1月 16

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その5

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか

 (1)「精神現象学」派と「論理学」派

 竹田は、ヘーゲル哲学に、特に『精神現象学』に大きな影響を受けたと言う。
彼にはヘーゲル哲学を論じた多数の本があるし、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』という、すごいタイトルの本も出している。
その「はじめに」を読むと、竹田が論理学をほぼ全否定していることがわかり驚いた。

 「『大論理学』は哲学としてはもはやほぼ使い道が無く
  過去の遺物であり(中略)『精神現象学』の注釈くらいに考えていい」。
 

 ヘーゲル哲学に関心を持つ人は、「精神現象学」派と
「論理学」派にはっきりと分かれるようだ。「文学的な」人が、
精神現象学派には多いように思う。彼らの直感的で感性的な体質に
合っているのは、精神現象学であって、論理学ではないだろう。
論理学は論理そのものだが、精神現象学は具体的な叙述が多く、
内容を捉えやすいことも関係するだろう。

 竹田は、精神現象学派の典型と言って良い。
精神現象学を高く評価する一方で、論理学を否定する。
しかし、すでにここで大きな疑問が起こる。そもそもある人の思想内容と、
その論理展開を切り離すことができるのだろうか。ヘーゲルの思考内容を
評価するなら、その内容はどこから生まれたのだろうか。それは最終的には、
彼の思考能力、つまり論理的能力以外にはないのではないか。
まさか、ヘーゲルが「直観」だけで真理を把握したとは言うまい。
「直接知」の立場を徹底的に批判したヘーゲル自身が、
そうだったとでも言うのだろうか。

 「精神現象学」派と「論理学」派の対立を考えるとき、
牧野紀之の下で起きたある事件を思い出す。牧野は40年前から
ヘーゲルを指導する学習会を主催していたが、そこには精神現象学と
論理学のそれぞれの原書講読のクラスがあった。受講者はどちらかに分かれ、
両方を受講する人は少なかったようだ。精神現象学を読んでいた人たちは
吉本隆明好きで、ある時、吉本を批判した牧野に反旗を翻し、
ほとんどが辞めていった。論理学のクラスではそうした劇的な場面はなかった。

 牧野自身は論理学派だと思うが、その立場から精神現象学も
丁寧に読み込んでいる。その記録が、彼の『精神現象学』の翻訳と注解だ。
私も牧野と同じスタンスである。特に、その序言、序論は重要だと思う。

 (2)竹田による「自己意識論」の解釈

 竹田の読解は直感的だが、実際の生活経験を振り返り、
的確なヘーゲル理解に到達している部分がある。例えば、
『自分を生きるための思想入門』(芸文社)の25?29ページでは、
『精神現象学』の「自己意識論」を、身近な具体例からわかりやすく
説明している。

 ストア主義の例に、教室でわかっていても手を挙げない
反抗的な子どもを出し、懐疑論では、どのような意見や主張に対しても
シニカルにかまえて水を差す青年の例を出す。不幸な意識の例では、
マルクス主義やキリスト教への「信仰」を出す。そうした大きな物語に
自分を一体化して他人の上に立つことは、同時に大儀のための自己犠牲をも
要求されるという矛盾であることを示している。そこでは自己否定(忠誠心)の
度合いの競争になり、依存を深めて自立を妨げることになりやすい。
それを見抜き、この不幸な意識の例としているのは、さすがに卓見だと思う。

 竹田が読まれているのは、こうしたすべての人の生活経験から
論理を拾い上げる力が、一般のレベルと比較すれば抜きんでているからだろう。
これは、自身や周囲の経験を、繰り返し考え続けて、そこから
自分の思想を作ろうとする竹田の姿勢から生まれている。その正しさが、
ある深さに達しており、それが人々の共感を呼ぶのだろう。

 竹田が取り上げた3つの例は、竹田自身の経験の反省から
生まれたものだと思うし、私自身にも思い当たることが多い。
特に不幸な意識の矛盾は重要だ。これは政治、宗教、学問などで
無数の例を出せるだろう。共産党と知識人の関係などでも、
多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を
出してきた。

 実は、同じ事は、牧野紀之の下でも起きていた。
「先生を選ぶ」ことが、依存を強め、先生の奴隷になってしまう。
そうした人も出たし、私にもある時期そうした段階があった。
「先生を選べ」の原則を作った、その牧野の足許で、同じ事が起こるのだ。

 (3)竹田の限界

 竹田のすぐれた面を指摘してきた。しかし、竹田が論理学を否定したことは、
竹田の論理力にそのまま跳ね返っている。彼の思考の荒さや弱さだ。

 牧野は訳注(358ページ 注1)で、すぐれた説明として竹田説を紹介、
長々と引用している。しかし、評価するだけで限界を言わない。
私がその問題点を指摘しておく。

【1】竹田が出した3つの経験と、そこにある論理は確かに重要な問題を提起している。
  ヘーゲルの論理との対応関係もある。
  しかし、3つの例はすべて、「3つの範型」として、バラバラに
  事例として出しているだけで、そこに論理必然性はない。
  自分が考えた3つの経験を、ここにただ当てはめただけだ。

【2】だから、ストア主義と懐疑論が対立、相互関係として捉えられていない。
  また、ストア主義と懐疑論に対して、不幸な意識は両者を止揚した
  上のレベルなのだが、それも無視されている。

【3】「自分が他人より優れている、上に立っている」。この表現が一面的だ。
  主と奴の関係が逆転したことを前提に、ヘーゲルはここで展開している。
  したがって、上下関係は相対的なものでしかないことは、すでに明らかになっている。

【4】ストア主義の例
  これを「他人の承認を求めていない」と竹田は言うが、そうだろうか。
  「バカにした他者からの承認」を否定し、その否定とは自己を自己が
  承認しているのだから、それも「他者からの承認」と言えるのではないか。

【5】懐疑論の例。「相対的に上位」、【6】不幸な意識。「他人より上位に立つ」
  これらも違うと思う。「他人の下位」でも、承認になるのは、いじめの論理が証明する。

 以上の批判に対して、私の代案は三.と四.に書いたとおりだ。

 竹田の論理的思考の弱さを指摘してきたが、これはただの揚げ足取りだろうか。
こうしたことは問題にならないだろうか。竹田は不幸な意識の矛盾を的確に指摘できた。
しかし、それだけでは、その問題を真に解決することはできないと思う。
事実、竹田によるこの問題の解決策は書かれていないと思うのだが、どうだろうか。

 一方で、論理的には竹田を圧倒する牧野紀之は「先生を選べ」の原則を出し、
この問題への解決策を示すことができた。それはまさに論理の力だろう。
しかし、その牧野の下で、「牧野信仰」が起きていたのも事実である。

 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。この『精神現象学』執筆の
時点では問題にならなかったろう。『精神現象学』の「不幸な意識」の平板さは、
こうした問題を考えていなかったことも関係するだろう。
しかし、ヘーゲルがベルリン大学の教授になり、多数の弟子に囲まれて
名士に成り上がってからは、どうだったのだろうか。おそらく多数の
「ヘーゲル信仰」の若者や学者たちが、その取り巻きの中にいたことだろう。
ヘーゲルはそれには何も語っていないように思う。
さて、今度は私の番である。私はこの問題を解決できるだろうか。

 なお、竹田は、『自分を生きるための思想入門』で出した例を、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』の自己意識論の箇所では出していない。
これはどうしてなのだろうか。

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