10月 04

今、時代が、そして教育政策が大きく変わろうとしています。
そうした状況に流されることなく、常に変わらない人間と教育の本質をふまえて、教育活動をしていきましょう。

今回の例会では3つの報告と討議があります。

1つめは、国語専門塾・鶏鳴学園で中学生クラスを開設して6年間。その活動を大きく振り返る田中さんの報告です。

2つめは、今年の6月に刊行した『「聞き書き」の力』の成果と課題の総括です。
『「聞き書き」の力』は2009年から2年間の共同研究の成果をまとめたものです。
その課題を意識しながら、今後の活動の中で、克服していきたいと思います。

3つめは、まとまった報告というよりも、
日々の教育活動の中から生まれた生徒作品から、読み取りに困惑したり、その課題をどう考えどう指導したらよいかわからないような作文を持ち寄り、
意見交換をして互いの実践を深めようという企画です。
トップバッターの2人が報告します。

どうぞ、みなさん、おいでください。

1 期 日    2016年10月16日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/
       ※鶏鳴学園の地図はホームページをご覧ください

3 報告の内容

(1) 自分自身の閉じこもり体質との闘い
東京 鶏鳴学園 田中由美子

鶏鳴学園(私塾)の中学生クラスをスタートして6年目に入りました。

この5年間が何だったのかというと、何よりも、私が自分自身の殻をいくらか壊してきた過程でした。

当初は、授業に遅刻してきた生徒に「なぜ遅刻したの?」と訊くことさえできず、
何か事情があるのだろうと自分に閉じこもりました。

なぜ私はそんなことになってしまうのかと日々自分に突っ込むことが、
そのまま、生徒はどんな問題を抱えているのかということに、少しずつ目を開いていくことでした。

生徒の作文についてご報告し、意見交換させていただくことで、ここまでの成果と現在の課題を明確にしたいと思います。

(2) 『「聞き書き」の力』の成果と課題
          茨城 古宇田栄子、  東京 鶏鳴学園 中井浩一

 2009年から2年間の共同研究をし、その成果をまとめた聞き書き本を今年の6月に刊行することができました。

今回は、『「聞き書き」の力』の成果と課題を前向きに総括し、高校作文教育研究会の今後の学習会の方向性を考えてみたいと思います。
研究会を代表して執筆した2人が、その総括を報告します。

 『「聞き書き」の力』をご持参ください。また、当日販売も致します。割引価格2,200円です。

(3) ショートレポート 課題と生徒作品

それぞれの先生方の教育現場には、その現場での課題があり、
それに取り組みながら少しでも生徒たちのためになるように苦闘を続けていると思います。

そこから生まれた生徒作品から、読み取りに困惑したり、
その課題をどう考えどう指導したらよいかわからないような作文を持ち寄り、
意見交換をして互いの実践を深めていきたいと思います。

今回は2人の報告と、生徒作品の持ち寄りです。

茨城県 鹿島高校 久保有紀
「この夏は就職希望者やAO受験者の指導を行ってきたが、
働くということ、学ぶということに対する意識が十分でないように思われる。
表現をとおして意識を高めるにはどのようにしたらよいのだろうか」

正則高校 宮尾美徳
「生徒が本音で自分を語る。生徒が欠乏を自覚し、自分のニーズを語り始める。
4月からそれを目指してきた中で手にした生徒の声のその重さに、しかしたじろいでしまう。
それをどう読んだらいいか。」

4 参加費   1,500円(会員無料)

5 問い合わせや申し込みは高校作文研究会ブログにてお願いします。
   http://sakubun.keimei-kokugo.net/

9月 11

9月と10月の読書会のテキストが決まりました。

唯物史観の基礎を、マルクス・エンゲルスから確認します。

9月 牧野「マルクスの感情的社会主義」(『マルクスの空想的社会主義』収録)と
マルクス『資本論』第1巻(国民文庫1巻から3巻)

10月 エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)
 絶版になっていますが、アマゾンで中古で入手できます。

11月、12月のテキストも決まり次第連絡します。

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なお
ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

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9月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
9月
 10日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日) 読書会

10月
 8日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 23日(日)午後4時より 読書会

11月
 5日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 20日(日) 読書会

12月
 3日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日)午後5時半より開始 読書会
                                   
================================
 連絡先 〒113?0034
  東京都文章京区湯島1?3?6 Uビル7F
       鶏鳴学園 ゼミ事務局
 事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

