10月 10

二股人間の二股語 「バランス」と「ペース」

「バランスを取りたい、バランスが重要」。
「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」。
そう求める人が、中井ゼミにいる。

こうしたフレーズは、世間ではよく聞くものである。ごく普通の言葉だろう。
しかし中井ゼミの内部では、ほとんど聞かない。私がこうした言葉を使うことはない(と思う)。

「バランスをとりたい」
これは、中井の基準と、自分や世間の基準との間で揺れ、二股を許してほしいとの願望の表明なのだ。
どちらか1つを選択することを求めないでほしい。
2つの世界の両方がほしいから、否、実際は自分や世間の基準で生きているし、生きていきたいが、
中井との関係も切りたくはない。中井もスペアとして保持しておきたい。
それを何とか、可能な道を模索している。二股状態でいることを許してほしいと願っている。

「自分のペースでやりたい、無理ないペースでやりたい」
これも、事実上、二股を許してほしいとの表明だ。
1つだけを選択する時期の決定は、自分に任せて欲しい。
そしてその選択・決断の時期をずっとずっと先に延ばしていく。
つまり、選択する覚悟はない。これは、選択しないという生き方、二股の承認を求めることだ。

以上から、「バランス」と「ペース」という言葉は、
二股人間の二股性を表す言葉であることがわかる。

2016年9月13日

10月 09

昨年の秋から「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)が始まりました。

今年の5月と7月の2回では、『主婦論争を読む』をテキストにした学習会でした。その報告をします。

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◇◆ 『主婦論争を読む』学習会報告   田中 由美子 ◆◇

(1)主婦の生き方ってどうなのか?
(2)主婦論争と、残された問題
(3)自分の基準をつくるかどうかという問題
(4)参加者の感想より

上野千鶴子編『主婦論争を読む?』『 〃 ?』(勁草書房1982年) の学習会を、
2016年5月22日(日曜)、7月17日(日曜))の二回で行いました。

私が専業主婦だったとき、漠然と「主婦」であるということに問題があるように感じていました。
じゃあいったい何が問題なのかというと、よくわからないという漠然さでした。

家事や育児はなくてはならない仕事であり、 それが大事な仕事だなどと言われると、当たり前すぎてかえって反発を感じるくらいでしたが、
それでいて、自分に自信や誇りが持てませんでした。
多少外で働いてみても、大きくは何も変わらず、しかし経済的な問題が無関係だとも言い切れない…何をどう考えればよいのやら、霧のなかでした。
60年も前の「主婦論争」は、私のその当時の混乱そのままでした。
この60年間で社会は大変化を遂げたけれども、主婦の悩みや混乱にはまだ解決策が出されていないだけではなく、
それがどういう悩みなのか、その正体すら明らかになっていないのではないでしょうか。
また、子育てはますます難しくなってきているように思います。
以下、学習会を終えての感想です。

(1)主婦の生き方ってどうなのか?

 今回読んだ主婦論争は1955年から始まる。私の母が結婚して主婦になる3年ほど前だ。
まだ家電もなくて家事に手間のかかった時代なのに、そのときすでに主婦という生き方について、
これほどの論争があったというのは驚きだ。60年代末期に主婦がマジョリティになるずっと前である。

当時、安い既製服がある訳でもなかったから、母は私たち子どもの服をすべて縫い、私が初めて既成服を買ってもらったのは小学5年の時だった。
母に髪を切ってもらうのではなく、散髪屋に初めて行ったのも、その頃だ。
また、父の仕事関係での主婦の役割も多かった。季節の挨拶や贈答の他に、普段父が職場の同僚と宴会をするのも自宅だった。
社宅での主婦どうしの付き合いも、絶対に問題を起こしてはいけないと父にくぎを刺された上での、母の「仕事」だった。
つまり、当時主婦は十分な量の家事をこなしてやりくりし、また「内助の功」にも励んだ。主婦の仕事はなくてはならないものであり、母は生き生きと働いていた。

