6月 17

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
 
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◇◆ ヘーゲルの国家論  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。そこで考えたことをまとめておく。テキストには中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

(1)国家とは何か
§257には国家の概念が示される。ヘーゲルは国家を意思(自由を求める意思)の概念で説明する。

「国家ははっきりと姿を現して、己自身にとって己の真実の姿が見まがうべくもなく明らかになった意志の実体としての倫理的精神である。この意志の実体は、己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」。
「国家は個々人の自己意識に媒介された形で顕現するが、他方、個々人の自己意識もまたその自由の実体を国家の内に持っている」。

 人間一人一人の自己意識=意志が国家の基本になっている。個人の自由実現は国家によって可能になるとヘーゲルは言う。ここで一人一人の「自己意識」を基本においていることに注意したい。「自分とは何か」と「自分たちとは何か」「わが国とは何か」。これらは一連の問いで切り離せないと言うことだ。

 また、近代国家とは、あくまでも「国家を作ること」を意識して自覚的につくったものだ。先進国イギリスは、産業革命後の市場拡大のために、国内市場を拡大し安定化するために、イングランド、スコットランド、ウエールズを統一し、対外的には植民地政策を推し進めた。フランスも革命後のナポレオンによる帝政下で中央集権化が進む。

 これらの先進国への対抗上、後進国も国家を作るしかなかった。それがドイツ(プロイセン)、イタリア、日本などの「民族国家」だ。日本は植民地化されないために、西欧から国家という諸制度を輸入する形で作り上げた。近代国家は他の諸国家(先進国)に対抗する必要性から後進国が自覚的に作ったものだ。

 しかし、後進国の国家が「民族国家」である必然性はなく、他民族国家でもかまわない。「己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」という意味では、アメリカこそ、旧来の歴史や社会を前提にせず、理想的な憲法の理念から作った純粋な近代国家と言えるだろう。憲法に賛成するすべての者を国民と認めるほどに、それは理念先行国家だ。

 市場拡大のために内部の分断、分裂を克服し、統一した中央集権の統合を実現する。さらに外との対抗上も国家を必要とする。後進国では逆に、対外的な必要から国家を必要とする。いずれにしてもそれが近代国家だ。そのナカミは多様だ。それぞれの民族、国民が、自分たちにふさわしい国家を自覚的に作り上げたものだからだ。

(2)君主制について

 マルクスなどヘーゲル国家論の批判者は、ヘーゲルが君主制とその官僚制を擁護している点で、ヘーゲルを批判する。この批判、特に君主制擁護への批判は正しい。それは叙述によく現われている。

 ヘーゲルの君主国家論(3章のAの? §272?320)は明らかに、当時のプロイセンの君主政権を擁護するのが目的だった。というよりは、彼の国家論は近代国家論だが、その国内体制の箇所はプロイセン国家論になっているのだ。当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかったからだ。しかし、露骨にそうは書けなかった。

 擁護の姿勢は叙述の不自然さに現れる。ヘーゲルはここでは、いつもの普遍→特殊→個別の順番を壊してしまう。

 カントの立法→司法→執行に対して、ヘーゲルは立法→司法→執行を主張していたそうだ。そして、本書ではそれを、立法→執行→君主に変えた。ここにすでにおかしな物があるが、それを問わないとしても、展開の順番は立法→執行→君主になるはずだ。

 それが君主→執行→立法と逆転している。その結果、君主論の内部(a §275?286)も、個別から普遍への順番になっている。そして、ラストの立法(c §298?320)の導出、その内部展開もおかしくなっている。これは、そうまでして、君主権を強調したかったことの現れで、政治的な操作だ。なお日本の注釈書で、この叙述の不自然さの指摘ができているのは三浦和男(未知谷)のものだけだった。

 以上、ヘーゲルの叙述の問題、彼の君主制擁護の姿勢を批判した。しかし、ヘーゲルの真意は「当時のドイツでは、立憲君主制しか可能性がない」ということだったろう。§274の【注釈】には「どの国民も、自分にあった、自分に似通った体制を持つ」とある。民度とその政権、政体は一つなのだ。日本の天皇制もそうだ。エンゲルスはこれを正確に理解している(「フェイエルバッハ論」)。

