8月 27

中井ゼミのゼミ生、高松慶君は大学生で、日本の雅楽に関心を持っている。
それもただの関心ではなく、実際に笛を習っている。
卒論をどうするかをそろそろ考えないといけないのだが、民俗学の視点から民謡を取り上げることを
私から提案している。民謡への関心が、雅楽への関心と共鳴し、それぞれを深めることになると良いと思う。
今回は、高松君が実際に民謡を取り上げて考えてみた文章を掲載する。
これは今年6月の文章ゼミに提出されたものだが、そこでの意見交換を踏まえて書き足したり、書き直された部分がある。

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◇◆ 民謡について 高松慶 ◆◇

民俗学者の香月さんが5月に鶏鳴学園で講演会を行った。そこで聞いた話に、気仙沼で自分たちで祭りを企画し、
地元で生きる人の人生譚等を交えながら民謡を歌い最後はスタンディング・オーベーションというのがあった。
私は韓国育ち千葉県の市川市育ちで、方言を知らない。韓国語は懐かしいと思うも、読み書きができるわけでもない。
だから民謡というと何となく遠い存在のように思ってしまう。
しかし、民謡を歌う、聴く事で自分の生活、特に労働を振り返ることができるというのは普遍的だと思う。
普遍的であり、切実だ。生活に根差しているからだろう。民謡には具体的に何がどう込められているのだろうか。
図書館に行くと民謡のコーナーがあり、「全国民謡全曲集」「正調○○節」というCDが、西欧音楽の10分の1にも
満たないほどに置かれていた。正調というのは、何をもって正しいと決めたのか。
民謡は生活の中で広がっていったもので、そのどれにも真実があると思う。どの地域の民謡が偽物とか、本物とか、
そういう議論はくだらない。まず聴いて、声の調子とか歌詞とかを少しでもつかめればよいのだろう。
というわけで、「全国民謡全曲集」というCDを借りて聴いた。東北だけ各県ごとにあり、あとは地方ごとであった。
バッハも同時に借りていたこともあり、今回は「秋田編」「九州・沖縄編」だけ借りた。
なんとなく東北と九州には興味がある。両方とも祖父母の出身地だ。山形は無かったので秋田を借りた。

ひえつき節(宮崎)
 宮崎県東臼杵(ひがしうすき)郡椎葉村の歌。稗を杵でついて脱穀する時の仕事歌。
椎葉村は平家の落ち武者が隠れ住んだと言われるらしく、この歌の3番は那須大八郎と鶴富姫との恋を短く歌っているらしい。
那須大八郎は鎌倉からの平家残党征伐の命を受けて椎葉を訪れたが、平家残党に戦意は見えない。
結局征伐は取りやめ、鶴富姫との間に子どもを成した後に帰還命令で鎌倉に還ったのだという。
ダム工事で村に入った工事関係者が全国に広め、1953年にレコードに吹き込まれるに至ったという。
私が借りたCDでは琴と尺八の伴奏がついているが、本来そうかは分からない。
借りたCDに入っている32曲の中で琴が使われる曲はこの曲だけで、あとは三味線がほとんど、沖縄のみ三絃。

