4月 16

『サンデー毎日』の今週号(4月24日号)で、大学入試問題のミスに関する記事が出ている。
私も取材を受けて、1時間近く話したが、話した100の内、1しか使われず、それもどうでも良い部分だった。

私は大学入試が、日本社会の高度経済成長期、建前の「平等」と現実の「格差」の矛盾を隠す安全弁の役割を果たしてきたこと。
それが、今も、惰性的に続いていること。
それを述べたのだが、
それは
この記事が問題にしていることを、根本問題の矮小化だということになる。

関心のある方は、拙著『大学入試の戦後史』(中公新書ラクレ)をお読みください。

を根底から記じの

4月 14

遅い桜が満開を迎え、早くも散っています。
なぜか、今年は、桜には心が動きません。
椿の可憐さ、芳醇さ、鮮やかさ、さまざまな姿に心惹かれます。
西洋のバラは、日本では椿なのだと思います。

今年も新たな年度を迎えました。
この時期が嬉しいのは、さまざまな美術館で素敵な企画が見られるようになるからです。

今東京で行われている展覧会で3つお薦めがあります。いずれも実際に観てきました。

1.「牛島憲之」展 渋谷区松濤美術館
http://shoto-museum.jp/ 

2..「白洲正子」展 世田谷美術館
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html 

3.「江戸の人物画―姿の美、力、奇」 府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/ 

です。

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1.「牛島憲之」展 渋谷区松濤美術館

 今回の展覧会のポスターの牛の絵(「春林」)がよくて、見に行きました。
静かに、圧倒されました。すぐにわかるような「迫力」「激しさ」「華麗」「斬新」「凄み」といった絵ではありません。心に染みてきて、泣き出してしまう、そういった絵です。
初期の「貝焼場」が楽しく、日本にもこんな明るいワクワクする絵があるのか、と驚きました。「山の駅」「赤坂見附」も、楽しみました。

戦争中に「山峡の秋」(出展はされていない)のような絵しか描いていないことにも驚きました。戦後すぐの「炎昼」には新しい世界が存在しています。

その後の絵は、工場やタンクなどを取り込みながら、ますます深く単純化が進みます。その中には、正直に言って、私にとって退屈なものもたくさんあります。しかし、わしづかみにされる絵もあります。全体として、彼の世界に包み込まれ、それは幸せでした。

牛島憲之は1997年に97歳で亡くなった画家です。西洋に一度も行かず、日本の身近な風景を書き続けました。実は、忘れていたのですが、私は彼の絵をかなりの量、見ていたようです。よく行く府中市美術館には「牛島憲之記念館」があり、行くたびにそこにも足を踏み入れているからです。しかし、記憶に残っていません。「退屈」に感じ、そこにある「凄さ」に気づけなかったようです。不明を恥じるしかありません。

以前、関合正明の絵について、風景の中の人物像の意味を突き詰めていないと、書いたことがあります。風景の中に人物を書く意味を突き詰めていないように思えたのです。

牛島憲之は、それを突き詰めて、彼の答えを出しています。一事が万事このように、牛島は、すべての諸問題に彼の答えを出した上で、絵を描いていると思います。とことん突き詰めていく作業に耐えていける強い人だと思いました。

日本には南画、文人画といった系譜があります。それも彼の絵から感じます。もっと言えば、日本の伝統そのものと言って良いのかも知れません。

2.「白洲正子」展 世田谷美術館
 白洲ファン、白洲が示した日本人の信仰、宗教観、美の世界に関心がある人には、ありがたい展覧会です。
 「日月山水図屏風」をゆっくりと見てきました。改めて、緑の一色しかないことを確認しました。秋にも赤や紅がない。他は桜や雪の白と、背景の金と銀だけです。
秋の場面に滝があること、波の描き方と波頭が銀で描かれていることなど、確認しました。すごい絵ですね。

3.「江戸の人物画―姿の美、力、奇」 府中市美術館
 府中市美術館は、企画力、展示力があると思います。2年前にも「江戸の風景画」を多様な視点から読み解く展覧会を行っています。今回はその続きで、「人物画」の持つ意味を、江戸時代に遡って考えさせる。「想像」「リアル」の意味や、「ポーズ」の意味、西洋画との出会いの意味。そうしたことを考えながら、好きな画家だけではなく、未知の画家や興味深い絵画に出会えることも、こうした企画の嬉しい点です。

4月 13

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
<個人公式サイト>
http://sasamoto.net
<個人公式ブログ>
http://sasamoto.sblo.jp

さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。昨日に続いて、以下の3.4.を掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

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◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

3.問題は基準の明確化である

本当の「公平、公正」とは、すべてを「同じ」扱いにすることではなく、その「違い」をはっきりさせ、明確な「区別」をすることではないか。「選別」「えこひいき」を積極的にするべきではないのか。

