6月 04

「ふつうのお嬢様」の自立

祝・江口朋子さん「修了」

江口朋子さんは、私のゼミの師弟契約第1号である。それは2006年の4月だった。
その2年前から江口さんは鶏鳴学園で国語教育の研修を受けていた。卒論も私が指導した。その延長としての師弟契約だったのだが、それまでのレベルを、もう1つ上のレベルに高めたかった。
以前から、本来の師弟関係のあり方について考えていたが、そのアイデアを実行するための該当者がいないために、実行できなかった。江口さんがあらわれたことで、その可能性がでてきたことになる。
こうして、師弟契約第1号が生まれた。

それから6年がたち、江口さんはこの春に、めでたく「修了」を迎えた。修了でも第1号だ。
その江口さんに、この6年を振り返る文章を書いてもらった。
「心動くものだけと向き合った6年間 ―鶏鳴でやってきたこと―」は、「テーマづくり」を中心としたふりかえりであり、
「現状維持ではなく問題提起を目指せ ―中井ゼミの原則から振り返る―」は、私のゼミの原則からのふりかえりである。
中井ゼミの原則とは、若い方々の自立のための原則をまとめたもの。
 
この機会に、私自身も江口さんを指導した6年を振り返って文章をまとめた。あわせて掲載する。

江口さんは「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だった。そうした読者の方々に、ぜひ読んでほしいと願っている。

■ 全体の目次 ■

温室から実社会へ出るための準備 ―鶏鳴で得た成果と課題― 江口朋子
心動くものだけと向き合った6年間 ―鶏鳴でやってきたこと― 
現状維持ではなく問題提起を目指せ ―中井ゼミの原則から振り返る― 

眠りから覚めたオオサンショウウオ
  ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

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5月 31

6月の読書会

 日時:6月18日(土) 午後3時より5時まで 鶏鳴学園にて 
 テキスト:山田孝雄『日本文法学要論』(書肆心水)・野村剛史「常識としての山田学説」(『現代の山田文法』(ひつじ書房)所収)
 参加費 三千円

6月の読書会では、山田孝雄(よしお)の文法書、および、野村剛史(たかし)の山田文法論を取り上げます。発表担当は松永です。

山田は、明治生まれの日本語学者で、日本語文法の研究者として、今なお最大の巨人と言われます。これまで言語学学習会で読んできた野村剛史(松永の指導教官)も、山田文法を継承しています。その批判的継承として書かれたのが、「常識としての山田学説」です。

山田文法の核心は、「文」は判断である、という文観にあります。「犬が歩いている」「山田は学生である」のような文の場合、対象(事実)としては一体であるはずのものが、主語と述語に分裂して表れます。それが判断の表現です。

しかしその一方で、山田は、「まあきれいな花」のような、話者の感動と対象が一体となって表れた文(喚体文)の存在も強く主張しています。ここには一見して、主語も述語もありません。するとこれは判断ではないことになります。

それに対して野村は、「まあきれいな花」の中にも、さらには名詞「花」の中にさえ、判断を見ます。

今回の読書会では、山田の本と野村の論文をテキストに、文と判断との関係をテーマとして考えます。考えるべき問題は、下記の諸点にあります。

・名詞の判断と動詞の判断の違い、両者の交渉
・描写と説明の違い、両者の交渉
・主語と述語
・主語ならぬ要素(目的語など)と述語との関係は判断ではないのか? 

※山田の本は、全体で280ページありますが、十五章「喚体の句と述体の句との交渉」まで(178ページまで)を扱います。野村の論文は、30ページ程度です。

5月 15

「子どもは親の所有物ではない。社会からの預かりものだ」

今回掲載したのは2008年に某雑誌に依頼された原稿ですが、家庭と学校の関係を人類の立場から原理的に検討しています。

モンスターペアレントや学校の校則や閉鎖性の問題について、いまだに解決の方向が見えない今、改めて、読んでいただきたいと思い、掲載します。

この考え方は、「原理的」であること、「人類」という視点、「発展の立場」から見ている点で、参考にしていただけると思います。

1. 時代の転換点
 学校に対して、理不尽な要求をする保護者が増えているらしい。その際の親の態度にも大きな問題があるようです。この問題については、小野田正利・大阪大教授が『悲鳴をあげる学校』で取り上げ問題提起をしてきました。その後この問題について様々な論者が論じるようになっています。
 しかしその議論はまだまだ混乱していて、問題の本質に十分には迫れていないように思います。ここらで問題を整理し、確認すべき原則や運営上のルールなどをはっきりさせる必要があるでしょう。
そもそも、こうした問題が起こり、その議論が錯綜するのは、今が時代の転換点にあるからです。そのために、学校も家庭も地域も、行政も政治も、この社会全体が目標を見失い、漂流しているのではないでしょうか。

