貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の5回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の5回目
■ 目次 ■
第2章 江口江一「母の死とその後」
第1節 「母の死とその後」
1 僕の家
2 母の死
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第2章 江口江一「母の死とその後」
第1節 「母の死とその後」
第2章では、江口江一の書いた「母の死とその後」を扱う。江口の家は主に葉煙草を生産する農家だった。しかし、江口の家の一番大きな収入は実は村からの扶助料だった。つまり、今でいうところの生活保護のようなものを受けていたのである。作文で書かれている通り、貧しい山元村の中でも江口の家は最も貧しい家の1つだった。江口江一は男2人女1人の3人兄弟の長男だった。この文章は1949年12月16日に書かれている。同年11月には母親が亡くなっていて、母親の死の1ヶ月後に書いた文章ということになる。このとき江口は中学2年生だった。ちなみに、この作文は当時の全国作文コンクールで文部大臣賞を受賞している。『山びこ学校』がベストセラーとなるきっかけとなった作文だ。以下で、実際の文章を引用するが、その引用の仕方は第1章を引き継いでいる。
母の死とその後
江口江一
1 僕の家
【僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんぐらい貧乏です(1)】。そして明日はお母さんの三十五日ですから、【いろいろお母さんのことや家のことなど考えられてきてなりません(2)】。それで僕は僕の家のことについていろいろかいてみたいと思います。
明日は、いよいよいちばんちいさい二男と別れなければなりません。二男も、小学校の三年生だが、お母さんが死んでから僕のいうことをよく聞いて、あんなにちっちゃいのに、よく「やんだ((いやだ))(いやだ)」ともいわないで、バイタ((たきぎ))(たきぎ)背負いの手伝いなどしてくれました。だから村木沢のお母さんの実家に行っても一丁前((一人前))(一人前)になるまで歯をくいしばってがんばるだろうと思っています。
ツエ子も、明日三十五日に山形の叔父さんがつれて行くように、親族会議で決まっていたのですが、お母さんが死んでからずうっと今もまだにわとりせき((百日ぜき))(百日咳)でねているので、なおってからつれて行くことになりました。
それも間もなくつれて行かれることでしょう。そうすれば僕の家は今年七十四になる、飯たきぐらいしかできなくなったおばんちゃん((おばあさん))(おばあさん)と、中学二年の僕と二人きりになってしまうことになるのです。
2 母の死
なぜこのように兄弟がばらばらにならなければならないかといえば、お母さんが死んだことと、家が貧乏だということの二つの原因からです。
僕の家には三段の畑と家屋敷があるだけで、その三段の畑にへばりついてお母さんが僕たちをなんとか一人前の人間にしようと心配していたのです。
お母さんは、身体があまり丈夫ではなかったので「自分が死んだら家はどうなることか。」ということを考えていたかもしれないけれども、自分の身体を非常に大事にする人でした。それでも貧乏なために、ほかの人にしょっちゅうめいわくをかけなければならなかったことと、役場から扶助料をもらっていることを悔いにして((苦にして))(苦にして)、しらないうちに((しらずしらず))(知らず知らず)無理がはいっていたのかも知れません。【僕も、中学一年のときから無着先生にことわって、たびたび学校を休ませてもらい、力仕事なんかほとんど僕がやったのですが、やはり一家の責任者でないから気らくなものでした(3)】。だから、【お母さんは力仕事でまいったというよりも「どういうふうにして生活をたててゆくか。」「どういうふうにして税金をはらうか。」「どういうふうにして米の配給をもらうか。」そういう苦労がかさなったのだと思います(4)】。
【診療所に入院して今に死にそうになってからも「たきものはこんだか。」「だいこんつけたか。」「なっぱあらったか。」などとモゾ((うわごと))(うわごと)までいっていました(5)」。そういわれると、面会に行った僕が「これでお母さんもおしまいだ。」と思いながらも、なにもなぐさめることができないで、家の仕事のことが頭に考えられてきて、ろくろく話もしないで帰って来るのでした。
それでも、【お母さんが死ぬ前の日、十一月十二日(6)】、「境分団がゆうべ自治会をひらいてきまったんだ。」といってみんな手伝いに来てくれたときは、仕事の見とおしがつかなくて、「もう、いくらやってもだめなんだ。」と思ってがっかりしていたときでしたので、僕をほんとに元気づけてくれました。ほんとに僕が一人で何日かかっても終りそうでなかった柴背負いが、たった半日の間に、またたくうちに終ってしまったんです。
その次の日、【忘れもしない十一月十三日の夜(7)】があけないうちです。母が入院している村の診療所から六角((地名))(地名)の叔父さんに、叔父さんのうちから僕のうちに「あぶない。」というしらせが来て、みんな枕もとに集ったとき、そのことを報告したら、もうなんにもいえなくなっているお母さんが、ただ、「にこにこっ」と笑っただけでした。そのときの笑い顔は僕が一生忘れられないだろうと思っています。
今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのでないかと思います。お母さんは、ほかの人と話をしていても、なかなか笑わなかったのですが、笑ったとしても、それは「泣くかわりに笑ったのだ。」というような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔は、今までの笑い顔と違うような気がして頭にこびりついているのです。
ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです。
僕のお母さんは、お父さんが生きているときも、お父さんが死んでからも、一日として「今日よりは明日、今年よりは来年は、」とのぞみをかけて「すこしでもよくなろう、」と努力して来たのでしょう。その上「他人様からやっかいになる」ことを嫌いだったお母さんは、最初村で扶助してくれるというのもきかないで働いたんだそうです。それでも借金がだんだんたまってゆくばかりでした。
それで、ついて、ばんちゃんとお母さんが役場に行って扶助してもらうようにたのんだのが【昭和二十三年の三月(8)】です。それから、お母さんや、ばんちゃんが、僕やツエ子に「おらえの((わたしの))(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と口ぐせのようにいうようになりました。
それから【まる一年と六カ月たった今年の九月(9)】、お母さんは「たいしたことはない。すぐなおるんだ。」といって床につきました。ところが、十月になってもおきることができなくて、病気はだんだんわるくなるばかりのようでした。だからばんちゃんは、口ぐせに「医者に行って見てもらってくるか、それとも医者をあげて((さしむけて))(さしむけて)よこすか。」といっているのでした。するとお母さんは「ゼニがない。」というのでした。それでばんちゃんは、「ゼニなど、ないといえばない、あるといえばある。医者にかからんなね((かからねばならぬ))(かからねばならぬ)ときは畑なんかたたき売ってもかからんなねっだな((かからなければならないよ))(かからなければならないよ)。」というのでした。しかしそれだけでした。畑を売る話もなかったし、ただ「いつか医者から((に))(に)見てもらわんなねベなあ((もらわなければならないなあ))(もらわなければならないなあ)。」という話だけですぎていきました。そしてある日、やはりばんちゃんが「医者から見てもらわんなねベなあ。」と話しかけていたところに、太郎さんが来て「なんだ。医者さ((に))(に)も見せぬのが((か))(か)。扶助料もらっている人あ、医者はただだから、あしたおれが言って医者をあげてよこす。」といって帰って行きました。
次の日、医者が来て、お母さんを見てくれました。医者は、「うらの叔父さんをよべ。」といったのでよんできたら、叔父さんに「病気は心臓ベンマク症だ。入院しなくちゃならない。」といいました。
それで、僕とばんちゃんと、医者と叔父さんの四人で、まずあつかい((看護))(看病)に行く人の相談をしました。で、ばんちゃんは「江一をはなすと仕事をする人がいなくなるからツエ子よりほかにない。」といったので、ツエ子が行くことにきまりました。ツエ子は小学校五年生です。ちっちゃい((ちいさい))のです。しかし、しかたありませんでした。それで、医者は飯を食って帰ってしまったし、午後から僕とばんちゃんは入院の用意にとりかかりました。
次の日、叔父さんがリヤカーをかりてきてくれました。雨が降っていたので小降りになるまでお茶をのんで、それから出かけました。ふとんをつけて、お母さんをのせて、なべだの((とか))(とか)野菜だのといったものをうしろにつけて、お母さんにはあんかをだかせて、油紙をかぶせて、からかさをささせて出かけました。
【入院させてしまうと、僕は急にせかせかしだしました(10)】。入院は【十一月二日(11)】でしたが、それまでは、いくら病気をしていてもなにもできなくとも、お母さんがいるということであんたい((のんびり))(のんびり)していたのです。【それが急に僕一人になってしまったものだから、あわてだしたのです(12)】。それで、ツエ子はどんなあつかいをしているか心配でしたけれども、僕が行くと、それでなくともおくれている仕事がまだまだおくれてしまうので、【行かずに毎日仕事をしていました(13)】。
【それでもやっぱり、自分が責任をもってやるとなると心配で、なにもわからないからなおさら心配でした(14)】。それで【十一月八日(15)】、そのことを書いて先生にやったら、先生がすぐ返事をよこしてくれました。それで元気づけられているところへ境分団から応えんに来てくれたのです。
それでもとうとう【十一月十三日(16)】お母さんは死んでしまったのです。葬式は【十五日(17)】でした。そのときは無着先生と上野先生が来てくれました。同級生を代表して哲男君も来てくれました。境分団の人がみんな来てくれました。伝次郎さんが境分団の「お悔み((香典))(香典)」を持ってきてくれました。僕はなんにもいえませんでした。だから黙ってみんなの方をむいて頭をさげました。あとで先生に聞いたことですが、同級生のみんなが「お悔み」を出し合ったほかに、義憲さんや貞義さん、末男さん、藤三郎さんたちが「江一君のお母さんへお悔みを……」といって全校から共同募金を集めてくれたということですね。僕はこのときぐらい同級生というものはありがたいものだと思ったことがありません。
それで、葬式をすまして、金を全部整理してみたら、「正味七千円のこった。おまえのおやじが死んだときよりも残った。」とばんちゃんがいったので、僕も、「ほんとにのこったのかなあ。」と思ったほどでした。しかし借金を返したら、やはりあとには四千五百円の借金がのこっただけでした。だからやはり父が死んだときの方がよかったのです。
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