ずいぶん遅くなってしまいましたが、
夏の合宿の報告をします。
今年も例年と同じく山梨県の八ヶ岳の麓の清里で、8月21日(木)から24日(日)の
3泊4日の合宿を行いました。ヘーゲルの原書購読では、目的論(大論理学)を読みました。
ヘーゲルの『法の哲学』(翻訳)では全体の構造と第1部を確認し、第2部のラストの善悪、
第3部の第1章の家族の範囲を読みました。
2日目、3日目、4日目の午前は、参加者の現状報告とそれをめぐる意見交換の時間でした。
参加者は大学生(男子)1人、社会人が5人(男子2、女子3)でした。
参加者の感想と私(中井)のコメントを掲載します。
関心のある方は、ゼミに見学に来てください。
■ 目次 ■
1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方 畑間 香織
2.「家族」に個人は存在しないのか 田中 由美子
3.悪を進める 松永奏吾
4.聞く人にとって話がわかりやすいということ 小堀 陽子
5.自己への制限が自己を発展させる 加山 明
6.「他者と関わる」とは何か 掛 泰輔
7.コメント 中井 浩一
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1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方 畑間 香織
合宿でヘーゲルを集中的に読むたびに思うが、今自分が課題として思っていることが結果的に深まる。
言い換えれば、ヘーゲルが語っていることは、現実世界に根差した普遍的な理念であるからこそ、
自分の成長がいかなる段階であろうと、響く。それだけ徹底して理念が貫かれている。
具体的に今回響いた部分を言うと、「法の哲学」の第三部「倫理」の第一章の「家族」で
一番多くのことを感じた。理由は、私自身が親元を離れ、社会人としての生活を数年送り、
家族とは本来何なのか、結婚とは何か、自分はどのような家族をつくりたいのか、
ということを考えるようになっていたからだ。
夫婦のあるべき姿をたえず無意識に考えている自分がいたからこそ、余計ヘーゲルが語る結婚や
家族という部分にひきつけられた。
法の哲学の中の記述で、結婚は二人で一つの人格を為し、個人を止揚したものであるという点が、
特に魅力的だった。人間としての可能性がさらに広がる印象を受けた。
人間であることが、ヘーゲルのレベルまで到達できれば、この上ない幸せな存在としてあるのだと思い、
勇気づけられた。
まだ、私は家庭を持っていないからこそ、余計魅力的に思えるのかもしれない。
と同時に、そのレベルまで到達できるような生き方をしなければ、
その感覚は一生味わえないのだとも感じた。単純に家庭を作れば人間の可能性が広がるわけではない。
意識的にその可能性が広がるような生き方をしていきたいし、していくしかないのだと思っている。
2.「家族」に個人は存在しないのか 田中由美子
これまで私は、長年家庭を営んできたこと、子どもを育ててきたことを、半ば卑屈に、感性的、
自然的な行為として低く捉えていた。
ところが、人間の自由の意志を起点に人間社会を展開した『法の哲学』を読んで、確かに「家族」は
その初めの段階に現れるものではあるが、理性の展開には変わりないものとして捉え直した。
考えたいことは、「家族」の中には個人という人格は存在しないという、
ヘーゲルの家庭観についてである。それは具体的にはどういうことなのだろうか。
「市民社会」には個人が存在するとしているのだから、その個人とは、自分自身の基準、
テーマを持って生きる人間、というほどのレベルの個人を意味しているのではないだろう。
資産を「所有」する個人というレベルの個人であれば、家庭内にも存在するというのが、
近代の家庭の概念ではないだろうか。
確かに、ヘーゲルの叙述から、当時、そしておそらくヘーゲルの属していた階級では、
女性が外で活動することもないような状況下で、家庭の中に個人は存在しなかったと言えるだろう。
しかし、他の階級ではどうだったのか。また、現在はどうなのだろうか。
また、確かに、主婦が、○○さんの妻、○○ちゃんの母親という形でしか存在せず、
家族と一体化しやすいということは、私自身が経験してきたことである。
しかし、それは他者を基準としてきた私の生き方の産物でもあり、家庭において、親子関係は別にしても、
