4月 11
家庭、親子関係を考える その1 2009年秋の読書会
2009年秋の読書会では、以下の3冊を取り上げた。
10月 斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)
11月 斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)
12月 中井久夫『精神科医がものを書くとき』 (ちくま学芸文庫)
この内、斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』と斎藤環『社会的ひきこもり』は4年前にも取り上げたのだが、新たなメンバーも増え、読んでいないメンバーが増えてきた。
しかし、すべての若い人々は、その青年期には、親子関係について振り返っておくこと、その本質について一度は考えておくことが重要だと気づいた。昨年夏の合宿で親子関係の悩みをうち明ける人がいて、その場で参加者の一人から感情的な発言が飛び出すのを見たからだ。そこでこの2つの本を再度取り上げた。
また、これは鶏鳴学園の塾生(高校生)の保護者にも参加を呼びかけた。親の立場からも考えてほしいと思ったからだ。
ダブル斎藤氏はいずれも精神科の医師である。ところが、二人とも現在の精神医療や精神科の医者に批判的だった。そこで多くの人(斎藤環もその一人)に支持されている中井久夫『精神科医がものを書くとき』で、精神科についても考えてみた。この一連の読書会で考えたことを報告する。
家族や親子関係がテーマになるので、この問題について私見を述べた「堺利彦の『家庭論』」も掲載する。若い方々に、また親の世代の方々に是非考えていただこうと思ってのことだ。
4月 11
家庭、親子関係を考える その2 中井久夫の二面性 12月の読書会から
12月の読書会のテキストは中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)。
精神科の臨床医である中井久夫については名前を知っているだけだった。『全体主義の時代経験』に収録された書評で、藤田省三が中井を絶賛していた。そこで彼のエッセイ集を読んでみたところ、断然面白かった。続けてエッセイ集を4冊ほど読み、有名な『最終講義 分裂病私見』(みすず)、『精神科治療の覚書』(日本評論社)も読んでみた。
中井久夫は文学にも造詣が深く、人間についての幅広い知識を持ち、深い人間洞察のできる優れた臨床医だと思う。しかし、どうにもしっくりこない点もある。
今回読書会で取り上げてみて、中井久夫の二面性を強く意識した。彼は個別性、特殊性の大家であるが、普遍性、一般化ではぼろぼろだと言うことだ。彼のエッセイが面白いのは、その個別面での能力の高さがよく表れているからだ。彼は実践家として、臨床家として非常に優れている。そして、個々の場面や、個々の事態への対応は見事で、そこから生まれる発見が、きらきら輝くような言葉で描かれる。それがたまらなく見事だし、面白い。
しかし、それらは断片的な知恵のようなものであり、事柄の本質を一般化して語ることはない。精神医療の歴史を長々と語り(「近代精神医療のなりたち」)、サリヴァンの業績と人生を長々と語る(「知られざるサリヴァン」)が、結局、それは何なのか、と振り返ると、ほとんど何も語っていないことに気づく。
結局、精神分裂病とは何なのか。結局、精神病とは何で、精神医療はいかにあるべきなのか。サリヴァンの仕事の精神医療における位置づけとはどのようなものなのか。その答えは、霧の中にただよっている。
読書会参加者から「こういう人はみなから好かれる」という発言があったが、そうだろうと思う。事実、多数のファンがいるようだ。本書には、中井にとっての先輩、同僚、後輩の精神科医が多数登場するし、個々に人物規定があるのだが、それらはするどく核心をついてはいるが、すべて断片的で、その人物の医療の本質や、精神医療全体における位置づけをしない。つまり、ここには根源的な批判がないのだ。これでは嫌われようがない。
そうした中井久夫の生き方がどのように成立したのか、それは「私に影響を与えた人たちのことなど」でわかりやすく示されている。
戦争中でも、彼の周囲には、祖父、大叔父、父など合理的な考えの大人たちが多く、日本の軍隊への批判などをよく聞いていたし、天皇の神格化などになじめなかった。そのために小学校では孤立し、よくいじめられた。周囲が集団ヒステリー状態にある中で、その空虚さを、冷めた目で眺めていたらしい。
戦後もそれは変わらない。アメリカ軍の占領政策による改革や、共産党や社会主義革命への狂騒に対して、中井は距離をとって冷ややかに眺めていた。しかし、中井はそうした運動や組織に距離を取りつつも、関係は持ち続けた。国内の左翼運動は、ソ連や中国の動きによって、しばしば外的な急旋回が行われ、その都度多数の思想難民が出ていた。彼らは精神的に深い傷を負い、中井はそのカウンセラーのような役回りになっていた。