ところが、主婦がまだそれほど忙しい時代に、主婦という生き方についての論争がこれほど盛り上がったのだ。なぜだろうか。
この論争の活気は、まず主婦という話題がどうかということの前に、戦中戦後の混乱を経験してきた人々が、まだ貧しい生活をなんとか成り立たせていこうという熱気だろうか。
また、社会の中の大方の人々がその同じ問題に取り組んでいるという協同的な熱気だろう。
反戦や反核、生活改善のための社会運動をしていた主婦が少なくなかったことも、この本で知った。
しかし、主婦論争の盛り上がりは何よりも、主婦自身が自分の生き方について、何かもやもやするものを抱えていたからだろう。
母も、私たち子どもが育ちあがるにつれて、自分の人生に焦りを感じていた。
戦後、職場と家庭の分断が進んでいく中で、男たちは当時の最大の問題であった「貧しさ」に、仕事を通して日々直接取り組んでいたのに対して、
主婦たちには取り残された感もあったのではないか。戦中に、大家族の下、男も女も子どももなく総出で働いていたところから解放され、しかし取り残された。
私自身はどうだったかというと、子どもの服を縫う必要も、母ほどの内助の功も必要ない中で、やはり戸惑った。
この本を読みながら、かつての、主婦ってどこへ行っても「お客様」だという焦燥感を思い起こした。

そもそも、一般庶民が社会的生産に直接関わらずに生きて、家事や育児に専念するという主婦の存在は、人類史上初である。
その登場以来、私たちは戸惑っている。その後日本社会は圧倒的に豊かになり、
また女性の社会進出が進んで専業主婦は減り続けても、基本的な家庭の枠組みや、男女分業の意識に大きな変化はない。
また、娘として主婦である母親との関係のあり方を模索する人も少なくない。
主婦の生き方にどんな問題があり、どんな解決策があるだろうか。

(2)主婦論争と、残された問題

55年からの第一次主婦論争は、まず女性も職業を持ち、もっと張りを持って生きるべきだという問題提起から始まる。
女性の従属的地位からの解放のためにも、まず経済的自立が必要だと主張する、職場進出論派である。
それに対して、主婦の仕事の重要性を主張し、また他の職業と並べてお金の問題としては考えられないというような「神聖さ」を主張する派が対抗する。
当時の状況は、主婦も職業を持たざるを得ない階層があると同時に、職場進出などできないという状況の主婦が大半だった。
また、今現在もこの問題が解決された訳ではない。
この二派とは別に、主婦は、社会的な問題意識を高く持った市民として生きているという主張もあった。
そういう勢いもある時代だったのだ。

60年代の第二次主婦論争では、家事労働をきちんと経済的に評価すべきだという主張が登場し、社会保障として「主婦年金」を制度化すべきだという問題提起もなされる。
この「主婦年金」は、四半世紀後の86年になって、国民年金第三号被保険者制度として実現された。
共働き世帯は70年代から増え始め、90年代に専業主婦世帯数と拮抗し、2000年代に逆転した後、現在も増加中である。「主婦年金」の是非が、今大きな問題だ。
しかし、家事労働がまだ大幅には産業化されず、また主婦がマジョリティであった60年代に、
主婦の生活保障として「主婦年金」が提案されたこと自体は道理だったのだと学んだ。

70年代の第三次主婦論争では、「生産」よりも「生活」に価値を置く生き方が提唱される。
主婦こそ「生活」中心の解放された人間であるという主張には賛成できないが、男も「生活」中心に解放されるべきだという方向性はうなずける。
高度経済成長期の企業戦士の娘だった私の場合は、社会的生産がともかく第一で、それ以外の、例えば家庭のことなどは付け足しのような意識だった。
父だけがそういう意識だったのではなく、母も私も同じ意識にどっぷりつかっていたことを自覚していなかった。それは大きな問題だったと思う。
しかし、では一体どう生きることが「生活」を重視する生き方なのか。主婦論争の中には、まだその代案は無い。

なお、主婦論争を収録した今回の二冊のテキストの中で、子育ての問題を取り上げているのは梅棹忠夫だけだった。
それが奇異に思えた。主婦の問題は、その労働の中心、子育てに集約して現れ、その問題をいかに解決していくかが問われるのではないか。
また、梅棹が半世紀余りも前に提起した母子一体化の問題は、その後深刻度を増し続け、現在も子育ての問題の核心だろう。
ただし、梅棹の解決案は、女性の「職場進出論」でしかなかった。
しかし、母子一体化の問題は、主婦による子育てに限った話ではなかった。
親子の一体化が進み、子どもを自立させられないという問題は、主婦だけではなく、働く女性も含み、また父親をも含む問題となっている。

