9月 22

今回の学習指導要領には画期的な点があります。

第1に、言語活動(思考、判断、表現)を教育活動の中核とし、すべての教科で指導すべき、とした点です。
第2に、その教育活動の中心に国語科が位置づけられたことです。
  第3に、リアルな現実、生徒の体験が重視されたことです。

 これは、これまでの学校教育、国語科教育の大きな課題の克服をうながすものです。

 課題とは、学ぶ対象が リアルな現実ではなく、抽象的で一般的なきれいごとでしかないことです。つまり、現実の社会問題や、現実のクラス・学校・地域の問題が軽視され、生徒自身の体験、生き方が問われることが少ないことです。
 また、それらを取り上げても、問題や陰の部分や本音に突っ込むことがなく、きれいごとや建て前に終始することです。

 また、その学び方にも課題があります。それが情緒的・感覚的・文学的で、思考によって分析・判断することが極めて弱いことです。

 それが今回、大きく変わることが期待されます。特に、国語科は、他教科の思考、表現を指導することを要請されたのです。変わらないわけにはいかないでしょう。

 これまでの国語科は、思考力をなおざりにし、文学教育と道徳教育に成り下がっていました。それを改革し、理科や社会、英語や数学、家庭科などの教科での表現、分析、読解をリードすることが求められています。もともと、すべての表現とその根底の思考力を教えるのが国語科であるべきだったのです。

 今のままの国語科が、理科や社会に適切な表現とは何かを教えられるでしょうか。こうしたことをめぐって、大きな混乱、議論が起こるでしょう。それは避けられない過程なのですが、その意味がわからないと、またバッシングを受けるでしょう。

 全国の高校現場の心ある先生方、是非協力して、この課題の克服のために努力していきましょう。

 昨日のブログで書いたように、新しい学習指導要領についての座談会に出ました。私見について、詳しくはそちらをご覧下さい。大修館書店のPR誌『国語教室』90号、本年11月に発行予定です。

9月 21

9月18日に、大修館書店のPR誌『国語教室』の座談会に参加しました。

新しい学習指導要領を入り口にして、これまでの国語教育、学校教育の問題点、その改革の可能性を論じ合いました。

他の出席者は以下の3人の教員です。
・藤森裕治氏(信州大学)
・釜田啓市氏(清真学園)
・臼田悦子氏(長野県野沢南高等学校)

『国語教室』は高校の国語教科書の販売促進のためのPR誌で、座談会は90号、本年11月に発行予定です。

座談会には高校現場から二人の参加者がありました。これまでの国語教育批判、学校教育批判において、私だけが浮いてしまうことを心配していました。しかしお二人(特に釜田氏)とは、基本的に考えが一致していました。心強く思いました。

9月 18

 夏休みはいかがでしたか。前半は不順な天気が続きましたね。
 ヘーゲル学習会の合宿中も、ずっと雨が降り(「こんなことは初めてだ」と地元の人も言っていました)、せっかくの八ヶ岳ですが、高原の清澄な空気を堪能できませんでした。

 さて、政権交代も実現し、いよいよ社会が大きな変化を迎えることになります。
 私たちも、社会と自分自身の課題ときちんと向き合い、次のステップへと進む準備をしておきたいものです。

 9月以降のゼミの日程をお知らせします。
 6月の読書会に初めて参加された社会人(女性)の方の感想を掲載しました。
 社会人の方は参考にしてください。
 ゼミでお会いしましょう。

◇◆ 1.9月以降のゼミの日程 ◆◇

(1)文章ゼミと読書会

 いずれも土曜日。文ゼミは午後7時より。読書会は午後2時からそれぞれ2時間ほどです。
 午後5時からは参加者の近況報告や問題意識を報告し合う「現実と闘う時間」があります。
 参加費は3000円です。

