10月 06

2016年の夏合宿の報告です。
今年は、私の他に、社会人が3人、学生が1人参加しました。

今年はいつものヘーゲルやマルクスを読む合宿とは違い、
これまで積み上げてきた私自身の思想の総括の一部と中井ゼミの10年間の振り返りの一部を行いました。
今後、それを本に刊行していくための準備作業でした。

いつも合宿では、合宿でしか起こらないこと、できないことが起こります。
合宿でもいつものように「現実と闘う時間」があり、各自の課題を考えていきます。
毎晩あるのですが、休み時間や食事の時間、すべての学習の時間で、その課題が話されます。4日間、3日間を一緒に過ごすことで、互いの理解が深まっていくのが感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

3人の参加者の感想を掲載します。
具体的な叙述が少なく、わかりにくい文章ですが、それぞれが一生懸命自分の課題と向き合おうとしています。

■ 目次 ■

1.一本道の全体性    塚田 毬子
2.自分を開く           金沢 誠
3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子

========================================

◇◆ 1.一本道の全体性   塚田 毬子 ◆◇

 中井ゼミの夏の合宿に初めて参加した。
集団生活が嫌いな人間が「合宿」という言葉から連想するのは「出来れば行きたくない苦行」、「避けて通りたい行事」なのだが、
中井ゼミの合宿は迷いなく行くことを決めていた。
自分にとって必要なことだと思っていたから、行かないという選択肢は無かった。
しかし直前になって、それまでの1?2週間の自分の体たらくと、清里までの距離の遠さ、宿泊の荷物の重さに辟易して体調を崩し、
途中下車したら次の電車が一時間来ないなど鉄道事情の洗礼を受け、なんとか到着するも予定より大幅に遅れ、というひどい始まり方をした。
でも、結果的には行ってよかったと思う。行かないで家にいたら、ぐらついた陰鬱な気持ちで夏が終わっていただろうからだ。

 今回の合宿の収穫は、何より「指針があるべきところに戻った」ということが大きい。

 私は、今年の下半期は卒論に真剣に取り組み、学生生活の区切りとして、今の自分の限界まで振り絞って書く、
ということを中井さんに提案され、それが真っ当だ、と感じた。
それから卒論のために動き始めていたが、よそ見をして、それも、楽しく問題だらけのよそ見をしたために、
どちらも中途半端になり、やるべきと分かっていることが進まず、ストレスが溜まり、心身ともにぐらぐらになるような有り様だった。
それが、指針が、またあるべきところに戻った。
すっきりして、もう一本道をひたすらまっすぐ進めば宜しく、そのエネルギーも補給されて準備万端で帰って来た。
あとはよそ見せず、日々集中して卒論に取り組むだけだ。
今年いっぱいは大変な作業をしていくことになると思うが、
私は今までの人生で頑張った試しがないが、「やった」と自分で思えるものが書きたい、さっぱりそう思う。

 それと同じことで、お勉強では「全体性」という言葉にハッとさせられた。
中井ゼミのアーカイブの「『1人』を選ぶことの意味は何か」という文章に目が留まった。
一つの全体性を無視して、好きに多数から取捨選択し、断片的に部分だけを取り出す学び方は、客観性がなく独り善がりだという意見に納得した。
「一つの立場をとる以外に方法はない」という学び方を何回も聞いて、そのたびに真っ当だと思うのだが、
本当に理解できておらず、自分のものになっていないので、中井ゼミの外部の人間に批判を受けるとすぐにぐらついてしまう。
だが、「全体性」というのは先生からの学び方だけではなく、ほとんどすべてに応用される考え方なのだと思った。
卒論も、自分自身も、他者も、組織も、真剣に向き合うためには、部分で判断しているようでは表面的、一面的にしか捉えられない。
全体を押さえたうえで部分に突っ込んでいかなくては、客観的な深い理解はありえない。

 また、人間関係について、客観視できていないという批判を受けた。
「人の言葉をそのまま使うことは、その人が設定した枠組みの中で生きることになる」という中井さんの批判に胸を突かれる思いがした。
自分で考えて、自分で定義づけした言葉を使う。自分で問いを立て、その答えを自分なりに出し、それを生きる。
そうでないと自立から遠ざかっていく、と反省した。
 
 それと、食事の席で、中井さんや松永さんに「塚田さんは文章で最初から言語化ができている」と言われたことがあった。
それに対して「でもしゃべれない」と言ったら、「しゃべれなくていい」と返答があった。