(3)自分の基準をつくるかどうかという問題

「生活」を重視する生き方とは、自分自身の考え方の基準をつくって生きているのかどうかという問題ではないだろうか。
それは、主婦かどうかには関係がない。
むしろ、主婦という立場から基準をつくるべきだが、主婦に問題があるとすれば、そういう責任から一歩引いてしまうところにあるのではないか。
今回、参加者の一人の主婦が、自分は主婦だから夫や子どもを媒介としてしか社会と関わってこなかったと語った。
私自身もそう考えてきて、そこには個人的な問題だけではなく、社会的な背景もある。
しかし、その一歩引いた捉え方自体を、私たちは克服していかなくてはならないのではないか。それが今の私の答えだ。

夫が社会的生産を行う一方で、主婦として家庭を担っていた母の場合も、私の場合も、また、妻も職業を持つ場合も、
単に社会的生産を第一義として、自分の立場からのものの見方をつくらないなら、家庭での問題を解決できない。
また、解決しようという過程は、自分の基準をつくっていく過程でなければならないのだとも言える。
そのことは、何よりも子育てにおいて問われるのだと思う。
例えば、子どもが学校や部活の基準に合わせなければならないと考えてくたびれ切っているのに、親が学校と全くの一枚岩で、子どもを追い詰めることがある。
また、子どもが本当に困っていることは、親の勉強についての心配などとはたいてい別のところにあり、またより厳しい困り方をしているように思う。
しかし、子ども自身も、親と一体化しているために、自分が本当に困っていることを本当に困っていることとして捉えることさえ難しい。
また、中学受験に失敗したと感じている子どもが、陰に陽に「リベンジ」を求められて、追い詰められることもある。
「偏差値」という基準に染め抜かれた子ども自身が、親の認識以上に傷付いているのに、その気持ちがきちんと受け止められることは少ないように思う。
受験の結果はよくなかったけれども、それは問題ないと言う親も多い。
しかし、それでいて、親に「偏差値」以上の基準や価値観がなく、結局は受験の結果が絶対的なことだから、子どもの心は行き場がない。
親の価値観が多少とも更新されたときにはじめて、子どもは委縮から解放されて、自分の問題に取り組んで本来の力を発揮することもできるのではないか。

主婦も含めた親のやるべきことは、子どもの成長過程の中で、現実の具体的な問題に取り組むことを通して自分の価値観を更新し続けることではないか。
そうせざるを得ないような状況が、まさに子どもが苦しんでいることの中に現れている。
子どもが今どういう問題を抱えているのか、よく見なければならない。
でも、私の経験では、それは自分自身の問題を見ることを通してしかできない。
具体的な問題に取り組む中で、自身の問題にぶつかってはじめて、他者の抱えている問題にも少しずつ目が開かれていくように思う。

また、子育ては本来、子どもを媒介に社会と関わるのではなく、親が直接社会に関わる覚悟を持つべきことなのではないか。
もちろん、子育ての目的は子どもの自立であるから、そこに矛盾のある難しい課題だ。
しかし、まず、子育ての責任は親にある。
また、社会や学校と対等な立場にあるのは、子どもではなく、大人である親である。
例えば、子どもの学校と対等に話し合えるのは親だけである。
特に中学くらいまでは実質的には親が選択した学校であることからも、その学校にどういう問題があり、それをどう解決するのかといったことに関わる覚悟が必要だったのではないかと振り返る。
保護者として、ただ授業料を払うだけで、学校の言いなりなら、親の責任を果たしているとは言えないのではないか。

(4)参加者の感想より

<五月学習会>
主婦、Aさん
主婦業ほど様々に議論がなされる仕事もそう多くはないであろう。
石垣綾子は、主婦という立場を、「第二の職業」として厳しい目を向け、
主婦の心がいかにふやけているか、「朝から晩まで、同じ仕事を永遠に繰り返している主婦は、精神的な成長を喰いとめられる。」ことによって、
知的な鋭さを次第に失っていくなどと指摘し、主婦の仕事内容だけではなく、主婦の存在そのものを安易、怠慢だと批判している。
この論文が書かれたのは、1955年のことだが、現在でも、生活が向上して、さらに時間的に余裕ができた主婦たちへの批判的な意見が消えることは無い。

