「自己否定」から発展が始まる(その3)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録) 記録者 小堀陽子
■ 目次 ■
2.読書会
(3)テキストの検討
<1>「ある絵の伝記」
検討3
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〈自分と異なる方法について〉
・62p後ろから3行目
≪クライヴ・ベルの理論のように、純粋形式のためにのみ描く画家は、
芸術における最終的に可能な表現としての形式に確信を抱いている
のであろう。≫
→ これは抽象絵画のこと。形と色だけが全てでそれが思想だと。
勿論それも思想で、あるメッセージを持っている。
作品にはその時代の何か、その人間の深さ、馬鹿さ加減、
全てが丸見えになる。
僕は抽象絵画でも関心が持てないものと、すごいと思うものが
ある。ベン・シャーンの中にすごいと思う作品も、つまらないと
思うものもある。
・62p後ろから2行目
≪フロイトの理論のように療法として芸術を見る人々は
自分のしていることに自信があるだろう。
いろいろな材料を巧みに扱うだけの画家たちも同様だろう。
しかし、かかる芸術は内面的な経験をも、外部的な経験をも
含むことができないのではないか。≫
→ 内面的な経験も外部的な経験も、作者と客観世界を
引き離してしまうだけで表現できない。
彼は両者を統一しなければならないと思っている。
〈自分の方法 ─ 普遍性を描く〉
・63p5行目
≪私にとっては、主観と客観は共に極めて重要なものであって、
前に述べたイメージとアイデアの問題のひとつの面に
外ならない。
取るべき手段はこの両者を芸術から抹消し去ることではなく、
むしろ両者を統合して、一個の感銘を与えるもの、
─すなわち「意味」がその不可欠な要素になっている
ひとつの視覚「映像」たらしめることである。≫
→ 統一することはこの人の核心。具体的には次の段落の最後
「世界的な性質をもつシンボル」だと。65p「普遍性を描く」。
しかし「概括」とか「抽象化」によって描くのではない。
絵は具体的なものしか描けない。絵に表れるのは全部個別。
そのことを一見否定したかのようなのが抽象絵画。
66pは、個別しか表現できない絵で普遍的なものを描くことは
いかにして可能か、という問い。
65p最後にデ・キリコの絵とマサッチオの絵という2つの例を
出している。自分が持っている問いについて、二人が
一応答えを出している。
66p「感情の極限から」生まれて「偉大な普遍性」に到達している。
それはどういうことか。
・66p4行目
≪私が第二次大戦の末期頃に描いた作品、例えば「解放」とか、
「赤い階段」とか─は、様式の上では、以前の作品とはっきり
区別できるようなものではなかったが、一層個人的なものになり、
一層内面的なものになっていたことは確かである。≫
→ 「解放」(図録69p,197)は第二次大戦末期にフランスが
ドイツから解放されたニュースを聞いて描かれた。
普通は解放を明るく描く。シャーンの「解放」では子供が
死んだような顔をしている。
これは、ある感情の深さから始まって普遍性に到達するということ
を試み、苦しさの中でこの段階での結論として出されたもの。
写実であるが写実を超えた作品。
・66p7行目
≪かつて秘隠的で難解だと思われた象徴主義が、今は
戦争がわれわれに感じさせた「空虚」と「空費」の感じと、
戦時下に生きんとする人間の力の弱さを表現しうる
唯一の手段となった。≫
→ 普通は解放された時、良かった、明るいと捉える。
一方シャーンは解放された時にその戦争の空虚さが露出する、
という捉え方。
これが戦争を経験した人たちにとっての最も深い受けとめ方
である、ということ。
先日、野見山暁治の抽象画を見てきて良いと思った。
野見山が、戦争を20代で経験して引き揚げてきて、
これから自分がどういう絵を描くかと悩んでいた時に、
シャーンの「解放」は衝撃的だったと言っていた。
「衝撃的」とは、自分の心の中がそのまま描かれている
という意味。
戦争に負けた日本人の心の中と戦争に勝った側の心の中が
実は全く同じだと。
これが、個人的なもの、または感情の極限が普遍化される
ということだと思う。
野見山は自分の作品についてベン・シャーンのように
言葉にならない。けれどそれは彼の絵がダメだということ
にはならない。
言葉にできる人が本当にいい絵を描いているとも限らない。
