5月 18

(1)『「聞き書き」の力』(大修館書店)が、いよいよ刊行されます。

すっかり、お待たせしました。3年前からの作業過程をご存知の方は、待ちくたびれて忘れてしまったかも知れませんね。

この本は、高校作文教育研究会の共同研究の成果をまとめたものです。
研究会の共同代表である古宇田栄子さんと私の2人が執筆しました。

研究会では、テーマとして二〇〇五年には一年間集中的に「総合学習」における表現指導について、二〇〇九年からの二年半ほどは「聞き書き」(調査と取材)の研究を行ってきました。その討議を踏まえて、聞き書き指導の方法やその課題を明らかにしようとしたのが本書です。

「聞き書き」そのものの方法論だけではなく、たくさんの問題提起を行っています。

高校段階での表現の指導過程の問題も検討しました。自分史や生活体験文、調べて書く作文や聞き書き、意見文や論文(小論文も)、志望理由書などをどう関連付けて、指導していくべきなのか、という問題です。

本書のタイトルには「聞き書き」とありますが、広く一般的に、調査・取材したことをまとめた文章と理解してください。理科や社会科のレポートまでを範囲として考えています。対象は主として高校生を意識していますが、中学生や大学生、社会人の方々にも十分に有効だと考えています。
どうぞ、国語科や他教科での同志の方々との学習会などにご利用ください。

今、教育現場は「アクティブ・ラーニング」の取り組みで大騒ぎになっているようです。しかし、「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることが肝心だと思います。
「アクティブ・ラーニング」に真剣に取り組むならば、何よりも重要なことは、生徒たち一人一人が自分自身の問題意識、問いやテーマをしっかりと創っていけるように支援することでしょう。そのためには、「聞き書き」学習ほど適したものはないのではないでしょうか。

本書は、書店に並び、アマゾンなどで入手できるのは5月の20日過ぎごろになりそうです。

(2)本書の刊行を祝い、以下のような学習会(兼祝賀会)を開催します。

1 期 日 2016年6月19日(日) 10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園
3 参加費
  1,500円(参加のみ)      
  または3000円(会場で本をお渡しします)

みなで本書をさかなにしして、聞き書きについての疑問や悩みや、成果や主張などを出し合って、大いに盛り上がろうという趣旨です。

ここでは、共同研究の仲間からの問題提起や、コメントの紹介も予定しています。

参加される方は、本書をぜひ一読してから、ご参加ください。

なお、参加申し込みは1週間前までにいただけると幸いです。

(3)本書のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を、明日から掲載します。

4月 23

4月以降のゼミの日程についてはすでに連絡しました。

今回は、5月読書会のテキストをお知らせします。

ゼミの日程を再度以下に出しておきます。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。現在ウェブでの参加者は3人います。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.5月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
5月の集中ゼミ(5月7日、8日)

5月28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

                                        

2.5月の読書会テキスト

テキストは
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』です。
高橋健二訳(新潮文庫)で読みます。岩波文庫ではないので間違えないように。

20世紀始めの頃、ドイツの青年シンクレールが友人デミアンに導かれて魂の遍歴をする「成長物語」(ビルドゥングス・ロマン)です。
最後は第1次世界大戦の中、ヨーロッパが崩壊していき、デミアンもその中で死んでいきます。
シンクレールが、そこからの自分とヨーロッパの再生を確信するところで、物語は終わります。

この本は、私が思春期で苦しかった時、私を支えてくれた本です。
私は、10代の激しい反抗期の中、周囲になじめず孤立していました。
周囲や世間をバカにし嫌悪していましたが、何よりもそういう私自身を持てあましていました。
自分の毒で自家中毒を起こしていたと思います。

デミアンはそんな私をそのままに肯定してくれました。
いや、ただ肯定するだけではなく、その道をさらに先に進むこと、その果てまで突き進むように強く求めるのでした。

「私はただ、私自身の中から外へと現れ出ようとするものを、生きようとしたに過ぎない。
それがなぜあれほど困難だったのだろうか」
は当時の私の目標、救いでした。

それは今でも、私の根底をなしていると思います。
その後20代では反文化(カウンターカルチャー)の運動、共同体運動、エコロジー運動、身体性の運動、瞑想などの運動と関わりました。
その決定的な挫折があり、それらの運動の限界と自分への絶望を経て、30歳を前にしてヘーゲル哲学の学習を決意し、
その後ヘーゲルやマルクスを学ぶことで自分を作り直す作業を経て、今日に至っています。