私は専業主婦であるので、この文章を読んだ時には、そんなに批判をしなくてもと思いながらも、確実に自身の中に空虚感を抱えていることも否めないと思った。
家事や育児は、社会に対しては大切な生産的仕事であるはずなのに、なぜ、社会に働きに出てものを生産することだけが自立であり、
ものを消費する立場の主婦は、「男に寄りかかる。」ことになるのであろうか。

平塚らいてうは、「ものを作るのが人生の目的ではなく、消費されない限り生産の意義がない。」としている。
しかし、大切なことは、単に、経済的に生産する、消費するということではないと思う。
社会で働いて生産し(第一職業)、経済的に自立している主婦も、精神的に自立していなければ、「人間として生きて行く。」ことにはならない。

この家庭論学習会で学びたいと思っていることは、社会の一員である私の、主婦としてのこれからの人生の目的意識をはっきりとさせることである。
そうすれば、建設的ではない消費に感じていた後ろめたさは少なくなるのではないか。
また、主婦業が安易で怠慢だと言われても、自信を持って過ごすことができるのではないか。

<七月学習会>

主婦、Aさん
前回に引き続いて、今回も主婦という特殊な立場を掘り下げて考えた。
その中でも、職業を持たない主婦は、武田京子によると、「自由で人間的な生き方をしている」らしい。
それは、「働かないですむこと、なまけものであることを主体的に選んで生きている」から、というのが理由である。
武田はさらに、「社会的生産労働など、まったくしないですむのがより理想に近いかもしれない。それは義務でしかないのであるから。」としている。
さすがに、それは言い過ぎだと思うが、専業主婦が、「自由で人間的な生き方をしている」のであれば、羨まれるような立場であるはずなのだが、
なぜ、専業主婦自身が自分たちの仕事や立場に疑問やコンプレックスを抱き、論争など起こるのであろうか。

専業主婦である私の場合、主婦の仕事のほとんどが子育て中心に回っていた。主婦の仕事=子育てだと思い込んでいた、と言っても過言ではない。
武田の言う、「なまけものである」か、ないかは別問題として、「自由な生き方をしている」などとは、今までこれっぽっちも思ったことはない。
むしろ、子供たちのことを優先して、自分のことは後回しにしてきたからである。
そして、子供たちが巣立った今、私の仕事は一応終わったのであるが、働く女性であれば、定年時に支払われる退職金にあたるものが専業主婦にはない。
退職金は、自分が社会で積み上げてきたことの証である。私が、今まで積み上げてきたものは何か。
何もないのではないか。そこに、矛盾や疑問、やるせなさが溢れ出てくるのであろう。

これは、決して経済的な問題だけではない。子供と一体化し、依存し過ぎた結果、自分がないと感じている私の生き方の問題である。
さらに、専業主婦だけではなく、働く主婦たちも子供に依存した生活を送っていれば、
働く女性としての退職金は手にしても、主婦として何が残ったのか、と私と同じ疑問を持つのであろう。

 主婦にとって退職金に当たるものは何か。主婦の仕事の証と言えるものは何か。
それは、これから社会で活躍するであろう、成長した子供たちなのであろうか。
さらに、この先、主婦として、女性としてどう生きるのかという問題にも正解はない。自分自身の人生の過ごし方を探したい。

社会人ゼミ生、Bさん
主婦自身が自分を抑圧しているという武田論文の指摘が心に響いた。
抑圧から抜け出そうと外に出ても、それで抑圧がなくなる訳ではない。
また、多くの論文が掲載された雑誌、『婦人公論』は、今は女性週刊誌の高級版のようになっているが、
当時、主婦も投稿して本格的な論戦があり、
また、マルクスを実際に読み、それをもとに意見を述べている人が多いことに驚き、おもしろかった。