2. 家庭が壊れている
 学校への理不尽なクレームや要求をする保護者が増えている背景には、明らかに家庭の変質、親子関係の変質があります。
 「子どもの親殺し」「親の子ども殺し」が盛んに報道されるようになりました。「子どもの親殺し」で私が一番不思議なのは、そんなに追いつめられているのに、なぜ家出をしないのか、ということです。本当にどうして彼らは家を捨て、親を捨てないのでしょうか。おそらく、子どもにはそうした発想すらないのだと思います。それほどに親子の一体化が進行している。そう私は考えています。
 一方の「親の子ども殺し」もそうです。児童虐待や育児放棄(ネグレクト)でも、親が子どもと一体化しているように思えてなりません。この対策として「赤ちゃんポスト」は有効だと思います。「殺す」前に、「他人(社会)に預ける」選択肢があることを示すことになったからです。子どもとの一体の世界から逃げる方法を、親にはっきりと示せたからです。
 昔から「わが子」という言い方がありました。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようです。そこに他者が入ることのない一体の関係です。これは無償の愛ともなるのですが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなります。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっています。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになりました。経済紙誌の「お受験キッズ誌」です。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供するものです。
 これは児童虐待とは反対のあり方に思われます。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないでしょうか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのです。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていました。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまいます。親離れ、子離れが極めて困難になっているのです。
 保護者から学校への無理難題が急増している背景に、こうした家庭の変質があることは明らかでしょう。

3. 学校の変質
 家庭の変質の一方で、学校を取り巻く状況もすっかり変わってしまいました。それは、時代が大きく変わったということです。高度経済成長の社会は終わり、低成長下で先の読めない社会になったのです。
 高度成長期の社会は単純でした。戦争に負け、皆が一様に貧しい中から始まり、皆が一生懸命に働きました。社会の目標は「豊かになる」ことで、それに向けて、上から下まで、皆が横並びで生活していたのです。こうした時代には、社会全体の価値観は単一で、そこでは教育の目標も明確でした。学校は社会的な価値観の体現者であり、地域のリーダーでした。
 しかし、そうした時代は終わりました。今はもう「豊かさ」は達成し、それゆえに社会の単一の目標はなくなりました。もはや皆が一律に横並びで生きることはできません。価値は多様化し、各自が自分の生き方を模索するしかないのです。
 学校には以前のような権威はありません。昔は学校は地域のリーダーで、保護者たちはみな従ってくれました。今は、学校と保護者は対等です。
 そうした中で、親たちからの学校への要求が問題になってくるわけです。価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う新たな原則、ルールが問われているのです。
 このことを確認するためにも、今の議論の不十分な点を挙げておきましょう。先ず第一に、保護者から学校へのクレームや苦情が増えていること自体を問題にする人がいますが、それは間違いだと思います。むしろ、それは大いに歓迎すべきことです。苦情が「理不尽」であろうがなかろうがです。多数の異論の表明があることは正しいことなのです。以前の主従関係よりも、はるかに高い段階になったのですから。問題は、その対応方法が確立していないことだけだと思います。
 第二に議論が保護者から学校への苦情の話に限定されていることを、指摘したいと思います。学校から家庭への懸念や苦情の処理の仕方と合わせて考えるべきでしょう。学校のチェックだけではなく、家庭のチェックも必要です。なぜなら、今の家庭は多くの問題を抱えているからです。特に、親子の一体性は大きな問題で、外にチェック機能が必要だと思います。それが学校や塾などに求められます。

4. 子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか
 親と学校の関係を検討するために、原理的なことから考えましょう。この問題を突き詰めて考えると、ついには次の問題にぶつかります。子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか。
 先ず、教育を家庭教育と学校教育とに分けて考えましょう。家庭教育とは主に小学校までに家庭によって行われるもので、しつけや生活態度、学ぶ姿勢など、すべての教育の基礎になるものです。この責任主体は親(親権者)です。
 学校教育とは、家庭教育の上に、社会に出ていくための基礎教育(読み・書き・そろばん、基礎知識)を行うもので、その責任主体は学校です。この学校は行政上は、教育委員会や文科省(国家)にもつながります。
 さてここで、この教育主体を、より根源的にとらえて社会、究極的には人類とまで突き詰めて考えておきたいと思います。子どもの教育権は人類にあるということです。一方の学習の主体も、直接的には子どもたちですが、これも究極的には子どもの学習権は人類にあると考えたいと思います。
 教育主体は人類である、とまで突き詰めて考えておかないと問題がおこります。もし家庭教育でその主体を親とするだけなら、一部のダメ親を肯定することになりかねません。学校教育の主体を学校や教員とするだけだと、一部の管理教育や、「自由」の名の下の手抜き教育を是認するだけになります。教育全般の主体を教育委員会や国(文科省)とするだけだと、文科省の言いなりの地方教育行政や、かつての排外的軍国主義教育の是認になりかねません。
 つまり、親も学校も、地域や国家も、人類から人類の使命を実現する一助としての教育を委ねられていると自覚し、繰り返しその使命を反省しつつ活動すべきなのです。
 私たち人間は、この社会を発展させるために生まれてきたのです。人類の使命に貢献できるように学習し、大人になってからは教育をする権利と義務も担っています。
 子どもは親の所有物ではありません。子どもは次の時代の社会の働き手であり、社会(人類)からの預かりものです。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならないのです。