こうして直接には政治や思想運動に関わらないが、悩み相談係として間接的に深く関わる。これが中井の位置である。そして、こうした関わり方を生涯の仕事にしたのが彼の人生だったのだろう。もちろんここには断念があり、自分の役割の自覚、明確な自己限定がある。だからこそ、「私に影響を与えた人たちのことなど」は読みやすく、分かりやすいのだ。
先に、中井久夫の二面性を指摘した。個別性、特殊性ではすぐれているが、普遍性、一般化の能力は低い。中井自身はもちろんこのことに自覚的であり、「エッセイかアフリズムしか書けない」と明言している。
本書の文庫版には斎藤環の解説があり、斎藤も中井の二面性を取り上げている。しかし、彼は「一般化のなさ」を肯定的にのみとらえ、中井への批判がいっさいない。しかし、それでは「ひいきの引き倒し」ではないか。
斎藤は中井久夫を「いっさい『体系化』を志向しなかった」とし、それゆえに精神医療を「カルト化」から守れたと評価する。確かにそうした面があるだろうが、反対に、一般化によって「カルト化」から守れる場合もあるのではないか。斎藤にとって「カルト化」とは、「ある種の思想やイデオロギー、すなわち『体系』が状況を支配する状態」だと言う。そして、「中井久夫のみがカルト化を解毒した」と言い、その理由を「いっさい『体系化』を志向しなかった」からとしている。
しかし「ある種の思想やイデオロギー」とは具体的に誰のどういった思想のことか、それを斎藤は言わない。本当にすべての『体系』が悪いのだろうか。斎藤の言う「状況を支配する」思想と闘えるのはどういう思想なのだろうか。まさか「状況に支配される」思想ではないだろう。「状況を支配しない」思想だろうか。それはどういう思想だろうか。「状況を支配しない」思想で、「状況を支配する」思想と本当に闘えるのだろうか。
中井久夫には二面性がある。中井の良い点は、それを自覚し、自己限定によってマイナス面が大きな欠点とならないようにしていることだ。しかし、それも十分ではなかった。斎藤は、中井が「原則として依頼原稿しか書かない」ことを、中井の自己限定として評価しているようだが、依頼原稿なら書いて良いわけではない。「近代精神医療のなりたち」や「知られざるサリヴァン」のような、彼に向かない仕事をも引き受けてしまい、その馬脚を現すことになっている。それを彼に注意できる人はいないようだ。
4月 11
家庭、親子関係を考える その3 「依存」と「自立」と 10月の読書会から
斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)をこの秋にも読書会で取り上げた。この本は親子関係が子供の人生に決定的な影響を与えることを示した点で、またアダルト・チルドレンという命名で、この問題にわかりやすいイメージを与えた点で、社会的に大きな影響力を持った。悪い親子関係は、その子供が親になることで拡大再生産されること、アルコール依存症や暴力に関して、夫婦間での依存関係を明らかにしたことなど、本書の功績は大きいと思う。
もちろん、そこには大きな限界もある。アルコール依存症や家庭内暴力などの「悪い」特殊な親や家庭だけが問題になっていて、一般化ができていないことだ。しかし、一部の「悪い」親や「悪い」家族関係だけが問題なのではなく、「良い」ケースも含めて、すべての親子関係で、親の子供への影響力が圧倒的に大きい(9割は親の影響ではないでしょうか)ことが核心的な問題ではないか。そこでは、良くも悪くも、親子の一体化が起きている。子供は親からの影響をどう相対化し、自分の生き方を選択できるのか。それが真の「問い」であり、真の課題だ。本書の例はその特殊例でしかない。
しかし、今回言いたいのは、そのことではない。「依存」「共依存」の用語法についてだ。これが一見わかりやすいようだが、誤解を与える表現ではないかと思うようになった。
これは、「アルコール依存症」という用語から来ているとおもうが、この本では「依存」即「悪」、「共依存」即「悪」、であるかのような使用法が行われている。
「依存」と「自立」は確かに正反対の言葉だが、実際の関係性においては、両者は対立するだけではなく、深く結びついてもいる。「アルコール依存症」からして、「依存」即「悪」なのではなく、「自立」の面が大きく損なわれた特殊な「依存」症状を問題にしているだけなのだ。
人間はそもそも「社会的な動物」なのだから、すべての人間は社会に、つまり他者に依存して生きている。また、「恋人」「夫婦」などの社会から一応は「閉じた」二人の関係でも、「依存」と「自立」はもちろん切り離せない。「依存」即「悪」といった用語法やイメージは、この面を見られなくするのではないか。
自立した関係とは、依存していない関係ではない。むしろ相互に正しく依存していることが、相互に自立できていることに他ならない。自立と依存は切り離せないのだ。
