今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。
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鷲田清一の「目をそむけるな! 逃げるな!」
(鷲田清一の「他者を理解するということ」)
文章展開では、具体例を出しては考察(一般化)し、また具体例を出しては考察をする、
という進め方なので、わかりやすい。
さらに、その具体例が身近な日常生活からとってこられているので、親しみやすい。
つまり、ムズカシイ倫理的な問題、哲学的な問題が、わかりやすく書かれている。
これが、鷲田清一の本が多くの読者に読まれている理由だろう。
しかし、今回のこのテキストで、何かが本当に明らかになっているのだろうか。
ここでは結局、「自分と他者との違いに、とことん向き合え! 違いから目をそむけるな! 逃げるな!」
と言っているだけではないか。
これでは女子レスリングの浜口京子選手の父親の「気合いだ?!」と、同じではないか。
もちろん、そうした注魂を、叱咤激励を求める人々がいるのも事実だ。
しかし、それは、問題の科学的、論理的な解明とは言えない。
肝心な結論部分(8段落)で、対が明確に示されないところにも、それが出ている。
このテキストで鷲田が明らかにしたこと、明らかにできていないことは何か。
明らかにしたのは、人間の相互理解で重要なのは、「同じ」ことではなく、相互の「違い」を理解し合うことだ、ということ。
これはもちろん、正しい。
明らかにできていないことは、相互の「違い」から目をそむけたくなるのはなぜか。
なぜ「違い」から逃げたくなるのか、だ。
それがきちんと示されないために、人間の相互理解で「違い」を理解し合うことの重要性が理解できない。
相互の「違い」にどう向き合い、その「違い」をどう受け止めたらよいのか。
「違い」から争いが始まり、離婚調停などの「対立」にもなるが、そうした「対立」には、どう対応したらいいのか。
こうした諸問題は放置されたままだ。
そして「逃げるな!」で終わる。
これでは現実の場で、どう対応したら良いかわからないだろう。
私は「自己理解」と「他者理解」の相互関係として、この問題をとらえたらいいと思う。
他者を自分と同じだと思っている段階では、他者について理解できないだけではなく、自分についても理解できない。
他者との「違い」に気づくことから、すべてが始まる。
「違い」に気づくことによって、「相手」が初めて、未知なる「他者」として現れる。
それまでは相手は実際には存在していなかったのだ。
「違い」を通して、初めて他者を自分とは違う「他者」として意識し、理解していく。
しかし、それだけではない。他者を理解する作業は、
そのまま、実は、自分に対する理解を深めることになるのだ。
他者との「違い」が見えない段階では、従来のままの「自分」で対応できる。
しかし「違い」に気付き、それを受け入れることは、
従来の「自分」の限界に気付き、それを克服することに他ならない。
「違い」を知って動揺するのは、そこで従来の自己像そのものが壊れそうになり、
それが怖いからなのだ。
そして、それを克服した者だけが自己を成長させ、それを通じて他者理解を深め、
結局は「人間」一般の本質理解を深めていけるのではないか。
「違い」や「対立」の根底には、もう一段深い「同一性」、
つまり「人間であること」が隠されているからだ。
「人間であること」には、人間の弱さ、憎しみ、嫉妬、
「悪」などの負の側面もたくさん、含まれている。
それは他者の内にもあるし、もちろん自分の内にもある。
だからこそ、相互理解の過程で「同じ時間を共有してくれた」ことへの感謝や、
いたわり、共感が生まれてくるのではないか。
「コイツはしょうがない奴だな、でもオレだって同じようなものだな」。
こうして、人間一般への理解を深めていく中で、自分も他者も相対化され、
「人間」全体の中に位置付け、理解されていくのではないか。
争いや裁判でも同じで、「正義」や「真理」の全体の中に、
自分の意見と他者の意見を位置づけていくことを学ぶのではないか。