12月 16

ブリジストン美術館で「野見山暁治展」を見た。

よかった。

まず、圧倒的な力がある。
抽象画なのだが、画面が生きている。

それはうごめき、あわだち、旋回し、あふれだし、奔出し、逆流し、キレツを生み、バクハツする。

色彩も良い。あやしい形とその色合いが響き合って、せまってくる。

ひさしぶりの快感! お薦めです。今月25日まで。

2011年12月15日

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以下のHPから引用しておく。

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/

特別展
野見山暁治展
2011年10月28日(金)〜2011年12月25日(日)

昨年90歳を迎えた野見山暁治は、日本の洋画界において、最も長く活動を続けてきた画家の一人ですが、絵を描くことへの情熱が衰える事はなく、現在も新たな境地を見出すべく活発な創作活動を続けています。
鮮やかな色彩と大胆な筆遣いによる独特の表現は、みずみずしく軽やかでありながら、同時に骨太な力強さをも感じさせます。しかしその底には、どこか謎めいた不思議なものの気配が漂い、心象風景とも感じさせるその作風は、多くの人々の心を魅了していると言えます。
ブリヂストン美術館は、野見山が滞欧中の1958年に、早くも彼を紹介する展覧会を開催し、それは第2回安井賞を受賞するきっかけとなりました。この展覧会から半世紀を経て開催される本展では、戦前の作品から、戦後の12年近いヨーロッパ滞在を経て現在に至るまで、野見山の自由奔放でエネルギーに溢れた絵画世界が形成されていくプロセスと、さらに表現の幅を広げようとする画家の姿勢を展観します。代表作や初公開となる作品など、総数約110点をご紹介いたします。
野見山暁治略歴
1920年 福岡県穂波村(現 飯塚市)に生まれる
1943年 東京美術学校油画科を卒業とともに応召
1952年 渡欧 12年間を過ごす
1958年 安井賞受賞
1968年 東京藝術大学に勤務 以後81年まで
1978年 日本エッセイスト・クラブ賞受賞
1996年 毎日芸術賞受賞
2000年 文化功労者に選ばれる

12月 08

東北の取材

12月5日、6日は仙台の東北大学、7日は福島大学の取材をしてきました。

いよいよ原稿の締め切りが近づきました。

『中央公論』の来年の2月号に掲載予定です。

東北の被災地の国立大学の動きをまとめ、法人化との関係を考えます。

12月 07

12月の読書会のテキストが決まりました。

3・11の大震災に始まり、その対応で明け暮れた1年の、締めの読書会です。

どうぞ参加してください。

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(1)日時 12月22日(木曜日)午後4時から6時まで  読書会

(2)テキスト

『石巻赤十字病院の100日間』由井 りょう子 (著), 石巻赤十字病院 (著)
小学館 (2011/9/30) 1575円

10月の読書会では、海堂 尊 (監修)『救命―東日本大震災、医師たちの奮闘』新潮社 (2011/08)
を取り上げました。

今回も、医療現場の記録です。『救命』は医師個人に焦点を当てた本でした。今回は、石巻日赤病院という組織の活動の記録です。石巻日赤病院という地域の拠点病院(民間病院です)、全国から集まった応援チーム、そこに県や市の行政や、地域の医師会、東北大の大学病院も関わります。
そうした全体的な関係から問題をとらえながら、個人の生き方も考えてみたいと思います。