 私は、「しゃべれない」ということが底のほうに平べったくコンプレックスのようにあり、
意見をどんどん言語化できる人、ペラペラしゃべっている人を見ると羨ましく恨めしくなる。
私が「しゃべれない」原因は、論理的思考力の欠如、瞬発力の弱さ、対話能力の低さ、総じて能力の低さだと思う。
少し時間を置いて、自分の中で整理し、文字に起こしながら考えて、初めて自分の考えをまとまった形にすることができる。
その場では自分の思っていることをしゃべれないどころか、自分が何を思っているのかもはっきりしない。遅い。それがダメだと思っていた。
だから、「しゃべれなくていい」と言われたことは安心だった。今はここでつまずかなくてもよいのだと思えた。
ただ、人が話したことに疑問を感じたら、その場で問題提起をしなければならない。
すぐに意見が言えなくても、流さずによく聞くこと、敏感に受け取ることには意識的になりたい。

 今の私にとって、中井ゼミは安心の場だ。安心というと安住のように聞こえるかもしれないが、そういうつもりではない。
中井ゼミを真っ当だと確認し、真っ当さがわかる自分を確認できる。
不真面目なのかもしれないし、大きな壁にぶち当たっていないからかもしれない。
まだ自分の人生はリハーサルだと思っている先延ばしの甘えからかもしれない。
だが、とにかく「大丈夫」と思える。問題が見えて、自分が今何をするべきかわかる。
何にも見えず、わからず、どうも動かないまま腐っている苦しさからは脱することができている。ゼミがあるたびに確認ができる。
さあこのまま頑張ろうと思う。しかしまだ自分の中に根拠がないので、すぐにぐらぐらと揺れる。
またゼミに出て確認をする。今はそれの繰り返しだ。自分の中に根を作るというのが、今後の課題になっていくと思う。
ぶれない、揺れない、しっかりとした根。

 道は一つになったが、今度は道をまっすぐ進むのが難しい。いい加減な人間はまっすぐ進む進み方から鍛えなおさなければならない。
前途多難だが、卒論を通して今の自分の問題に気づき、それを真剣に反省し、本気で変えようとしていくのが下半期の目標だ。
2016/8/30

◇◆ 2.自分を開く 金沢 誠 ◆◇

2日目の晩の現実と闘う時間から参加した。そこで、自分の報告をした。
しかし、内容ゼロの報告しかできず、中井さんからの質問にも答えられず、ただ黙っていることしかできなかった。

自分がそうなってしまうのは、自分が今の職場で闘わないで、逃げていることがある。だから、何も言えない。

4月に中井ゼミに復帰して、1,2か月くらいは、職場の問題に向かって少し動いていたが、
その後、動きが止まってしまった。それから報告ができなくなった。

現実と闘う時間で中井さんから指摘された、
「職場の問題の解決に取り組みながら、自分の問題の解決に取り組むこと」を実行するしか、
自分のこの先はないと思っている。
2016/09/03

◇◆ 3.働きかけて、外化を待つ覚悟   田中 由美子 ◆◇ 
  
 合宿初日に、中井さんから、私が何かと「忖度する」するのはよくないのではないかという問題提起を受けた。
ああだろうか、こうだろうかと、相手の状況や気持ちを推測することが多いのは、
単に表面的な問題ではなく、本質的な問題なのではないかという問題提起だった。

 すぐに思いつくのは、うまくいかないことがあって、何が起こっているのかよくわからないとき、私はまず、ああかこうかと推測を巡らせる。
相手に、何をどう思っているのかと聞いたり、おかしいと思うと言うよりも、自分に閉じこもる。
 ただし、すぐに行動せずに相手について推測したり、状況の予測を立てたりする必要がある場面も多々ある。
そのことと忖度することの問題とは、どう関係するのか。
つまり、推測や予測は必要なことであり、忖度がよくないことだとしたら、その違いは何であって、忖度の何が問題なのだろうか。

 合宿二日目に、中井さんから、さらに次の話があった。
可能性の中で必然的なことはすべて外化し、現実化する。だからその前に忖度する必要はない。
外化されたものをもとに、そもそも可能性として何があったのか、物事の本質や必然性は何なのかを考えるしかない。それが、認識であり、思考、Nachdenkenである。
しかし、それだけなら傍観者の立場でしかない。
可能性や本質を大いに引き出し、外化させるように働きかけるのが、実践的認識、主体的唯物論の立場である。そういう話だった。