(3)意志決定は個別者が行う。
§279
「なんでも皆が決める、多数決で決めることが民主主義的で平等だ」という考えは間違っている。ごまかしがある。民主主義がしばしば衆愚政治になる理由を考えるべきだ。

 意志はそもそも個別的なものだ。国家、集団の意志決定でも、一人の人格が最終意志決定を行うしかない。重要な局面では、トップ自らが責任を持って決定するしかない。トップの孤独を思わねばならない。

 家族や団体でも、執行の場面では個人(トップ)が意志決定をするしかないし、事実そうしている。決定前に、メンバーの意見をしっかり聞いておくことは重要だが、意志決定はそれとは別のレベルのことだ。    

 意志決定は個別者が行う。これを私は認める。しかしこのことはヘーゲルのように君主制度の擁護には必ずしもならない。どのようにトップを決めるかは別のことだからだ。それは民度や外的状況などによってきまる。
国家とは別の話になるが、人の中には意志決定ができない人、できない場合がある。その時には、外的に意志が与えられるしかない。それもまた個別的な意志でなければならない。多くは親の子どもへの干渉であり、大人になっては占いなどがそうだ。国家でもそれができない段階では神託で決めたりした。そうした外的な意志を内面化したのは、ソクラテスだとヘーゲルは言う。それが彼のダイモンだ(534ページ)。

(4)世論 §316から§318

 世論についてのヘーゲルは、リアルだ。その矛盾を突き、その二面性をおさえている。この点、マルクスはお人よしと言える。

 思想の自由、表現の自由が保障されるのはなぜか。それが真理の表現になっていくからだ。

 世論には、真理(現実社会の要求=普遍性)の現れの面と、それが個人の特殊性をまとって現れるという矛盾があり、その特殊性は独自性を主張しようとする間違った態度も含む。

 従って、それとの付き合い方は、世論の中に潜在的に含まれている真理を顕在化させるために努力すればよいことになる。

(5)国家間の争いが低レベルになる理由

 私にはかねてからわからないことがあった。国と国の争いのレベルになると、なぜにああも低級で暴力的で幼児性むき出しになるのか。例えば、アメリカだが、国内の民主主義がある程度成熟している一方で、対外的なことになると急に幼稚きわまりない行動をとる。ブッシュのイラク戦争開始のでたらめさ、その正当化の理屈「民主化する」「先行攻撃の権利」などのめちゃくちゃさ。イラクや北朝鮮のめちゃくちゃもひどいが、アメリカもいざとなると変わらない。

 国家間の関係が個人間の関係(契約)より酷いレベルになるのはなぜなのか。長いことこの疑問を抱えていたが、誰からも応えてもらった覚えがない。ところが、ヘーゲルはそれに論理的な回答を与えていた。初めて、私はこの設問への回答があることを知った。それが正しいかどうか以前に、他は、そもそもこうした問いを立てることがないのだ。

 国内の統一によって国家が誕生すれば、それは個体性を持つ。個体性には否定の働きが含まれるから、他の個体(他者)に排他的な関係を持つ。それが独立ということでもある(§321)。これは「排斥性」(他への攻撃性)とイコールではない。性関係、家族が閉じる理由も同じだろう。
さて、その国同士の関係はどうして極端に低レベルに落ち込むのか。「諸国間の契約内容は、相互の独立した特殊的意志(恣意=自然状態)がもとになる」。これは個人と個人の契約と同じレベル(ただし契約の素材の多様性は限りなく少ない)だとへーゲルは言う(§332)。その結果、契約よりももっとひどいレベルの粗雑な関係になる。自分たちの領土や金、自分たちの利害のことしか考えない(590ページ)。