5. 話し合いの原則
 以上を踏まえた上で、価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う原則を考えましょう。ここで大切なのは、一方で多様な価値観と思想の自由を認め合いながらも、その一方で社会の規律、ルールをしっかりと守り合うことです。この両者を混同せず、区別した上で守ることが重要になっています。
 保護者が学校に疑問を持ったらどうしたらいいのでしょうか。
 ?学校教育の主体は学校です。したがって、親は子どもを学校に預けた以上は、学校の裁量権の範囲内のことについては、学校の最終決定に従わなければなりません。
 ?ただし、最終決定までには、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 同時に、家庭教育についても考えておきましょう。学校が家庭教育に疑問を持ったときはどうしたらいいでしょうか。
 ?家庭教育の主体は両親(親権者)ですから、学校は、両親の裁量権の範囲内のことについては、両親の最終決定に従わなければならなりません。
 ?ただし、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 ここで「学校の裁量権」とは、学校教育における、憲法や教育基本法などの法律違反以外、学校が掲げている教育理念や教育方針などへの違反以外のすべてです。「親の裁量権」も、家庭教育における、憲法や法律違反以外のすべてのことになります。憲法や法律違反に関しては、本来は話し合いの領域ではなく、警察に任せるのが正しいと思います。
 さて、こうした原則から見て、今の現状はどうなっているでしょうか。学校教育について考えれば、今は?の面がほとんど理解されていません。しかしこれが守られなければ学校教育は成立しません。ただ混乱するだけです。この点は保護者にもよく理解してもらわなければなりません。そうした一方で「学校と保護者の十分な話し合い」が保障されなければなりません。しかし「十分な話し合い」を行えば、家庭教育が問われることもあるでしょう。問題があったときに、悪いのは学校だけとは限らないからです。家庭の責任が問われることも多いはずです。保護者の方々は、学校に向けた刃はそのまま自分に返ってくることを自覚しておくべきです。
 ところで、学校教育の問題では、「保護者は学校の最終決定に従わなければならない」と言いました。なぜでしょうか。
 学校が最終的な決定権を持つのは、学校や教師が「正しい」からではありません。それは簡単には決められないので、学校教育の権限を持つ側に委ねておくという意味です。価値の多様化が前提とされる社会では、どちらが「正しいか」はもはや議論で決めることは無理だからです。
 ただしその時に考える基準として、学校や保護者の都合ではなく、当の子ども本人にとって一番良いことは何かを考えて欲しいと思います。そしてその際にも、人類の使命にまで立ち返って考えてみてほしいのです。
 子どもとは何なのか。子どもは親のものなのか。子どもは誰のものなのか。子どもを教育するとはどういうことなのか。家庭教育とは何か。学校教育とは何か。教師と子どもはどういう関係であるべきか。親子はどういう関係であるべきか。
 こうした本質的な問題の正解があるわけではありません。しかし、繰り返し意見交換をしていくべきです。閉じた学校を開き、閉じた家庭を開くためです。相互に、自らの使命を繰り返し反省するためです。
 
6. クレームの「窓口」を設け、議論をオープンにする
 最後に、すぐにできる、現実的な対策を提言します。学校には、苦情を受け付ける専用「窓口」を設けたらよいと思います。窓口の担当を置いて、学校が責任を持って対応すべきです。決して、当事者の教員個人にまかせっきりにしてはなりません。校長以下、学校全体で対応する覚悟を持つことです。
 そして、そこで行われている議論は、個人情報に配慮しながら、できる限りオープンにすることです。どんな苦情があり、どう回答し、どう解決したかを公開するのです。「通信」などで保護者たちにフィードバックし、保護者全体での議論を作っていくのです。場合によってはホームページ上に公開するといいと思います。
 閉じた場で議論するのではなく、できる限り、オープンにしなければなりません。変な議論は密室故に起こるのですから。
 私たちは、価値が多様化して、一切の権威が失われた社会に生きています。その中で、相互に考えを深め合い、子どもを見守っていける仕組みを構築することが求められているのです。

