10月 04

今年の5月の読書会で今西錦司著『生物の世界』(講談社文庫)を読んだ。
私(中井)が京大の学生だったときに、今西グループの文化人類学者・米山俊直から
強く勧められ、ぱらぱら読んだ記憶がある。そのときは、あまりわからなかったと思う。

 しかし、当時の私は今西の高弟である梅棹忠夫のファンだったから、当然
その親分である今西についてもいろいろと知ることになり、すごい人らしい
とは思っていた。1974年から刊行された全集も2冊購入している。
しかしそれらは積読で終わっていた。ただ気にはなっていた。

今回、鶏鳴学園の中学生クラスのテキストとして検討したいという理由から
読んでみたのだが、圧倒的なすごみと面白さを感じた。

 それは現在読んでいるヘーゲルの目的論、マルクスの労働過程論と、
あまりにも強く響き合ったからだ。それらを考えている今、読んだのでなければ、
またずいぶん違った印象になったかもしれない。

 なお本稿での『生物の世界』からの引用は「 」で示し、
講談社文庫判のページ数を付した。
 引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、中井が補った箇所は〔 〕で示した。

■ 全体の目次 ■

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ    中井 浩一

第1節 今西錦司と『生物の世界』
1.『生物の世界』の凄さ
2.登山と探検と学問 今西錦司の経歴 

第2節 『生物の世界』から学ぶ
1.一元的世界と生物の主体性
2.無生物から生物の生成
3.環境の主体化はつねに主体の環境化である
4.「支配階級」の交代
5.人類の誕生
6.相対主義への転落
7.仲間や師弟関係の問題

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
1.逆転
2.桑原武夫の功績
3.文明論の大家・梅棹忠夫
4.大衆社会の到来
5.時代の代弁者たち

──────────────────────────────────
■ 本日の目次 ■

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その1)   中井 浩一

第1節 今西錦司と『生物の世界』
1.『生物の世界』の凄さ
2.登山と探検と学問 今西錦司の経歴 
===================================

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ 
             中井 浩一

第1節 今西錦司と『生物の世界』

1.『生物の世界』の凄さ

 これは凄い本である。この本のどこがすごいのか。それを簡潔に説明する。

 まず、物事の本質を根本から、根源的に考えている。したがって、
ヘーゲルやマルクスと非常に近いところにいることがわかる。
もちろん、突き詰めていけば、その違いもまた明確で、今西のあいまいさや
中途半端さも見えてくる。しかし、それにも関わらず、その根源に迫ろうとする
迫力は大変なものだし、生物学、生態学の分野でヘーゲルやマルクスの理論を
具体化している点からは学ぶべきものが多い。これについては第2節にまとめる。

 しかし、こうした点だけならば、著者が西欧人だったとしても同じことが
言える。ここで、今西が日本人であることを思ってみる時、その凄みは一層
明確になるだろう。

 明治以降の後進国日本は、西欧からの先進的な学術や技術の輸入に追われてきた。
したがって、そこにはいつも夏目漱石の言う「他者本位」と「自己本位」の
矛盾の問題があった。「依存」と「自立」の葛藤である。日本の学者のほとんどは、
西欧研究者の「猿まね」であり、その翻訳者であるにすぎなかった。
そうした中にあって、今西は屹立している。その自前の思想のレベルは、
当時の世界水準を大きく超えていただろうと推測する。

 その自立性、その強烈な主体性は、本書の「序」によく出ている。
本書の刊行は1941年(昭和16年)。今西は、太平洋戦争への
出兵を目前にして、遺書のような思いで本書を書いたようだ。
「私はせめてこの国の一隅に、こんな生物学者も存在していたということを、
なにかの形で残したいと願った」(3ページ)。
本書には他者からの引用が一切ない。すべてが自分の言葉で書かれている。
だからこそ、今西はこうした学術書を「私の自画像」(3ページ)と
呼べるのだ。まさに「私」の自画像なのだ。
彼にとって、学問と自分は一体なのだろう。
彼の生き方とその学問は1つなのだ。
そうサラッと言える人がどれだけいることだろう。

 事実、この本は彼自身の人生の危機を前にした遺書であると同時に、
生態学そのものの危機を前にした提言書でもあるようだ。
「生態学という、実に広い未開拓の野に踏み込んで(中略)
差し迫った問題に関連して」(4ページ)書かれている。
だから本書では問いが沸き立っている。答えが噴き出している。
当時の生物界の抱えていた問いはもちろん、誰も疑問を待たないで
見過ごしていることに今西独自の問いが次々に立てられ、それに
片っ端から答えていく。その答えは、それぞれ面白く、納得できる。

 やはり、本書は大変な本である。重厚で圧倒的な迫力がある。

 それにしても驚くのは、当時の日本で、自前の学問をつくりあげ、
そのレベルが当時の世界水準を大きく超えていたような人がいたことだ。
それはなぜ可能だったのか。

2.登山と探検と学問 今西錦司の経歴 

 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年?1992年)は、京都西陣の有名な織元
「錦屋」の長男として生まれ、京都という千年の都で、由緒ある商家の
ボンボンとして育った。旧制京都一中、三高、京大と進学したのはエリートコース。
その一中以来の親友が第一次南極越冬隊副隊長を務めた西堀栄三郎。
その三高以来の親友が桑原武夫〔第3節の2で説明する〕。
3人は三高で山岳部を立ち上げ、その後京大学士山岳会を創設し、
ヒマラヤ登山など日本の山岳史上に大きな実績を残した。