 つまり、第1部の契約のレベルを止揚して生まれた国家なのだが、国家間の交渉になると、第1部の契約のレベル(それ以下)に戻ることになるのだ。個別性が復活してしまうからだ。
 個別性の克服の結果、またも個別性に戻る。これがヘーゲルの円環論法だ。

 国際法についても、ヘーゲルはカントの構想(国家連合による永久平和)をあざ笑う。なぜなら、自然状態としての国家の関係では、「相互の独立した特殊的意志(恣意)」がもとになってしまうからだ(§333)。その結果は、戦争だ。「戦争は、合意形成ができなかったときの、最後の解決策」。一応の解決策である。

 ヘーゲルは辛らつだ。戦時国際法のヒューマニズム的な理性的な外観についても容赦なく、その真実を暴く。戦時国際法の趣旨は、打ち負かした敵国をも「国家としては認める」ことにある。その結果、ヒューマニズム的な外観が生まれる。しかし、本当の理由は「他国家を認めないと、自分を認めてもらえなくなる」からだと言う(§338)。岩波の全集版では「戦争も国家間の『相互承認」が前提となっている』とする(614ページの注151)

 以上がヘーゲルの国際関係論である。それは個別性という概念を徹底的に展開したものだ。これが論理的に考えるということなのだろう。 (2009年4月15日)

6月 15

昨年からゼミのヘーゲル学習会が活発になった。ヘーゲルの『精神現象学』の序言を原書で読み、『法の哲学』は翻訳で通読した。『精神現象学』の序言を手がかりにして、許万元『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』(大月書店)を読み直し、ヘーゲルの本質論を再考した。『法の哲学』の「国家論」については、関連するマルクスの著作を読んでみた。

かなり収穫があったと思う。それらを、以下の文章にまとめた。?「ヘーゲルの本質論」だけは、まだまとまっていない。現在も、ヘーゲルの大論理学の現実性の箇所を読んでいるところだ。
?から?を、この順で本日から発表する。

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
?ヘーゲルの本質論 

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◇◆ ヘーゲル『法の哲学』へのノート  ◆◇

ヘーゲル『法の哲学』へのノート 2008年秋から09年春

昨年春から約1年かけて、ヘーゲル『法の哲学』を読み終えた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

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○『法の哲学』は、「近代社会とは何か」の問いへのヘーゲルの回答。すべての叙述の前提が近代社会である。第3部3章の国家の君主制以下は事実上プロイセン国家を前提している。

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○第1部、第2部、第3部の関係
(1)第3部は(近代の)現実社会、現実の近代社会が対象だ。自由がそこに実現している社会の内実。国家、市民社会、家族のこと。そこで個人の自由、社会の自由が実現している。

ここに「個人」が出てこないことに意味がある。普通は「個人」から初めて、そこから「国家」を出す。それを媒介するために「社会契約」などを考える。ルソーがそう。ホッブスもそう。「個人」が国家の成立の前提なのだ。

ではヘーゲルではなぜ、ここに「個人」が出てこないのか。現実社会では、個人は個人として存在していないからだ。実際に存在しているのは、家庭であり、社会であり、国家だ。
ではヘーゲルの体系で「個人」とはどこにいってしまったのか。

(2)それは第1部なのだ。そこに近代社会の原理として、その成立の条件として「個人」が存在する。人格の平等=所有権として。
この意味は、それは最も抽象的なもので、具体的でない=現実に存在するわけではない
しかし、すべての基礎でもある。それからすべてが始まる。近代の概念(始まり)なのだ。

(3)では第2部とは何か
それは「道徳」となっているが、人間の外界への目的的活動と、その内的反省である内面世界を問題にしている。人間の意識の「内的二分」「内的分裂」が問われるから、幸福、「善」と「悪」、良心が問われる。

(4)この第1部と第2部が、近代の「個人」の意味なのだ。普遍的な前提としての条件(第1部)と、その内面化された姿(第2部)。
それを踏まえて、第3部で、現実社会を分析している。
第2部ではカントが徹底的な内化を完成させた。そして、カントが極論にまで進めたので、ヘーゲルはそこから一転して自由を外化した第3部を展開できたのだ。
また、内面的な自由を守るために、国家が存在するという論理も重要だ。