 庭の山椒の木鳴る鈴かけてヨーホホイ
 鈴の鳴るときゃ出ておじゃれヨー

 鈴の鳴るときゃなんと言うて出ましょヨーホホイ
駒に水くりょと言うて出ましょうヨー

那須の大八鶴宮おいてヨーホホイ
椎葉立つときゃ目に涙ヨー

 最初は聞き取れなかったが、随分と悲しい歌だと思いながら聴いていた。
これが仕事で歌われているのかと疑問に思いネットで調べると、本当にそうらしい。
ダム工事の関係者が覚えているというのも、自分の事として感じられたからではないか。
 ただ、歌にしても伴奏の琴にしても、音としては「私はいままさに悲しんでいるのだぞ」というような自己主張がない。
よく通る音で、草津温泉の湯をかき混ぜている力強い情景を思い出す。
尺八は哀愁が強く感じられるが、竹製らしくやはり通りも良い。
 これが労働の中、そして後で歌われることに具体的にどのような意味があるのかはさておき、
私はなんとなく昭和の歌謡曲は民謡とよく似ていると思う。私が中学生のころから好きな歌がチューリップの
『心の旅』だった。上京に伴う失恋を嘆く歌だ。私は恋人と恋愛関係を終わらせたとき、私の心の中にはこの曲と
松田聖子の『風立ちぬ』がイメージとして強く存在した。自分から切り出した別れであるにも拘わらず、
別れたショックは激しかった。そして今でもこれらの歌を歌っていて、孤独の寂しさをこぼしつつ生活している。
 昭和と言うと何と言っても戦後の荒廃からの高度経済成長、バブル景気と、経済的な成長が挙げられるが、
その時から社会の最前線で働く人たち、そして学生たちに不安や空虚さがあったのだと思う。
経済成長、物質的な成長はそれを一時的に覆い隠せもするが、
歌を聴いている時だけはそれを隠すことはできなかったのではないか。歌を聴く事が外化であり、同時に内化だったのだと思う。
 それと同じことが、平成の私に、ひえつき節を聴いたときに起こっている。
特に三番の「椎葉立つときゃ目に涙」という歌詞は直接的で刺さる。
 故郷からの上京は自分の選択なのに、何故刺さるのか。
ゼミ生のAさんがそれまで関係していた人たちとの関わりが終わるに際し書いた「楽しかった時期は終わった」
という言葉が一番象徴的だが、相手と別れることは古い自分と別れることだからだ。
別れる時は、相手だけを思い浮かべるだけではなく、相手と自分との関係、直接的には思い出を思い浮かべる。
だからこそ、相手と別れる、相手を否定することは、古い自分を否定することだ。
自分の隣に何もないし、誰もいないという感覚がある。他者がいない以上自分もいない。最後は自分を殺すことになる。
 労働している最中に自分を殺すわけにはいかない。そこに再生があるはずだ。しかし、ひえつき節はどうしようもなく
絶望的で哀愁に満ちている。安易な希望に満ちた再生ではない気がする。むしろ集団が持っている絶望を一斉に外化し、
共有することで、労働の辛苦を乗り越えようとしているのではないか。テーマを持っていると思うが、実はかなり殺伐
とした闘争に向かって行っているように思える。そこにこそ可能性があるのか。それを民衆は知っていたのだろうか。

阿里屋(あさとや)ゆんた(沖縄)
沖縄はやはり本州とは随分違うなと思う。沖縄のニュースなどでシーサーや住宅を観る度に思ってきた。
シーサーは目がぎょろっとし、瞳まではっきりと形作られちょっと怖いが、狛犬は近所の神社の像を見る限り
そこまで目はリアルではない。
民謡ではどう違うか。音楽そのもので言えば、全体的に音域が高い。歌が中心で、三絃、三板、太鼓という楽器を
下敷きにしているが、そのどれも高い。高いだけでなく、なんとなく乾いた音がする。基本的に明るい。
乾いた音とはどういう音か。三線と三味線で比べれば、両方とも同じ形状をした三本の絃を持つ楽器だが、
三絃はその胴が蛇の皮で出来ているのに対し、三味線は専ら輸入された犬猫の皮を使う。やはり原材料になる
犬猫と蛇の生態の違い、冬眠の有無、つまり恒温動物か変温動物かなのだと思う。自然性ということになる。
三線販売店の売り文句に「北海道などの寒帯でも使えます!」というのがあった。もともと蛇は冬眠する生き物だから、
その皮が寒い環境下では使えるはずもないと思う。
ただ、その自然性は人間の社会性の土台にもなっていて、その地域の労働の在り方と密接に関わっている。
本州の人々が三線ではなく三味線を選んだ理由は、自然性に基づく材料の実用性と社会性とによるのだろう。
どう影響しているか、その結果として具体的にどのような社会性が三線の音に、沖縄民謡に現れているかは分からない。
「南国風だね」などと済ませるものでもなく、では南国風とはどういうことかを考えなくては始まらないと思う。
今は「こういう捉え方があるのか」くらいにしておく。
 明るく乾いた音なのだが、そこで歌われる言葉はどこか温かいと感じる。
歌詞は1番から4番まであり、それが3分30秒という短い時間の中で歌われる。何となく語りに近いかもしれない。
以下はその歌詞。括弧の箇所は毎回歌われる。

1.サー君は野中のいばらの花か
(サーユイユイ)
暮れて帰ればやれほに引き止める
(マタハーリヌチンダラカヌシャマヨ)

