旧約聖書読書会の感想 その3
昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。
参加者の感想を掲載します。
────────────────────────────────────────
◇◆ 3.人と神が、自分と世界をつくっていく 田中 由美子(鶏鳴学園講師) ◆◇
「創世記」と「出エジプト記」を読んだ。
初めの部分を除いて、具体的で生々しい物語だった。
これまで私が「出エジプト記」だと思っていたものは、英雄が奇跡を起こす物語であり、
何かの折に聞きかじって聖書だと思っていたものは、新約聖書の中の教訓を込めたような逸話やたとえ話だった。
しかし、実際は、そういう英雄談でも説教めいた話でもなく、生活や歴史の中の出来事をリアルに描いた物語だ。
楽しい出来事、きれいな話はない。困ったことが次々に起こり、殺しや盗み、裏切りが行われ、
憎しみや嫉妬のあふれる、どろどろの現実が描かれる。そういう物語が、長い間キリスト教とユダヤ教の聖典とされ、
多くの信仰者を擁する宗教を支えてきたという事実がおもしろい。
考えてみれば、きれいな話では人間が生きることを支えられない。失敗だらけで不幸に満ちた物語が、
失敗だらけで不幸に満ちた人生をしぶとく生きる人間を支えてきた。現在、キリスト教が、聖書をきれいな話、
ありがたい話として前面に出しているのであれば、それはむしろ人を現実から遠ざけ、余計に苦しめる面が
あるのではないだろうか。
また、女性の描き方もリアルだと思った。
女性が登場すれば、何か裏工作をしたり、ワガママだったりする。男も悪事を重ねるのだが、その趣が違う。
それは何を意味するのか。
太古から社会で表舞台に立つのは男であり、女は決定権を持たなかった。
しかし、女あっての家族、人間社会であるから、男もそれを無視はできない。
神も、女のワガママを受け入れる。例えば、アブラハムの妻、サラが、夫に、女奴隷との子をもうけさせたのに、
実現してみれば、あれこれと駄々をこねる。神は、結局、そのワガママを聞き入れてあげなさいと、アブラハムに言う。
女は決定権を持たないから、責任も免除される。
しかし、それは、男社会の裏の面を、女に投影しているに過ぎないのではないか。
「無責任担当者」を用意しておいて、都合のいいときに利用しているように思われ、そこがリアルだ。
イサクの妻、リベカが、マッチョな長男よりも賢い次男、ヤコブをよい目に合わせるが、やはり裏工作だ。
そして、それを夫も神も追認する。エジプトの王がイスラエル人に男の子が生まれたら殺せと命じたとき、
こっそりモーセを隠したのも、モーセを拾ったのも、女だ。
一番の衝撃は、神の人間臭さだった。例えば、神が「わたしはおまえと契約を結ぶ」とノアに言う。
そして、ノアを箱舟に乗せて全てを全滅させた後、なんと神は後悔する。
モーセも平凡な人だ。神にエジプトの民を救い出せと言われたとき、「とても、わたくしのようなものが…」
と引き下がろうとする。身につまされて、可笑しい。
神がモーセのお尻をたたき、また人間に対して怒り狂ったり、また逆に、人間が神に何とかしてくれと
せっついたりしながら、人間も神も自分と世界をつくっていく。
また、奴隷も神から、「おまえはどこから来て、どこへ行くつもりだ」と問われる。
モーセが十戒を授かるときにも、奴隷の解放が問題になっている。
人間と神が対等であり、それがキリスト教の人格の平等という思想の基にあるという中井さんの話が、
聖書の内容から実感された。
聖書を読む最初の読書会に参加して以来、聖書を読むのがおもしろくなった。人間の欲望全開の話であり、
資本主義や平等概念につながるものだという中井さんの読み方、また、ユダヤ民族が砂漠をさすらう圧倒的
弱小民族であるから、彼らが生き抜くために唯一絶対神との契約が必要だったという見方を学んだためだったと思う。
特にモーセの物語、モーセとパロとのどたばた劇など、十分に楽しんだ。難しい理屈だけでは民衆を支えられない。
多くの人に語られて、みんなで聞いておもしろい、聞いたら忘れられないようなストーリーが、人を支えたのだろう。
ただし、中井さんが旧約聖書の肝だとする「イザヤ書」は、歯が立たなかった。
最後に、人間には原罪があるから救済されなければならないのではなく、原罪のただなかにこそ救済がある
という中井さんの言葉が心に残った。私は長い間、自分が何か自分とは違う、別の人間にならなければ
ならないような気がして、しかし、そのちぐはぐさに希望を感じなかった。
目を背けたいような自分自身にどこまでも迫っていくところにだけ、道が拓けるのではないか。