夫婦がそれぞれ対等な個人として相対しているケースも一定程度存在し、
それ故に、あるいはそれを目指すがために破綻する、というケースも増えているのではないだろうか。
人間にとっての婚姻というものが、ヘーゲルが言うように、対等な二人の人間が止揚されて
一人格となることだとしても、実際の家庭生活の中に個人が存在しないという形は、
現在衰退の方向にあるのではないか。そういう従来の家庭なら持ちたくないという若者が増えており、
また、個人の存在する家庭でなければ、家庭として成り立たないという、
そういう本来の家庭に発展しつつあるのではないだろうか。
あるいは、ヘーゲルの書いたことは、こういうこととは別次元の話なのだろうか。
3.悪を進める 松永奏吾
今年の夏の合宿で、これまで「悪」という言葉で漠然と思っていたものについて、考え直した。
ヘーゲル『法の哲学』は、第一部「抽象的な権利、法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」となっており、
その第二部「道徳」の最終章で、「悪」に関する長い叙述がある。
これまでの自分の中では、「悪」という言葉はまず、嫌悪の対象であり、憎むべきものの総称だった。
暴力、いじめ、強欲、感情に支配された状態(怒りで我を忘れるなど)、無責任、卑怯、怠惰、下品、など。
ところが、この「悪」は、感情の対象というよりむしろ、私の中で動く私の感情そのものである。
どうしても動いてしまうのが感情なのだから、それは認めるとしても、
これだと相手に囚われてしまって、その先に何も考えようがない。
ただ私の中に嫌悪の感情があるというだけか、せいぜい対象を「低い」と言っているに過ぎない。
さらに、この感情の中を泳ぐようにして考えを進めると、
悪とは、この世界の「正体」であり、自分自身の本体でもあり、ゆえに神とは悪のことであり、
自分も悪であり、したがって生きていても意味がない、となって苦しかった。
今でもこの方向に傾くことがある。
ヘーゲルは、悪を「分裂」と捉え、それは概念がまだ普遍と一致していない状態、とする。
そこで、もう一方の善を普遍、「統一」と捉えてみれば、
「分裂→統一」という運動の基本が「悪→善」で言われているのだと思った。
悪とは否定であるが、その否定(否定の否定)をもってはじめて運動になる。
だから、判断とは分裂だという場合、判断とはまさしく悪のことでもある。
要するに、生きるというのは「悪を進めること」である。
こんなにひどい世界が動いて成長し、どうやら「善」に向かっていることに対する驚き、
は私の中にもある。私の感情の対象であり私の感情そのものだった悪が、今回の合宿を経て、
捉え直され始めた気がする。
肝心な点は、「悪=分裂」の中にある肯定面を見ることができるか、否定の否定まで行けるか、である。
失敗や間違いや犯罪や暴力や戦争や対立は、それらは放っておけば単なる悪であるが、
その中にあるアンジヒなものを外化させ、より激化させること、私自身の中にある悪を外化させること、
である。
最後に、前々から不思議だと思っていたのだが、
「良い」を否定した「良くない」という言葉はイコール「悪い」を意味するが、
「悪い」を否定した「悪くない」は、イコール「良い」を意味するだけでなく、
「まあまあ良い」とか「なかなか良い」といったニュアンスがある。
上記の「悪」の捉え方でこの感覚をよりつきつめてみれば、
「悪くない」とは、「まあまあ良い」なんて甘いものではなく、
実は、イコール「良くない」、イコール「悪い」のことではないか。
「悪くない」すなわち「悪がない」というのは、「良い」と同様、発展の芽がない、ということではないか、
とすら思えてきた。
4.聞く人にとって話がわかりやすいということ 小堀 陽子
今回の合宿で改めて意識したことは、Aの話が聞いていてわかりやすい、ということだった。
「現実と闘う時間」でAが中井さんとやりとりした内容は、私には理解しがたい事柄だったにも関わらず、
今どんなことについて話しているのか、例えば、業界の仕組みの話をしている、とか、
どこがAの意見なのか、とかがわかりやすかった。
口述筆記したら、そのまま読みやすい文章になるだろう、と思って聞いていた。
Aはレジュメの形式は整理が不十分だったが、話を聞くと、頭の中が整理されているのが、わかった。