 9月19日:文ゼミ

 10月10日:文ゼミ
 10月24日:読書会

 11月14日:文ゼミ
 11月21日:読書会

 12月12日:文ゼミ
 12月19日:読書会

 年末には忘年会を予定しています。

(2)ヘーゲルゼミ

 10月に開講予定。
 毎週月曜日、約2ヶ月間行う予定です。
 午後5時からは原書講読。午後7時から翻訳でヘーゲルを読みます。
 参加費は1回3000円です。一方だけの参加は2000円です。

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◇◆ 2.大学時代以来の新鮮な経験(6月の読書会参加者の感想) ◆◇

 同じ本をみんなで読み、その経験を共有していく、という機会は大学時代以来でしたので、とても新鮮で、楽しかったです。

 今回お会いした二〇代の皆さんと普段の生活上ではふれあうこともあまりないため、自分では忘れていた社会に出始めたころの手探りな感じを思い出しました。
 でも、皆さん、若い頃に中井先生のような師に出会えたということは幸せなことですね!

 仕事が立て込むと何ヶ月も休みが無くなってしまうような生活ですが、また機会がありましたら参加させていただきたいと思います。早速メルマガにも申し込ませていただきました。

 どうもありがとうございました。

8月 27

8月6日から9日まで、3泊4日のヘーゲル学習会の合宿が行われた。参加者は私以外に6人(4日間を通しては3人)。男4人、女2人。学生4人、社会人2人だった。昨年と同じ人数だが、今どき、ヘーゲルを読むために、これだけの人間が集まってくれることは、ありがたいことだ。

昨年についで今年が2回目。4日間、とにかくヘーゲルを読み続ける。これだけ集中して朝から晩までヘーゲルを読んでいると、ヘーゲルが乗り移ったような状態になる瞬間がある。その時には、ヘーゲルが憑依して、ヘーゲルが語っているような気になる。
それは、私が私自身を追い込んだ結果でもある。私にとっては、この参加メンバーたちが本当に大切であり、彼らにヘーゲルの凄みを見せつけたいと切に願っている。

最初の2日間は『精神現象学』の原書講読で、「序言」から中ほどの10ぺージほどを読んだ。存在と思考の一致、存在の運動と認識の運動の統一について述べている範囲で、当然それを考えるのが目的だった。
この問題については、牧野紀之氏が「悟性的認識論と理性的認識論」で、わかりやすく説明している。だが、ヘーゲル自身がどう説明しているのか、それを直接読んで、そこから考えてみたかった。そして、その点で大きな収穫があった。

つまり、存在は、自から運動し、「存在」「質」といった規定を生む。それは、自分の持つ多様な性質から、こうした規定を抽象することを意味し、それは存在が認識をしていることに他ならない。(これらの例はすべて存在論のもの。牧野氏の例は、主に本質論からと言える)
つまり、ここでは抽象化、比較による規定の抽出をものが行っており、それは存在が認識をしていることに他ならない。つまり認識、思考とは、人間だけがするものではなく、最初から存在するすべてのものが、行っている。ただし、自己意識がないので、その意味が自覚できないが、人間はそれが自覚できることだけが他との違いなのだ。これには驚き、深く感動した。
(以上は、ズールカンプ社版全集第3巻の53ページ)

しかし、ヘーゲルの執拗なシェリング批判。罵詈雑言のオンパレードが続く箇所には辟易した。執念深い粘着質の在り方は、大物に不可欠の要素だが、ヘーゲルのそれは、ここでも群を抜いている。

後半2日は『精神現象学』の翻訳(牧野紀之訳、未知谷)で、第1部「意識」論(第1章から第3章)を読んだ。
4章の「自己意識」をどう導出するか。それを対象意識である「意識」論から、出している。そこが一番の関心だった。その意味は何か。そこから何を学べるのか。

3章は面白かったが、1章、特に2章の意味がよく理解できなかった。1章は存在論、2章と3章が本質論だと思うのだが、またその哲学史上の意味は一応わかるのだが、その個人の成長上の意味がよくわからなかったのだ。
3章では、現象と本質、現象と法則、説明で、対象・現象の外化と内化の無限の運動を出し、それを認識できるのは、認識する意識もまた、同じ無限の運動をしているからだと持ってくる。すると対象世界の無限は、無限であることで、意識にとっての自己に他ならず、それを認識する意識とは、自己を意識することに他ならない。そこで成立している存在と認識の一致、それが「自己意識」だ。