9月 11

ゼミの日程の一部を変更します。
10月22日の読書会 →23日午後4時より開始
12月17日の読書会 →25日午後5時半より開始

ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

9月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
9月
 10日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日) 読書会

10月
 8日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 23日(日)午後4時より 読書会

11月
 5日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 20日(日) 読書会

12月
 3日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日)午後5時半より開始 読書会
11月、12月のテキストも決まり次第連絡します。

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  連絡先 〒113?0034
  東京都文章京区湯島1?3?6 Uビル7F
       鶏鳴学園 ゼミ事務局
   事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

8月 30

言語をその起源から考える  中井浩一 その2

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが昨日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは本日30日に掲載。

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三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
さて、判断がある程度、一般的に行われるようになると、 
判断(文)そのものが意識される段階になる。
これが観念世界が観念世界として対象になる段階。メタ言語の始まりである。

なお、これが具体的には二においてのどの段階かは、実証的に調査されるべきだろう。
私は二の(7)の段階だと推測している。
二の(8)で述語部が述語部として意識されるのは、三の(1)を経た、三の(2)の段階だと考えられる。

さて、この文そのものが意識された時に、デハナイの形が現れる。

まず「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識される

それ以前に以下のようなことがありうることはわかっている段階だ。
(これらが「含み」になっていることに注意!)
Aは白い
Aは黄色い
Aは青い

「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識されるとは、
「Aは赤い(赤である)」ハ と意識され、
この判断(文)が疑われ、問われる場合であり、
その中に、
「Aは赤である」ハ ナイ、
つまり「Aは赤デハナイ」
は内在化されている。   
ここに「問う」ということが明確に意識され、
同時に肯定と否定そのものが強く意識される。
つまり、「Aは赤デハナイ」が意識されている

それは
Aを対象として意識した最初の段階が繰り返されることになる。

Aとは何か。

Aは白い
Aは黄色い
Aは青い
以下続く
を検証していくことになる。(これが今後の「含み」となる)

そして、その作業の果てに
(それらを含みとし、「Aは赤デハナイ」が前提として意識され続ける中で)、
結局は
やはり「赤だった」となる場合もある。

それが
「Aは赤デハアル」である(だからこの例は少ない。しかし、それだけの含みを持つ)
それは
「Aは赤デハナイ」が対象化され、それが問われた結果、否定された場合に現れる。

二の(6)で潜在的に現れた存在と無、肯定と否定の理解は、ここで顕在化する。はっきりと意識される。

以上が文から文が生まれる過程だ。1文が分裂して2文が生まれる過程である。
「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…(以下続く)」が
分裂したと考えられる。そして「Aは赤デハアル」は、そうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものと
考えられる。それが「含み」ということだ。

(2)述語部の「対比」「比較」
この段階で、
赤でハナイ、では何か。白でアル。
という形が現れ、それが「対比」「比較」の始まりである。

この「対比」「比較」は、
すでに
Aを対象として意識した最初の段階、
Aとは何かが問われた段階で潜在的には現れている。

Aは赤い(まだ「赤」という意識はない)
Aは白い  上に同じ
Aは黄色い
Aは青い

しかし、
その対比が対比として意識されるには、
判断(文)が判断(文)として否定される段階が必要なのである。

そして、この段階こそ、
述語部が述語として、意識される段階である。
述語の意識が生まれるのは、
判断(文)への違和感、判断の対象化のこの段階からであると考える。

そして、この違和感、差異の意識から
述語が相互に比較・検討され、
その差異が、対立、矛盾へと深まっていくのではないか。

そこから本質、実体と属性、個別と特殊と普遍、類と種、といったとらえかたが成立するのではないか。
※ここで名詞の分類が必要

そしてこの先に、多様な例文が出てくる ※松永さんがたくさんの例を出している
赤でハナク、白でアル。
生物だが、動物でハナイ。
植物だが、薬草でハナイ。

四 実証研究

事実のデータによってこそ、認識を深め、確かなものにすることができる。
しかし、事前に仮説として深い洞察が用意されていなければ、多様な偶然性の中に本質や真理への道を見失うだろう。

実証主義は次の区別をどこまで理解しているか
(1)現時点の言語世界 これまでの発展過程が一切無視されて現象する
(2)歴史的発展の中での、各時点、各段階での言語の状態
 古事記、日本書紀、万葉集、平安文学、随筆、漢文脈、日記、物語、伝承

松永さんが日本語の根源を考えるなら、上代語の文献、古事記、日本書紀、万葉集などのデータの分析
こそ必要なのではないか。
私が一で示した観点から、以下を考えるためのデータ収集が必要ではないか。