 (拙稿をまとめる上で、思想家の堺利彦氏と牧野紀之氏の論考を参考にさせていただきました。記して感謝します。)

5月 14

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その4

 ■ 本日掲載分の目次 ■

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり

 本稿の(1)では、アリストテレスの核心を次のように述べた

 「【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
  【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
  この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていること
  もすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。

  この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
  並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
  【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
  その結果、【3】を説明することができたのだ」。

 本稿の(2)では、アリストテレスの課題はプラトンから
イデア論を学んだ一方で、プラトンのイデア論では
運動の説明ができない点を克服することだったと述べた。
言い換えれば、イデア論の限界を、イデア論を発展させることで、
乗り越えること。

 それはどのように行われたのか。
それこそが、『形而上学』の核心部分であり、
【1】?【3】の3つの問題を統一的に解く回答がそこに示される。

 アリストテレスの回答は、端的に言うと次のようになる。

 プラトンは、現実の個物にそのイデアを対置し、イデア研究を目的とした。
アリストテレスは現実の個物にこだわり、その運動を説明したかったので、
個物には、形相と質料のセットを対置した。プラトンのイデアの代わりに、
この形相と質料のセットを置き、この両者が現実性と可能性として
運動すると説明した。その運動の結果が個物である。
形相とはイデアと言い換えても良いので、質料こそがアリストテレスの
創案と言えると思うが、質料の設定は、イデア論への反駁のためであり、
運動を説明するためなのだ。そして、質量から形相への運動によって、
全世界は初めて構造的に体系化された。

 以上は、『形而上学』においてどのように展開されるか。

 まずアリストテレスは、第1巻の3章で、『形而上学』の目的は
始源的な原因の認識だとする。そしてその原因として4つを提示する。

 a)実体であり、「なにであるか」、
 b)質量であり、基体(主語)である、
 c)「物事の運動がそれから始まるその始まり」(始動因)、
 d)「物事の生成や運動のすべてが目指すところの終わり」(目的因)。

 このa)とb)を、7巻の3章でまず取り上げ、それ以降の章でそれに答える。
これが、【1】の個別と普遍、現象と本質の関係の問題である。
その上で、8巻でそれを捉え直して、個別の運動についての
c)始動因と、e)目的因の説明をする。
それを展開するのが8巻と9巻であり、以上が【2】の変化・発展の問題である。

 この個別の運動の説明を踏まえて、アリストテレスは進化の全体像、
生物などの分類の全体像を示すのだが、7巻の12章で分類の原理が示され、
実際の展開、特に神や天体の運動までの広がりは、9巻の8章で描かれる。
以上が【3】の全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題である。

 以上がアリストテレスの回答であるから、『形而上学』の核心部分とは、
7,8,9巻であることがわかる。
これを実際のアリストテレスの叙述に即して、見ていく。

 まず、始元的な原因を考える上で、判断の形式、「定義」「説明方式」が
前提であり、判断論(定義)の主語・述語関係からすべてを考えていく。

 アリストテレスは、事物を実体と属性にわけた時に、
判断の主語に来るのが実体で、述語にはその属性が来ると考える。
主語の位置に来る言葉、つまり基体=主語で、決して述語にならないもの、
つまり「実体」としては、結局は、以下の3つが導出される(7巻3章から6章)。

  【1】 質料
  【2】 形相
  【3】 個別(質料と形相の2つから成る)

 もちろん3つは、それぞれで、その「述語にならない」と言う意味は違う。

 「個別」はすべての個別が相互に異なっているのだから、
ある個別が主語の文の述語に他の個別はおけない。
「質料」は、それ自らは不可認識的で、規定することができないと、
アリストテレスは言う。
「形相」は、規定そのものだが、それはすべての述語を含んだものなので、
述語にはならない(とアリストテレスは考えているようだ)。

 この3つの関係を、判断の形式における部分と全体の関係で分析しながら、
アリストテレスは結局、形相を質料に内在化するものとしてとらえ、
質料と形相の結合体が個別であり、この個別においてしか
生成・消滅の運動はないとした。(7巻10章から12章)

 そして、個別におけるこの3者の関係が、運動の観点から捉え直されるのが8巻である。

 8巻の第2章で、個別を形成する質料と形相の内の質料を「可能的存在」とし、
形相を「現実的存在」と捉える。ここで運動とは、可能性から現実化への
転化としてとらえられ、その質料と形相の結合によって、個別の運動が説明される。