「依存」か「自立」か。この問題設定は間違っている。「どのような依存が真の自立につながり、どのような依存が自立につながらないのか」。これが正しい問題の立て方だ。
甘え合い、依存しあうことが問題なのではない。その関係が、病をますます悪化させていること、例えれば、デフレスパイラルに陥って抜け出せないような状態になっていることが問題なのだ。それは「間違った」依存関係だから「間違い」なのだ。
この2人の「自立」と「依存」の関係が、家族としては社会に対して「開かれた」家族か、「閉じた」家族かの問題に重なる。ここでも、家庭や夫婦関係が社会から「閉じる」ことが問題なのではない。その「閉じ方」が、正しく社会に「開かれる」ことにならないような関係が問題なだけなのだ。
こうした間違いは、ソ連の社会主義革命の初期にかなり広がったし(ライヒの『性と文化の革命』参照)、1970年代の共同体運動にもかなりあった。
斎藤環が『社会的ひきこもり』で、家族内の個人、家族、外の社会の3者を3つの円でとらえたシステム理解図は大いに有効だと思うが、それはこの3者の他の2者への「開かれ方」=「閉じ方」の全体を見渡す視点を提供したからだ。閉じていることは大前提で、その上に「開かれ方」=「閉じ方」を問うている。
私は、しばしば母子一体化の問題を取り上げ、そこでの共依存関係の問題を指摘する。親には「子離れ」を求め、子どもには「親からの自立」を求める。しかし、母親が子供を生きがいにすることが即悪いのではない。子どもが親に依存していることが即悪いのでもない。その反対の悲惨な例が「児童虐待」である。大切なのは、今の視点と共に、子育ての全体の過程を通して、子どもの自立のあり方を考えることなのだ。そこで問われるのは、そもそも「子どもとは何か」「家族とは何か」「夫婦とは何か」「その目的は何か」である。こうした本質論抜きに、状況や方法だけを論じていてもダメなのだ。
問題を、「依存」か「自立」かといったスローガン形式で示すのはわかりやすく、問題をはっきりと自覚するために有意義に見える。しかし、その結果全体を見失い、両者の根底的な関係とその本質を見失えば、かえって混乱が大きくなるだろう。問題を的確な表現で捉えなければならない理由がわかっていただけるだろうか。善意か否かには関係なく、低い論理能力は低い結果しかもたらさないだろう。
4月 11
家庭、親子関係を考える その4 堺利彦の「家庭論」
(1)堺利彦の「家庭論」
鶏鳴学園で大学生たちと行っている読書会で、堺利彦『新家庭論』(原題『家庭の新風味』講談社学術文庫)を読んでみた。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年(明治3年) – 1933年(昭和8年))は、明治から大正、昭和初期にかけて活躍した社会主義者・思想家・小説家である。
『家庭の新風味』は明治34年から35年に書かれている。つまり日露戦争の2年前であり、日本が富国強兵を押し進め、上昇機運に乗っていた時だ。多くの人々は日本がなんとか西欧の諸国と肩を並べられるようになってきて、慢心するようになっていた。工業力や軍事力は大きく伸びたが、一方で貧富の格差が広がり、労働者は苦しんでいた。その時に、社会主義者が家庭の実用書を書いたのだ。もちろんそれは、原理原則の書でもあった。
(2)進む親子の一体化への歯止めを
本書を読む気になったのは、最近の家庭における親子の一体化、子どもを親の所有物化している風潮への、私の強い危機感があるからだ。
昨年秋に教育専門誌からモンスターペアレンツ(学校への理不尽なクレームや要求をする保護者)についての寄稿を求められ、本書を思い出した。
モンスターペアレンツが急増している背景には、明らかに家庭の変質、親子の一体化の問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。そこに他者が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
これは児童虐待とは反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまう。親離れ、子離れが極めて困難になっているのだ。
こうした一体化への歯止め、抑制を可能にする論理は何だろうか。それを考えるとき、堺利彦の「家庭論」が思い出されるのだ。初めて読んだのは25年以上前になるのだが、それ以来、私の中に「子どもとは次の時代の働き手」という定義がしっかりと根を下ろしている。私自身が二人の子育てをしながら、「子どもは親の所有物ではない。子どもは次の時代の働き手であり、社会(人類)からの預かりものである。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならない」との堺のテーゼを時々思い出しては、拠り所にしてきた。愛情に溢れた温もりのある家庭、しかしそれは私的で閉じている。それに対して対抗できるのは、社会や人類の立場からの論理しかない。