問題になるのは、「区別」「選別」をすること自体ではなく、その基準が示されないことなのだ。その基準を明示し、それがきちんと説明される限り、「区別」「選別」は奨励されるべきことだ。問題は「区別」「選別」ではない。問題は「区別」「選別」の基準それ自体であり、その基準の是非になる。それこそが、議論されるべきなのだ。

実は今でも、人気の高い人や話題になる人には、「読者や視聴者の関心がある」ということで「えこひいき」「選別」が平然と行われている。ただし、その理由、基準は「読者や視聴者の関心がある」からなのだ。つまり、新聞が売れること、テレビの視聴率が取れるか否かが基準なのだ。しかし「公器の責任」などときれいごとを言うだけで、そうした基準を明示せずにごまかしている。

では正面から問おう。選挙報道で報道するか否かの、候補者選別の基準は、「読者や視聴者の関心がある」で良いのか。

例えば、今回の地方統一選の報道であれば、その基準はどうあるべきなのか。
今の時代をどう考え、今の政治、地域の課題をどう理解するか、それを解決するには、どのような人材、どのような政策が必要か。それが基準になるだろう。

それをまず明確に示し、その基準にかなった人を推薦、紹介し、そうでない人を批判し、無視すべき人は無視する。
それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命を果たすことではないか。

マスコミが「公平、公正」を盾にして、候補者を横並びにしたがるのには、保身の他に、より根本の原因がある。それは、マスコミの多くには、こうした選別の基準を用意するだけの能力も覚悟もないということだ。それが「公平、公正」を振り回す一番の理由ではないだろうか。

もちろん、こうなる経済的な理由がある。広告収入に依存している事情や、大新聞の「全国紙」というありかた、地方紙も各県に1紙しか存在せず寡占状態になっていることなどが挙げられるだろう。

4.「政治的な中立」

さいごに、マスコミの「政治的な中立」について触れておこう。私のようなことを主張すれば、すぐにこの問題が持ち出されるからだ。

まず確認すべきことは、そもそも政治的にも経済的にも、文化的にも、およそ「中立」などというものは存在しない、という事実である。すべての人間、組織には、それぞれのおかれた立場があり、その能力も限られており、限定された立場を持っている。
こんな当たり前のことを確認しなければならないことが情けない。

したがって、今回「公平、公正」で主張したことを、この問題でも繰り返すしかない。つまり、「中立でないこと」や「立場」があることが問題なのではない。その「立場」を明示せず、中立を装うことが問題なのだ。責任を求められる人や組織は、自分の立場を明示し、その上で、意見を言い、報道をし、表現活動をすればよいだけだ。

私たちがすべきことは他人に「中立」を求めることではない。求めるべきは、その立場をきちんと表明することであり、その立場を個々の報道においてわかりやすく説明することである。私たちはそれらを比較検討し、自分の「立場」を考え、個々の事実や事件の評価を決めればよいだけだ。

さて、こんな当たり前のことがなぜ通用せず、おかしなことになっているのか。それを考えることは重要だ。東西冷戦という時代背景も、日本的「ムラ社会」も、価値判断の客観性の問題も、これに関わるだろう。

しかし、いいかげん、こうした低いレベルで議論することを止めなければならない。

なお、蛇足ながら付け加えておく。今回取り上げた「公平、公正」の問題は、行政や教育界にも蔓延している。それらの問題も基本的には同じ原則で解決できると、私は思っている。

4月 12

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
<個人公式サイト>
http://sasamoto.net
<個人公式ブログ>
http://sasamoto.sblo.jp

さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。以下の3.4.は明日掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

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◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

1.報道されなかった記者会見

笹本さんは、すでに2カ月ほど前の2月7日に、山梨県庁の記者クラブで出馬の記者会見を行った。彼は記者会見の冒頭で学習会中心主義の話をし、学習会で1年間かけてつくった「政策集」を発表した。

笹本さんは地元の「有名人」なので、20人近くの記者が駆けつけて大盛況だった。集まったのは山梨日日新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHK、テレビ朝日、テレビ山梨、山梨放送など。

政策の内容は評価され、その日の「知事報告事項」として県庁の広聴広報課でテープ起こしと政策分析をしたようだ。しかし、その記者会見が記事になることはなかった。新聞でもテレビでも報道はされなかった。その理由を、ある新聞社の記者は「他の候補者との公平性を守るために報道はできない」と説明したという。

さて、では考えてみよう。マスコミにとっての公平、公正とは何なのだろうか。
今回のように、すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしないことが公平、公正なのだろうか。