 ここで、質料=可能的存在、形相=現実的存在とする理解には、
驚くのではないか。世間の常識とは一見反対に見えるからだ。
質料は物質のような材料として、直接に存在するもので、
形相は最初は目に見えない。だから、質料が現実的で、
形相は可能性でしかないというのが普通の理解だ。
それが逆転しているところに、アリストテレスの独創がある。

 質量は確かに存在しているが、実現するものの材料でしかないから、
その面からは可能性でしかないのだ。
一方、形相とは、その材料によって実現されるもので、
可能性(材料)を現実化するものこそを現実的なものだと、
アリストテレスはとらえる。

 これは「始まり」「終わり」の理解に関わる。
「終わり」は、もし「始まり」に内在化していなければ、出てこないはずだ。
逆に言えば、「始まり」に何が内在化されていたかは、
「終わり」で明らかになる。つまり「始まり」は「終わり」であり、
「終わり」は「始まり」である。
ここに、ヘーゲルの発展観の芽がすでにあることがわかるだろう。

 以上は、個別の運動の説明方式だが、それを全体として展開すれば
この世界の構造が示されるはずだ。

 生物や、物質などの自然界は、アリストテレスによって、
徹底的に分類され、秩序化された。それは類と種の関係性による。

 類は種差によって種に分化されていく。その種も次のレベルにおける類として、
次のレベルの種差によってまた種に分化されていく。

 ここで、類が質量であり、種差が形相であり、それによって分類される種が
個別なのである、この種は新たな類であり、新たな質料としてとらえられる。
その類(質料)は、次のレベルの形相による種差によって、
次の個別=さらに新たな質料=新たな類へと展開する。

 こうして質量から形相への運動が、ここでは類とその種別化になり、
この自然界と全世界の構造をあらわすことになる。

 ある類の後には同じ原理で分化が繰り返され、
種別化が展開し、それが無限に続く。
その類の前にも同じ原理で、前のレベルの類へと無限にさかのぼれる。
そうしたときに、類を遡れば、一番最初の類が想定され、
それは質量だけの存在になるはずだ。

 他方、最後まで展開し終わった時に、形相のすべてが現れるはずだが、
その形相は実は、真の始まりであるから、この世界の始まりには
形相だけの存在が想定され、それが「神」「不動の動者」になる。
これがアリストテレスの世界観である。

 以上で、当初の問題のアリストテレスの回答が示された。
ここに初めて、【1】個別と普遍(本質)の問題、【2】変化・発展の問題、
【3】全世界の構造の問題、この3つのレベルを統一して、
1つの原理で貫く思想が生まれた。これがヘーゲルに決定的な影響を与えている。
ヘーゲルの「概念」は、アリストテレスの純粋形相(神)を捉え直したものだろう。

 しかし、アリストテレスとヘーゲルの決定的な違いがある。
それは人間の捉え方だ。
アリストテレスは、人間をどこにどう位置づけられたか。
『形而上学』の9巻の最初に、人間の特殊性が述べられている。

 9巻の第2章では、無生物と生物と人間の3者が比較され、
人間の本質は「思考」だとされる。つまり、人間の認識の運動だけは、
他の運動と全く違うとされる。人間だけが、1つの条件から、
2つの相対立する結果を導くことが可能で、それが選択(31ページ)になる。
そこに人間の、必然性からの自由の可能性を見ている。

 しかし、アリストテレスが到達できたのは、ここまでだった。
全世界の発展の中で人間が果たす役割の意味を明らかにできなかった。

 この人間の本質を、全発展の中に、全自然史の中に位置づけ、
その核心部分として捉え直したのが、ヘーゲルなのだ。
ヘーゲルは概念(神であり純粋形相)から始まった全自然の外化の運動が、
その外化の中に人間が生まれることで、その運動自らが、
外化の一方で内化の運動を始め、外化と内化との統一の運動が始まるとした。
そこが大きな転換点であり、それが人間の意味なのだが、
こうした往還運動が可能になったことで、概念の運動が
真に外化と内化の統一になる。

 アリストテレスにはこうした理解がなかったために、
外化の運動と内化の運動が統一できず、神を不動の動者として
設定するしかなかった。世界全体が運動する中に、運動しない固定点を
設けるという決定的な矛盾が起こるのは、人間という転換点を
理解できなかったからだと思う。

 ヘーゲルはその矛盾を解決することで、アリストテレスの世界観を
完成させたと言えるのだろう。それは近代社会を切り開くことにもなった。

 ちなみに、ヘーゲルの論理学全体では、アリストテレスの
自然研究の実証的側面は存在論の中で取り上げ、
アリストテレスが批判した「1」や数学は、存在の中の
量の箇所で取り上げている。それらは本質論以降に止揚されていく。