今、この本を読みなおし、それを現在の立場から検討したいと思います。

また、昨年の秋から聖書の学習会を行ってきましたが、そうした関心の発端も、この本にあります。
それは旧約のカインとアベルの物語の新たな解釈で、カインの印の意味、カインの再評価です。
デミアンはこう語ります。
「カインとその一族は、才知と大胆さを持ち、周囲の人々はそこに不気味さを感じて恐れていた。
そして彼らが受けた恐怖への復讐として、カインとその一族に兄殺しという罪を着せ、『印がある』とした」。
それはシンクレールの魂という泉に投じられた一石となり、それが波紋を広げていきます。

当時、スタインベックの『エデンの東』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にものめり込みましたが、
すべては同じ関心でした。人間の「悪」をどうとらえるのか。

旧約と新約の読書会も終わるところで、それらも再考しておきたいのです。

4月 11

先に、5月と6月の読書会では
『アウグスティヌス講話』山田晶著 (講談社学術文庫)を
5月と6月の2回に分けて読むとお伝えしました。

すいませんが、変更させていただきます。

このテキストは取り上げますが、秋に回します。

5月から夏までは、
アダム・スミスの『国富論』中公文庫、
ヘーゲルの『法の哲学』(中公クラシックス)、
マルクスの唯物史観(『経済学批判』の序言)、
労働過程論(『資本論』の第1部第3編第5章の第1節)の読み直しと、
これらについてこのメルマガに発表してきた拙稿の検討をします。

その予定は決まり次第、連絡します。

5月の連休明けからはドイツ語でヘーゲルやマルクスを読むことも再開します。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加を可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

今回は、まず5月の集中ゼミの案内をします。

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5月の集中ゼミ

(1)日時と場所

5月8日 午前10時から正午、午後1時より午後5時まで。
東京の鶏鳴学園にて

午前だけ、
午後だけでも参加可能。

(2)料金
午前だけで2千円
通し参加で5千円

(3)テキスト

マルクス『経済学批判』の序言や
マルクスの唯物史観についてまとめた文献などを読みます。
また、私の2つの論考(鶏鳴会通信152号に掲載)
 1.ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか
   マルクスのヘーゲル哲学を観念論とする批判を批判しました。
 2.人はいかにして自立できるか ?マルクスの「思想的履歴書」─
も読みます。

詳しいことは問い合わせてください。

4月 08

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日掲載分の目次 ■

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情

========================================

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割

さて、今回牧野が、そして私が「現実性」の改訂案を出したということは、ヘーゲルの「本質論」
(特に第3編「現実性」)の初版が不十分なものであると両者が考えていることを意味する。
それはヘーゲルの意図や目的を十分に達成していないのではないか。

ヘーゲル論理学全体において「現実性」は核心部分であり、その理解はヘーゲル論理学全体の理解に大きく
影響する。私がヘーゲルの何に不満なのか、何がわからないのか、実際のヘーゲルの論理学(初版)の展開
に即して説明してみたい。

ヘーゲルの論理学は、客観的論理学(存在論、本質論)から主体的論理学(概念論)と展開されている。
存在論、本質論、概念論はそれぞれ3編からなる構成になっている。「現実性」は本質論の第3編に位置している。
その位置からわかることは、「現実性」は客観的論理学(存在論、本質論)の総括をし、そこから主体的
論理学(概念論)を導出する役割を持つということだ。
つまり、客観的論理学と主体的論理学は、概念の生成史と概念の展開史の関係だ。広い意味では客観的
論理学(存在論、本質論)全体、狭い意味では「現実性」が、概念の生成史であり、そこで生まれた概念が
自らその意味を展開するのが主体的論理学(概念論)なのである。
そしてこの生成史から展開史という順番は、ヘーゲルの発展の論理から生まれている。
ヘーゲルは、存在論は「移行」(外化)の論理、本質論は「反省」(内化)の論理、概念論は「発展の論理」だと言う。
それは存在論の「移行」の論理と本質論の「反省」(内化)の論理の統一が発展の論理だということだ。