今は親子の一体化が強まっている。その時に、堺のテーゼはますます有効性を増していると思われる。確固たる原則がなければ、子どもかわいさという感情に流されるだけだろう。
「子どもとは次の時代の働き手」ということは、私たちは現在の時代の働き手であり、人類とはそのように前の時代の遺産を継承し、より発展させて次につないで生きてきたことを意味する。それは人類史上に自分を位置づけ、労働を自分の使命と自覚することと結びつく。
若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。若者の間に、仕事における自己実現を求め、「自分探し」をしているような風潮が流行っているようだ。しかし「自分探し」とは自己理解を内化によって成し遂げようとする低い考えだ。本来は、「自分作り」という外化によってこそ内化も可能になると思う。そして「自分作り」は自己理解の範疇内に限定されてはならない。そもそも、自己理解は、他者や社会全体の理解と一体になって可能になるものだ。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「次の時代の社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
社会や人類史を視野に入れず、「自分探し」しかできないでいることと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのだ。
(3)家庭と社会との矛盾
堺の『家庭の新風味』は夫婦論・家庭論から家庭の家事や育児や娯楽までを述べた「実用書」だ。しかし、「子どもとは次の時代の働き手」という「人類発展の立場」からすべてを論じ尽くしている理論書でもある。その意義についてはすでに述べたが、当時も家庭のあり方が大きな問題になっていたのだろうか。
今回全体を通読してみて、すべてに貫かれる論理の力強さ、自立と人間平等の思想、世間をよく知った大人の知恵に心打たれた。しかし、道徳的な平板さも強く感じた。悪や対立、矛盾が、発展に必要な媒介、過程としてとらえられていないということだ。
例えば、夫婦間の親愛を「相見る」「相思う」から「相化する」「相合す」までの発展の10段階で示している(第4冊の第2章)。しかし、その段階の高まりは平坦に進むものではないだろう。夫婦間には様々な対立、葛藤がおこり、それを克服することで次への高まりが可能になるのではないか。それが明示されない。また、最終ゴールが一体化だというのは適切だろうか。夫婦には理解が進み一体化する一方で、互いの孤独がかえって深まる面もあると思う。そうした距離感も大切にしたい。それと関係するが、「夫婦間には秘密があってはならない」との指摘にも疑問がある。戦友としての夫婦の戦場に関することは別だが、二人が適切な距離を保つためには、秘密はあった方が良いと思う。その方が人生は面白くないだろうか。
こうした平板さは、家庭を「理想社会のひな形」として、その理想のあり方を次第に発育成長させ、ついには全社会に及ぼす、といった堺の言説(282ページ)に最もよく現れている。『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎も同じ様な主張をするが、それはあまりにも単純化しすぎた表現ではないか。家庭と社会との間には、一般化したり、広げたりするには、あまりにも大きな隔絶、矛盾があるのではないだろうか。
国家間にも、国家内部の社会にも争いがあり、強盗、殺人、詐欺、脅迫、賄賂など、無数の悪徳が行われている。「その中にただ一つきれいな清潔な平和な愉快な、安気な、小さな組合がある。それが家庭である」。「夫はわが身を思うがごとく妻を思い、妻はわが身を思うがごとく夫を思い、親はわが身を忘れて子を思い、家族はたがいにわがままを控えて人の便利を計る」。「将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならないと思う」(以上281,282ページ)。
確かに、家庭では相互の親愛や理解が簡単で、社会ではそれが難しい。家庭は血縁で成り立っており、親子の愛情は血縁という自然性の上に成り立っているからだろう。それに対して赤の他人同士には自然性に基づく親愛の根拠はない。そこには混乱、悪、犯罪が横行する。
そこで、血縁や地縁関係で結ばれた関係を全社会に、全世界に及ぼすことで、諸々の問題が解決できると夢想したい。その気持ちは理解できる。人類を一家に例えたり、「人類皆兄弟」と唱えたりするのもわからないわけではない。