対して、Bの話はわかりにくい時があった。わかりにくい、と感じたのはどんな時かというと、
話の論点がずれてしまった、と感じた時だった。けれど、話がずれてしまった、と感じた時に、
どこがずれてしまったのかを指摘することが、私にはできない。
そして、私自身の話について言えば、聞く人がわかりづらく、辛抱が要るだろうと思った。
合宿でレジュメを準備しなかったために、話しているうちに迷子になってしまった。
Aはレジュメがなくても聞きやすく話ができるが、私にはそれはできない。
松永さんから「小堀さんの話は長くて、聞いていて辛いなと思った。」と指摘されたが、
そうだろうと思った。
そして、聞く人が辛いのは、話が長いことよりも、整理されていないことについてなのではないか、
と思った。
私は、整理して話をすることができないことを自覚している。3年くらい前だったと思うが、
やはり「現実と闘う時間」で、レジュメを用意せずに報告をしたことがあった。
友人の自殺についてで、気持ちも整理できていなまま話して、長くなった。
話しながら自分の気持ちを確認している作業をしていたのだと思う。
後日のゼミで、Aから、「先日の小堀さんの話は長くて、これは女性に特有のことかもしれないが、
今度あまりに話が長くなることがあったら、言おうと思っていた。」と批判を受けた。
私はレジュメがなく話すと、また同じことになってしまうと思って、
その後は、短くても必ずレジュメを用意するように心がけてきた。
通常のゼミでは、レジュメを準備した上で、話が無駄に長くならないように、
レジュメ以外の余計なことは言わないようにしよう、と頭の隅で思って話してきた。
でも、そのブレーキが、必要なことまで言わないことにもつながっているかもしれない。
なぜなら、私は大事なこととそうでないことの判断ができていないだろう、と思うからだ。
合宿の報告をした時、中井さんから、「Xのことは、経営上の重要な事柄だから、
僕の質問に答えてついでのように出す話ではなく、レジュメを準備して始めから話すべき内容だ。」
と指摘を受けた。私は、レジュメを準備していたとしても、Xの話をぬかしてしまっていたかもしれない、
と思った。それは、重要な内容とそうでない内容の区別ができていないからだ、と思った。
合宿3日目の晩の「現実と闘う時間」を終えて女子棟に帰った後、Bと話をした。
通常のゼミと異なったのは、帰りの時間や翌日の仕事のことを気にしないで話ができたということだった。
考えながら質問することができたり、ゆっくりした気持ちで話を聴くことができたりした。
話した内容について思ったことがある。
Bから、合宿の予習に取り組む話や中学生クラスの話を聴いていて、「優等生風なB」とは違ったBを感じた。
例えば、「法の哲学」を読んでいて、とても心に響いた箇所があったという話や、
ゼミを辞めたら後がないと思っている、という話は、Bの中に切実な何かがあるのだと、感じられた。
そして、私がBのことを「優等生風」と感じるのは、自分の影をBに重ねているだけなのかもしれない、
と思った。自分に理解しやすいように、自分の影を重ねてしまっているのではないだろうか。
自分の影を通して理解しようとすれば、それとは違ったBの本質は、私には見えないだろう。
もうひとつ思ったことがある。頭がゆるんだからこそ、浮かびあがってくる話がある。
気ままに話す中で、自分の思いや考えを改めて意識できることがある。
話をする中で、自分が整理されていくことがあって、自分はゼミではその作業はするべきではないと思ったが、
その作業はひとつの過程として大事だと思った。
けれど、自分で話しながら迷子になってしまった時に、迷子になったことが自覚できるようになれば、
他の人の話の迷子も「迷子になっていますよ」と指摘することができるようになるだろう。
店で話をするお客さんで、とりとめもなく話す人がいる。
たまに来るお客さんと音楽に関係ない話をするのはいいと思っている。
けれど、来る度に愚痴っぽい話ばかりする女性の長居は、困る。
今回考えて、話相手によって愚痴でない方向に行ける可能性があるのかもしれないと思った。
たぶん相手のペースに任せていたら、とめどなく愚痴になってしまう。
けれど、私の対応で、違うものが引き出せる可能性があるのではないかと思った。
5.自己への制限が自己を発展させる 加山 明