ベン・シャーンの場合は両立している。
野見山の場合は言葉での表現はできないが問題はない。
けれどもう少し言葉にしてほしい。
ただ、野見山が「解放」という絵に自分が何を感じたかを
言っている言葉は僕の中にとても響いてきたし、
この絵がどういう絵なのかということがわかる説明だった。
・66p8行目
≪当時私は作品の形成だけが問題だった。つまり強く感じられた
感情を、絵具を塗った平面の視覚像に形成することが、
目標だった。≫
→ 油絵は構図及び表情だけではダメ。シャーンの絵は、
背景の色使いがすごい。
絵は二次元の世界だから、その中にどういう像を作っていくか
ということがプロの画家の力量。
・66p12行目
≪私自身の見解では、これらの作品は成功だった。
当時はっきりと知った事は、情感ある視覚像はわれわれの
感情を動かす外界の事件そのものの映像である必要はなく、
むしろ多くの事件の内面的な痕跡から組立てられる
ということだった。≫
→ 例えば「解放」は実際のリアルな場面ではなくイメージを
描いた作品。
67p2行目「このようないろんなイメージこそ」を「形成」
するのだと言っている。
・68、69p
→ 絵で表現するということはどういうことか。
68p最後。それは色であり形であり、その触感、背景の肌触り、感覚。
そこにまで落としこんでいく力がなければ画家ではない。
〈人間の価値〉
・69p後ろから7行目
≪私は以前に私をひどく苦しめたアイデアとイメージとの間の
長期戦のことを述べた。
私はこの紛争をアイデアすなわち思想を放棄することにより
調停することはできなかった。
かかる解決は絵画を単純化するかもしれないが、同時に
絵画というものを勇気ある、知性的な、大人の実践の闘技場から
退場させてしまうことになるからだ。
私にとっては、もし思想が作品から現示すべきでないとしたら、
絵画にあまり存在理由を認めない。
人間が思想をもつ力があるという点、そしてその思想そのものが
価値があるという点にこそ、人間の価値があると
私は考えているからである。≫
→ こういうことを言える思想家がいるだろうか。
「知性的な実践の大人の闘技場から退場させてしまう」という
ところにぐっとくる。
要するに彼からすると、そいつらの絵は子供っぽい。
大人がやる闘いは違うと言っている。
これは本当に成熟した人の言葉を聴いている感じがする。
成熟は今の社会では難しい。全共闘世代、吉田拓郎や井上陽水は
60になっても子供みたいな顔をしている。
〈晩年の作品─「マルテの手記」を題材に〉
・71p後ろから5行目
≪リルケはマルテの手記のなかで書いている。
「一行の詩のためには、あまたの都市や、人間や、事物を
みなければならぬ。─ 中略 ─ 詩人はまた死にゆく人の傍に
いたことがなければならないし、開いた窓がかたこと鳴る部屋での
通夜もしたことがなければならない。≫
→ この「詩」という言葉のところに自分のテーマを入れれば
全ての人に当てはまる。
あらゆるものを見てあらゆるものを聞いてあらゆるものを感じて、
それが大前提だと言っている。しかしそれだけでは足りない。
・72p7行目
≪しかも、こういう記憶をもっていることで充分ではない。
追憶が多かったら、これを忘れることができなければならない。
そしてそういう追憶が再び帰ってくるまで待つ大きな忍耐力を
もたなければならない。
追憶はいまだほんとうの追憶になっていないからだ。
追憶がわれらの身体のなかの血となり、眼差しとなり、
表情となり、名前のない、われら自身と区別のつかないものに
なるまでは…。
そして、その時に、いとも稀なる時刻に、
ひとつの詩の最初の言葉が、それら追憶のまんなかに浮き上り、
追憶そのものから進み出て来るのだ」と。≫
→ リルケがリルケであるところはこの後半にある。
忘れた追憶が再び帰ってくるまで、そこに最も忍耐力が必要。
そこで人間は成熟する。これはヘーゲルそのもの。
僕たちは強い経験をした時にその記憶は強烈な故に消える。
普通はそのまま消えて終りだが、頑張った人にだけ浮かび上がって
くる時はある。リルケは詩人だからそれが詩になる時だと言う。
最後にこれを持ってきたベン・シャーンはまさに自分は
これをやってきたと言っている。
ベン・シャーンはこの一節に対しての思い入れが強く、
マルテの手記の今の部分について最晩年に描いている。
これを自分が最初にそこからスタートした石版画でやっている。
ここにも意味がある。