概念の必然的な導出は、発展の論理の必然的な導出でもあるはずだ。つまり、「現実性」では概念の生成と同時に、
発展の論理の生成が示されねばならないのだ。ではその概念とは何か。
概念とは、地球の全歴史を貫いて、そこに実現していくもののことであり、その実現にはどうしても人間の主体的
な働きかけが必要である。だからこそ地球から人間は生まれてきたのだ。その意味では人間を概念と呼んでよい。
地球の歴史と人類の歴史を世界の始源(概念)が自己実現していく「発展的」過程としてとらえ、それを認識し
実現していく主体として人間(自我)を導出する。その導出が「現実性」で展開されなければならないはずだ。
そして、人間が実際にその使命を実現するために概念を理解し実現する過程は概念論で展開されるはずだ。

以上の意味で、概念(人間)を導出する本質論の「現実性」こそが、ヘーゲル論理学の核心であり、概念論は
ある意味では、その概念の実際上の展開でしかないと言える。
だからこそ、本質論が一番難しいという言明がされ(エンゲルスは「本質論が一番難しい」と言っていた。
ヘーゲル自身も『小論理学』の本質論冒頭の第114節の注釈で「論理学で最も困難なのは本質論だ」と言って
いる)、さらに「必然性から自由への、あるいは現実性から概念への移行が最も困難だ」と『小論理学』の
第159節の注釈で述べている。

5.ヘーゲルの意図について

(1)ヘーゲルの意図
ではそうした重要な役割を担う「現実性」をヘーゲルはどのように書いたのか。その意図は何だったか、
それは十分に実現できたのか。また、ヘーゲルの意図とは離れて、そもそも、論理必然性からして、
本来はどう展開すべきだったのだろうか。

ヘーゲルの大論理学の「現実性」(初版)の実際の内容は、以下のようになっている。
第1章はスピノザ哲学を紹介し、実体→属性→様態と展開される。
第2章は、可能性と現実性の関係を分析し、偶然性と必然性を論じる。
第3章は、実体性、因果関係、相互関係が展開されている。

この中で、ヘーゲル自身は第3章こそが核心で、それが概念の導出の役割をはたすと考えていたようだ。
小論理学の叙述(大論理学の第1章は省略、第2章「現実性」は序説扱い、第3章のみ本論)もそれを示す
だろうし、大論理学の概念論冒頭の「概念一般」では「実体性論(第3章)が概念の生成過程」と述べ、
その要約をしていることも、それを裏付けるだろう。なお「概念一般」では、その要約の直後にスピノザ哲学
とカント哲学への言及がある。ヘーゲルはスピノザ哲学を概念の直前の実体の立場として評価し、一方の概念
の立場(それはスピノザに欠落する個別の立場でもある)を切り開いた先駆者としてカント哲学を評価するのだ。

(2)代案の根拠
さて、ヘーゲルの意図は上記のようなのだが、それは確かなのだが、私には第3章が概念の導出となっている
ことが理解できない。この第2章と第3章の順番がわからないのである。第3章と第2章は入れ替えるべきではないか。
なぜなら、主体=人間=概念の導出を担っているのは、第3章ではなく第2章だと考えるからだ。
第3章の内容は、因果関係はもちろん、相互関係ですら、必然性全体の中では低いものだと私は考える。
動的な歴史的な発展過程を捉えるのは第2章である。第3章は、せいぜい第2章の内容を、分析的に捉え
直したものにしか見えない。

私の考えを支えると思う根拠をいくつか挙げておく。
この第2章と第3章は、それぞれ、カントの判断の4類型に対応する。関係性の判断(実体、因果、相互)が
第3章、様態の判断(偶然性、可能性、現実性、必然性)が第2章である。
 このカントの判断の4類型は、ヘーゲルが自らの論理学の体系を考える際の土台としているのだが、
質の判断と量の判断は、存在論の大枠をなし、関係性の判断と様態の判断を本質論の核心の「現実性」に
置いたのだ。ヘーゲルにはそれはすでに決まっていたことだろう。したがって、問題はその順番にあったはずだ。
ヘーゲルの概念論の主観的概念の判断論の展開を見てみる。これはカントの4つの判断を土台に、
その4つを発展的に位置づけたものになっている。それは質の判断、量の判断(反省の判断)と続くが、
最後に持ってくる概念の判断はカントの様態の判断であり、その前の必然性の判断がカントの関係の判断
に対応する。関係の判断では二つの項が全体の契機となり、ここに全体が類や種として示される。
そして様態の判断においてその全体(概念)との一致、不一致が問われる。つまり関係の判断よりも、
様態の判断の方が上であり、それを概念の判断としているのだ。