2.マスコミの建前と本音

マスコミがどう弁解しようが、実際の彼らの行動は「すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしない」ものではない。著名人や、話題になっている人は、特別に扱うのが普通なのだ。
ただし、その時は「読者が、視聴者が知りたいことだから」という言い訳を用意しているだけなのだ。

では笹本さんの記者会見だけを報道すれば、何が起こるだろうか。おそらく、他の候補者、諸政党や「有力政治家」からの批判、疑問の声が寄せられ、圧力がかかるだろう。一部の読者からもそうした批判がおこるだろう。マスコミはそれを恐れているだけではないのか。
そうした圧力が予想され、それへの言い訳が用意できないときには、報道しないことで身を守る。そして「公平、公正」を持ち出して、報道しないことを正当化する。

だから彼らの「公平、公正」はあくまでも建前であり、外部からの圧力から自分を守りたいのが本音であり、他方で商売になるとなればいくらでも「不公平」なことをしても平気でいられるのだ。

しかし、マスコミにとって「公平、公正」が建前だとしても、「公平、公正」の理念そのものはあくまでも正しいと思う。問題はその本当の意味が理解されず、都合のいいように使われていることだ。そこで、その使用法のおかしさを示し、その本来の意味を明らかにしたいと思う。

もし、彼らの言う「公平、公正」、つまりみなを「同じ」扱いにすると、どんな結果になるだろうか。
今回の笹本さんのような、やる気のある人、能力の高い人が正当な評価を受けず、やる気のない、能力の低い人に合わされてその中に埋没してしまう。その結果、やる気のある人の足を引っ張ることになる。
記者会見をやれるだけの準備をしてきた人は、本来評価されるべきであり、記者会見をやらない(やれない)人、きちんとした政策を発表できない人と同じ扱いを受けるのは、「不公平」そのものではないのか。

本来は、むしろ、やる気のある人、能力の高い人を応援し、積極的に紹介するべきだ。そうしてこそ、全体に刺激を与え、全体のレベルを押し上げ、ひいては社会を良くすることになるだろう。それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命なのではないか。
現状の「悪平等」な対応は、そうしたマスコミの使命の放棄であり、無責任極まりないと思う。

4月 11

3月末を以て江口朋子さんがめでたく「修了」しました。

それをきっかけに、ゼミの原則を策定しようとしています。
これは、20代の若い方々に示す、これから10年の目標であり、人生の設計図です。

これらは、これまで江口さんや守谷君たちゼミの若い人たちを指導してきて、実際に問題に直面し、その都度、その問題解決をする中で確認されてきたものばかりです。年期が入っています。私と多くのゼミ生の血と汗と涙と、そして歓喜とでびっしりと裏打ちされています。ゆっくり、しっかり、噛みしめて欲しいと思います。

こうした原則は、文字面は理解できたとしても、すぐに「わかる」ものではありません。しかし、前もってその全体を示しておき、個々の場面で、この原則の意味を繰り返し考えてもらうことが大切だと思っています。

理念とは、そのようにしてしか理解できないし、そのような形でしか役立たないものだと思うからです。
理念はすぐにわかるものではなく、問題をすぐに解決できるものでもありません。しかし、それは、その人の人生の中に繰り返し現れてきます。その都度、その理念に触れることで、少しずつそれが感じられるようになり、その理解が進むのだと思います。そして、理念の理解が進むほど、自分と社会と世界の成り立ち、その問題とその解決の道筋が、シンプルな形ではっきりと見えるようなります。それが理念だからです。

したがって、これらの原則は、守るべき規則といったものではなく、自分の位置を確認する羅針盤のようなものです。そのように受け止め、その意味を繰り返し考えていって欲しいと思います。

■ 目次 ■

中井ゼミの原則 (特に20代の若い方々に)
1 目標 「自立」をめざせ
2 目標達成の方法、大きなプロセス 
3 親から自立せよ
4 「先生を選べ」 
5 「正しい学ぶ姿勢」を確立せよ
6 「民主主義者の原則」
7 立場の問題

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中井ゼミの原則 (特に20代の若い方々に)

1 目標 「自立」をめざせ
(1)「自立」とは何か
主体性の確立(=依存をしない)。
・自分のことは、自分で考え、自分で決め、自分で実行して、自分で責任をとる。
・親や「先生」や世間やマスコミなどに依存をしない。

(2)「自分とは何か」の答えを出せ。
「自分とは何か」の答えは、結局は「自分の人生のテーマ、人生の中心」に他ならない。
その答えは、10代、20代前半では、進路・進学で問われ、先生、友人、恋人などの選んだ人間関係で問われ、仕事のナカミで問われる

