がそれに引き付けられたからである。
『摂大乗論』は、アサンガがアサンガの問題意識から書いたものであり、
これを検討したことで筆者の自分自身の問いが深まった。『摂大乗論』はアサンガが自身の問題意識に
対する答えを言語という表象をもって表現したものであり、それを玄奘が玄奘の解釈で訳し、
長尾が長尾の解釈で訳し、筆者が自分の解釈で理解した。何重にも分別が重ねられており、
純粋なアサンガの思考を理解できたとは言い難い。しかし本論文で『摂大乗論』を取り上げたことで、
筆者自身の問題意識はより深まった。本論文が明らかにした『摂大乗論』のテーマは、この世界がどうなっているか、
この世界でどう生きるかということである。そしてその答えとして、理論としてアーラヤ識と三性説を述べ、
実践編で修行の内容と、その結果が述べられていた。『摂大乗論』は瑜伽行派の哲学的な論書という面だけではなく、
現実世界で生きるための手引きという側面もあるように思われる。そのような側面を持つ本書おいて、
アサンガが自身の生き方に少しも言及しないのは、改めて本書の大きな欠陥であると言わざるを得ない。
しかし、本論文のテキストに『摂大乗論』を取り上げ検討し、自分の実践を理論付けたことによって、
筆者の問題意識は深まった。それは『摂大乗論』を書いたアサンガと筆者の問題意識が響き合った結果である。
自分自身の問題意識が深まったことは楽果であり、よって筆者の問題意識が『摂大乗論』を選択したことは
善因だと言えるのである。
参考文献
長尾雅人(1982)『摂大乗論 和訳と注解 上』、講談社
長尾雅人(1987)『摂大乗論 和訳と注解 下』、講談社
無著造、玄奘訳『摂大乗論本』(大正 No. 1594, vol. 31)