2.サー嬉し恥ずかし浮名をたてて
主は白百合やれほにままならぬ

3.サー田草取るなら十六夜月よ
2人で気兼ねもやれほに水入らず

4.サー染めて上げましょ紺地の小袖
掛けておくれよ情の襷

1と2が恋愛の頃の歌、3,4が結婚後の頃の歌という感じがする。
前半では茨とか浮名とか激しい言葉が使われているのが、3,4で日常を歌っている。
 3,4を聴いていると、結婚生活もテーマが無ければ成立しないのだなと思う。両方とも共同作業の歌だ。
4はおそらく前者が女性の、後者が男性の立場だと思われるが、それが明るく軽い音の中で取り交わされている。
私は「結婚生活」なんて言葉を聞くと甘々の新婚生活しか思い浮かべない。
父が母の尻に、母方の祖父が祖母の尻に敷かれていて、その関係がそのままずっと続くことに「情けないなあ」と思ってしまい、
夢見がちになる。それで「あー結婚したい」などと考えてしまい、シンデレラに憧れる5歳の女児並みのレベルの低い妄想が始まる。
そこには3、4のような労働の辛苦が無い。
 勿論、この歌全体が明るい調子なので、あまり3,4には辛さを感じない。
しかし、それは歌う人たちが労働の苦しさを、歌う事を通して喜びに変えるためなのだと思う。
民謡は原罪を止揚するものではないか。歌うことで自分の労働を自己相対化し、自分の主体性を客観的な立場から捉え直し、
主体性を再生するのだと思う。
 中井さんから、文章ゼミの際に「ここは安易だ」との指摘を受けた。労働=辛苦という決めつけがあり、
喜びと結びつかない労働なんて本当に労働といえるのだろうかと言われた。私は父が夜遅くに帰ってきて、
「疲れた疲れた」とひとりごちるのをよく聞く。「職場でこんなことがあってさ」とオープンに、
楽しそうに話す父の姿は見たことがない。その父の姿が私にとっての今の労働なのだと思う。
 しかし改めて考えてみれば、苦しさを外化させるだけにとどまる歌が残り続けるとは思えない。
苦しいこともあったが、それを一緒に乗り越えてきた周囲の人々、自分との関係を思い出しながら歌っているのではないか。
田草を取るというのは稲か雑草かは微妙だが、どちらも腰を屈めて、草を引き抜いてという大変な仕事だ。
それを夫婦2人でやることに意味があるのではないか。宮本常一の『女の民俗誌』にも、農家だけでなく、
船上生活をする漁師の夫婦が出て居た。そうして生活を長い間ともにしてきた人が、
「気の合わない人同士で一緒にいたってつまらんでしょう」とはっきり言えるのは、
関係しあうことの中に喜びを見出せる証拠ではないか。
 この歌を毎度しめくくる「マタハリヌ…」は沖縄方言で、「また逢おう、美しい人よ」という意味らしい。
意味は知らなかったが、この箇所が大好きだった。これが結婚生活を歌う3,4番で歌われるというのも重要だと思う。
常にテーマへと回帰していっているのではないか。大げさかもしれないが。
ウィキペディアによれば、この歌は沖縄県八重山諸島の竹豊島に伝わる古謡を改作したもの。
『新安里屋ゆんた』とも。「ゆんた」というのは田植え歌、つまり労働歌の一種だ。
楽器は古謡では使わないらしいが、私が借りたCDでは三絃、三板、太鼓という楽器を用いている。
普久原恒男監修、星克作詞、宮良長包編曲のもと、伊波みどり、伊波智恵子が歌う。
伊波みどりらはネットで調べてもCDの情報が出てこないが、沖縄県の教育委員会で講師を勤めるなどしているらしい。
平成21年から23年までの報告書に記載がある。
普久原恒勇は「芭蕉布」「十九の春」「丘の一本松」などの人気曲の作曲家らしく、
ビクター曰く「普久原恒勇ほど大衆に愛され大事にされている作曲家は他にいないであろう」。
星は1905年生まれの教育者、政治家で、戦前は教育者だった。1922年に石垣島で白保尋常高等小学校の代用教員。
この時安里屋ゆんたを改作し「新安里屋ユンタ」を作詞。宮良も1883年生まれの作曲者、教育者。
1883年に八重山島高等小学校、1921年から沖縄県師範高等学校の教師を勤めながら、「新安里屋ユンタ」の編曲、
童謡の作曲をし、「沖縄音楽界の父」と呼ばれる。いずれも沖縄県出身。
沖縄県で教鞭をとった人がそのまま作曲家というのは面白い。『忘れられた日本人』や香月さんの話でも感じたが、
教員が自分の住む町、暮らす町の郷土史を理解することは、その町からみてかなり重要なことであるように思う。
子どもに自分たちの生い立ちを考えさせる土壌を与えるだけではない特別な何かがあると感じる。
古謡では使われなかった三絃が使われているのは、起源を改悪することではなく、
古謡という生成史を現在の自分の立場から捉え、そして展開していくことではないか。
「古謡はダメだから、新しく現代流に作り直してやろう」というようなつまらない自我を感じない。

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