(3)目標2つ
?「自分の人生のテーマ、人生の中心」をしっかりと作る
?そのテーマを貫いて生き、テーマを実現するための能力と姿勢を身につける

※世間で良く言われる「テーマ探し」はダメ。探して見つかるような簡単なものではない。
「テーマ作り」「自分作り」という意識で取り組むべき

2 目標達成の方法、大きなプロセス 

(1)「テーマ作り」「自分作り」のための最大の障害が親の影響。
親からの直接的な働き掛けだけではなく、むしろ無自覚な親からの影響こそが、自立を妨げる。
そこで、10代、20代では、親からの自立が大きな課題になっていく。
  → 「親から自立せよ」

(2)自分のテーマ作りを達成できるような先生を選びテーマ作りに励む。その一方で親の価値観を相対化する
    → 「先生を選べ」「正しい学ぶ姿勢を確立せよ」

(3)選んだ先生の元で修業し、その先生の弟子たち(仲間)との研鑽を積み重ねる
→ 「民主主義者の原則」の理解と実行

以下、順にこれらの原則を示し、説明する

3 親から自立せよ

?親の言うことを、ただおとなしく聞く。(=依存そのもの)
?親に反撥、反抗する。(=依存の裏返し)

この?でも?でもダメ。

?両親の階層、価値観、生き方、知識と能力などを、徹底的に相対化、客観化し、自分のどこにどういった両親の影響があるかを自覚せよ

【解説】
本当の自由(自立)は必然性の自覚から生まれる。
自分が今あることの必然性とは、直接的には自分の両親(その出自、階層、価値観、生き方、知識と能力など)にある(間接的には全自然史、世界史、この人間社会にある)。
したがって、両親を客観的に深く理解しない限り、自分のことが理解できず、自立もできない。

人は両親の決定的影響を受けて成長し、無自覚にその影響下にある。表面的には「従順」でも「反抗」していても、同じである。親との一体化は骨の髄まで進んでいる。
できることはそれを自覚し、相対化し、その上で自分自身の生き方を選択すること。

これを押し進めるには「先生を選べ」の過程は不可欠

これは20代で終わらず、一生の課題でもある。
自分自身が結婚する(しないと決める)時に、
また親になって子どもを育てる時に、
自分はどんな原則で生きるのかを問われる。

4 「先生を選べ」 →牧野紀之「先生を選べ」「道場の3原則」を参照
(1)学ぶ目的をはっきりさせろ
(2)その目的にあった先生を選べ
(3)先生から徹底的に学んで、目的を達成せよ

※ 牧野の「道場の3原則」を少し変えてある。学ぶ側の主体性(目的の達成)を強調したことと、「先生に対する批判の禁止」を外し、むしろ積極的に「先生やゼミに問題提起をせよ」(「民主主義者の原則」の(3))とした点が違う。後者は、民主主義と集団的思考を徹底するためだが、「先生に対する批判の禁止」の本来の意図は、「学ぶ姿勢」の原則で「先生への反抗」を禁ずることで達成できると考える。

5 「正しい学ぶ姿勢」を確立せよ →牧野紀之「先生を選べ」を参照
「正しい学ぶ姿勢」、つまり「自分でやって先生の批評を聞く」を守り、実行せよ。
まず自分自身で考え、その考えを文章にしたり、実行して結果を出せ。その上で批評を受けろ。
質問・相談は、まず自分自身で考えをまとめてから、または実行して結果を出し、その意味を考えてからにせよ

※以下はいずれも間違いである。
?先生(親)の言うことを、ただおとなしく聞く。(=依存そのもの)
?先生(親)に不満を言ったり、反抗したりする。(=依存の裏返し)

6 「民主主義者の原則」
(1)自分について
自己反省と自己理解を第一とせよ
・ 他者についてあれこれ言う前に、自分自身を反省せよ
・ 他者を批判するときは、その批判点が自分に当てはまらないかどうか考えよ
・常に「自分とは何か」を第1に考えよ。
(2)他者との関係について
?他者への批判・疑問は、直接本人に言え
?他者からの批判・疑問・意見は、冷静に聴いて、よく考えよ
(3)自分に対して、他者に対して、全体に対して、常に問題提起せよ(「突っ込み」を入れろ)。中井やゼミへの対応も同様で、問題提起を奨励する。
 KYの逆をせよ

※感情的な言動への対応については別にまとめてある

7 1?6の原則に対する態度(立場の問題)
以上の1?6の原則に同意する必要はない。同意や反対をするには、その前にそれを理解することが必要になる。だから、この原則の意味を考えていくことだけが求められる。

1?6の原則の背景には、明確な立場がある。それは「発展の立場」(ヘーゲル哲学)である。このゼミは、この「発展の立場」からすべてのことを考えようとしている。
したがって、この立場の理解のために、前提となるいくつかの学習を求める。
牧野紀之やへーゲルや私の文章である。