法の哲学の第三部では、家族、市民社会、国家と、個人を「制限」するものが順次展開されている。
そして、自己陶冶の重要性も繰り返し語られている。ヘーゲル哲学の核心は「発展」であるが、
その要諦を社会のレベル、個人のレベルの双方で示したのだと思う。
論理学の目的論でも、目的のために自己を制限することの重要性
(これを明示的に書いていたのは確かマルクスであったが)が導き出される。
囚人が実は自由である、という極端な例もヘーゲルは出している。
精神現象学でも、自己吟味によって無限の成長が可能であるとされている。
そして、人間は「承認をめぐる闘争」に身を投じる。
自己吟味は個人(=自己)を制限する社会(=他者)において為される。
個人は社会において、自己自身よりも優先されるべきものに出会い、ぶつかり、自己を成長させ、
そのことによって、また新たな、より高いものに出会うことができるようになって、再びぶつかる。
これをひたすら繰り返していくが、この過程こそが社会の発展でもある。
それを構造的に示したものが法の哲学なのだと思う。
家族を持たないという選択もあり、結婚をしない、結婚しても子供を持たない、
という生き方を選ぶ人も増えている。
だが、基本的には、自己を発展させる相手と一体となって、自己よりも優先される「かすがい」である
子供をもうけ、自己を制限することで、人はより大きく成長し、以て、社会を発展させるのだと思う。
何より、自己よりも優先されるもののない人生は、どこか虚しい。
こう言うと、宗教やカルトが連想されることもあるだろうが、
しかし、それすらも決して無意味な「依存」では無いと思う。
例えば、人生に何の目的も無いような、あるグレた青年も、自らの人生を懸けるに足る相手と出会い、
その相手のために懸命に自己を捨てて働く。
そのことによって、真っ当さを獲得して、成長していくこともあるだろうし、
その相手自身も社会の中で吟味されていく。
結局、自己が選んだ、自己を制限し、自己より優先されるもののレベルによって、
その自己自身のレベルも定まってくるというだけの話であって、
最終的には、その人間がどこまで登りたいのかに依存する。
6.「他者と関わる」とは何か 掛 泰輔
私は現在、慶応大学環境情報学部3年に在籍し、今年の5月から来年の3月まで学校を休学し、
福島県の原発被災企業でインターンシップ(職場体験)をしている。
その中で現在は社長と新規事業「被災地研修ツアー」をつくろうとしている。
合宿前半の目的論の講読で、中井さんは何度も「外化」、ということを言っていた。
その意味の一つは「外に向かわなければ中にも向かえない。そうなれば自分の本質がわからないまま終わる」
ということだが、では外に向かい、他者と関わるとはどういうことなのか。
私はこれまで、外に向かって行動していき、インタビュー等で相手と話し、
相手の本質を引き出そうとなるべく努めてきた。時に成功した部分もあった。
しかしそうしてインタビューした内容、結果を媒介にして、
ある組織の中で仲間・上司と意見をぶつからせるわけでもなく、
ただ中井さんの批判に晒すということに留まっていた。
つまり私は、外に出て行って人と会い、話をきき、自分の問いの答えを深める、
ということはできているが、その先に「仲間と何かを一緒につくりあげていく」ということができていない。
学校に行かなかったからそういう経験もない。
(私は高校は2ヶ月で中退しており、また中学でも集団で何かに必死で取り組んだ、といえるものがない。)
しかし今の私は「仲間と、あるいは上司・先輩と、一つのテーマ・事業をつくりあげていく」経験をしなければ、
今の段階を止揚できないのではないか、と思うようになった。
これは半年前の私にはほとんどなかった観点で、それは中井さんに批判され、
また今の福島でのインターン経験を通して少しずつ得られたものだ。
具体的には、インターン先の企業のある女性従業員の方の話に僕は心動かされ、
こういう人と何か協力してやれないものか、と思うようになった。
彼女の故郷は、原発事故によって住めない土地になってしまった。
彼女の行政区は、平成の大合併で市に吸収され、震災後は区民の生活に根ざした独自の判断ができず、
市の「帰還方針」に区として従わざるを得ない。
従業員の間でも、震災後に結束して仕事に集中しなければならないのに、
賠償金の支払額の違いによる目に見えない従業員同士の分断や役員の方向性の見えなさで