※こうした「立体性」があるかないかで、何が違ってくるのか。答え。ルソーのような社会契約説などが入る余地が亡くなる。

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○第1部
人格 人格の平等 個人主義
自分のことは自分で決める。僕は僕
「ボクのもの」が守られること(「所有権」の保障)が、「ボクはボク」であることの保障
※これは唯物論的。経済が精神を保障する

この所有権を否定し、家族を否定し、国家も否定したのが、社会主義・共産主義。
それがいかに根源的な否定だったかがわかる。しかし、それは単純な否定でしかなく、否定の否定にはなっていないのではないか。それで近代社会を止揚する可能性があったのだろうか。

○国家を否定し、または無視や軽視する人
一部の文化人は、国家を語らず、国家を敵視する。
しかし市民社会の上に国家が存在している。これは事実である。
実際に、社会への絶対的権力として機能している。
国家否定論の安易さは、この厳しい現実を直視していないからではないか。

○ヘーゲルのリアルさ、現実感覚
ヘーゲルは理想論をしていない。事実、そうなっていることを示し、その説明をしようとしている。
国家と宗教との関係で特に、リアルなことがわかる。
マルクスの「宗教は阿片だ」とのえらい違い
ヘーゲルが受け止めた、国家成立の重さを、マルクスはきちんと受け止めているだろうか。

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○概念の生成史と展開史の区別の観点から
 ヘーゲルの時点では、近代社会が生まれてまだ50年から100年。展開史にはまだならない。
 それを書けるのは我々。その後、資本主義社会を止揚すると唱える社会主義が生まれ、逆にそれが止揚されて、今の「資本主義社会」が生まれた。工業化社会から情報社会に移行し、豊かになり、フリーターやニートが急増している現在の時点で、明らかになってきた近代の意味(本質)があるはず。 

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○選択の問題 なぜ選択ができないか (「緒言」より)
 先生、友、恋人。進路・進学の問題。仕事(フリーターやニート)の問題
選択とは、他の可能性のすべてを捨てること。すべてを捨てる覚悟がないから、一つを選ぶこともできない。
5節から7節の展開でわかる。すべてを捨てること(5節の意志の普遍性)ができない人間は、一つを選択(6節の意志の特殊性)できず、意志の自由(7節の意志の個別性)まで進めないのだ。
12節から16節でも同じ問題と関係する。フリーターの望む自由は15節と同じ抽象的自由だ。しかしこれは多くの大人たちが望むものでもある。すべてを捨てる覚悟がないのだ。
 
○意志(の自由)の3契機
 第5節 3契機のその1 普遍=絶対的抽象=無規定=悟性の自由=否定的自由
       純粋な自己反省             フランス革命
第6節 3契機のその2 特殊化=対象を規定する=現存在に踏みいる
        =普遍(第1の抽象的否定)の否定
 第7節 3契機のその3 個別=意志の自由
  意志は始めから主体ではない。運動そのものであり、その結果。
   【追加】自由=多のものの内にありながら、しかも自分自身のもとにある

○12節から16節
 第12節 意志の決定 (選択を)決定する=個別性の形式を与える=現実性
    外に現れる
 第13節 意志決定の形式的抽象的自由(知識の有限性)
  意志決定によって意志は個人の意志、外と自分を区別する意志として自分を定立する
  【追加】無限(抽象的普遍)を捨てて、有限となる
 第14節 選択の可能性
 第15節 恣意=偶然性=(普通の人が考える「自由」)
   反省哲学(カント、フリース哲学)の批判
 第16節 無限進行=偽の無限
    選択したものを放棄することもできる

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○善と悪について  136節から140節。特に139節、