10月 08

昨年の秋から「家庭・子育て・自立」学習会が始まりました。

田中由美子さんが責任者です。ですから別名田中ゼミと呼んでいます。

田中さんは、鶏鳴学園の塾生の保護者でしたが、6年半前から中井ゼミ(大学生、社会人のクラス)で、
ヘーゲル哲学を中心とした学習を積み重ねてきました。6年前からは鶏鳴学園に中学生クラスを開設し、
担当してきました。

その田中さんのテーマは「家庭・子育て・自立」であり、満を持して、その学習会が始まったわけです。

今回は、この秋の田中ゼミの案内と、今年の5月と7月の2回に分けて行った『主婦論争を読む』をテキストにした学習会の報告を掲載します。

■ 目次 ■

1.この秋の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)のご案内   田中 由美子

※ここまでを本日に掲載。

2.『主婦論争を読む』学習会報告   田中 由美子
(1)主婦の生き方ってどうなのか?
(2)主婦論争と、残された問題
(3)自分の基準をつくるかどうかという問題
(4)参加者の感想より

※ここまでを明日に掲載。

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◇◆ 1.この秋の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)のご案内 田中 由美子 ◆◇

この秋は、「思春期の友人関係」と「携帯・ネット」をテーマに、下記の通り、二回開催します。
10月のテキストの著者、土井隆義は、今子どもたちが、一見屈託ない友人関係に、実は多大に気を遣い合っている背景を論じています。
12月は、「尾木ママ」が、思春期の子どもの成長にとっての携帯やネットの意味や問題を論じたテキストです。どちらも、今の子どもたちを考えるための入門書的なものです。

詳細はブログ(http://kateiron.skr.jp/)をご覧ください。問い合わせや申し込みもブログからお願いします。

                 記

1.  日時:2016年10月30日(日曜)14:00?16:30
 12月11日(日曜)14:00?16:30
2. 場所:鶏鳴学園
3. 参加費:1,000円
4. テキスト:
 10月 土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』 (岩波ブックレット)
 12月 尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』(岩波ジュニア新書)

みなさまのご参加をお待ちしています。
10月と12月、どちらか片方への参加でも結構です。

参加をご希望の方は、開催日の一週間前までにお申し込みください。
お申し込みは下記ブログからお願いいたします。問い合わせや参加申し込みもこのブログでお願いします。
http://kateiron.skr.jp/

主にどの箇所を読んで話し合うのか、後日ご連絡を差し上げます。

鶏鳴学園講師 田中由美子
〒113-0034 東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F
鶏鳴学園 家庭論学習会事務局 

*** 10月・12月学習会のテーマと、テキストについて ***

私の勤める国語専門塾、鶏鳴学園では、毎年保護者会を開催し、保護者の方と子どもたちの状況について話し合います。
今夏の保護者会で、10月のテーマ、「思春期の友人関係」に関して特に印象に残ったことがあります。
それは、あるお母様から、学校の教師が「中高一貫の6年間で一生の友だちをつくりなさい」と子どもたちに話すと聞いたことです。
私はそうした指導に大いに疑問を感じました。

もちろん、多感な思春期だから特別な関係が生まれるというケースはあるでしょう。
しかし、私はむしろ、中高生の友人関係は原理的にとても難しいと思います。
彼らが、自分が何者なのかよくわからないという混沌の真っ只中にあるからです。
自分のことがよくわからなくて悩んでいる最中に、他者と確かな関係が築けるでしょうか。
そんな彼らに「一生の友だち」をつくれなどとプレッシャーをかけてはならないと思います。
そもそも友人関係は目的にはなり得ませんが、
何よりも、「友だち」がいなくてはならないという彼ら自身の強迫的な思いを逆なでするようなことではないでしょうか。
また、子どもたちの多くは実際に、思春期の始まる小学校高学年頃から友人関係の問題を抱え、神経をすり減らしています。

10月のテキストは、正に、彼らのそういった状況について考えるものです。

12月の「携帯とネット」も保護者会でよく話題になります。
どのご家庭でも、どのように使わせるのか使わせないのか、大変悩ましい問題です。どう考えればよいのでしょうか。
また、この問題の根本的な難しさは、
その底流で、10月のテーマ、「思春期の友人関係」の問題と深くつながっている点にあるのではないでしょうか。