だから、それは、単に自己についての意識なのではない。無限として捉えられた対象世界を自己としてとらえた意識が「自己意識」で、対象意識を止揚して自己内に持っている。それが「自我」だ、ということになる。
ただし、ここに成立した自己意識自身には、まだその意味が自覚されていない。それが自覚される過程を通して、次の理性が成立する。

以上は、自我の中に、なぜ全世界が含まれているのかを考える際に、大きな意味を持つと思う。ただし、わからなかったのは、自己意識が含む「全世界」に、他者、他の意識のすべても含まれることが明示されていない点だ。「意識」論での対象に、他者の意識も含まれているのだろうか(自分の意識は常に問われている)。これは、2章の物と性質で、対象に人(他者)が含まれているのかどうか、それが不明なことと結びつく。

3日目の晩には参加者の近況報告、提出した文章の検討も行った。近況報告では、各自の今の課題、今後の取り組みなどを話し合った。
ゼミ参加から1年余りの大学生は、家族問題に悩んでいることがわかった。今、若者が自立するには、家族について、親子関係の在り方について、きちんと考えることが不可欠であることがよくわかる。秋から、この問題を考える機会を与える予定だ。

この合宿でヘーゲル哲学について考えたことは、秋以降に再検討の上、詳しく報告する。

8月 16

月刊『高校教育』9月号に拙稿が掲載された。

これは
「連載:大学・学校・教育委員会のパートナーシップ  ―スクールリーダー・フォーラムの挑戦―」のラスト、3回目に当たる。

大阪ではすでに8年あまり、大学・学校・教育委員会の連携を行っている。大学側とは大阪教育大であり、大脇康弘氏が中心に、活動している。この連載はそのスクールリーダー・フォーラム8回目の総括のためのものだ。

連載は   
第1回 スクールリーダー・フォーラムの理念と軌跡
  大脇康弘(大阪教育大学)、2009年7月号 

第2回 経営革新プロジェクト推進校の実践をつなぐ
  水本徳明(筑波大学)、2009年8月号

第3回 が私である。私のタイトルは「『生徒が3年間でどれだけ伸びたか』を競い合え」

以下が拙稿である。

? すべての高校生の『伸びしろ』を大きくする

 「学校教育の目的は、すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすることだ」。参加校の皆さんが口をそろえてそう発言した。私は、このことに一番感動した。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。

 今年2月に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」。私はゲストとして参加した。このフォーラム、並びにその背景については、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)の五章にまとめた。参照していただければ幸いだ。しかし今回、外部からではなく、実際にフォーラムに参加してみて、その面白さが予想を超えていることを知った。

 そもそもの発端は大阪教育大で大脇康弘氏を中心として生まれた研究会にある。大脇氏らは、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。それが実現して8年目、ここまでにすでに多様な活動が展開されてきた。

 フォーラムはその活動の一つであり、他の活動と密接に関係しながら、その結節点を作ってきた。今回も、「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を総括するのが目的だったのだと思う。

? 「個性」と達成目標とは何か

 「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校のいわゆる中堅校21校が参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んだ。府教委では〇三年から北野高校、天王寺高校などのいわゆる「進学校」の教育内容の改革に取り組んでいたが、次には中堅校の特色作りに着手したかったのだ。

 今、教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をももたらしている。これらの言葉の本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。

 「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その課題に取り組んで大きな成果をあげたのが、この「経営革新プロジェクト」だ。

 ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。

 しかし、中堅校は多様だ。伝統校も新設校もある。学習以前の生活態度の改善に集中しなければならない学校がある一方で、生活面から学習面へと指導の重点をシフトしなければならない学校もある。部活参加の割合を高めなければならない学校も、部活のエネルギーを学習にまわさせることに頭を悩ませている学校もある。そうした多様性の実態を知ることから、中堅校の全体像が見えてくる。その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなども得られる。自校だけでなく、全体を視野に入れる中で、自己相対化が進む。

