4月 10

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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全肯定からルールは始まる
(竹田青嗣の「いたずら 大人たちへの挑戦」)

竹田は人気がある。
その理由は、「いたずら」といった身近な話から始めて、それが人間の成長、人類の発展のような大きな話につながり、
「いたずら」の「秘密」がわかったような気にさせられるところだろう。
面白い!。

本来は、哲学的な一般的命題は、身近で誰もが経験する事柄と結び付けて、語られなければならないだろう。
ところが、そうしことができる人は少ない。
それができるのが、竹田のすぐれた点だ。

しかし、これを読んでも、「人間」「自我」「ルール」の本質についての理解は深まらないのではないか。

それは、「人間」「自我」「ルール」などの言葉の曖昧さ。
定義における根拠なしの断定(キルケゴールが言っていた、ヒュームが示した、は根拠にならない)。
過程なしの結論、結果(「ルールは禁止から始まる)など。
こうした手続きのいいかげんさが1つの原因だ。

もちろん、竹田は正しいことも言っているから、説得力があるのだ。
「ルールには無自覚だから支配される。それを相対化し、自覚する必要がある」はあくまでも正しい。
しかし、その理由として挙げていることが一面的だから、対策も表面的である。

竹田はルールは「禁止」から始まると言うが、本当だろうか。
逆に「許し」から始まるのではないか。

竹田の論理はこうである。
禁止からルールは始まる→ルールを意識し、自覚する→それを「身につけ」「忘れる」(ここが竹田の強調したい点)
→その結果、それに支配される→「いたずら」によって、その忘れたルールを思いだし、それを相対化する
→それによって、新たな自分たちのルールを作ることができる。

私見を対置する
私たちが存在することの全肯定(つまり「許されていること」)からルールは始まる
→それゆえにルールを無意識に、無自覚に学ぶ→その結果、それに支配される
→それを自覚化し相対化する必要がある
→それによって、新たな自分たちのルールを作ることができる。

人間は生まれてから、周囲の絶対的な保護下に育つ。そうでなければすぐに死ぬ。
そして、親(世間)の生き方や価値観、感受性(これがルールだ)を無自覚のうちに埋め込まれて育つ。
それは「禁止」によるのではなく、逆に「愛される」「受容される」「褒められ」ことによってだ。
ルールの中には「禁止」ももちろん含まれるのだが、基本的にはその背後にはいつも「愛される」「肯定」がある。
もし「禁止」されたことなら、「忘れる」ことはないだろう。
逆に「愛され」ながら埋め込まれたことだからこそ、その自覚が難しいのだ。

私は、子どもが無意識に親や世間の価値観や感受性に支配されていることが、本当の問題だと思う。
そうした価値観を相対化することがいかに難しいかを、考えてみてほしい。

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