忖度も、まったくの空想ではなく、多少は何か外に現れたものをもとに考えるという意味では、認識や思考である。
しかし、可能性が十分外化する前にあれこれ考えたり、また十分に外化するように働きかけようとせずに推測ばかり巡らせるのは、真っ当な認識や思考ではない。
外化されているものが少なければ、根拠の乏しい推測の入り込む余地が大きくなる。本来は、働きかけてこその認識、思考であり、認識、思考は、働きかけるためのものである。
そういう認識、思考は、必要な推測、予測だろう。

また、働きかける前の忖度の問題だけではなく、働きかけた後の忖度の問題もあると思った。
働きかけたのだから、必ず何かが外化する。何も外化しないということが外化するだけのこともあるが、それも外化である。
考える材料はいずれ現れてくるはずだ。
ただし、外化するまでしばらく待たなければならない。すぐに何かが外化するようなこともあるが、それはあまり考える材料にならないように思う。
腰を落ち着けて外化を待たなければならない。
外化してはじめて、一体自分の中に何があって働きかけたのか、どうしてそういう働きかけ方になったのか、また相手の本質も考えることができる。
ところが、働きかければ、働きかけたことの責任が自分に生じるから、その結果がどうなるだろうかと気になる。そこで忖度する。
関係が壊れてしまうかもしれない。相手が追い込まれることもある。
そうして、働きかけたときの方針が揺らいでしまったら、自分の働きかけ、自分の問題を、ありのままの外化の中に経験し、認識することができなくなりさえする。
働きかけた後の忖度には、自分の問題を目の前から消してしまいたいという欲求が根っこにあるのだろう。

相手について忖度することの問題は、自分自身の問題が見えにくくなることではないか。
相手への推測が、実は自分自身の不安の投影であったり、自分がやるべきことからの逃げやその言い訳であったりもする。
そういう自分の問題が見えないように、自分を誤魔化し、自分の責任を曖昧にする。
そうした無自覚な忖度は、他者をも損なう。相手を思いやっているようなつもりで、
相手の人格や責任の領域に踏み込む。子育ての中でも、そうして子どもの自立を阻んでしまうという問題が起こる。
根本的には、思考や推測の目的の問題なのではないか。
問題を解決しよう、前へ進もうとする中での推測には、他者に働きかけることが伴わなければならない。
そして、忖度せずに外化を待ち、結果を引き受ける覚悟が必要だ。
それに対して、自己理解や発展とは無関係な推測や予測は、自分に何も課さない、無責任な遊びである。

忖度する私の本質的な問題とは、まず、相手に真正面からオープンにぶつかることができないことと、ぶつかった後の覚悟がないこと。
働きかける生き方を選ぶのだから、自分と他者の可能性が大いに現実化するように働きかけることを意識的に練習し、さらに、その結果外化してくるものを、覚悟して待つ練習をしていく。
16/09/03 

10月 04

今、時代が、そして教育政策が大きく変わろうとしています。
そうした状況に流されることなく、常に変わらない人間と教育の本質をふまえて、教育活動をしていきましょう。

今回の例会では3つの報告と討議があります。

1つめは、国語専門塾・鶏鳴学園で中学生クラスを開設して6年間。その活動を大きく振り返る田中さんの報告です。

2つめは、今年の6月に刊行した『「聞き書き」の力』の成果と課題の総括です。
『「聞き書き」の力』は2009年から2年間の共同研究の成果をまとめたものです。
その課題を意識しながら、今後の活動の中で、克服していきたいと思います。

3つめは、まとまった報告というよりも、
日々の教育活動の中から生まれた生徒作品から、読み取りに困惑したり、その課題をどう考えどう指導したらよいかわからないような作文を持ち寄り、
意見交換をして互いの実践を深めようという企画です。
トップバッターの2人が報告します。

どうぞ、みなさん、おいでください。

1 期 日    2016年10月16日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/
       ※鶏鳴学園の地図はホームページをご覧ください