概念論の客観的概念が機械論と目的論の順番に展開されていることもそうだ。機械論は因果関係や相互関係
で把握される世界、つまり外的必然性の世界だし、目的論は内的必然性とそこから生まれる概念の段階に
対応するだろう。因果関係や相互関係は、ヘーゲル論理学の中では外的必然性という低い段階であり、
それを止揚したのが内的必然性だという理解が正しいと思う。

ヘーゲルがこの論理学の第2書「本質論」の第編全体のタイトルを「実体」とせず「現実性」としたことも、
現実性を直接扱う第2章(タイトルも「現実性」)こそが重要であることを示しているのではないか。
また、これまでヘーゲルの本質論研究でほぼ唯一の大きな成果である許万元著『ヘーゲルの現実性と概念的
把握の論理』が第2章の研究であり、第3章ではないことも考えたい。

(3)ヘーゲルの側の事情
ではなぜ、「現実性」の内部の展開が、様態から関係性へとなったのだろうか。
牧野は「ヘーゲルは因果等の必然的関係をどうしたら証明できるかと考えた」からだと説明するのだが、
私は違うと思う。

以下は、推測でしかないが、ヘーゲルは自分の立場を実体の真理として示したかったのではないか。
ヘーゲル哲学をスピノザ哲学の真理として示したかったのだろう。
ヘーゲルにとって、哲学史上ではアリストテレスが別格であり、近代の哲学者では直接にはカントが、
ついでスピノザが先達なのだ。そこで自らがその2人の正当の継承者であることを示したかったのではないか。
だからスピノザ哲学自体の展開が、自ずからヘーゲル哲学が導出される形を示したかった。
つまり実体論の展開がそのまま主体の導出になるようにしたかった。

しかもカントの判断の4分類をそのままに取り込むことで、それを止揚したものとして概念の立場を導出
したかった。そこでラストにカントのカテゴリーから関係性の3カテゴリーをもってきた。
実体→因果関係→相互関係である。
また、第1章にスピノザ哲学を置くと決めた場合、それは実体→属性→様態と展開されるので、
第1章最後に置かれた「様態」を受けてカントの「様態の判断」を2章に置き、最後に「実体」から始まる
カントの関係性の判断を置いたのが初版の構成なのではないか。

 または、実体の生成史とその展開史として、第2章と第3章を置いたとも考えられる。
偶然性から必然性への展開が実体(必然性)の生成史の意味を持ち、その成果である現実性=必然性=実体
の展開過程をその後に置いたつもりなのだろう。第2章で必然性の発展を外的必然性(B 実在的必然性)
から内的必然性(C 絶対的必然性)へと展開していたが、それを再度、実体→因果関係→相互関係で捉え直し、
そうした必然性の展開の結果、すべての存在、現実が全体の契機となることを示した。必然性の運動の結果、
その姿を現したその全体を概念とし、その概念の働きとして必然性を止揚した自由を出す。
これがヘーゲルが実際に行なったことのようだ。
そのように考える限り、牧野のように第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に三分し、
最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くという考えは、
ヘーゲルの真意を分かりやすく整理したものと言えるだろう。

 しかし、それがヘーゲルの意図だったとしても、それは論理的には無理筋だと思う。
ヘーゲルが実際に因果関係を出すことで示したかったのは、「自己原因」(一つの全体が形成され、
すべてがその全体の契機となる)という考えだったと思う。そこから概念の導出をするためだろう。
 しかし、因果関係→相互関係は、必然性の段階としては高いものではない。日常で普通に使う考えであり、
それが厳密に操作されれば自然科学や社会科学の基礎をなすものにもなる。しかし、それは必然性の段階
としては外的必然性であり、悟性段階のものである。確かに、それも必然性の展開に従って高まれば
自己原因という段階になるが、それを一緒にくくることはできないのではないか。

