8月 23

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文(卒論)「三性説の研究」を全文掲載します。

塚田さんは京都の大学の仏教学科で学びながら、映画、演劇に強い関心を持ち、
実際に京都の演劇集団「地点」と関わっていました。

塚田さんは高校生の時に鶏鳴学園で1年ほど在籍し、大学3年の秋から中井ゼミで学び始めました。

卒論は昨年、4年生の夏から、今年の1月に提出するまで、私(中井)が指導しました。
仏教の唯識を代表する経典・アサンガ著『摂大乗論』の「三性説」を中心に論じたものです。

この卒論を全文掲載するのは、これが卒論として模範的なものだと思うからです。
自分自身の直接的な経験から生まれた問題意識から初めて、それをテキストで深めて、
その問題の答えを出そうと努力しました。
その点で、多くの大学生や指導教官の方々に参考にしていただきたいと思います。

この卒論のほかに、本人による卒論の取り組みを振り返った文章「22才の原点」と
中井による評価「問題意識を貫いた卒論」をあわせて掲載します。
この卒論のどこがどう模範的と考えるかを説明しています。

 卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。

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■ 全体の目次 ■

1.三性説の研究 『摂大乗論』を中心に 塚田毬子 
2.22才の原点 塚田毬子 
3.問題意識を貫いた卒論 中井浩一

■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■

序論 
1 論文の目的
2 筆者自身の問題意識
3 唯識とのつながり
4 論文の構成
※ここまでを本日掲載。

本論
一 『摂大乗論』の構成
二 アーラヤ識説
1 『摂大乗論』第1章の構成
2 『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討
三 三性説
 1 『摂大乗論』第2章の構成
 2 『摂大乗論』における三性説の検討
※ここまでは明日に掲載。

四 無住涅槃
 1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
 2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献
※ここまでは明後日に掲載。

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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に  塚田毬子 ◆◇

序論

1 論文の目的

 本論分の目的は、筆者自身の問題意識を、唯識を媒介にして深め、検討することにある。
この序論では、筆者自身の問題意識と唯識とのつながりを示す。筆者の問題意識を深めるにあたって、
なぜ唯識を用いるのか、唯識を媒介にして何がどう深まるのかを述べる。