現場の士気が上がらない、お昼ご飯は一緒に食べるが、震災後の生活のことについて本音で話す事はない。
津波で家が流された方がマシだった、結婚した後も盆と正月はふつうに帰れる家があるのに、
現実は帰れない、この身を切られる辛さ。
話すほど彼女の問題意識は大きく深くなっていき私は圧倒された。
それまでの私はふつうの従業員や、原発事故で被災したふつうの人の、生活の中の言葉を
きいたことがなかったし、その必要も考えなかった。「被災地で新しい価値を創造しようとしている人」
というようないわゆる「すごい人」しか見えていなかった。
しかし実際は、この人のような真っ当な感覚をもった生活者の立場こそ、
私の心を打ち、かつ客観的に、誰もが自分の「生活」、「家族」、「仕事」を振り返って考えられるような
強く深いものがあるのではないかと思う。
現場で悩み、闘っている人と協力し意見をぶつからせることで、何かを一緒につくっていくことが、
今の自分を超えるには不可欠だという確信を強めつつある。
しかし事業の実施という意味での目に見える結果を出していないのが今の現状である。
では今までの私のやってきたことと、これから私のやろうとすることの何が本質的に違うのか、
なぜ後者の方が高いのか、という問いの、今の段階での私の答えは、
「事業を進めようとする中で、対象の本質がどんどん明らかにされ、
その客観に対して私自身は自分を変え、また変えられない軸を相手と自分に対してはっきりさせ、
発展させなければならない状況に追い込まれること」だと思う。
つまり他者と関わるとは相手に働きかけて本質を引き出し、こちらの本質も引き出される事で、
それによって私自身の側に過去の自分の認識の「断絶」をつくりだし、
同時に客観の側にも断絶をつくりだす
(対象を変える。相手は引き出された自らの本質に逆らう事はできない)ということなのだと思う。
これがヘーゲルのいう発展のひとつの意味なのではないか。
人は可能性をもって生まれ、その可能性を最大限生かして生きる事が、
幸福につながるのだと中井さんは言う。
そして他者との関係でどういう自分の本質が現れるのか、そのとき現れた自分が自分の本質で、
その奥に本質はないという。すごく現実的だと思う。
その時に現象している自分の本質から逃げられない。
しかし逆に、どういう客観の関係の中に自分自身を関係づけるのかで自分の本質をいかようにも引き出し、
過去の自分との断絶をつくりだすことができる。
例えば私の場合、インターン先のある従業員の方と関係をつくり聞き出した話が、私自身の、
過去の私との断絶になり、断絶が起きたからこそ、あるテーマに絞り込む事ができ、目的は明瞭になった。
目的が明瞭になったからこそ、自分は今何を超えなければいけないのか、使える手段は何なのかが明らかになり、
「あとはやるだけ」というところまで自分と対象の本質を展開することができた。
今は目の前の事で精一杯だが、大きく人生で考えたときに、
この心動かされる「断絶」を自分の中で何度つくり出すことができるかが、
自分をどれだけ発展させられるかという事なのだと思う。
そしてその断絶は他者(客観)と関わる事でしかつくりだせないということも、今回の合宿でその思いが強まった。
7.コメント 中井 浩一
掲載した合宿参加者の感想は、「現実と闘う時間」での意見交換のナカミには触れていない。
「現実と闘う時間」ではかなり個人的な問題を議論しているのでこのメルマガには掲載しない。
ヘーゲル哲学についての言及が多いが、原書購読(目的論 大論理学)よりは、
ヘーゲルの『法の哲学』(翻訳)を取り上げたものが多い。目的論はやはり難解なのだと思う。
なお、著者名の一部に仮名を使用したことをお断りしておく。
では掲載した文章についてコメントする。
1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方 畑間 香織
合宿でヘーゲルの『法の哲学』を読みあっている時に、「オ?ッ!」という低く重い響きが聞こえた。
思わず吐き出された呻きのようだった。そんなことはこれまでなかった。
こうした声(音?)が出るほど深く心が動くことがある。
「難解な」ヘーゲル哲学でもこうした直接的な反応を引き起こすことがあるのか、と驚いた。
それは畑間さんの声だった。その時の思いの中身を本人が書いている。
2.「家族」に個人は存在しないのか 田中 由美子
