1月 15

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その4

 四.自己意識の自由

 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」

 ┏主と奴は、事実(偶然)の承認関係。
 ┗ストア主義と懐疑論は、思考による承認関係。
  
  だから思考を出す。353ぺージ

 ┏主と奴 偶然性による上下関係。親子関係、親分子分関係。選択ができない。
 ┗ストア主義以降。思考の自由。上下関係の否定。しかし反抗であって自立ではない

 思考の自由は、上下関係そのものの否定にはならない。
 選択による上下関係がなくなるわけではない。「先生を選べ」、信仰など
   →これは「不幸な意識」以降で問題になる。

 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的

【1】ストア主義は抽象的正義のこと。外的反省
  若い時の表面的、一面的な正義感。
  内実がない。個別具体的なものはない → 若い時の特徴。

【2】懐疑論はこれへの反発
  否定の対象があるから、具体的ナカミがある。
  しかし一面的になりやすく、豊かな内容があるのではない
  否定はできても、肯定(代案)がない。若者の特長。

 ┏ nicht ?
 ┗ sondern ? ← これを出せるかどうかが自立の核心

 この懐疑論への反発から、ストア主義に戻ることもある。

 (3)不幸な意識 

【1】「不幸な意識」には、牧野紀之の注解がほとんどない。
  このムラの大きさが牧野らしい。
  例として「先生を選べ」を出すべきだし、弟子相互の関係、
  集団としての側面を出すべきだった。
 牧野の定式化した「先生を選べ」は、ここ以下の問題の解決策なのではないか。

【2】「先生を選べ」の矛盾
  「ストア主義」と「懐疑論」は一応自分に自信がある段階。
  不幸な意識とは、自分への自信を失った段階。ここで再度、主と奴の上下関係の問題が出る。

 自分の低さに気づいた時にだけ、次のステップへ進む可能性が生まれる。
それは「先生を選ぶ」(先生=ある思想、立場、宗教、政治などの組織)ことになる。
ここで再度、上下関係が出てくるが、これは主と奴のような偶然的なものではなく、
客観的で社会的な基準で選択されたものになっている。

 しかし、「先生を選べ」には矛盾する両面がある。自立(自己肯定)のために、
徹底的に自己否定することが求められるからだ。

 そこで先生や組織に依存したり、自己否定を競い合うようなことがおこる。
この問題を、ヘーゲルは論理的に解き明かそうとしているのだと思う。
この問題については、竹田青嗣が実に鮮やかに説明している。
それは五.で取り上げる。

 (4)不幸な意識の展開

 その1.ユダヤ的
 自己への絶望。より上の他者。

  ↓

 その2.キリスト教

【1】上を上としてあこがれ従うが、自分がそうなろうとはしない。
   分裂がある
  「先生の言うことをおとなしく聴く」
 

【2】欲望と労働。これは何か。ここに主と奴の関係の逆転の契機があったはず。
  感激と自己放棄による統一
  しかし、それがエゴがあるので完全にはできない。

  ↓

 その3.ここで教団が媒介する。

 あまりにも叙述が抽象的で、平面的。
 ツッコミがなく、平板。
 媒介としての教団の矛盾。意義と限界もキチンと出すべき

 教団は神と個人の1対1の関係に立ち入れない。
 それを互いに支えようとするだけ

 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 「他者本位」から「自己本位」(私が真理)へ
 夏目漱石の『私の個人主義』で言えば、それまでの「他者本位」を克服し
「自己本位」の立場に立った段階であり、それが「主体性」=「理性」の段階だろう。
これは、いかに高い大変な段階かがわかる。ほとんどの人はこの段階まで進めないだろう。

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