 なお、私は相互関係一般を外的必然性の段階と考えるが、その重要性を否定するのではない。
内的必然性はそれを止揚したものとしてしか現れないし、内的必然性の必須の契機として外的必然性は
存在している。例えば概念論の客観性の核心である目的論で、人間が自然を完成させるという人間自身
の使命を自覚し、その使命の実現のために、人間自身の個人的社会的な変革を引き受けるようになる論理は、
作用と反作用、相互関係の論理である。労働によって自らに都合がよいように自然を変革しようとする人間は、
その欲求実現のために、逆に自らの変革に取り組み、自らの能力を高め、社会を変革しなければならなくなる。
その過程の中から人間の使命、つまり人間の概念が自覚されるはずだ。そこから理念が生まれるのだが、
そこでの論理が相互関係であることは重要だ。しかし、それが内的必然性より上なのではなく、
そうした外的必然性を止揚して内的必然性と概念が現れてくるという意味で重要なのである。

                  (2016年4月1日 3・11から5年目の春)

4月 07

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日の掲載分の目次 ■

3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性
(1)外的必然性
(2)内的必然性
(3)概念(自由)の生成
(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す

========================================

3.ヘーゲルの外的必然性と内的必然性

 ヘーゲルの外的必然性と内的必然性とはどういう関係であり、内的必然性とは何のことなのか。
 外的必然性と内的必然性とは、単に横並びの対立項ではないだろう。外的必然性が発展した段階が
内的必然性である。つまり、外的必然性の真理が内的必然性であり、外的必然性の中からのみ内的必然性は
現れる。内的必然性とは外的必然性の中にしかない。

(1)外的必然性
A→B、AからBが出てきた(ように見える)、AがBに変化した(ように見える)時に、そうした変化を変化と
してだけとらえている段階、つまりAとBがただ他者として、相互に無関係に並ぶだけの相互外在的な関係で
しか考えられない段階が、ヘーゲルの存在論の段階である。この段階の変化の運動をヘーゲルは「移行」と呼ぶ。

そうした変化に対して、なぜ、どのようにその変化が起こるのか、つまり変化の根拠、その必然性を検討する
段階になると、本質論の段階となる。
A→B、AからBに変化した時に、AとBはただの他者ではなく、BはAから生まれたのだから、Bの根拠がAである。
この時に、AをBの原因、BをAの結果と呼ぶ。これが因果関係である。
この根拠という考えをさらに深めると、Bは初めからAに内在していたのであり、Aの中にすでに潜在的に存在
していたBが外化したものであると考えられる。この立場からは、AをBの可能性とも言い、BをAという可能性
の実現、現実化とも言う。
このように変化の運動を、その根拠から説明するような2項の関係でとらえる時に、ヘーゲルは「反省」「反照」
の運動と呼ぶ。

この因果関係や、可能性から現実性への反照の運動を、ヘーゲルはさらに深めて相互関係の芽を見抜いていく。
AがBの原因であることは、 A→B によって確認され、Bが Aの結果であることも、 A→Bによって確認される。
つまり、A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)Bを見出したことをも意味する。かくしてAからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ここにAとBを契機とした全体が現れている。これが変化一般の本質的な姿なのだ。

しかし、これではどこまでいっても偶然性の関係である。なぜなら、確かにA→Bもあるのだが、B以外の場合もある。
A からは、C、D、E、F…も出てくるからである。
B以外のC、D、E、F…の可能性は排除されない。Bもあるし、Cもあるし、Dもあるし、Eもあるし、Fもある、…
こともある。Bでないし、Cでもないし、Dもないし、Eもないし、Fもない、…こともある。
さらに、B、C、D、E、F…は、Aからしか生まれないのではなく、A以外のP、Q、R、S、T…などからも生まれること
がある。
ヘーゲルはこのAとB(B以外でも同じ)にとってのこうした状態を「自らの根拠を他者の中に持っている」として
偶然性の段階とした。この段階がヘーゲルの外的必然性である。こうした場合は、A、B、C、D、E、F…は、相互に
内的と外的との区別はあるものの、存在論の相互外在的なありかたに止まっているのだ。