12月5日に、石巻日赤病院の中心だった石井正医師に取材してきました。そこでも素敵なお話をたくさん聴いてきたので、その話もしたいと思います。

(3)アマゾンの紹介文から

そのとき、地域病院は野戦病院と化した

簡易ベッドで埋め尽くされた待合室、廊下にあふれる被災者、家族の安否もわからないまま不眠不休の極限状態で働く医療従事者の姿――3月11日以降、連日テレビなどでこの病院の様子が報道されました。
なぜ石巻赤十字病院がこれほどクローズアップされたかというと、約20万人が居住する石巻圏の医療施設がほぼ壊滅状態となり、唯一、水没を免れ、自家発電機を所有していたこの病院に人々が殺到したためです。また、石巻市役所が浸水のため孤立、一時は300か所にまで膨れあがった避難所への医療提供やアセスメント(評価付け)も医師自らが担いました。結果的に救えない命も少なくはありませんでしたが、それを最小限に留める努力を、赤十字の組織力と機動力をもって全力で行ったこの病院の取り組みは、今後の災害時救急医療のモデルケースになるともいわれています。
かつてない規模で行われた過酷なトリアージ、津波被害特有の“低体温症”患者への対応、避難所の劣悪な環境が引き起こした肺炎――石巻赤十字病院が体験した死闘の100日間を追い、そこで生まれた様々な人間ドラマと交差させながら、今後の災害時救急医療の生きた教訓となるノンフィクションです。

12月 05

10月の読書会の記録(海堂尊『救命ー東日本大震災、医師たちの奮闘』) その3

大学生・社会人のゼミの、今年の秋の読書会のテーマを、東日本大震災で提起された問題としました。それを自分の問題として受け止めていくことを目標とします。

10月には海堂 尊 (監修)『救命─東日本大震災、医師たちの奮闘』新潮社 (2011/08)を取り上げました。

■ 目次 ■

6、各章の検討
【5】岩手県上閉伊部大槌町 植田医院 植田俊郎
【6】宮城県歯科医師会 大規模災害対策本部身元確認班長 江澤庸博
【7】岩手県陸前高田市 県立高田病院院長 石木幹人
【8】岩手県宮古市 国民健康保険田老診療所所長 黒田仁

7、読書会後の感想
8、記録者の感想

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6、各章の検討

 ※以下、本読書会で取り上げた内容を「・」で示し、それに対する中井先生の考えを「→」で示した。

【5】岩手県上閉伊部大槌町 植田医院 植田俊郎

→危機意識がない、良く助かったと思う。でも趣味の山登りで日常的に自然災害を経験しているので強い。だから行動や考え方が実践的。

? 大槌町の医療体制の話。民間の診療所と大槌病院は医者もスタッフも仲がいい。(p.117)
→仲がいいのはある意味当たり前。診療所の開業医と公的な病院の勤務医が本当に連携してやらないと、医療を支えられない。また、「商売敵っていう感覚がない」という意味は、みんなで助け合ってやらないと成り立たないくらい厳しい状況があるという事。

? 田舎の医者である父に反発。しかしそこには地域との密接な関係がある。(p.123)
? 親父の口癖は「俺たちは患者さんに食べさせてもらっている」(p.124)
→これが地域医療に従事している人の意識。そこに感動してしまう。

? 被災地の医療に関わっていると、責任感から自分を追い込み、他の医者への批判が出てしまう。しかし、もっと謙虚に患者さんや被災者に寄り添う姿勢が必要。(p.126)
→とても大事な事を言っている。特殊な状況の話ではなく、一般的に、一生懸命やっているつもりの人というのは他人に対してすごくキツい事を言う人が多い。そう言う人はほんとはあんまり頑張ってない人だと思う。頑張ったら、謙虚さが出てくる。

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【6】宮城県歯科医師会 大規模災害対策本部身元確認班長 江澤庸博

→なぜ歯医者が出てくるのか、歯科医が身元確認をやっている事実を、これまで知らなかった。

? 被災2日目に休ませてもらい、自分がどうしてこれをやるのか、自分の役目を考える。災害地に診療所を構えた僕の役目。そして、あの一日があったからそのあと、何ヶ月も続いて、今もやっているの自分を支えられている。(p.142,143)
→心が動かされるし、とても大事なことだと思う。無理に続けてしまった後のギブアップは立ち上がれないものになってしまう。
→歯医者は普段、死体とは向き合わない。あまりにも悲惨な状況の中での過酷な仕事だから、精神的におかしくなる事が起こるのは当たり前。仲間同士で休みをとり、確認する時間を取ったことは心に残った。

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【7】岩手県陸前高田市 県立高田病院院長 石木幹人

→お荷物病院と呼ばれた病院を地域密着型に改革して黒字に転換させたという経営手腕のある人であり、終始たんたんと語り、組織的にシステムを考えているなかなかの人物。
→編集がなかなかうまい。それまでふれられなかった妻の死が途中で突如でてくることや、娘が女医になって自分の病院に赴任してくる終わり方が、実に鮮やか。