        

10月 07

鶏鳴学園中学生クラスの講師募集と説明会
.
中学生クラスの講師を募集します。
募集について、下記の通り説明会を行いますので、関心のある方はぜひお越しください。

?中学生クラス講師募集に関する説明会

日時:10月23日(日曜)14:00?15:00
場所:鶏鳴学園

(1)参加をご希望の方は、事前にメールで(keimei@zg8.so-net.ne.jp)ご予約ください。
メールに、氏名、年齢、職業(学生・主婦)、最終学歴、住所、電話番号、および参加の動機を簡単にお書きください。

(2)ご予約の前に、鶏鳴学園のHPで、鶏鳴学園や中学生クラスについてお読みください。

〒113?0034
 東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F
           鶏鳴学園
ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/
 

10月 06

2016年の夏合宿の報告です。
今年は、私の他に、社会人が3人、学生が1人参加しました。

今年はいつものヘーゲルやマルクスを読む合宿とは違い、
これまで積み上げてきた私自身の思想の総括の一部と中井ゼミの10年間の振り返りの一部を行いました。
今後、それを本に刊行していくための準備作業でした。

いつも合宿では、合宿でしか起こらないこと、できないことが起こります。
合宿でもいつものように「現実と闘う時間」があり、各自の課題を考えていきます。
毎晩あるのですが、休み時間や食事の時間、すべての学習の時間で、その課題が話されます。4日間、3日間を一緒に過ごすことで、互いの理解が深まっていくのが感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

3人の参加者の感想を掲載します。
具体的な叙述が少なく、わかりにくい文章ですが、それぞれが一生懸命自分の課題と向き合おうとしています。

■ 目次 ■

1.一本道の全体性    塚田 毬子
2.自分を開く           金沢 誠
3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子

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◇◆ 1.一本道の全体性   塚田 毬子 ◆◇

 中井ゼミの夏の合宿に初めて参加した。
集団生活が嫌いな人間が「合宿」という言葉から連想するのは「出来れば行きたくない苦行」、「避けて通りたい行事」なのだが、
中井ゼミの合宿は迷いなく行くことを決めていた。
自分にとって必要なことだと思っていたから、行かないという選択肢は無かった。
しかし直前になって、それまでの1?2週間の自分の体たらくと、清里までの距離の遠さ、宿泊の荷物の重さに辟易して体調を崩し、
途中下車したら次の電車が一時間来ないなど鉄道事情の洗礼を受け、なんとか到着するも予定より大幅に遅れ、というひどい始まり方をした。
でも、結果的には行ってよかったと思う。行かないで家にいたら、ぐらついた陰鬱な気持ちで夏が終わっていただろうからだ。

 今回の合宿の収穫は、何より「指針があるべきところに戻った」ということが大きい。

 私は、今年の下半期は卒論に真剣に取り組み、学生生活の区切りとして、今の自分の限界まで振り絞って書く、
ということを中井さんに提案され、それが真っ当だ、と感じた。
それから卒論のために動き始めていたが、よそ見をして、それも、楽しく問題だらけのよそ見をしたために、
どちらも中途半端になり、やるべきと分かっていることが進まず、ストレスが溜まり、心身ともにぐらぐらになるような有り様だった。
それが、指針が、またあるべきところに戻った。
すっきりして、もう一本道をひたすらまっすぐ進めば宜しく、そのエネルギーも補給されて準備万端で帰って来た。
あとはよそ見せず、日々集中して卒論に取り組むだけだ。
今年いっぱいは大変な作業をしていくことになると思うが、
私は今までの人生で頑張った試しがないが、「やった」と自分で思えるものが書きたい、さっぱりそう思う。