 その時に、各学校の課題が違うことも明確になってくる。画一的な目標や、達成度の競争は無意味だ。そうなると、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。改革の「成功」の基準はどこに置くのか。求められる成果とは何か。
「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになりやすい。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。

  「成功」の基準は、あくまでも、「入ってきた生徒が3年間でどれだけ伸びたか」にある。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。

 また、「伸びしろ」を真剣に考えることで、各学校の目標・課題や、その成果の評価の考え方が変化するだろう。ある学校の校長は、「初めて浪人する卒業生が出た」という事実を成果としてあげた。その高校の大学進学者は少数で、入れる大学に進学していた。今は大学は「全入」だから、選びさえしなければどこかの大学には入れる。その結果、浪人は出なかったのだ。そうした中で浪人生が出現したのは、「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたことだ。これは大きな教育の成果なのだ。

 中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。

? オープンな雰囲気と緊張感

 研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がない。しかしそれが難しいのが実状だ。しかし、このフォーラムではそれができている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。

 フォーラムのような場では、教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者の連携のあり方が問われるだろう。そもそも、今はまだ、学校現場の改革のために3者が協力し合うこと自体が難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近いことも多い。そうした中で、こうした連携が行われているだけでも大したことだ。しかし、大阪の試みはそこにとどまらない。

 ここにあるのは単なる外的な協力関係ではなく、内に批判の芽を持っている。他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思う。

? 「書き言葉」と「話し言葉」と

 ここは現場主義ではあるが、実感にとどまることは許されない。気づきや疑問を言葉にして、深めていくことが求められる。その一つが「書き言葉」と「話し言葉」の一体の運用だ。毎回のフォーラムでは実践報告書が配布され、そこには大学の教員だけなく、各学校の管理職やスクールリーダーたち、教委のスタッフによる報告が並ぶ。それまでの討議は一旦は文章にまとまり、フォーラム当日はそれに基づいて議論が闘わされ、それはまた文章化されていく。多忙な中で文章にまとめるのは大変だが、この点では妥協がない。

 このシステムは、単なる現場主義に堕することを避け、理論的にも実践的にも蓄積を重視する立場で、これが8年間の連携を支えてきているように思う。

 この方法は大脇氏の発案だと推測するが、彼は雑誌媒体の利用によって、さらにこの「書き言葉」と「話し言葉」の円環運動を促し続ける。本誌『月刊 高校教育』や『月刊 悠』誌などには、フォーラム関係者の報告文がたびたび掲載される。

 それはフォーラム関係者のモチベーションのためでもあり、成果を学校現場の方々に還元するためでもあるし、研究成果の蓄積のためでもあるだろう。

 このように、外部や媒体をどん欲に取り組んでいくことで、フォーラムのマンネリ化は防止される。毎回、フォーラムには新たなゲストが登場する。今回は私も引っぱり出されたわけだが、フォーラム参加だけではなく、今執筆しているこの原稿もその一環なのだ。こうした大脇氏のプロデュース力が、大きな役割を話しているのだろう。

? 現実的理想主義のすごみ

 最後になるが、大阪という地域の特殊性を忘れてはならないだろう。大阪の府立高校では、以前から緊密な連携が生まれていた。校長たちの自主学習会も長い歴史を持つし、何十年も前から「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史がある。みなで大阪の教育全体を支えようという意識が徹底されているのだ。その背景には、もちろん、大阪の厳しい状況がある。

 大阪の少年非行は全国ワーストワン。不登校や、学力低下、教育格差の拡大にも悩んでいる地域だ。そうした厳しさに向き合うために、もともと自主的な形で横の連携が作られていた。府教育委員会も並々ならぬ覚悟で取り組んでいる。

 フォーラムのある参加者が「大阪は商人の街。われわれも『上手くいってなんぼ』でやってますんや」と言っていた。商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。