旧約聖書読書会の感想 その5
昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。
参加者の感想を掲載します。
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◇◆ 5.神を必要とし、人間になること 塚田 毬子(大学生) ◆◇
旧約聖書は大学の授業で読んだことがあった。講読ではなく、旧約と新約の有名な個所を半期でざっと
味読する形の授業だった。その授業のねらいは西洋文化の根底を知ることであったので、聖書をあらゆる
文化の前提としてきたヨーロッパと、日本をはじめとする東アジアの文化のあまりの違いに異文化理解の
難しさを痛感した経験だった。鎌倉時代になってようやく宗教が民衆に根付き始めた日本と比べるとレベルが
違いすぎて、かなわないと思った。
今回改めて旧約聖書に接し、特に出エジプト記を興味深く読んだ。まず、モーセとアロンは一心同体であると
感じた。モーセはヤハウェの言葉を聞くが、民に語る言葉を持たないため、モーセの口の役割をアロンが担う。
モーセが抽象であり、アロンが具体である。正確には、モーセが思想であり、アロンはその表象であると言える。
その重要性が顕著に表れるのが28章の「金の子牛事件」であり、モーセがシナイ山に登り行方知れずになった途端、
民は分かりやすいイメージを求め、禁じられている偶像を作りそれを崇め奉るなど急に堕落し始める。
モーセが直接ヤハウェの声を聞くことができるため抽象のほうが優位なのだが、具体を伴わないとヤハウェと
民を繋ぐことができない。両者がバランスよく共にあることが必要とされていると思った。出エジプト記では何度も、
モーセが民に語っているかのように書かれているが、正しくはアロンが口の役割を担っているはずので、
アロンの記述の省略に違和感を覚えた。
また、4章16節にモーセがアロンの神となる、とヤハウェが明言しているのが気になった。出エジプト記中、
契約はヤハウェとイスラエル民族の間で成立するのだが、実際にヤハウェの言葉を聞くことができるのはほとんど
モーセのみであり、民はむしろ神の言葉を聞きたがらない。ましてやヤハウェ自身がアロンの神はモーセであると
言うのはどういうことなのか。23章のエテロの助言は、宗教を民を統治するための道具にしているように感じられた。
ここでの契約関係は人と神の一対一の関係ではなく、神と民の間に代表者を媒介とする。また、民がヤハウェを必要
としているとはほとんど思えない。民はヤハウェに連れられてエジプトから出てくるが、荒野での過酷さに
事あるごとにモーセに文句を垂らし、エジプトでの奴隷生活の方がましだと愚痴る。しかし重要なのは、
モーセとヤハウェの関係よりも、民がヤハウェを真に必要とすることであると思った。民族全体ではなく
民の一人一人と神との間に契約関係が結ばれれば、民を統治しようとする代表者は必要が無いので民によって
殺されてしかるべきだと思った。民は荒野での苦しい生活よりも快楽のあったエジプトでの奴隷生活を望むが
それは明らかに間違いで、どんなに過酷だろうと荒野に出て、神を必要としなければならないということだと思う。
イスラエル人を奴隷として痛めつけてきたパロは、蛙・虱・虻等々の嫌がらせをされてもイスラエル人に
暇を出すのを頑なに拒み、家臣に「いつまであいつにかきまわされるのですか」と冷静に忠告されるほど
何回も同じことを繰り返しているのだが、パロの心を強情にしているのはヤハウェであり、ついにパロに
出エジプトを許させたのもヤハウェであり、エジプト軍にイスラエル人を追って来させて海に沈めたのも
ヤハウェである。全ての黒幕はヤハウェであるので、人間の自由意志といっても神の自作自演のようではないか
と思った。あとは、金の子牛を作って大騒ぎしている民を見たヤハウェが怒りに任せて民を皆殺しにすると言う
のをモーセがなだめるが、山を下りて実際に騒ぎを目の当たりにしたモーセも怒りが燃えてしまい、
ヤハウェ直筆の石板を投げつけて粉砕する場面を個人的には最も面白く読んだ。
読書会に参加し、大学の授業での聖書の読み方は一般教養としての知識に過ぎなかったと感じた。
それに対し中井さんの読み方は、中井さんの立場から聖書を考えるもので新しい発見があった。それまで私は、
神と人間は親子のような関係であり、神は自らが創造した人間がどれほど愚劣な行いをしても、それを見捨てず
愛を持って接するという印象を持っていた。しかし旧約の神は妬む神であるということ、そもそも契約は
対等でないと結べないこと、契約関係は双方向の関係であるので神も人間を必要としているということを学んだ。
神も人間を必要としているというのは、神は人間のことを忘れたり思い出したりするので初めはそんなことが
あるのかと思ったが、確かに人間を必要としていなければ妬むこともないだろう。30章14節で他の神を崇拝する
ことを禁じていることからも、旧約の時点では拝一神教であり、数多く存在する神からヤハウェだけを神に
「選ぶ」ことが求められていると思った。また、新約聖書での「愛」は、隣人愛など慈悲深いイメージだが、
旧約の段階で「愛」と呼べそうなものはほとんど執着であると感じた。
旧約聖書との関連で読んだヘーゲルの『小論理学』の一部分も面白かった。ヤハウェが、善悪の木の実を
食べたアダムとエバのことを「われらの一人のように」なったと言うのは、認識は神的なものであるからだ
ということ。生命の木の実を人間から遠ざけたため人間の命は有限であるが、認識は無限であるということ。
中井さんの「原罪のただ中に救済がある」という言葉はまだ完全に理解できていないが、善悪を知ったことに
よって人間は動物とは異なる存在になり、自己内二分があるから精神を再び統一へ復帰させることができるのだと
把握した。それこそが最も人間的な営みであると感じた。
イザヤ書については、中井さんが「イザヤ書こそが旧約の核心である」と仰っていたが全くついていけなかった。
自分で読んでいても途中で飽きて投げ出してしまっていたが、時間をかけて全体を掴みたいと思う。