こうした偶然性の段階にあって、より必然性を追求しようとすれば、A→BのBだけが可能で、それ以外のC、D、E、F…
の出現の可能性が排除されればよい(B以外のC、D、E、F…でも同じ)。そこで、そのために必要な条件が問題になる。
そこで、A→B の条件、つまりAからBだけが生まれ、それ以外のC、D、E、F…が現れないための条件の検討が始まる
(それはB以外の、C、D、E、F…についても検討できる)。それにはAの内部の条件はもちろんだが、同時にAの外部
(A以外のP、Q、R、S、T…)の条件も必要になる。
ここでは、そもそも最初に置かれるAとは何か、AとA以外の区別とその関係が問われる。一方ではAとA以外の2つを
「部分」(契機)とする「全体」が意識され、他方でAを全体とした時のAの部分(諸要素)の相互関係、またAも
入れた全体の相互関係が問われるようになる。そしてさらにA→B の条件では、A に含まれる可能性としてのB、C、
D、E、F…の相互関係、Aも入れたそれらの可能性群全体の相互関係が問われるようになる。相互関係の諸要素は
全体の契機となっており、ここでは全体とその契機としてとらえられることになる。これが実体と偶有性の関係の
段階である。

この時に、A→B の条件が示され、その条件が満たされていればBが現れ、 B以外のC、D、E、F…は現れない。
しかし、Aから何が生まれるかは、Aの内的条件と外的条件に依存しており、そうした条件に依存しているという意味
では、「自らの根拠を他者の中に持っている」ことは変わらない。したがって、その意味ではこの段階も依然として
偶然性の段階であり、外的必然性の段階なのである。

(2)内的必然性
A→Bの場合、Aの中にすでに潜在的に存在していたBが外化したのであるが、同時に、Aが自己内に反省して
(内化して)Bを見出したのである。AからBへの外化は、BからAへの内化でもある。
ただし、Aの中に潜在的に存在していたものはBだけではなく、B以外のC、D、E、Fもあり、だからこそ、
それらも外化してくるのである。これが偶然性の段階であった。
そのAが「全体」とされ、B、C、D、E、F…がその「諸要素」として区別され、それらの相互関係が明らかになっても、
それらの関係には偶然性がまだ残されている。
しかし、そうした諸要素の中に、Aにとっての中心的(本質的)なものとそうでないものとの区別が明らかになる段階
が来る。そうした区別は、変化の中には中心的変化があるということがわかってくる段階に対応する。

Aの多様な変化の中に、その全体を貫く運動があることがわかり、それこそがAの本質の実現の運動であることがわかる。
その時、Aの中に潜在的に存在していたB、C、D、E、F…は、Aの中心的なもの(本質)の現れであるものと、
そうでないものとに明確にわかれていく。
つまり、全体を形成する諸要素には明確な本質(中心)があり、その本質の外化を中心とした運動がある。

A→BのBがAの本質(中心的なもの)であった場合は、変化一般とは全く異なる運動が現れてくる。
その運動とは、A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aという運動である。これは、Aの中に潜在的に存在
していた本質が、B からB’、B”、B”’、B””、B””’…と外化していく過程で、同時に、Aが自己内に反省
して(内化して)B からB’、B”、B”’、B””、B””’…へと深まっていき、最後はAにもどることになる。
このB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの全体を本質の外化、本質の全体ととらえ、その本質にとってB→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aはその必然的な過程であり、その契機なのである。
ヘーゲルは発展の例によく植物の成長過程を出す。植物の種(胚)から芽が出て、成長するにつれて根や茎や枝が
伸び、葉が茂り、花が咲き、果実が実り、種ができる。植物の種(胚)には後に現れる根、茎、枝、葉、花、果実、
種(胚)などが潜在的に、可能性として含まれており、植物の成長とはそうした可能性が外化し、実現していく
過程なのだ。こうして終わりが始まりに戻ることになる。これが、ヘーゲルの発展であり、
A→B→B’→B”→B”’→B””→B””’…→Aの具体例なのだ。

ヘーゲルはこの運動を「自らの根拠を自己の中に持っている」として必然性の段階とした。
この段階がヘーゲルの内的必然性である。
またこの運動をヘーゲルは発展とし、「発展は本質に帰るような変化のこと」とした。
これは存在論の移行(=変化、外化)の運動と、本質論の反省(=本質に帰ること、内化)の運動を統一した
運動が発展であることを意味する。