○認識の発展、名詞の発生
 それぞれの段階
○判断がある程度、一般的に行われるようになり、
判断(文)そのものが意識される段階とは、実際にはどの文献に現れてくるのか。
○述語が比較され、その差異が、対立、矛盾へと深まっていく
本質、実体と属性といったとらえかたが成立する。
この先に、多様な例文が出てくる ※
○名詞の分類との関係
 普通名詞、代名詞、固有名詞 

五 仮定条件と確定条件

松永さんは、この「デハナイ、デハアル」を書き上げた後に、学会用の論文を書き上げた。
そこで複文の仮定条件節と確定条件節におけるデハナイ、デナイの区別を問題にしている。
仮定条件節にはデハナイは現れず、デナイが使用され、確定条件節の内部にはデハナイが現れる。
この事実の説明に取り組んでいる。また、文をまとめた名詞句内にデハナイが入ることが可能であることも
説明している。

仮定条件とデハナイの関係について、松永さんは前回の「デハナイ」でも取り上げていて、
私は「日本語の基本構造と助詞ハ」では、次のように説明した。
「ある文(肯定文)を意識した時に、デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、
今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件「?ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった
肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、
1つの対象(焦点)が意識されては消えていく。関口なら『達意眼目は常に1つだ』と言うだろう」
(メルマガ314号)。この考えは、今も変わらない。

こうした問題を一般的に考えるには、まず、文を文として意識する段階ことから初めて、文から名詞句が
生まれる過程、文から文が生まれる(主文と副文の分裂)過程の説明と、そこでの仮定条件と確定条件の
違いがどこから生まれるのか、そこでの順節と逆説の区別がどこから生まれるのか、これらすべてについての、
論理的な説明がまず先にあるべきだろう。

文が文として意識され、デハナイからデハアルまでの運動を経て、その全体の含みを持って生まれるのが
名詞句ではないか。
文が文として意識されれば、そこには潜在的に文の否定、述語の否定があるから、その文で問題になっている
対象は何かと改めて問われ、新たな述語が意識される。これが文から文への分裂だろう。
つまり、三の(1)は、文から文が生まれる過程なのだ。そこで書いたように、これは1文が分裂して
2文が生まれる過程である。「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…
(以下続く)」が分裂したと考えられる。そしてそうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものが
「Aは赤デハアル」なのだ。そこにはたっぷりとした「含み」がある。
この過程は名詞が生まれる過程、定存在の分裂とその止揚である独立存在への運動と同じである。
そしてここまでの過程を踏まえて最初の文を意識した時に、名詞句が生まれるのではないか。
そこにはたっぷりとした含みがある。だからそこにはデナイ以外にデハナイもデハアルも含まれているのだ。
含まれているものは外化する。ただし実際にはデハアルは例がないらしい。それは、意識が一度には1つの
ことしか意識できないことから説明できるのではないか。

また、対象世界の認識において、対象の変化を原因と結果でとらえることができるようになっている段階
(二の(5))を前提として、文のレベルでの分裂でも、A→Bの原因と結果の捉え方から、確定条件と
仮定条件が生まれる。
 他方で、順節と逆説は、文と文との対比、比較の意識(三の(2))から生まれてくる。

では、確定条件と仮定条件の違いは何か。
確定条件とは現実、現在の直接性に止まり、それが肯定される段階であるのに対して、現実や現在が否定
されるのが、仮定条件である。それは未来や過去が意識され、現在とは違う状況を意識する。
これはより高度な段階である。
現実や現在の直接性が肯定される確定条件内のデハナイは、現実、現在の直接的内容だけが意識されているのであり、
現実が、現在が否定された仮定条件では、その「否定」(?ならば)に意識が集中しており、現実、現在の
直接的内容には意識は向かないのではないか。
意識は常に、その時々で、1つのことしか意識できないからだ。

おわりに
 拙稿はすべてが仮説である。しかしこれらの仮説の根底には、私の立場があり、その論理的な必然性が
あると考えている。それを具体化して提示するためにも、これらの仮説を提出しておきたかった。
 なお、松永さんがデハナイ、デハアルに着目したことの意味の大きさを強調しておきたい。
外的対象を意識する段階と、文(認識)そのものを意識する段階には発展段階として決定的な違いがある。
この後者のメルクマールがデハナイである。ここに着目したのは松永さんの資質と姿勢の賜物だと思う。