 アリストテレスが問題にした【1】【2】【3】の観点については、
【1】は本質論の前半、【2】は本質論の現実性で展開され、
その終わりに【3】が出ている。それらが概念論の主観的概念で、
再度判断論の中で展開される。ヘーゲルの判断論では、
質の判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断と
4つの段階に発展するが、これが【1】【2】【3】の展開
そのものになっている。さらにそれが推理論で、展開されている。
もちろん、こうした主観的概念から客観性が生まれ、理念が生まれて終わるのだが、
それによって、アリストテレスの全世界を完成させたつもりだったろう。

5月 13

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その3

 ■ 今回掲載分の目次 ■

 (6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
 (7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」

 今回、『形而上学』がある程度理解できたように思えるのは、
観点が明確だったからだけではない。
私の側に、その前提となる学習がある程度できていたからだろう。

『形而上学』を理解するには、その前提として『論理学』を
読まなければならないと言われる。事実、アリストテレス自身が、
自らの体系上で『形而上学』の前に『論理学』をおいた。
その意味は、『論理学』はあらゆる学問研究に先だつ予備科目で、
一般に正しく思考し考えるための「道具」「方法」であるとされている。

 その論理学の中心に判断論と推理論があるが、
特に判断の捉え方が重要だと思う。アリストテレスは『形而上学』において、
判断の形式からすべてを考えようとしているからだ。

 昨年はヘーゲルの論理学から「判断論」「推理論」を読んだ。
さらにカントの関連箇所、カントが参考にしたアリストテレスの論理学から
『カテゴリー論』と『命題論』を読み、言語学の学習会で、
関口ドイツ語学から『冠詞論』を読み、判断を中心に置いた
文構造の読みを展開していることを知ったこと。
同じような理解で日本語を考察している、日本語学者の論考も読んだ。
これらが私の側の準備になっていた。

 ヘーゲルと関口や一部のすぐれた日本語学者にとって、
その源泉はアリストテレスにあることが確認できた。
アリストテレスの考えを継承して、自分の哲学を作ったのが
カントであり、ヘーゲルである。

 アリストテレスの判断を説明する前に、そもそもなぜ判断の形式が
問題になるのかを考えよう。

 それは人類の認識や知恵は、この形の中に蓄積されているからだ。
それは人々の長い営みの中で生活の知恵として結晶している。
従って、個人が改めて真理を探す必要はない。
この蓄積の中にその認識と知恵を学べば良いことになる。
それがアリストテレスの基本的な立場なのだ。
これはソクラテス、プラトンからアリストテレスへと継承された、
基本中の基本だろう。アリストテレスにとっては、判断の形式、
「定義」「説明方式」がすべての前提で、すべての対象を
それに関する判断(定義)の主語・述語関係から考えていく。

 さて、この判断論と、判断の根拠に遡る推理論においては、
アリストテレスの2面性がはっきりと現れている。
ナカミのない形式主義者である面と、他方で
圧倒的にすぐれた思索を展開した面とである。

 その形式主義の側面とは何か。

 アリストテレスは、判断(命題)を一般の文と区別して、
真偽が決まるものに限定して判断(命題)と考える。
ここがすでに悟性的なとらえ方だ。1つの判断を他から切り離し、
それだけで固定させて、その真偽を捉えられると考えるからだ。

 こうした前提のもとに、アリストテレスは判断全体を分類し、
その相互関係を明らかにしようとする。ここまでは良いのだが、
その捉え方が、機械的で、実に悟性的なのだ。分類や相互関係といっても、
結局は、その命題の真偽だけを問題にすることに終始するからだ。

 アリストテレスの分類とは、判断の文が肯定か否定かと、
主語が全称か特称かで大きくわける。その組み合わせは4種類できるが、
それらの関係を「矛盾」「反対」「小反対」「大小」の4種に整理し、
一方の判断の真偽から、他方の真偽が自動的に演繹される体系を作った。
ここでは真偽が対象世界から切り離され、機械的で形式的な作業で決められる。

 さらに、この判断の真偽の根拠を遡ると推理(3段論法)が
導出されるのだが、ここでも、アリストテレスは推理全体の分類と
相互関係を考える。まずは、推理を定言3段論法、仮言3段論法、
選言3段論法に分類し、それぞれの推理を大前提と小前提と結論の関係から、
1格から3格までの種類に分類し、それぞれの格における真偽の基準を示すのだ。

