2月 15

◇◆ 12 改めて、「公開の原則」 ◆◇ 

すべては公開されるのが原則である。ところが世間では全く逆に理解されているのではないか。プライバシーは晒されてはならない。プライバシーの保護は絶対である。公開はある限定された条件下でのみ行われる。公開されることが例外なのである、と。
こうしたことを考える際によく例にされるのは、裁判所の審理ではすべてが明らかにされることである。そこでは隠すこと、隠されることは何一つ許されない。
例えば離婚をめぐる家庭裁判所の裁判では、結婚生活と離婚の原因に関する限り、個人の私的なことの全てがそこで明らかにされていく。 DV も不倫も性的不能も、犯罪歴や依存症、嗜好性も、何から何までである。そこには当然ながら嘘も張ったりもある。家庭裁判所の調停が効力を持つのは、夫婦間の秘密のすべてが世間にさらされることを避けたい、という思いがあるからである。
このように家庭裁判所の審理ではすべてが明らかにされるのだが、これを例外と考えるか、これこそが本来のあり方だとして考えるかで、対極の考えが生まれる。普通は、これを特別とし、一般にはプライバシーは保護されると理解されている。それがこの特殊な場面においてのみ、それが公開されると理解する。しかし実際は逆なのである。

この裁判でのように、すべてが明らかにされることこそが、基本的で一般的なあり方なのである。個人情報も、その人の死後は公開される。私信、恋文やラブレターまでが公開される。作家や政治家などの伝記、評伝、研究書などを思ってみればわかるだろう。あ
政治上の秘密文書も機密文書も、秘密にできる期限は限られる。役所や会社での「マル秘」「内部機密」「厳禁」も同じである。どれだけそれを厳しく管理しようとも、それはすべて期限付きであり、期限が過ぎれば全てがオープンにされ批判され判断にさらされるのである。またそうでなければならない。
また、その内容が憲法や法律に違反する場合には、その内容を内部告発して外部に明らかにすることこそが正しいのではないか。
 個人のプライバシー保護も同じである。それは絶対的なものではなくあくまでも限定されたものでしかない。
つまり、公開こそが原則なのである。それがある一定の条件下では、ある一定の期間に限っては、秘密にすることが許されるだけなのである。

この、公開こそが一般的原則であるとわきまえていることは、私たちが表現者であり、批判者であるうえで、決定的に重要である。そこでは対象と闘うのであり、どんな闘いも、それがどんなに普遍的な人類の基本問題だったとしても、それ自体はどこまでも、個別・具体的なものであり、それとは固有名詞の具体的な世界で戦うのである。批判者、告発者の実名を公表するかどうかも問われる。その対立は最終的には裁判になるのであり、そこでは文字通りすべてがオープンになる。
公開が原則なのだから、それがその時点でどれだけ制限されるか、その幅が問題になるだけなのだ。それは、その時点での諸条件の中で判断していくしかないのだが、制限は一時的なものであり、最終的にはすべてが個別具体的に明らかにされるのだ、ということを意識していなければならない。その時には、すべてを固有名詞で明らかにできるようになっていなければならないのだ。そうした取材と批判がそこでは求められるということだ。
このことは、そうした特殊な職業や仕事にのみ関わることではない。人間が社会の中で生きていく上で、決定的に重要なのである。それによってその人の物の見方、判断、自分の行動原理が180度変わってしまうからである。
 私たちの言動のすべては、隠すことはできず、ごまかすこともできず、いつかはすべてが白日の下に暴かれることになる。自分の言動のすべてに対し、自分の人生に対して責任を取る覚悟を持って、生きるしかないのである。それを意識し、その覚悟をもって生きることが、私たちがよりよく生きるために必要なのではないか。
それは神の前に一人立つことと同じなのである。
                         2022年8月8日

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