 それと同じことで、お勉強では「全体性」という言葉にハッとさせられた。
中井ゼミのアーカイブの「『1人』を選ぶことの意味は何か」という文章に目が留まった。
一つの全体性を無視して、好きに多数から取捨選択し、断片的に部分だけを取り出す学び方は、客観性がなく独り善がりだという意見に納得した。
「一つの立場をとる以外に方法はない」という学び方を何回も聞いて、そのたびに真っ当だと思うのだが、
本当に理解できておらず、自分のものになっていないので、中井ゼミの外部の人間に批判を受けるとすぐにぐらついてしまう。
だが、「全体性」というのは先生からの学び方だけではなく、ほとんどすべてに応用される考え方なのだと思った。
卒論も、自分自身も、他者も、組織も、真剣に向き合うためには、部分で判断しているようでは表面的、一面的にしか捉えられない。
全体を押さえたうえで部分に突っ込んでいかなくては、客観的な深い理解はありえない。

 また、人間関係について、客観視できていないという批判を受けた。
「人の言葉をそのまま使うことは、その人が設定した枠組みの中で生きることになる」という中井さんの批判に胸を突かれる思いがした。
自分で考えて、自分で定義づけした言葉を使う。自分で問いを立て、その答えを自分なりに出し、それを生きる。
そうでないと自立から遠ざかっていく、と反省した。
 
 それと、食事の席で、中井さんや松永さんに「塚田さんは文章で最初から言語化ができている」と言われたことがあった。
それに対して「でもしゃべれない」と言ったら、「しゃべれなくていい」と返答があった。

 私は、「しゃべれない」ということが底のほうに平べったくコンプレックスのようにあり、
意見をどんどん言語化できる人、ペラペラしゃべっている人を見ると羨ましく恨めしくなる。
私が「しゃべれない」原因は、論理的思考力の欠如、瞬発力の弱さ、対話能力の低さ、総じて能力の低さだと思う。
少し時間を置いて、自分の中で整理し、文字に起こしながら考えて、初めて自分の考えをまとまった形にすることができる。
その場では自分の思っていることをしゃべれないどころか、自分が何を思っているのかもはっきりしない。遅い。それがダメだと思っていた。
だから、「しゃべれなくていい」と言われたことは安心だった。今はここでつまずかなくてもよいのだと思えた。
ただ、人が話したことに疑問を感じたら、その場で問題提起をしなければならない。
すぐに意見が言えなくても、流さずによく聞くこと、敏感に受け取ることには意識的になりたい。

 今の私にとって、中井ゼミは安心の場だ。安心というと安住のように聞こえるかもしれないが、そういうつもりではない。
中井ゼミを真っ当だと確認し、真っ当さがわかる自分を確認できる。
不真面目なのかもしれないし、大きな壁にぶち当たっていないからかもしれない。
まだ自分の人生はリハーサルだと思っている先延ばしの甘えからかもしれない。
だが、とにかく「大丈夫」と思える。問題が見えて、自分が今何をするべきかわかる。
何にも見えず、わからず、どうも動かないまま腐っている苦しさからは脱することができている。ゼミがあるたびに確認ができる。
さあこのまま頑張ろうと思う。しかしまだ自分の中に根拠がないので、すぐにぐらぐらと揺れる。
またゼミに出て確認をする。今はそれの繰り返しだ。自分の中に根を作るというのが、今後の課題になっていくと思う。
ぶれない、揺れない、しっかりとした根。

 道は一つになったが、今度は道をまっすぐ進むのが難しい。いい加減な人間はまっすぐ進む進み方から鍛えなおさなければならない。
前途多難だが、卒論を通して今の自分の問題に気づき、それを真剣に反省し、本気で変えようとしていくのが下半期の目標だ。
2016/8/30

◇◆ 2.自分を開く 金沢 誠 ◆◇

2日目の晩の現実と闘う時間から参加した。そこで、自分の報告をした。
しかし、内容ゼロの報告しかできず、中井さんからの質問にも答えられず、ただ黙っていることしかできなかった。

自分がそうなってしまうのは、自分が今の職場で闘わないで、逃げていることがある。だから、何も言えない。

4月に中井ゼミに復帰して、1,2か月くらいは、職場の問題に向かって少し動いていたが、
その後、動きが止まってしまった。それから報告ができなくなった。

現実と闘う時間で中井さんから指摘された、
「職場の問題の解決に取り組みながら、自分の問題の解決に取り組むこと」を実行するしか、
自分のこの先はないと思っている。
2016/09/03