2016年8月10日

8月 29

言語をその起源から考える  中井浩一 その1

松永奏吾さんは長く、デハナイ、デハアルについて研究してきた。2014年の春には「デハナイ」をまとめた。
その論文とこのテーマへの私の考え「日本語の基本構造と助詞ハ」は、このブログで公開している。
松永さんはそれを踏まえて、2015年の夏に、全面的な書き直しをした「デハナイ、デハアル」を提出した。
それについての私との意見交換があり、それを踏まえて9月に一応完成させたのが、今回掲載した
「デハナイ、デハアル」である。
今回も、この問題への私見をまとめた。「言語をその起源から考える」がそれだ。前回の私のコメントの大枠は、
今も変わらないが、名詞の導出や、文の意識の導出やそれ以降の扱いがまだまだ不十分だったと考えている。

「言語をその起源から考える」(中井浩一)を、本日(8月29日)と明日30日に分けて掲載する。

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが本日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは明日30日に掲載。

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一 言語を考える際の観点、立場

一番肝心なことは、言語を考える際の根本的な立場を確立することだと思う。この点で、
私は明確に以下のような立場と観点にいたっている。松永さんには、それらについて明確な言及や説明がない。
これらについて、自分はどのような観点、立場に立つのかを明確にし、これから20年で、
私が出した論点のすべてに自分の答えを出してもらいたいと思う。

(1)認識は生物の生命行為の延長。 (これは唯物論の立場になる)
動物が飢えて、外界のものを食べて、消化して自分の体の一部とする。これが発展したのが思考、
認識であるにすぎない。

対象の意識とは、生物と外界との分裂、矛盾(飢えや痛み、性欲など)が感覚された(意識された)
ものであり、生物にあっては、ただちにこの分裂の止揚の運動が起こり、分裂はただちに解決される。
それが生きることだからだ。それができないときは生物は死ぬ。
その生命活動の延長上に人間の認識や言語活動がある。

ここからわかることは、人間の認識も生命活動と同じく、常に生死に関わる全体的、根源的なもの
(変革意志による)である。部分的、断片的ではない。なぜなら生命活動がそもそもそうだから。
部分や断片の認識も、常に全体的、根源的なものに支配されている。

(2)対象の運動と人間の認識の運動
生物の生命活動の延長が思考や言語行為であり、生命活動一般の活動はそれは人間と外界との対立・矛盾から
生まれ、その解決に終わる。言語活動も同じであり、人間と外界との対立・矛盾から生まれ、その解決に終わる。
ここに、外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題がある。

対象が意識される時は、対象の運動を静止して捉えられる。運動しているものを制止させることに伴う矛盾が、
認識の運動を生む(関口存男の名詞論から)。

(3)言語活動とは人間の意識の活動である。
人間と外界との対立・矛盾は、人間の意識に反映される。そして意識の内的二分を引き起こす。
それはまずは対象意識と自己意識の分裂となる。
人間と外界との対立・矛盾の解決は、人間の意識内では対象意識と自己意識の統合の活動となる。
外界の対象の運動と、人間の認識の運動の分裂と統合の問題と、意識の内的二分、対象意識と自己意識の
分裂と統合の活動とをどう関係させて理解するか。それと、言語の運動や発展をどう結び付けるか

(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
感覚レベルの認識(感知)からはじまりそれが思考による認識になり、その思考内部でも、現象レベルから
本質レベルへ、個別から普遍(類や種)へと深まっていく。それが説明されねばならない。
それと名刺の分裂と統合、助詞ハはどう関係するか。

(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
対象がまずは「存在」として、次に「定存在」としてとらえられ、次いで「独立存在」
(属性とその属性の基底とからなる全体。ここで名詞が成立する)としてとらえられる。
この3つの段階が区別されねばならない。
そして、存在から定存在へ、定存在から独立存在へと、対象がどう運動・発展し、認識がどう運動・
発展するのかが問われる。

(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階。
松永さんは、今回の論文で、文を意識する段階を始原の段階のものと、無媒介につなげている。
人間の原初の対象意識と、無媒介につなげている。
その媒介過程こそを丁寧に考えるべき。

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
対象の意識とは、人間の意識の内的二分であり、対象意識と自己意識への分裂である。
それは分裂の統合のための運動を生み出す。それはただちに統合のための実践・行為を引き起こすが、
その実践・行為の中に認識が発生し、「その対象は何か?」との意識の運動が始まる。

