今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。
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香山リカは空気を読む
(香山リカの「空気を読む」)
一見、論理的で筋が通っているように見える。
まず「準パブリックな場で、人は空気を読む」ことを事実として示す。
次に、その理由を「人が自らは安全な多数派であると疑わず、自らが少数派となることを恐れるから」とし、
それでは「いつからか空虚さに気づき、破綻をきたす」と問題提起している。
展開はとてもわかりやすいし、結論もとても常識的であり、納得できる。
香山が受けているのは、
第1に、この「わかりやすさ」ゆえであろう。
そして第2にその斬新な切り口が面白いからだろう。
普通には気づけない視点を提供する。
今回では「準パブリック」という中間領域を示し、テレビ番組制作現場を「空気を読む」場として例示する。
テレビ番組という本来は公的であるべき場が「空気を読む」ことで成立していると、香山は見抜いている。
視聴者と製作者の共依存関係がそこにあるのだ。
しかし、この「分かりやすく」「面白い」文章を読みながら、
少し考えていくと、わからないこと、疑問がたくさん出てくる。
「メランコリー親和型」と「かのような人格」は同じ類型なのか。
以前、中根千枝の「縦社会」や河合隼雄の「母性倫理」が日本社会の特殊性として盛んに議論されたが、
それとはどう関係するのか。
問題はそうした性格類型ではなく、場にあると言うのだろうか。
現在「空気を読む」関係がとくに目立つのは、
「職場ほど公的でもないが、恋人や夫婦ほど私的でもない、準パブリックな関係」だと、香山は主張する。
そして、その原因は「少数派」になることを恐れる心理にあると指摘する。
しかし本当にそうだろうか。
仮に、「少数派」になりたくない人が「空気を読む」として、それは「準パブリック」な場に限られるだろうか。
そういう人は、私的場でも、公的場でも、いつでもどこでも「空気を読む」のではないだろうか。
もし、現在「空気を読む」関係がとくに目立つのが「準パブリックな関係」だと仮定したら、
次に問われるべきは、それがなぜかだろう。
香山は「少数派になることを恐れるから」と答えるのだが、それよりも重要なのは、
なぜ「準パブリック」な場が、それほどの比重を占めるようになってしまったのか、という問題だろう。
答えを「公的な場が消えてしまったから」とするなら、その対策は「公的な場の回復」になる。
そして保守派はそこに「愛国心」を持ち出すだろう。これに香山はどう反論するのだろうか。
最後に、高校生からでるだろう、素朴ながらも核心的な問題提起に備えておきたい。
「香山自身の生き方を、香山自身はどう考えているのだろうか」。
テレビ出演している香山は、この「準パブリック」な場で「空気を読」んで自分の役割を演じていると言う。
それは「少数派」になり、テレビ出演ができなくなることを恐れているからではないのか。
そこでは香山は「かのような人格」を演じることになり、そうした生き方は「いつからか空虚さに気づき、破綻をきたす」のではないか。
香山はこの問いにどう答えるのだろうか。おそらく平然と、以下のように回答するだろう。
それは、まったく問題ない。
香山の公的仕事は大学の教員、研究者としての仕事であり、
大学の授業や学会では、きちんと自説を主張しており、「空気を読む」ことをしていない。
また、私的場で恋人や家族との関係でも同じだ。
その上で、テレビでタレントとしての仕事もしているだけであり、
その時だけ「かのような人格」をあえて仮面のように演じているのだ。
したがって問題はない、と。
しかし、本当にそうなのだろうか。