人間には内的二分が起こり、すべてを内面化・主観化・特殊化することができる。
この時、すべてが仮象として現れる。すべてが特殊性(悪の可能性であり、善の可能性でもある)として現れ、それが発展して、その真の姿としてのみ善が現れるのだ。その段階で、善と対立する悪もはっきりと現れる。
この過程を経ずに行われる「善」。つまり抽象的悪と対立した善は、抽象的善でしかない。形だけの善、世間の善を外見上行うだけ。
善と悪との両者を、その生成から転化までを視野に入れて見るべき。
大きな悪、根源的な悪(の可能性)からこそ、巨大な善は生まれる。
悪の中に善がある。悪ナシで善はない。その上で、善から悪への転化も起こる。
定義としては、絶対的普遍性=善、特殊性=悪と分けられるが、それは結果であって、最初から両者の区別が立てられるのではない。
悪(特殊)をくぐらずして、善はない。
自己の特殊性(悪の可能性)を生かすことが、社会全体(普遍性)のためになることを理解していく過程で、善は実現していく。最初からエゴや特殊性を放棄することで、実現するのではない。
むしろ徹底的なエゴの主張、特殊性へのこだわりの中にこそ、善や普遍的な意志の実現の可能性がある。

6月 12

暦日会の収録スタジオで、10人ほどの方の前で、80分ほどの講演をしました。
タイトルは「日本語論理トレーニングで思考力を鍛える」。

今年の2月に刊行された拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の内容を踏まえて、問題提起をしました。

これは暦日会の「講演 CD・カセット」のためのもので、数千人の会員に配布されます。
この会員はビジネスマンを中心とし、年齢層は50台がおおいそうです。

5月 28

 私のもとで約4年近く学んでいたM君が、この4月から某大学院で精神分析学を学ぶことになった。
 この間の経緯をM君が「鶏鳴でやってきたこと」という文章にまとめた。これは、青年の自立の過程として、多くの20代の若者に共通する内容になっていると思う。そこで、これを手がかりに、一般的に若者が真に自立して生きていくには何が必要なのかを述べたい。
 以下は、M君を知らず、「鶏鳴でやってきたこと」を読んでいない方には、わかりにくい点もあるだろうが、私の考えの骨子は理解していただけると思う。

?. 自立して生きるために、20代、30代ですべきこと

 人生が70年、80年になってきた中で、真に自立して生きていくために、20代、30代ですべきことは何か。
 
 自立とはそもそも何からの自立なのか。自立できていないとは依存していることだが、何に依存しているのか。まずは圧倒的に親に依存している。子供はみな親に依存して大きくなるのだから、これは当然だ。経済的物質的には当然だが、精神的な面、ものの見方、感じ方、つまり価値観で大きな影響を受けている。この面では世間や学校の大きな影響もあるのだが、それも親の価値観を媒介にして入ってくるのだ。18歳の時点で考えると、全体として親の影響が8割ほどになるのではないか。それが悪いのではない。親の価値観の内容自体を問題にすれば、立派なものからそうでないものまで様々あるだろう。いずれにしても、その影響が無意識で無自覚な点が大きな問題なのだ。

 したがって、自立とは、この無自覚な親の影響を自覚し、それを相対化し、自分自身のものの見方、考え方を独自に作り上げていくことである。そのための基礎を作るのが20代の仕事だろう。具体的には、自分のテーマ(問題意識)を明確にし、それに相応しい先生を選ぶことだ。これができれば、親からの自立は半ばできたようなものだ。
 「先生を選べ」と言うと、ずいぶん特殊なことを言うと思うかもしれないが、すべての人は現実にそうして生きているのだ。多くの場合、無自覚に親の生き方を踏襲しているからだ。そして、それは親を先生にしていることに他ならない。したがって、私の言っていることは、事実としては皆が先生を選択しているのだから、それを無自覚にではなく自覚的に選択せよ、と言っているだけなのだ。もちろん実の親を自覚的に選択することもある。伝統芸能などではそれが普通だ。
 選ぶ先生もレベルが上がれば変わっていくだろう。最終的にはその分野における過去の最高レベルの先人になっていくだろう。しかし、最初に選んだ先生の中に、その後の先生は潜在的に含まれている。だからこそ、最初の選択は重要なのだ。