 そして、ここでもアリストテレスは1つの推理を他から切り離して、
その真偽だけを問題にするので、極めて形式的な演繹のルールだけが示される。

 こうした判断と推理のルールは、対象と無関係なものだから、それは
「存在論」と対立する意味での「認識論」としての論理学と言えよう。

 こうした側面が、後に形式論理学として完成され、今日も記号論理学として、
大学などで勢力を誇っている。現代の普通の考えでも、判断は対象(主語)に、
ある内容(述語)を人間が「結びつける」「つなぐ」と考えられている。
そして、その判断が正しいかどうか(真偽)だけが問われるとされる。
ここには、主語と述語の言葉は、そもそもバラバラなもので、
それらを「結ぶ」のも「切り離す」のも人間だ、という考え方がある。

 こうした主語・述語関係は、人間、認識主体が、対象と無関係に、
対象の外部から、恣意的に、あれこれと「貼りつける」もので、人間の恣意的なものだ。
それが対象世界に関わるのは、判断の真偽決定の検討においてのみだとされる。

 以上の形式論理学ならびに、現代の普通の理解は、アリストテレスに始まるとされる。
しかし、アリストテレスにはもう1つの側面がある。
「存在論」として、対象世界そのものを判断の形式からとらえていく側面である。
そこでは判断は静止せず、運動した形で捉えられる。
そして存在の運動は、そのままで判断の運動、認識の運動となる。

 存在の運動とは、対象がその実体と属性とにわかれることであり、
判断の運動とは、実体が主語におかれ、その属性が述語におかれることである。

 そして、言葉を分析し、主語にしかおけないもの、主語にも述語にもなるもの、
述語にしかおけないものに分類する。それらの言葉の関係でも、
主述関係をさらに考えていく。

 この作業を積み重ねていくと、主語にしかならないものと、
述語におかれても、他の述語の頂点にくる言葉が把握できる。
その主語=基体で、決して述語にならないものを「実体」として、
またそれ以外の主要なカテゴリーを導出した。

 このように、主語(基体)と述語の関係から、対象世界の実体と属性との関係を
運動の中で捉えようとしているのが、アリストテレスの『形而上学』である。

 判断は認識の運動であると同時に、存在の運動の反映でもある。
アリストテレスは、いつもこの両面を見ながら論じている。
例えば、7巻の4章で、まずは「言語形式の問題」(234ページ)を考察し、
その後ただちに、「事実上の問題」(238ページ)を考察する。
その後も、アリストテレスは常に、両者を結びつけながら、対象に迫ろうとする。

 推理論でも、対象世界の運動を捉えようとするのが、
『形而上学』における推理の用語法である。そこでの推理とは、
現実の中にある運動を「始め」「中」「終わり」ととらえた3者の媒介関係、
媒介の運動として捉えていると思う。7巻の7章(249ページの「推理」)や
9章(258ページの「推理」)に当たられたし。

 こうしたアリストテレスにある2面性を指摘し、前者を批判し、
後者を高く評価したのがカントであり、ヘーゲルだった。

 ヘーゲルは、アリストテレスの後者の側面を、さらに大きく発展させている。
人間が対象を判断できるのは、対象世界が自ら判断し、
自らが何物であるかを示すからだ、ヘーゲルはそう考える。
その対象が自らに内在化していた本質を外に現すことが、
判断における主語と述語の分裂であり、それが1つの対象でもあることが
コプラによる主語と述語との一致である。判断も低い段階では、
主語は空虚で、判断の内容とはその述語にある。この主語と述語の
コプラ(一致)は、実際は完全には一致せず、その矛盾が判断という形式を
発展させ、次第に主語と述語の関係がより深いレベルで統一されていく。
それがヘーゲルの「判断論」の4段階の発展なのだが、これは、
アリストテレスが示そうとした判断の分類と相互関係に、
ヘーゲルが代案を示したものと言える。同じく、ヘーゲルの推理論は、
アリストテレスの推理論への代案である。

 今日では、アリストテレスが創始したと言われる「形式論理学」、
演繹推理を、ナカミのない形式主義であるとして否定する人も多い。
例えば、野矢茂樹は『論理トレーニング』(産業図書)の
3(注:アラビア数字)で「演繹」を取り上げ、演繹推理や
記号論理学のくだらなさを指摘する。
しかし、結局はそこから一部を取り上げ、練習問題を用意する。

 「形式論理学」を批判するならば、その低さの理由を示し、
それを克服する方法を明示するべきだろう。野矢はそれができないために、
結局はそれに追随しているのではないか。
では演繹推理におけるアリストテレスの低さとは何か。
それは普遍と特殊(個別)、肯定と否定を悟性的に対立させるだけで、
それらの相互転化を言えなかったことだ。それでは運動が起こらない。
ヘーゲルはそれらの相互転化を示すことで、発展として判断を展開して見せている。

 しかし、アリストテレスの形式的な演繹推理を、アリストテレス自身が
思考全体のどこに位置づけていたのかは、それとは別に考えるべきだ。
アリストテレスはただのバカではない。「運動」の説明を求め、
それができないでいるプラトン主義をもっとも激しく批判したのが、
アリストテレスその人だったことを忘れることはできない。