? 薬が足り無い状況の中、通りがかった薬問屋の車を止めて直談判(p.194)
→とにかくふんだくってもやらなきゃいけない。行政にお願いしている場合ではない。

? 3月15日に副院長がダウンしてしまう。(p.198)
→病院スタッフへの気遣いが足りなかったことが、この人の唯一の反省点。すごい。

? 情報が何も入らないのは不安だが、入ってくる情報をうかつに伝えるのもまずいなと思った。(p.189)
→被災して精神状態がいっぱいいっぱいの人に対しては、一方で心の問題もある。このレベルで情報を抑えなければ行けない。しかし、それと国家が情報を抑えることとはレベルが違う。国レベルではできる限り情報操作をせず、できるだけ早くすべての情報を公開すべき。

? 病院再建に向けて。外来機能の回復→訪問診療というプロセス。(p.202)
? 当時赤字だった高田病院を高齢者に目を向けた病院作りを実践して黒字化。(p.204)
? 住民との懇談会を頻繁につくっていく。(p.208)
? 新しい病棟の立ち上げは、今回のような津波がきても被災しないようなところに作らなければいけない。(p.209)
→石木さんは病院再建の際もすぐに段取りを立ち上げられる。
→高齢者にとっては病院と関係を作ることが、生活の質を保ち、最期の看取りの段階では死を受け入れる気持ちを作って行くことに繋がるのではないか。地域の医療を作り上げるとはまさにこういう事なのではないか。
→石木さんはとても立派な人だと思う。

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【8】岩手県宮古市 国民健康保険田老診療所所長 黒田仁

? 防潮堤が果たしてくれた役割(p.218)
→防潮堤のプラスの面にしか触れない。むしろ防災意識を弱めたという矛盾がある。

? 現場を見ていない役人を信用できなくなった(p.228)
→役場の事を悪く言う。確かにその通りだが、役人を動かせないとダメなのではないか。石木さんも批判している。「思うように行政が動いてくれない時には落胆する」(p.208)この2人の違いはなにか。

? 「ミイラ取りをミイラにしない作戦」(p.237)
→消防士、看護士、行政、自衛隊など支援する為に頑張っている人たちのこころのケアはものすごく重要。この人たちは役割上、傷ついていることを言いにくい立場にある。そういう人たちをこそ、ほんとはケアされなければいけない。こうした判断はとても重要。

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7、読書会後の感想

? この本がどういう経緯でつくられたのかが分からない。
→着眼点は素晴らしい。一人一人の経験談。その一つ一つが核心的な今の問題に触れている。だからこそ、重い問題がそれぞれの経験から見えてくる。また、本を売るためには、時期が大事。震災後直ちに企画し、落ち着いた時期に集中的にインタビューをし、夏には出版。

? 医者と患者の関係、ボランティアと被災者関係の中での相互理解の難しさ、他者理解の難しさを感じた。
→一般的に、僕たちが他者に関わることには根本的な難しさがある。この本に出てくる経験は極めて特殊な状況の中の極めて特殊な問題ではあるけれど、それが本質的な問題だからこそ、普段の生活の中の問題として考える事が出来る。

? 被災状況だけでなく、これまでの東北地方の過疎のリアルな状態を知れた。また、今回の震災のように問題があった時に不満の矛先を行政に向けがちだが、中井さんの指摘する「関係なくやってしまうべき」というのは最もだが、実践はなかなか難しいのではないか。
→行政に対してこれだけ不満が出てくるというのは、お上意識の裏返しでもある。行政依存の意識があるからこうなるんだと思う。常識的に考えれば、医療現場がめちゃめちゃな状態で壊れてしまっている時、行政だって同じように壊れていることが分からないのだろうか。だから基本的には、自分で全部やるしかない。