2 筆者自身の問題意識

 筆者は少し前まで、十代の頃は特に、精神的な引きこもりであった。それはどういった状態を指すか。
当時筆者は、自分を取り巻く外界すべては問題だらけの「間違ったもの」だと思っていた。
外界とは、自分が接する人間関係や社会集団のことを指して呼んでいる。それらは空疎な上辺だけのものばかりで、
筆者には無意味に感じられるが、それがいかにも意味のある素晴らしいもののように語られている。
空疎な上辺だけのものを意味があると語ることは間違っていて、その間違いに気づいている自分は正しいと思っていた。
「正しい自分」は「間違っているもの」がひしめく戦場の中に放り出された状態であり、
その戦場では自分自身だけが「正しい自分」を守ることのできる唯一の要塞だと考えて、自分自身の中に深く閉じこもっていた。
当時筆者が救いを求めた音楽や本、映画は、自分の要塞を頑強にするためのものだった。
それらに触れることで外界が間違っていることを確認し、ここではないどこか、現実とは切り離されたどこかに、
正しいものや素晴らしいものはあるのだと思っていた。そのように自分を保っていた。
矛盾しているが、それへの自覚は無かった。
 なぜ外界を間違っていると思ったか、それは筆者の中に分裂が起きていたからである。
外界を間違っていると思う時、間違っていない正しいものが想定されている。
それは、自分の内面が分裂し、自分の内面に正しさも間違いも持っているために、正しいイメージを思い浮かべ、
外界を間違っていると判断するのだ。自分の内面が分裂せず、その基準を持たなければ、間違いだと思うことはない。
何も問題に思わないはずである。【1】
 しかし、数年間そのように精神的な引きこもりを続けてきたのが、今は引きこもりの状態を脱し、
外界と積極的に関係することを求めるようになった。外界と積極的に関係するということは、
鎖国からの開国を意味する。これまで必死で守ってきた自分を明け渡し、要塞が破壊されていくことになる。
以前の状態と比べれば、それは恐怖である。正しい自分が間違ったものの中に紛れて見えなくなってしまう。
だが、今はそれを欲するようになった。それはなぜか。どうしてそうなったか。
 それを要求したのは、他でもなく引きこもってきた自分自身である。引きこもってきたことが、
引きこもりを終わらせる原因となり、結果となったのだ。引きこもっている間に要塞の中で行っていたことは、
ただ間違った外界を遮断し、閉じこもっていただけではなかった。積極的な意味で、自分自身の中に深く潜り込んで
いたとも言えるのだ。間違った外界に巻き込まれ流されまいと、外界と対立した正しい自分を持とうとしていた。
自分自身を固め、それを外界に負けない頑強なものにしようとしていた。外界と自分とを二項対立にし、
問題を捉えようとしていた。引きこもることによって、分裂をより深めることになっていたのである。
だがある時に、正しかったはずの自分の内面は、外界と同じように間違いだらけだということに気が付いた。
構造として、外界と自分の分裂は、自分の内面の反映であり、自分の内面に間違いも正しさもあるから外界を
間違っていると捉えたのだったが、それまでは外界から自分を守ることで精一杯で、自分の内面の問題が見えなかった。
自分と向き会うことを無自覚的に避けていた。引きこもっている時点では、自分の内面を見ないで避けていても、
そのことが問題に上がってこなかった。それが、自分の間違い、自分の内面にある悪や汚染について、
あまりにも無自覚だということに気が付いた。自分が外界に対して間違いだと思うことは、
自分の内面にもある間違いだった。自分の内面にも問題はあり、分裂が起きていることをついに自覚したのである。【1】
なぜそれに気が付いたのか。
それは、ある会話の中で、筆者が信頼する他者であるAから筆者の過去の行動について批判を受け、
それに対して筆者は過去の自分の行動は正しかったと抵抗を試みたが、過去の間違った行動を正当化しようとしている
現在の筆者の行動も批判されたという出来事がきっかけにある。
それを機に考え、反省し、他者から向けられた批判が正しく、過去の行動も、正当化しようとした現在の行動も
間違っていたことを自覚した。他者からの批判により引きこもりにヒビが入れられ、その批判を受け入れた。
外界からの働きかけに、自分の内面が応じた。問題を問題と思うことができた。それは、引きこもっている間に、
問題がある程度深まっていたことを示したことになる。問題が深まっていなければ、他者からの批判に対して、
それを従来通り遮断し、抵抗していたはずだ。自覚してからは、それまで自分と外界の二項対立で説明できていたことが、
説明出来なくなった。
これは、引きこもっていたからそれに気が付かなかった、最初から引きこもりをしなければよかったということではない。
引きこもったからこそ、その問題に気付くことができたと考えるべきである。引きこもっていたことが引きこもりを
辞める原因になり、また、引きこもりを辞めるということが引きこもりが上手くいったことの原因となったのである。
引きこもりは問題の解決に向かうプロセスの一つだった。引きこもっていた当時は、それが当時の問題を解決するのに
適した方法だった。しかし新たな問題に気が付いた今では、以前の方法は今の問題を解決するのに適さなくなった。
今の問題には、今の問題を解決するにふさわしい方法が必要であり、今までの方法を変革する必要がある。
これまで守ってきた自分を壊し、分裂を激化させるという、これまでと真逆のことが必要になる。
これは筆者にとって革命的な転換であった。
なぜこれまでと真逆のこと、自分を壊し分裂を深めるということが必要になるのか。それは、これまで見ないで
済ませてきた自分の内面の分裂をより自覚するためだ。これまでは外界と自分との分裂しか自覚がなかったが、
外界と自分との分裂は、自分の内面の分裂の反映であると気が付いた。分裂によって起こった運動が、さらに分裂を深めた。
それにより、自分の問題をより自覚し、自分自身がより明確になった。自己理解が深まった。
この分裂と運動は人間なら誰にでもあるものだと解き明かしたのが唯識である。これまでの筆者の歩みは、
すべて唯識で説明することができる。どのようにして分裂がおき、それが運動を起こすのか。
そしてなぜ人間は問題に気が付き、それを解決させようとするのか。問題を解決することは何を意味するのか。
これらの問いに、唯識は答えを出している。