 今西を考えるときには、大きく2つの側面を考えるべきだ。

 1つは登山家、探検家としての側面、もう1つは学者・研究者としての側面だ。

 今西のユニークさは、登山家・探検家の面の方こそが中心であり、
研究者の側面は副次的なものだった点だ。山=自然こそが主なのだ。
これが彼の学問のユニークさであり、当時にあっては(今も変わらない)
異端的な存在だった理由だろう。

 登山家、探検家としては、国内で多くの初登頂をなし、海外では
1932年、30歳の年に試みた南カラフト東北山脈の踏査を皮切りに、
36年の冬季白頭山の踏査、38年の内蒙古草原調査、
41年のポナペ島生態調査、42年の北部大興安嶺探検、
44年の内蒙古草原調査と続く。

 戦後も、その勢いは衰えるどころか加速する。
52年にマナスル登頂の準備のためにヒマラヤに初登山、
55年にはカラコルム・ヒンズークシ学術探検、
57年に東南アジアの生物学的調査、
58年以降にアフリカにおけるチンパンジーと狩猟民族の調査と続く。

 今西たちの登山、探検のレベルは世界水準のものであり、
そこに西欧コンプレックスが入る余地はない。彼には第1級のレベルの
仲間たちがいたし、彼らを組織するリーダーとしての能力が鍛えられた。
それは現実と理想の間を強靭につなぐ力だ。
組織の運営と金の算段、海外での活動には国家規模での交渉が必要になる。
計画や戦略の立案と実現のための客観的な現状分析やそれを実現する
勇気や決断の能力だ。

 さて、今西にあってはこうした登山、探検がそのまま自らの
研究活動と重なり、その思想を鍛える現場になっている。そして、
彼の研究における仲間や弟子たちは、こうした登山や探検の仲間や
チームの一員であったことが特徴だ。
梅棹忠夫〔第3節の3で説明する〕、川喜田二郎、中尾佐助、吉良竜夫たちは、
みなこのチームから育ったのである。
逆に言えば、京大で長い間無給講師を続けていた今西には
規制の制度内での弟子はほとんどいない。

 研究者としての経歴は生態学者として始まるが、初期の日本アルプスに
おける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究などは
すべて登山と結びついている。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。

 その後の海外での探検の活動からは、生態学を越えて動物社会学、
動物社会から人間社会(遊牧社会)の研究へと進んでいく。
『生物の世界』はこうした過程での産物である。

 戦後はニホンザルの社会集団の存在を実証し、その構造や
文化的行動について明らかにした。その後アフリカの類人猿、
狩猟採集民の調査を通じ、これがサルから類人猿をへて
人類にいたる霊長類の進化の過程とそれぞれの社会構造を
テーマとする巨大な研究プロジェクトになっていった。
そこでは人間社会、人間家族の起源について研究までがおこなわれた。
この研究におけるチームの伊谷純一郎と河合雅雄、川村俊三などは
今西の長い無給講師時代の弟子として知られる。

 
 こう見てくると、今西の学問の特異性が良く理解できる。
それは、従来の日本のアカデミズムの狭い世界を大きくはみ出している。
狭く縦割りの専門分野、講座制という旧来の師弟関係、そうしたものと
無縁の経歴である。

 今西の学問は、世界中の現地調査によるフィールドワークを
基礎とするものである。それは観念論的な物の見方を壊し、
リアルな実証研究を根底に据えるものだ。しかし今西たちはそこに
とどまらず、共同討議を基礎にして、未知なる広大な領域、
巨大な思想領域にまで踏み込んでいる。
それは当時の日本が生んだ数少ない、自前の自立した、
そして世界的基準の研究だった。

 全世界をまたにかけた探検から生まれた研究は、動物も人間社会も、
空間的社会学も時間的な進化論や社会発展をも視野に入れている。
それは今西のように理系の自然科学を基底に置くが、
人文社会科学や思想の領域をも含んだ総合的な研究となる。

 登山や探検では目的を共有したチームとしての組織的な活動が基本になる。
そこから生まれる研究は、個々の研究者が孤独に取り組むものではなく、
集団的な討議が中心の共同研究になる。また、今西の仲間や弟子たちは
大学や学会と言った既成の枠組みとは無縁のところに形成されており、
登山や探検という生死を共にするような強固な仲間意識でつながれている。
それだけに強烈な師弟関係、盟友関係があったことがうかがわれる。
彼らをまとめて今西学派、今西グループなどと呼ぶらしい。

 私はそこに、もう一つ、京都という文化的背景があったと推測する。
京都の文化的サロン、そうした自由な討議の伝統だ。
彼らは京都の町衆の後裔としてのエリート集団だったのではないか。

Leave a Reply