 20代に自分のテーマ(問題意識)を持ち、先生を選んで、その解決に努力してきた人は、30代ではいよいよ、自分のテーマに一応の答えを出すことが課題になる。それは先生から自立し、自分の立場を作ることになる。もちろん、親からの自立はここで完成する。これを以て、一応の「自立」と言って良いだろう。もはや世間や流行などに流されることはないはずだ。
 その先のことは今考えてもしかたないが、40代、50代では、自分が作り上げた立場で多くの仕事をし、60代以降はそれらを完成させることになるだろう。
 私のモデルでは30代で一応の自立をめざすのだが、その時点を「個性」を確立したといってよいと思う。夏目漱石の「私の個人主義」では、私が述べてきたことと同じことを主張していると思う。

 この過程で、仕事、家庭(結婚)の問題は、避けて通れない。各自の回答を出す必要がある。なぜなら、それが人間の概念に含まれているからだ。

?. M君の自立の過程

 では、以上を踏まえて、M君の自立の過程である「鶏鳴でやってきたこと」を検討する。

 第1節「鶏鳴に参加し始めた頃」を読むと、鶏鳴学園で学び始める前に、すでに彼が明確な問題意識を持ち、大きな悩みを抱えていたことがわかる。いかに生きていったらよいのか。また大学や周囲には絶望していた。現状にいらだちや危機感を感じない人は、私のゼミとは縁がないだろう。しかし絶望しているだけでは駄目だ。彼は必死になって手掛かりを探していた。村上龍に出会い、死を実感したいので救急病院でバイトをし、知的障害者とすごすことで不思議に救われる思いを感じていた。何も行動せず、現実社会と戦わない人も、私とは縁がない。
 その上で、先生を選んだのだが、一人を選ぶためには、他の先生候補への明確な「否定」がなければならない。それが、彼の大学や周囲への絶望に当たる。
 M君はこうした段階まで自力で進んでいたから、私や牧野紀之(私の先生)、ヘーゲル(牧野の先生)に出会えたのだと思う。つまり一応の問題意識を持って、先生を選んだのだ。

 2節「鶏鳴でやってきたこと」では私のもとでの「自分づくり」の実際の方法を書いている。彼が自分史を書き始めると、それは膨大な量になった。急に爆発し、噴出してきた。それを「自分なりに過去をどう捉えるかという方法を学び、それによって自分の過去を実際に言葉として捉えられるようになったからだと思う。それまで誰にも言いたくなかった自分の過去を、自分が納得する形で、真っ当な形で捉えられたと思う」と書いている。「方法」がどれほど大きな役割を果たすかがよくわかる。
 しかし、同時に、ここに彼にとっての親の大きな影響を見ないわけにはいかない。彼は過去を愚痴ったりすることを自分に許そうとはしなかった。そこには真っ当さの面と、過去に目を背けるマイナス面もあったのだ。その葛藤を、彼一人の力では解決できなかっただろう。だからこそ先生が必要になるのだ。

 3節「小説を書く」では小説と、自分史や論文の違いについて述べている。彼は自分史という事実と自己を直視する文章の果てに、それを超えてイメージや夢の世界を描くことに進んだのだと思う。表現に強い関心を持っていたことがそれを求めさせたのだろう。

 4節「就職活動」は、まだ整理ができていないように思う。ここでは彼に、親からの自立が厳しく問われたのだと思う。彼の家系は代々「エリート」として日本社会をリードしてきた。しかし、彼の求める生き方はエリートとしての生き方とは違うように感じていた。そこに大きな葛藤があった。
 M君が小説を書きあげると、いきなりその正反対のビジネスマンをめざして就職活動をする。このわかりにくさは、この葛藤がいかに深く深刻なものだったかを示している。
能力的に親の求める生き方が「できない」から、表現者として生きるのは、彼のプライドが許さない。それを超えた、少なくとも並んだと思える段階まで進んで、初めて、自分に別の生き方を許せるのだろう。そして、そこで浮上したのは、大学入学当初からの関心だった世界、分野だった。それは第5節の「大学院を目指す」に詳しい。