◇◆ 3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子 ◆◇ 
  
 合宿初日に、中井さんから、私が何かと「忖度する」するのはよくないのではないかという問題提起を受けた。
ああだろうか、こうだろうかと、相手の状況や気持ちを推測することが多いのは、
単に表面的な問題ではなく、本質的な問題なのではないかという問題提起だった。

 すぐに思いつくのは、うまくいかないことがあって、何が起こっているのかよくわからないとき、私はまず、ああかこうかと推測を巡らせる。
相手に、何をどう思っているのかと聞いたり、おかしいと思うと言うよりも、自分に閉じこもる。
 ただし、すぐに行動せずに相手について推測したり、状況の予測を立てたりする必要がある場面も多々ある。
そのことと忖度することの問題とは、どう関係するのか。
つまり、推測や予測は必要なことであり、忖度がよくないことだとしたら、その違いは何であって、忖度の何が問題なのだろうか。

 合宿二日目に、中井さんから、さらに次の話があった。
可能性の中で必然的なことはすべて外化し、現実化する。だからその前に忖度する必要はない。
外化されたものをもとに、そもそも可能性として何があったのか、物事の本質や必然性は何なのかを考えるしかない。それが、認識であり、思考、Nachdenkenである。
しかし、それだけなら傍観者の立場でしかない。
可能性や本質を大いに引き出し、外化させるように働きかけるのが、実践的認識、主体的唯物論の立場である。そういう話だった。

忖度も、まったくの空想ではなく、多少は何か外に現れたものをもとに考えるという意味では、認識や思考である。
しかし、可能性が十分外化する前にあれこれ考えたり、また十分に外化するように働きかけようとせずに推測ばかり巡らせるのは、真っ当な認識や思考ではない。
外化されているものが少なければ、根拠の乏しい推測の入り込む余地が大きくなる。本来は、働きかけてこその認識、思考であり、認識、思考は、働きかけるためのものである。
そういう認識、思考は、必要な推測、予測だろう。

また、働きかける前の忖度の問題だけではなく、働きかけた後の忖度の問題もあると思った。
働きかけたのだから、必ず何かが外化する。何も外化しないということが外化するだけのこともあるが、それも外化である。
考える材料はいずれ現れてくるはずだ。
ただし、外化するまでしばらく待たなければならない。すぐに何かが外化するようなこともあるが、それはあまり考える材料にならないように思う。
腰を落ち着けて外化を待たなければならない。
外化してはじめて、一体自分の中に何があって働きかけたのか、どうしてそういう働きかけ方になったのか、また相手の本質も考えることができる。
ところが、働きかければ、働きかけたことの責任が自分に生じるから、その結果がどうなるだろうかと気になる。そこで忖度する。
関係が壊れてしまうかもしれない。相手が追い込まれることもある。
そうして、働きかけたときの方針が揺らいでしまったら、自分の働きかけ、自分の問題を、ありのままの外化の中に経験し、認識することができなくなりさえする。
働きかけた後の忖度には、自分の問題を目の前から消してしまいたいという欲求が根っこにあるのだろう。

相手について忖度することの問題は、自分自身の問題が見えにくくなることではないか。
相手への推測が、実は自分自身の不安の投影であったり、自分がやるべきことからの逃げやその言い訳であったりもする。
そういう自分の問題が見えないように、自分を誤魔化し、自分の責任を曖昧にする。
そうした無自覚な忖度は、他者をも損なう。相手を思いやっているようなつもりで、
相手の人格や責任の領域に踏み込む。子育ての中でも、そうして子どもの自立を阻んでしまうという問題が起こる。
根本的には、思考や推測の目的の問題なのではないか。
問題を解決しよう、前へ進もうとする中での推測には、他者に働きかけることが伴わなければならない。
そして、忖度せずに外化を待ち、結果を引き受ける覚悟が必要だ。
それに対して、自己理解や発展とは無関係な推測や予測は、自分に何も課さない、無責任な遊びである。

忖度する私の本質的な問題とは、まず、相手に真正面からオープンにぶつかることができないことと、ぶつかった後の覚悟がないこと。
働きかける生き方を選ぶのだから、自分と他者の可能性が大いに現実化するように働きかけることを意識的に練習し、さらに、その結果外化してくるものを、覚悟して待つ練習をしていく。
16/09/03