意識の運動の最初は「何か」がただ意識されるだけ、
それがとりあえず、「何か」〔A〕として意識される。
この「何か」〔A〕が「存在」である。

(2)「定存在」
その「何か」〔A〕は最初は人間の感覚に現れてくる(外化する)ので、その感覚レベルに現象する性質と
一体のものとして現れ、意識される。

たとえば、Aが赤色(まだ「赤」という意識はない)として現象する場合、
〔A〕と「赤い」は一体である。 これが「定存在」である。

(3)「独立存在」
しかし、この一体性は、性質にも多くの違いがあること、その性質も変化することを意識することで壊れる。

五感でAの多様な性質がとらえられていく。
色以外にも、においや形や堅さなどが五感でとらえられる。

たとえば
〔A〕と「赤い」が一体
〔A〕と「丸い」が一体
〔A〕と「香る」が一体
〔A〕と「柔らかい」が一体
〔A〕と「甘い」が一体

その時に、1つの対象〔A〕と、その対象の持つ多様な性質(「赤い」「丸い」「香る」「柔らかい」「甘い」など)
の両方が意識される。

それが反省されるようになると、対象が〔A〕とその性質とに区別されて意識され、それは、「性質群」と
「A」として意識される。
これは最初の〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂したことを意味するが、その分裂は再度、止揚される。
それが「諸性質を持ったA」である。

ここで、「A」は「諸性質の基底」として反省され、名前が「A」としてつけられると、それが名詞の始まりである。 
そして「諸性質を持ったA」が意識される。これが「独立存在」である。

(4)判断の始まり 
この〔A〕が、「A」と「諸性質」とに分裂し、その分裂は再度「諸性質を持ったA」として統合される運動が、
「判断」の始まりである。

その判断は以下のように並ぶ。

Aは赤い(赤である)
Aは丸い(丸である)
Aは堅い
Aはくさい
 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が、潜在的にだが成立している。

(5)「外化」から「変化」へ
対象は、ある性質として感覚に現れてくる。それが「外化」だが、その性質は変化する。
五感でAの変化がとらえられていく。

たとえば
緑だった葉が、赤や黄色になっていく。
小さかったものが大きくなる。
動いていたものが動かなくなる。
あったものが消える。
存在していたものが無になる。

緑だった葉が、赤や黄色になっていく。

最初は〔A〕と「緑(である)」は一体であるが、こうした変化を意識することで、この一体性は壊れる。

ここに、変化、つまり存在と無、否定と肯定が、潜在的には生まれている。

この変化が、後に時間の経過による運動としてとらえられると、原因・結果という捉え方が生まれてくる。

(6)存在のアルと判断のアル
Aがなくなってしまったり、変わってしまうことを、人は繰り返し経験し、観察する。
そうした認識の結果、Aとアル(存在)が区別して意識されるようになる。
Aの性質の1つとして、アル(存在)が意識される。

Aとして意識されたAは、存在していない限り意識されないのだから、Aとアルは初めは一体である。
しかし、Aの消滅や変化の現象をとらえられるように認識が発展するようになると分裂し、
Aはアルとして意識される。
同時に、Aはナイ、も意識される。
ここに存在と無、肯定と否定の関係の意識が潜在的に現れる。

このアルもAの性質の1つではあるが、他のすべての性質がこのアルの上に成立すると言う意味で、
すべての性質の基底にあるものである。

これが「存在のアル」だが、これが転じて「判断のアル」になる。

(7)判断の確立 主語と述語
アルとナイによって、肯定の判断と否定の判断が生まれてくる。

Aは赤い(赤である)  Aは赤くない
Aは丸い(丸である)  Aは丸くない
Aは堅い        Aは堅くない 
Aはくさい       Aはくさくない

 以下、無限に続く

ここに主語Aと述語が明確に成立する。
 
(8)判断の発展

Aは赤でアル
Aは白でアル
Aは黄色でアル
Aは青でアル

こうした認識の全体的な反省から、「色」という抽象化された名詞がとらえられ、
性質の中での本質的な序列が問われるようになり
また主語の方では、「類」や「種」がとらえられるようになっていく。

こうして、判断、述語部、主語であるAの認識が深まっていく。
主語と述語の分裂、名詞の種類、述語部の多様な品詞が生まれて行く。
感覚から思考へ、思考内でも現象から本質、個別から普遍へと。
主語も述語部も感覚でとらえるレベルから始まるが、思考でとらえる一般化によって「類」や「種」がとらえられる、
述語部も主語も本質的な序列が問われるようになっていく。
また、運動が運動としてとらえられ、原因・結果で変化が捉えられるようになる。

この項については、概要しか今は書けない。

明日につづく。