 全体を通して、大学入学後からこれだけの回り道が必要だったことに驚くが、それほどに、親の影響力は大きく、それを克服するのは大変だったとも言える。「エリート」の生き方は大きな能力を必要とする。その家系の価値観を、反発するのではなく、真に乗り越えていくことは難しい。なぜ乗り越えるのか。「真のエリート」になるためだろう。

 6節「最後に」では、成長の自覚を、?実際の成長と、?それを自覚できる能力の形成の両面でとらえ、両者を同時に起こったと、とらえている。「今まではどの山に登りたいのかに悩んでいて、あちこちの山の麓を歩いており、やっと自分の登りたい山を見つけたはいいが、その山をどこまで高く登れるかはまた別の問題だ、とでも言えばいいだろうか」「今までとは全く違う段階にいるという理解は結構当たっていると思うし、重要な意識だと思う。こういう把握ができる自分に成長を感じる。それは把握が出来るような能力がついたとも言えるし、何よりそういう段階に実際上がったから言えることで、それらは同時に起こったことだと思う」。最後の部分がヘーゲルを学んだ成果が出ている個所だ。二つは全く同じことを別の視点から見ただけなのだ。

 彼は精神分析の分野で学んでいくことになった。彼の問いの答えを出していくことが彼の今後の仕事になる。しかし、研究者になるかどうかはわからないし、どうでも良いことだと思う。いずれにしてもその成果は、彼の表現活動の契機として生きることは間違いないだろう。

5月 26

シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第5回 
高校作文教育研究会6月例会

高校作文教育研究会は、昨年秋から1年間ほどの予定で、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。

私たちの例会に、各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をします。もちろん、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えましょう。

この成果は、本年6月から雑誌「月刊 国語教育」に1年の連載の形で発表されます。
みなさんの積極的な参加を希望します。

6月の例会では、兵庫県立高校の藤本さんの『聞かしてぇ?な仕事の話』などにまとめられた実践と、千葉の県立高校の川北さん総合学習「環境学」から始まった「総合的学習の時間」の実践報告です。共に、長期にわたって行ってきた実践で、すぐれた作品がたくさん生まれています。

藤本さんからは、その実践と理論から大いに学びたいと思います。また、川北さんの総合学習「環境学」からは、調べ学習あるいは野外調査活動と表現指導がどうかかわったらよいのかを考えたいと思います。
 
参加希望者は以下に簡単な自己紹介(所属、年齢、国語、表現での問題意識など)を添えて申し込みください。
メールアドレス sogo-m@mx5.nisiq.net

1 期 日    2009年6月21日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       
3 報告の内容
(1)総合的な学習の時間と表現指導
前千葉県立小金高等学校  川北裕之(千葉県立市川工業高等学校)

千葉県立小金高校では、総合的な学習が導入される試行として、生物と政治経済の教員が中心になって総合学習「環境学」を立ち上げ大きな成果を上げました。後にそれを発展させ、修学旅行等の学校行事をベースに、生徒、保護者とともに「総合的な学習の時間」を作りました。
総合学習「環境学」では、 生徒は各自のテーマに従い、文献を調べ、フィールドワークを行い、取材し、レポートにまとめます。そして、学習終了後に「学びのストーリー」を文章にします。
いくつかの生徒のレポートの検討をしながら、発表、レポートの指導や評価、生徒の様子、成果、課題について、参加者とともに考えていきたい。

(2)『聞かしてぇ?な仕事の話』
兵庫県立川西高校 藤本英二(兵庫)

 八七年から〇一年まで三校で六回、聞き書きの実践をし、それを『ことばさがしの旅』と『聞かしてぇ?な仕事の話』にまとめました。今回、生徒の作品と「聞き書きを終えて」という作文を紹介しながら、「対話の三極構造」「一人語りの文体(擬似直接話法)の意味」など、理論的な問題にも触れたいと思います。

4 参加費   1,500円(会員無料)