3 報告の内容

(1) 自分自身の閉じこもり体質との闘い
東京 鶏鳴学園 田中由美子

鶏鳴学園(私塾)の中学生クラスをスタートして6年目に入りました。

この5年間が何だったのかというと、何よりも、私が自分自身の殻をいくらか壊してきた過程でした。

当初は、授業に遅刻してきた生徒に「なぜ遅刻したの?」と訊くことさえできず、
何か事情があるのだろうと自分に閉じこもりました。

なぜ私はそんなことになってしまうのかと日々自分に突っ込むことが、
そのまま、生徒はどんな問題を抱えているのかということに、少しずつ目を開いていくことでした。

生徒の作文についてご報告し、意見交換させていただくことで、ここまでの成果と現在の課題を明確にしたいと思います。

(2) 『「聞き書き」の力』の成果と課題
          茨城 古宇田栄子、  東京 鶏鳴学園 中井浩一

 2009年から2年間の共同研究をし、その成果をまとめた聞き書き本を今年の6月に刊行することができました。

今回は、『「聞き書き」の力』の成果と課題を前向きに総括し、高校作文教育研究会の今後の学習会の方向性を考えてみたいと思います。
研究会を代表して執筆した2人が、その総括を報告します。

 『「聞き書き」の力』をご持参ください。また、当日販売も致します。割引価格2,200円です。

(3) ショートレポート 課題と生徒作品

それぞれの先生方の教育現場には、その現場での課題があり、
それに取り組みながら少しでも生徒たちのためになるように苦闘を続けていると思います。

そこから生まれた生徒作品から、読み取りに困惑したり、
その課題をどう考えどう指導したらよいかわからないような作文を持ち寄り、
意見交換をして互いの実践を深めていきたいと思います。

今回は2人の報告と、生徒作品の持ち寄りです。

茨城県 鹿島高校 久保有紀
「この夏は就職希望者やAO受験者の指導を行ってきたが、
働くということ、学ぶということに対する意識が十分でないように思われる。
表現をとおして意識を高めるにはどのようにしたらよいのだろうか」

正則高校 宮尾美徳
「生徒が本音で自分を語る。生徒が欠乏を自覚し、自分のニーズを語り始める。
4月からそれを目指してきた中で手にした生徒の声のその重さに、しかしたじろいでしまう。
それをどう読んだらいいか。」

4 参加費   1,500円(会員無料)

5 問い合わせや申し込みは高校作文研究会ブログにてお願いします。
   http://sakubun.keimei-kokugo.net/

9月 11

9月と10月の読書会のテキストが決まりました。

唯物史観の基礎を、マルクス・エンゲルスから確認します。

9月 牧野「マルクスの感情的社会主義」(『マルクスの空想的社会主義』収録)と
マルクス『資本論』第1巻(国民文庫1巻から3巻)

10月 エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)
 絶版になっていますが、アマゾンで中古で入手できます。

11月、12月のテキストも決まり次第連絡します。

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なお
ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

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9月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
9月
 10日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日) 読書会

10月
 8日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 23日(日)午後4時より 読書会

11月
 5日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 20日(日) 読書会

12月
 3日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日)午後5時半より開始 読書会
                                   
================================
 連絡先 〒113?0034
  東京都文章京区湯島1?3?6 Uビル7F
       鶏鳴学園 ゼミ事務局
 事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

9月 11

ゼミの日程の一部を変更します。
10月22日の読書会 →23日午後4時より開始
12月17日の読書会 →25日午後5時半より開始

ゼミの日程を、再度以下に出しておきます。
参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

9月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
9月
 10日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日) 読書会

10月
 8日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 23日(日)午後4時より 読書会

11月
 5日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 20日(日) 読書会

12月
 3日(土) 文ゼミと「現実と闘う時間」
 25日(日)午後5時半より開始 読書会
11月、12月のテキストも決まり次第連絡します。

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  連絡先 〒113?0034
  東京都文章京区湯島1?3?6 Uビル7F
       鶏鳴学園 ゼミ事務局
   事務局メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

8月 30

言語をその起源から考える  中井浩一 その2

■ 目次 ■

一 言語を考える際の観点、立場

(1)認識は生物の生命行為の延長(これは唯物論の立場になる)
(2)対象の運動と人間の認識の運動
(3)言語活動とは人間の意識の活動である
(4)認識の深まり(言語の発展)をどう説明するか
(5)名詞の発生をヘーゲル論理学の「存在」「定存在」「独立存在」の関係から再考したい
(6)文(思考、観念そのもの)を意識するのは、認識の発展の上で、だいぶ先の段階

二 名詞の発生まで(対象を意識する、つまり対象意識の運動が中心の段階)

(1)「存在」
(2)「定存在」
(3)「独立存在」
(4)判断の始まり
(5)「外化」から「変化」へ
(6)存在のアルと判断のアル
(7)判断の確立 主語と述語
(8)判断の発展
※ここまでが昨日(8月29日)掲載。