? 医療業界の仕組みをまったく知らなかった。行政の視点、日本医師会と大学病院の対立を踏まえて読めたのが良かった。

? 僕はダメでした。中井さんの話を聞いて面白いなと思えた。

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8、記録者の感想

 本書で描かれているのは震災直後、震災初期の医師たちの奮闘記であるから、その人間ドラマには当然誰もが感動するだろう。そして今回の読書会ではその人間ドラマの中に、これまで日本の医療が抱えてきた問題点、さらには地方の過疎、高齢化、格差などの問題を見て取れることを中井先生の力を借りて確認する事ができた。そしてこれらの問題は被災地の人々の生活がある程度の落ち着きを取り戻していくに従って、より厳しく突きつけられることと思う。
 しかし、今回の読書会では、各章の検討の際にこれらの問題に対して参加者から質問がほとんど出る事はなく、中井先生の独演会のような状態になってしまった。
 なぜそうなってしまうのか?私の考えとしては仕方の無い面がとても強いのだと思う。そもそもこれまで自分が東北地方の過疎の状態に思いを馳せた事など一度もないし、嫌でも東京志向が強い。さらに、これまで社会一般の出来事に無関心でいる状態が長かった分、その意識を変える事は並大抵の事ではないと思う。
 今回の東日本大震災がそんな自分自身の意識を変えるきっかけになった事は間違いない。しかし、それを活かす実践や行動が無ければ、個人のレベルでも今回の震災が何も活かされないまま過ぎ去ってしまう。被災していない我々が東日本大震災で何を考え、何が言えるのかを考えた時に、震災から見えた諸問題に対して本質に迫っていくべく、向き合って行く事が一つの真っ当な姿勢だと思うし、私はそうしていきたい。

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12月 04

10月の読書会の記録(海堂尊『救命ー東日本大震災、医師たちの奮闘』) その2

大学生・社会人のゼミの、今年の秋の読書会のテーマを、東日本大震災で提起された問題としました。それを自分の問題として受け止めていくことを目標とします。

10月には海堂 尊 (監修)『救命─東日本大震災、医師たちの奮闘』新潮社 (2011/08)を取り上げました。

■ 目次 ■

6、各章の検討
 【1】宮城県南三陸町 公立志津川病院内科医(被災当時) 菅野武
【2】宮城県名取市 東北国際クリニック院長 桑山紀彦
【3】福島県双葉郡 富岡中央病院院長 井坂晶
 【4】千葉県松戸市 旭神経内科ハビリテーション病院院長 旭俊臣

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6、各章の検討

 ※以下、本読書会で取り上げた内容を「・」で示し、それに対する中井先生の考えを「→」で示した。

【1】宮城県南三陸町 公立志津川病院内科医(被災当時) 菅野武

? 死を覚悟して医者としての使命を果たそうと決意し、遺体が発見された時の目印になるように結婚指輪をはめる。(p.13)
→具体的な細部の描写からこの人の覚悟が分かる。泣かせる。

? 自治医科大学を卒業後は、出身地の地域コミュニティの中に飛び込み、医療活動をし、さらにリーダーとしてネットワークを構築して行く。(p.17)
→菅野医師のアナログ的な人間関係を築いた大学時代の経験から、自治医科大学の意義。地域のリーダーは相当な人間力がないとやれない。

? 極限の状況で頑張れた理由を「他人のために一生懸命尽くす事で、自分の崩れそうな心を支えられたから」と述べる。(p.24)
→これは一種の共依存関係になっている。患者がいたから頑張れた訳だが、後に彼自身も精神的に不安定になっている。この人は頑張ったけれど、弱さがある。でも弱いからこそ頑張ったとも言えるのではないか。しかし、震災後子どもが生まれて初めて眠れるようになった。生と死の深い関係が暗示されていて印象的だ。

? 医者に指示を出せるのは医者しかいない。(p.29)
→この事がどれくらい世の中を悪くしているか。なぜ偏差値秀才が医学部に行くのか。深い問題がここにある。

→今回動けたのは、普段から地域医療のネットワークをつくっていた事が絶対条件。

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【2】宮城県名取市 東北国際クリニック院長 桑山紀彦

? 桑山医師は「コンプレックスが唯一の親友だった」と話す。また医者として象牙の塔を目指し、大学医師という肩書きに憧れたが、大学、学会にはじかれ、地元の開業医に。(p.59)
→大学病院の医者は地元の医師会を見下している意識があり、逆もそう。どうしようもない状況があり、桑山さんみたいな人には耐えられないのだと思う。だから国際ボランティア、ワークショップが、この人に取っては大切な活動になるのだと思う。