3 唯識とのつながり

唯識説は、現象はすべて心の表象であり、外界の実体はないという。現象はすべてまやかしであり、対象も、
それを見ている自分も実体を持たない。一見、自閉しているような印象をうける。認識の構造の例として、
舞台装置を挙げることができる。人間はそれぞれ舞台装置のスクリーンを持っていて、スクリーンの内側からしか
世界を見ていない。スクリーンの外側、スクリーンに映ったものの実相は、人間の認識では把握できない。
そのスクリーンに映る表象を見て、表象を表象ではなく本当のことと思い込むと迷いになり、
修行をしてスクリーンが無くなると悟りに達する。 一番大きな表象は能取と所取、つまり主観と客観であり、
認識主体と認識対象の二分である。この二つをあると思い、分別して執着しているのが現実世界であって、
この二つの区別が無いのが空である。
唯識の数ある論書の中で、一般的に唯識説を確立したと言われるテキストは、『唯識三十頌』やそれの漢訳である
『成唯識論』であり、そこに至るまでの過程にある重要なテキストの一つとしてアサンガによって著された『摂大乗論』がある。
『摂大乗論』の特徴の一つは、第二章において展開される三性説の二分依他説である。『摂大乗論』の二分依他説は、
それより前の時代のものである『般若経』の空の思想を受け継ぎながら、独自の思想展開を見せている。
唯識説の理論はアーラヤ識と三性説の二本柱である。この現象世界は、アーラヤ識と三性説の相互因果によって
起こっていると説明する。
アーラヤ識とは外化の仕組みである。アーラヤ識は種子を蓄えている蔵であり、諸存在と共にあることによって熏習される。
アーラヤ識の中に蓄えられた種子は、ある段階まで変化が進むと、外化する。それがまたアーラヤ識の因となる。
アーラヤ識と転識の相互因果によって現象世界の仕組みは説明される。諸存在はアーラヤ識を依り所とし、
外化へ向かって進む。これにより諸存在の生起と、輪廻転生を論理的に説明した。転識とアーラヤ識の分裂があるから、
運動が起り、変化が起る。
この仕組みは世界の実相に反映され、それを三性説という。この世界がどうなっているかを解き明かしたもので、
三つの相をもって示した。純粋な縁起する世界の仕組みを依他起性、依他起性が分別され執着されると遍計所執性、
依り所の転回がおこりアーラヤ識を離れると依り所が無になり円成実性となる。あらゆるものは純粋な因果関係で成り立っており、
それが執着の汚染によって分別の対象とも、分別されたようには存在しないという清浄の悟りともなる。
この三つは異なって独立に存在するのではなく、同じものの三つの観点であると示した。
純粋な因果関係の世界を媒介として、三つのあり方は同じものの転変になる。
これは、世界の変化の可能性を認めているということである。なぜ三性は別々に存在しているのでなくて、
一つの世界の三つの観点と言えるか。それは、依他起性をその仕組みとして持っているからであり、
依他起性が分裂の構造を持っているからである。そのことを主張したのが二分依他説だ。
唯識説を確立させた瑜伽行派は、その学派の名が示すように瑜伽行を重視する。理論と実践は一つであり、
理論即実践が瑜伽行派の立場だ。『摂大乗論』は体系づけられた論書で、前半を理論編、後半を実践編と位置付ける
ことができる。理論なくして実践は無く、実践なくして理論は無い。世界の実相を解き明かすだけでは、
理論にとどまっていることになる。世界に対して自分が出した答えは、実現が可能な理論だというのが
瑜伽行派の立場である。そうであれば、この世界の実践のすべては、唯識の理論によって説明できるということでもある。
すなわち、筆者自身の問題や生き方も、唯識によって理論づけることができるはずである。
この論理から『摂大乗論』を選択し、自分自身に対する理解を深めようと考えた。

4 論文の構成

本論では、三つの章に分けて考察を進める。一章において『摂大乗論』の全体像を把握したあと、
二章でアーラヤ識の理論を検討し、三章において三性説の理論を検討し、それぞれ筆者自身の実践を唯識の理論で説明する。
ここまでで、なぜ人間は問題に気が付き、それを解決させようとするのかという問いの答えを示す。
つづく四章においては、問題を解決することは何を意味するのかという問いを考察する。
アサンガが出した答えを検討し、結論において自分なりの展開を試みる。
本論文における『摂大乗論』の引用は玄奘訳の長尾訳を用い、重要な単語は玄奘訳原文も参照する。
引用文内で原文を参照する箇所がある場合は引用文中に下線を引き、引用せず単語のみ参照した箇所とともに脚注において示した。

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