しかし、それは根本的には間違いではないか。その間違いは、親子や地域の自然な感情を全肯定するように見えるところにある。否、本当は全肯定しているわけではないのだろうが、そのようなイメージに乗っかっている。そこには問題があるのではないか。
そもそも血縁関係は、ただ肯定されるだけで良いものだろうか。それは自然性に基づくだけに、無私の愛情を可能にするが、他者に対しては閉じた関係なのだ。地域の自然な仲間意識も、他者を排除した関係である。また閉じた関係であるがゆえに、核家族化と少子化が進むと、親子の一体化や親の子どもの所有物化を妨げるものがなくなる。
その閉じた家庭や地域共同体に対して抵抗できるのは、他者に開かれた自由な関係、一般社会(近代以降の市民社会)だけなのではないか。社会には確かに、他者同士の金や権力をめぐる争いがあり、無数の悪が行われているが、家庭や地域の閉鎖性を超えているという側面がある。閉鎖した関係より、市民社会の方が高い段階にあることを見逃してはならないだろう。
もちろん、社会的な混乱、不正は確かにある。そしてその克服のために、社会主義的な思想が生まれている。しかし、その解決を家族主義的、地域主義的に理解することは後ろ向きであり、本来の方向ではないだろう。むしろ、家庭という直接性を否定し、そこで生まれた市民社会の矛盾をさらに克服することで生まれる社会、それが本来の理想社会だったのではないか。
確かに否定の否定は最初のものへの環帰になるのだが、家庭と社会との関係は一直線に結ばれるものではなく、二回の否定で媒介されていることを弁えなければならないだろう。
もちろん、堺も吉野源三郎も、そんなことはわかっている。わかった上で、人々にわかりやすいイメージを与えようとしているのだろう。しかし、家庭という愛に溢れた平和な共同体を社会全体に拡大しようというイメージは、その家庭の自然性が否定され、克服されなければならないという厳しさを、忘れさせてしまうのではないか。むしろ、血縁関係の否定面を強調する必要もあるのではないか。
(4)子どもとは家庭と社会の矛盾を克服するシンボルだ
もちろん堺がこうした矛盾に触れていないわけではない。例えば、親の子どもへの愛情でも、父親と母親の違いを堺は述べている。
「母親の子への愛は本然の愛(自然の愛)」で「父親の子への愛は自覚の愛」だと言う。母親も「本然の愛」の他に「自覚の愛」を持っている。そして、動物と人間の違いは「自覚の愛」にこそあると言う(208ページ)。母親の直接的な愛情は、一旦は否定されなければならないということだ。しかし、その否定はどこから生まれるのか。自覚からだ。何の自覚か。夫婦間の親愛が「相化する」「相合す」にまで高まって具現化したのが子どもだという理解だ、と堺は言う。さらに言えば、「子どもとは次の時代の働き手」だという認識だろう。
この自覚は、親自身が社会で働くことで、自らを「現在の時代の働き手」であることを自覚し、人類史の中に自分を位置づけることから生まれるだろう。
この父親と母親の愛情の違い、立場の対立を考えると、家庭とは実は大きな矛盾であることが分かる。そこには血縁関係だけではなく、他者同士の関係が含まれるからだ。そもそも夫婦からしてもともとは他人同士なのだ。それが夫婦になり、子どもという血縁関係を生む。しかし離婚すれば、夫婦は他人同士にもどる。しかしその時でも親子の血縁関係はそのまま続く。
実は、この矛盾が「嫁姑問題」をも引き起こしている。母親と息子という血縁関係に他者(嫁)が侵入したために生まれているのが、この問題なのだ。
そして、堺はこの「嫁姑問題」に有効な解決案を出せないでいる。せいぜい、別居を勧めるだけだ。ここにも原理的な解決策を打ち出すべきだったろう。
また、堺は夫婦それぞれの出身階層の違いの問題に触れない。「上流家庭の家風」を批判するだけだ。これは堺が「健全なる中等社会」だけを相手にしているせいかもしれない。しかし、「中等社会」内にも階級の区別はあるし、他者である二人にとっての強固な「他者性」とは互いの階級固有の価値観、感性の違いだろう。それはどうやって克服できるのか。
こうした矛盾は、実は「子ども」という存在に集約されている。他者同士である夫婦を親子の血縁関係で強固なものにするのも子どもである(子はかすがい)。しかし、家庭の中で親の愛情を一身に受けて育ちながら、両親から自立し、社会に出ていってしまうのも子どもなのだ。それによって「次の時代の働き手」となる使命を果たすために。
子どもには、こうした矛盾が集約されている。それは何と不思議な存在であることか。私達大人が、両親が、子どもたちを尊重し、大切にしなければならないのは、彼らが「次の時代の働き手」であるからだが、それだけではあるまい。子どもたちはこの人類社会発展のための矛盾の体現者であり、その克服のシンボルなのだ。私達は子どもの使命の厳粛さに頭を垂れるのだが、それは私達自身の使命の厳しさを噛みしめることになるはずだ。
2008年4月2日