この文章には誤解があると思う。
個性や人格の平等が問題になるのは、市民社会の場で、他者や社会との関係の中であり、
家庭においては夫や妻、父や母という役割関係が前面に出るというだけのことだと思う。
第3部では第1部は止揚されているが、なくなっているわけではない。
こうした誤解があるが、人は自分の現状や関心に引き付けて読むものだし、それ自体は正しい。
3.悪を進める 松永 奏吾
ヘーゲルは性悪説の立場に立つ。この意味をどこまで深く理解できるかが重要だ。
ちなみに、マルクスは典型的な性善説の立場である。
ヘーゲルは判断の正誤といったレベルの奥にもう1段深いレベルとして、
概念それ自体の真理を問うレベルを用意している。
間違え・誤り・誤解と、正解・正しさは対ではない。正しさとは間違いの中からしか現れることはない。
善悪も同じだ。人間の外化の活動の中に、必然的に誤りも悪も引き起こされる。
しかしそれを克服する過程からしか善は生まれない。そこに過程と運動があり、そこにこそ発展がある。
松永さんが悪を「感情」と結び付けて表現しているのは、
『法の哲学』の善悪の理解としては、レベルが違うから間違っている。
しかし、松永さんは人間の外化の活動を問題にし、人間が外化を避けようとする気持ちの底にあるものを
見つめようとしているのだろう。人は自分の課題と向き合うために本を読む。
松永さんにとって、外化と悪との問題は重要な問題なようだ。
それを考えようとした松永さんの姿勢は正しいと思う。
4.聞く人にとって話がわかりやすいということ 小堀陽子
小堀さんは、「現実と闘う時間」での話し方に着目した。
「わかりやすい話」と「わかりにくい話」の違い。
そこからゼミでのそれまでの自分の言動、自分自身の日々の生活の反省をしようとしている。
実に真っ当だと思う。
しかし、混乱がある。Aの話は仕事上の問題に関わるもので、小堀さんの友人の自死をめぐる問題とでは、
大きな違いがある。
主に思考上の整理に関わる問題と、感情の整理が大変な問題とは、同一レベルでは論じられない。
その両者の違いを発展的にとらえるべきだろう。
Xに関わる問題は店の経営上の問題であり、これは思考の整理以前に、
経営や社会についての理解の深さの問題がある。
Bについての言及で、合宿の効用はその通りだし、小堀さんの優しさが伝わってくる。
しかし「自分の影をBに重ねているだけなのかもしれない」と、
簡単に180度ひっくり返ってしまうのは軽薄である。
これまで見えなかった自分と同一の面に気づいたなら、その上で両者の違いの面もより深く見えてくるはずだ。
「話をする中で、自分が整理されていく作業はひとつの過程として大事だ」はその通りだが、
それを「対象や自分を発展させること」というレベルで理解したい。
店の客の問題が出てくるが、これも「対象や自分を発展させる」ためにはどうしたらよいのか、
という観点で考えてみるべきだろう。
話をしっかり聞くことも大切だが、時には疑問を投げかけたり、厳しく批判することも必要なのではないか。
5.自己への制限が自己を発展させる 加山 明
『法の哲学』と精神現象学の自己吟味を結びつけて考えている。
抽象的な表現だが、自分の生き方(「先生を選べ」や結婚の問題)を問い直していることが伝わる。
ラストの「自己が選んだ、自己を制限し、自己より優先されるもののレベルによって、その自己自身のレベルも
定まってくるというだけの話であって、最終的には、その人間がどこまで登りたいのかに依存する」は、正しいと思う。
自己吟味については牧野紀之が言及している(「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」)し、
制限と限界の弁証法についても許万元と牧野の言及(「サラリーマン弁証法」、『哲学夜話』に収録)がある。
それらも読んでみると良いだろう。
6.「他者と関わる」とは何か 掛 泰輔
生活を哲学するのが私たちの立場だが、こうした文章がその見本だろう。
生活や運動の中で出会った疑問や問題の意味を深く考えるために、人は学習し本を読むのだ。
掛君は、福島県の原発被災企業でインターンシップをしている。
そこでの出会いが掛君を大きく変えた。その意味を言語化すべく努力している。
ここでの掛君はきわめて「実践的」だ。自分を作り、他者を作り、概念を作る作業に取り組んでいる。