三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
(2)述語部の「対比」「比較」

四 実証研究

五 仮定条件と確定条件

おわりに
※ここまでは本日30日に掲載。

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三 文が意識される(これは対象意識そのものが対象として意識される段階)

(1)デハナイとデハアル
さて、判断がある程度、一般的に行われるようになると、 
判断(文)そのものが意識される段階になる。
これが観念世界が観念世界として対象になる段階。メタ言語の始まりである。

なお、これが具体的には二においてのどの段階かは、実証的に調査されるべきだろう。
私は二の(7)の段階だと推測している。
二の(8)で述語部が述語部として意識されるのは、三の(1)を経た、三の(2)の段階だと考えられる。

さて、この文そのものが意識された時に、デハナイの形が現れる。

まず「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識される

それ以前に以下のようなことがありうることはわかっている段階だ。
(これらが「含み」になっていることに注意!)
Aは白い
Aは黄色い
Aは青い

「Aは赤い(赤である)」という判断(文)が対象として意識されるとは、
「Aは赤い(赤である)」ハ と意識され、
この判断(文)が疑われ、問われる場合であり、
その中に、
「Aは赤である」ハ ナイ、
つまり「Aは赤デハナイ」
は内在化されている。   
ここに「問う」ということが明確に意識され、
同時に肯定と否定そのものが強く意識される。
つまり、「Aは赤デハナイ」が意識されている

それは
Aを対象として意識した最初の段階が繰り返されることになる。

Aとは何か。

Aは白い
Aは黄色い
Aは青い
以下続く
を検証していくことになる。(これが今後の「含み」となる)

そして、その作業の果てに
(それらを含みとし、「Aは赤デハナイ」が前提として意識され続ける中で)、
結局は
やはり「赤だった」となる場合もある。

それが
「Aは赤デハアル」である(だからこの例は少ない。しかし、それだけの含みを持つ)
それは
「Aは赤デハナイ」が対象化され、それが問われた結果、否定された場合に現れる。

二の(6)で潜在的に現れた存在と無、肯定と否定の理解は、ここで顕在化する。はっきりと意識される。

以上が文から文が生まれる過程だ。1文が分裂して2文が生まれる過程である。
「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…(以下続く)」が
分裂したと考えられる。そして「Aは赤デハアル」は、そうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものと
考えられる。それが「含み」ということだ。

(2)述語部の「対比」「比較」
この段階で、
赤でハナイ、では何か。白でアル。
という形が現れ、それが「対比」「比較」の始まりである。

この「対比」「比較」は、
すでに
Aを対象として意識した最初の段階、
Aとは何かが問われた段階で潜在的には現れている。

Aは赤い(まだ「赤」という意識はない)
Aは白い  上に同じ
Aは黄色い
Aは青い

しかし、
その対比が対比として意識されるには、
判断(文)が判断(文)として否定される段階が必要なのである。

そして、この段階こそ、
述語部が述語として、意識される段階である。
述語の意識が生まれるのは、
判断(文)への違和感、判断の対象化のこの段階からであると考える。

そして、この違和感、差異の意識から
述語が相互に比較・検討され、
その差異が、対立、矛盾へと深まっていくのではないか。

そこから本質、実体と属性、個別と特殊と普遍、類と種、といったとらえかたが成立するのではないか。
※ここで名詞の分類が必要

そしてこの先に、多様な例文が出てくる ※松永さんがたくさんの例を出している
赤でハナク、白でアル。
生物だが、動物でハナイ。
植物だが、薬草でハナイ。

四 実証研究

事実のデータによってこそ、認識を深め、確かなものにすることができる。
しかし、事前に仮説として深い洞察が用意されていなければ、多様な偶然性の中に本質や真理への道を見失うだろう。

実証主義は次の区別をどこまで理解しているか
(1)現時点の言語世界 これまでの発展過程が一切無視されて現象する
(2)歴史的発展の中での、各時点、各段階での言語の状態
 古事記、日本書紀、万葉集、平安文学、随筆、漢文脈、日記、物語、伝承

松永さんが日本語の根源を考えるなら、上代語の文献、古事記、日本書紀、万葉集などのデータの分析
こそ必要なのではないか。
私が一で示した観点から、以下を考えるためのデータ収集が必要ではないか。