 ヘーゲルは、自らの「判断論」でも「推理論」でも、「形式論理学」は
ナカミのない形式主義であるとして徹底的に罵倒し、否定している。
そして、その責任の一端を創始者としてのアリストテレスに帰すとともに、
アリストテレスを擁護し、アリストテレスの偉大さは、実際のアリストテレスの
思考(例えば『形而上学』)では、彼の形式論理を使用していないところに
あるとまで言っている(『小論理学』187節注釈)。

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(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

 現在の形式論理学は、アリストテレスの『論理学』に基づくとされている。
そうした論理学の教科書の構成は、概念、判断、推理の順に展開され、
その根本原理として「三大法則」(「同一律」「矛盾律」「排中律」)が
おかれている。これは現代の記号論理学でも、基本的な部分は同じである。

 この「三大法則」は、『形而上学』では4巻で取り上げられる。
それを読んで驚いた。世間の説明と正反対だったからだ。

 かの有名な「矛盾律」は、次のように述べられる。
「同じもの(同じ属性・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、
同じもの(同じ基体・主語)に属しかつ属さないということは不可能である」
(上巻122ページ)。つまり「Aは非Aではない」。

 しかし、いわゆる3大法則は出てこない。そのことに新鮮な驚きがあった。
直接に、アリストテレスが原則として出しているのは、矛盾律だけなのだ。

 同一律(「AはAである」)は出てこない。もちろん矛盾律の中に
含意されているわけだろう。排中律は出てくる(「二つの矛盾したものの
あいだにはいかなる中間のものもありえず、必ず我々はある一つについては
何かある一つのことを肯定するか否定するかの、いずれかである」上巻148ページ。
つまり「AはBか、または非Bである」)が、これは矛盾律に内在化しているものを、
わざわざ引き出して見せただけだ。
 

 つまり、「3大法則」とは余計なもので、いかにも、バカのやるやり方だ。
アリストテレスはそうしたバカではない。

 さらに実際に読んでみて、「矛盾律」「排中律」についての
アリストテレスの叙述は、教科書の説明とは逆であることを知って、愕然とした。

 普通に考えると、「矛盾律」は、悟性的で、固定した世界と結びつき、
結果的に現状肯定の保守的な立場になると思う。

 確かに、規定、対をしっかりと確立させ、固定させるのが矛盾律なのだが、
アリストテレスがそうするのは、それによって、その先(反対の規定の相互転化)に
突き進みたいからだと思った。規定を、対立を明確にすることで、矛盾を屹立させ、
そこから運動を導出することをしようとしているのだ。
これは弁証法であり、絶えざる変革の立場であり、ヘーゲルそのものではないか。

 一方、普通の形式論理学者は、その先に進まないために、
現状を肯定するために、矛盾律を使う。
これがバカたちの理解するアリストテレスなのだろう。

 他方、矛盾律に反対する人たちは、生成、消滅や運動を説明できないとして、
規定や対そのものを否定する。その結果、対立があいまいになり、
矛盾が突き詰められず、結果的に運動を説明できなくなる。
(上巻137ページ以下に詳しい)

 排中律(つまり矛盾律)に反対するのは、相対主義者たちである。
アリストテレスは、そうした相対主義者の立場や心情を理解した上で、
その批判を展開する。

  「すべての現れがことごとく真実であると説く者は、
   すべての存在を相対的であるとする者である。
   それゆえに、理論上の強制力を要求すると同時に、
   自らの説の正当性を主張する彼らも、現れがただ端的に
   存在するというのではなくて、現れはそれが現れる人に対してそうあり、
   それが現れる時にそうあり、またそれも現れる感覚やその時の事情の
   いかんに応じてそうあるのである、と言って自ら警戒せねばならない。
   もし彼らがこのように自ら警戒することなしに、自説の正当性を
   要求するならば、彼らは直ちに自ら矛盾したことをいうことになるであろう」
    (4巻6章。上巻145ページ)。

 アリストテレスは相対主義を否定するのではない。むしろその徹底を求めている。
それが徹底できないで、あいまいなところで停止し、思考停止していることを
批判しているのだ。つまりアリストテレスの立場は相対主義の否定ではなく、
それを止揚した上での絶対主義なのだ。

 排中律を人々が嫌う理由は、選択、決断を迫られたくないという心情にあると思う。
それが相対主義者たちの本音ではないか。(4巻7章。上巻148,149ページ参照)

 以上を確認して、私は驚いた。私はすっかり騙されていたのだ。
 いわゆる形式論理学とは対極の所に、アリストテレスは立っていた。