しかし、これでは同一種の内部の、つまり同じレベルの繰り返しでしかない。本当の発展は、新たな種が生まれ、
そのレベルが高まることでなければならないだろう。それは植物の胚を例にした発展と何が違うのだろうか。
そうした発展のどこがどう深まったものなのだろうか。
それはA→BのBがAの現象的な否定ではなく、Aの本質そのものの否定である場合だ。つまりその時BはAの本質の
止揚となっており、これこそヘーゲルがBはAの真理だという本当の意味なのであり、それがAの概念なのである。

(3)概念(自由)の生成
これを理解するには、「自らの根拠を自己の中に持っている」として内的必然性とされた発展の運動が、
実は自己否定の運動であることを理解する必要がある。そしてヘーゲルの本当の凄味は、本質実現の発展の運動が、
自己否定の運動であると看破したことにある。

ヘーゲルは発展の運動(A→B)、つまり内的必然性において、BをAの真理と呼ぶ。それは、Aの現象面が否定され、
その奥にある本質が現れたものがBだという理解の上に立っているからだ。
この「否定」の運動という観点で、これまでの段階を振り返ってみるとどうなるか。
実は、一番最初の存在論の変化一般の段階にすでに「否定」の運動が含まれていた。A→Bへの変化とは、Aが否定され
Bが現れたことに他ならない。しかしそれはAとBがただ他者であり、無関係な横並びの存在としてとらえられている
にすぎない。AとBは外的な関係であり、他者として相互に否定し合って存在しているだけだ。
本質論の外的必然性の段階では、Aは自らの内的なBによって否定され、AとBは相互関係としてとらえられている。
Aは外的な他者にではなく、自らの内的なBによって否定されたのだが、他のC、D、E、F…もAの内的な存在であり、
それらによっても否定される。Aは自らの内的な存在によって否定されたのだが、それは依然として他者にとどまって
いるのだ。

それが内的必然性では異なる。Bは Aの内的本質であり、 Aの現象面が否定され、その奥の本質である Bが現れている。
Aにとってその内的本質Bとは自己そのものである。Aの現象面は、その内的本質(自己)に否定され、
その内的本質は外化されていき、ついにはAはその内的本質の全体を実現する。これはAを否定する運動だが、
Aの本質によるAの否定、つまり自己否定の運動なのだ。しかしただの否定ではなく、自己を否定することで
自己を実現(肯定)していく運動なのだ。だからヘーゲルは、Bを Aの真理と呼ぶ。それはAの本質の実現と
同じ意味である。

しかし、これでは同じレベルの繰り返しにしかならない。それは自己否定の運動なのだが、自らの本質という
範囲の内部での自己否定であった。
それが自己の本質そのものの否定にまで突き進んだ時、それは本質の単なる否定ではなくその止揚であり、
それは自己否定の完成であり、自己が滅ぶ時であり、自己を越えた新たな存在の誕生だったのである。
それが真の発展であり、自己を超える新たな存在を生むことがAの使命(Aの概念)だったのである。
「真理とは存在がその概念に一致すること」というヘーゲルの真理の実現がここにある。
こう考えるヘーゲルにとっては、Aの真の否定は Aの中からしか生まれない。ここには徹底的な一元論がある。

ヘーゲルの存在論から本質論、本質論から概念論への3段階(本質論内の外的必然性と内的必然性を入れれば
4段階)を振り返って整理すれば、発展とは存在論(外化)と本質論(内化)の運動を統一的にとらえたもの
であり、それは存在と本質の運動の真理であるとともに、外的必然性の真理であり、それがまずは内的必然性である。
実体(本質)は最初は根拠であり、原因である。そうした外的必然性の段階が深まり、内的必然性、
発展の立場にいたれば、それが実体(本質)の真理、実体の完成態であり、ヘーゲルはスピノザの実体を
この段階のものとしてとらえていた。
そして、ヘーゲルはここまでの運動の全体を「現実性」としてとらえている。これは現実性そのものが自己
運動をしてこの現実世界を形成した運動なのだ。そして最後に生まれる概念が、それらすべての真理という
ことになる。すべての始まりにその概念があり、その展開によって今、また概念にもどったということだ。