○認識の発展、名詞の発生
 それぞれの段階
○判断がある程度、一般的に行われるようになり、
判断(文)そのものが意識される段階とは、実際にはどの文献に現れてくるのか。
○述語が比較され、その差異が、対立、矛盾へと深まっていく
本質、実体と属性といったとらえかたが成立する。
この先に、多様な例文が出てくる ※
○名詞の分類との関係
 普通名詞、代名詞、固有名詞 

五 仮定条件と確定条件

松永さんは、この「デハナイ、デハアル」を書き上げた後に、学会用の論文を書き上げた。
そこで複文の仮定条件節と確定条件節におけるデハナイ、デナイの区別を問題にしている。
仮定条件節にはデハナイは現れず、デナイが使用され、確定条件節の内部にはデハナイが現れる。
この事実の説明に取り組んでいる。また、文をまとめた名詞句内にデハナイが入ることが可能であることも
説明している。

仮定条件とデハナイの関係について、松永さんは前回の「デハナイ」でも取り上げていて、
私は「日本語の基本構造と助詞ハ」では、次のように説明した。
「ある文(肯定文)を意識した時に、デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、
今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件「?ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった
肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、
1つの対象(焦点)が意識されては消えていく。関口なら『達意眼目は常に1つだ』と言うだろう」
(メルマガ314号)。この考えは、今も変わらない。

こうした問題を一般的に考えるには、まず、文を文として意識する段階ことから初めて、文から名詞句が
生まれる過程、文から文が生まれる(主文と副文の分裂)過程の説明と、そこでの仮定条件と確定条件の
違いがどこから生まれるのか、そこでの順節と逆説の区別がどこから生まれるのか、これらすべてについての、
論理的な説明がまず先にあるべきだろう。

文が文として意識され、デハナイからデハアルまでの運動を経て、その全体の含みを持って生まれるのが
名詞句ではないか。
文が文として意識されれば、そこには潜在的に文の否定、述語の否定があるから、その文で問題になっている
対象は何かと改めて問われ、新たな述語が意識される。これが文から文への分裂だろう。
つまり、三の(1)は、文から文が生まれる過程なのだ。そこで書いたように、これは1文が分裂して
2文が生まれる過程である。「Aは赤デアル」が文として意識され、その文から「Aは白い、Aは黄色い、Aは青い…
(以下続く)」が分裂したと考えられる。そしてそうした文の無限の分裂が1文に止揚されたものが
「Aは赤デハアル」なのだ。そこにはたっぷりとした「含み」がある。
この過程は名詞が生まれる過程、定存在の分裂とその止揚である独立存在への運動と同じである。
そしてここまでの過程を踏まえて最初の文を意識した時に、名詞句が生まれるのではないか。
そこにはたっぷりとした含みがある。だからそこにはデナイ以外にデハナイもデハアルも含まれているのだ。
含まれているものは外化する。ただし実際にはデハアルは例がないらしい。それは、意識が一度には1つの
ことしか意識できないことから説明できるのではないか。

また、対象世界の認識において、対象の変化を原因と結果でとらえることができるようになっている段階
(二の(5))を前提として、文のレベルでの分裂でも、A→Bの原因と結果の捉え方から、確定条件と
仮定条件が生まれる。
 他方で、順節と逆説は、文と文との対比、比較の意識(三の(2))から生まれてくる。

では、確定条件と仮定条件の違いは何か。
確定条件とは現実、現在の直接性に止まり、それが肯定される段階であるのに対して、現実や現在が否定
されるのが、仮定条件である。それは未来や過去が意識され、現在とは違う状況を意識する。
これはより高度な段階である。
現実や現在の直接性が肯定される確定条件内のデハナイは、現実、現在の直接的内容だけが意識されているのであり、
現実が、現在が否定された仮定条件では、その「否定」(?ならば)に意識が集中しており、現実、現在の
直接的内容には意識は向かないのではないか。
意識は常に、その時々で、1つのことしか意識できないからだ。

おわりに
 拙稿はすべてが仮説である。しかしこれらの仮説の根底には、私の立場があり、その論理的な必然性が
あると考えている。それを具体化して提示するためにも、これらの仮説を提出しておきたかった。
 なお、松永さんがデハナイ、デハアルに着目したことの意味の大きさを強調しておきたい。
外的対象を意識する段階と、文(認識)そのものを意識する段階には発展段階として決定的な違いがある。
この後者のメルクマールがデハナイである。ここに着目したのは松永さんの資質と姿勢の賜物だと思う。

2016年8月10日