? 外から来る人にとって患者は一つのケースでしかない(p.52) 患者に「共感」ではなく「同感」したい(p.53) 東京のドクターから「共感」ではダメだという指摘(p.54)
→被災地の外から入って行く人の意識と被災した人の意識のずれの問題。心の問題を見る時に、患者と一体化してしまう事は非常に危険だが、桑山さんは自分も被災者だから「同感」したいと言う。

? 震災の恐怖の記憶をどう和らげるかという心のケアの根幹。
→精神科だけの話ではなく、人間というのは過去を持ち、今を生き、未来に向かって自分が生きて行くなかで自分が存在しているという時に、過去現在で受けたダメージをどう回復して行くか、それは未来に向けて過去現在をつなぐ物語をつくらなければいけない。物語を作る為には未来が無ければ物語はつくれない。今と過去だけでは、物語にならない。そこで物語に変えて行くというのは、その過去から今に向けての運動がどういう未来に向かって運動して行くかという所まで、広げて行く必要がある。

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【3】福島県双葉郡 富岡中央病院院長 井坂晶

? オフサイトセンター大熊町には原発事故の際に、住民に避難勧告を出す組織がある。その職員がいち早く避難してしまった(p.69) 
→福島のケースは難しい。なにがどう難しいかが話の中によく出ている。

? 行政の問題、救護所と診療所の区別。平常時のルール、馬鹿な区別。行政が認めないと医療行為ができない。緊急時はあり。行政は一ヶ月かかったと言っている。(p.73)
→確かに、行政は問題だらけだが、だからといって、それを行政の責任にするという形で良いのか。今回は行政の能力を超えてしまっていることが起こっている。

? 避難したくない、ここで死ぬと言う人にはどう対応するか。(p.77)
→こういう問題が起こってくる。病人を抱えながらの避難生活は感染症の恐れがある。だから、施設に行くのは嫌だという年寄りに対してでも、説得して納得してもらった上で出て行ってもらうしかない。この判断は正しいと思う。しかし、その時の接し方がとても大事だと思う。

? もともと過疎で医者が不足している地域に原発事後が起こり、さらなる医者不足に(p.81)
→元々過疎の地域だから原発が出来るわけだが、仲間だった人たちが本当に助けて欲しかった時に、職場放棄して逃げてしまった。しかし、子どもがいるからと遠くに逃げる人たちを責める訳にも行かない。それが福島県の中で最も大きな心の傷を作っている。

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【4】千葉県松戸市 旭神経内科ハビリテーション病院院長 旭俊臣

→外から入って来た人の経験は弱い。その現場で必死に生きた人の強さ、迫力と、外から来た人たちの温度差はものすごいものがある。

? 被災者の自殺を防ぐ取り組み。岩手県の自殺率がワースト2という現実。(p.91)
? 新潟県松之町「働くだけが人間の生き甲斐ではないんですよ」という事を解いて、少しずつ老人達の考えを変えて行った事が、うつ病になる人を減らして、自殺を減らしたという結果に現れた。(p.92)
→ほんとにそんなことなのだろうか。「働く事が人間の生き甲斐だから死ぬしかない」という説明は納得できない。秋田や岩手の人は本当にそう思っているのか。やはり、過疎の問題、地域の問題が一番の根底にあるのではないか。働くというよりも地域の人との関わりが無くて、生き甲斐を見出せないという事なんじゃないかと思う。

? 被災地に調査で入るという発想。外からの調査団に対して現地の保険師や役場の人たちが拒否反応を示す。(p.93)
→長期のスパンでの長いケアをしていかないといけない。保険師、役場の人というのはある意味、最も地域に根ざしているから調査と言ったら拒否反応起こすのは当然だと思う。

? 東北人は我慢強く、辛いことがあってもあまり表に出さない傾向が強い。そういうものを美徳としている。(p.98)
→これはホントにそうなのか。もしそれが事実だとしても、最初からそうだったのか。東北の人たちに我慢を強いて来たのは一体誰なのか。我慢を強いられた結果、我慢強くなったのではないか、そのプロセスがあるはず。東京の人間が我慢を強いるような構造が戦後ずっとあったのではないのか。

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