こうした全体の運動を、ヘーゲルは真理、概念、理念の自己実現運動、それを自己否定=自己肯定の運動として
とらえ、この自己否定の運動を中心として、実体の全体が捉え直された時、それは実体の中心に自己否定する
運動を認めたことになり、その運動によって生まれる自己を止揚する主体性が現れたことになる。
それがヘーゲルの概念である。
これをヘーゲルは、「実体を主体として捉え直したものが概念だ」「実体の真理が概念である」と説明するのである。

ヘーゲルはさらに、必然性の真理が自由だとも言う。
ヘーゲルは外的必然性と内的必然性をあわせて必然性としてとらえ、それを「盲目」であるとする。それは結果
を事前に予測することはできず、結果から必然性を判断することしかできないからだ。また個々の存在は相互に
自立的に外的に存在しているからである。
しかし概念の段階になると、それはすでに「盲目」の必然性ではない。事前に結果を予測することが出来る。
それが目的的な活動であり、その存在(種)の本質が現れた段階で、古い種の終わり(概念)と次の新たな
種の始まり(本質)が現れてくる。
しかし、ここには、もう1つの主体が必要である。個々の相互に自立しているように見える存在の外観を壊し、
それらを契機として新たに生まれる全体を目的として、それを実現する主体である。そこで地球上に人間が
生まれ、目的的活動、つまり労働が始まったのである。
人間は、対象の本質から概念への必然的な運動を理解し、自らもその実現のための契機として関わっていく。
それが自由であり、それを担うのが人間である。

人間は他の動物のように意識を持つだけではなく、意識の内的二分による自己意識を持った事で、
過去と現在と未来を総合的にとらえる思考を獲得した。発展の論理を自覚し、必然性を理解し、
概念の実現を目的とした上で労働するようになった。それは最終的には、地球から人類が生まれた意味を
理解し、地球や人間の使命を理解でき、それにふさわしく自然と社会を変革していくことになる。
これが「盲目」の必然性が概念的に把握される自由の実現の過程である。
究極的にはこの地球の運動で実現するものが概念であるが、それを可能にする人間そのものが概念である。
人間はこの内化と外化の統一をまさに体現する。それが「自由」の実現である。それまでの外化の歴史が
結果的に内化、本質の実現を意味していたのに対し、人間はそれを自覚的に行う可能性を得た。
この使命の実現のために、人間は自らの認識能力を高め、自らを変革することを中心に置いた上で、
社会を変革し、自然を変革していかなければならない。

(4)ヘーゲルの「現実性」を書き直す
本質論の外的必然性から内的必然性、さらに概念への発展の過程を、私は上記のように理解する。
したがって、「因果関係・相互関係・実体の関係」と「外的必然性・内的必然性」との関係では、
「因果関係・相互関係・実体の関係」を「外的必然性」の内部に位置づけることが正しいと考える。
 したがって、私はヘーゲルの「現実性」を次のように書き直したい。「現実性」の全体は、二部構成で
良いのなら、外的必然性と内的必然性とに二分し、最初の外的必然性の下位形態として実体性と因果性と
相互作用の3つ(第3章の内容)を置く。また、もし三部構成にこだわるのなら、実体(本質)を冒頭に置き、
外的必然性と内的必然性とで三分し、外的必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置く。

いずれにしても、牧野がヘーゲルの「現実性」の第3章を核心とし、それに偶然性と必然性(第2章)を
止揚したのに対して、私は第2章こそを中核ととらえ、その第2章の外的必然性の内部に第3章の内容
(実体性と因果性と相互作用)を止揚したいのだ。
牧野が第3章を重視するのは、ヘーゲルの「現実性」の目的を「因果等の必然的関係の証明」にあると考えた
からだし、私は発展の論理と概念の導出が目的だと考えるから、第2章を重視する。牧野が言うように、
因果性と相互作用を「1つのものの2つの部分ないし側面」と理解した時に、「必然的関係」が証明できる。
「全体の契機(モメント)になっている」というありかたこそが、内的必然性の前提になるのはその通りだが、
だからこそ、それは外的必然性の段階ととらえればよいのだと思う。

以上、牧野の『弁証法の弁証法的理解』にある2つの必然性という考えに私見を対置し、
あわせてヘーゲルの「現実性」の改訂についても私見を述べた。

つづく。