7月 07

第60回全国作文教育研究大会(2011年 60周年記念東京大会)

日本作文の会は、創立60周年を迎えました。今夏の東京大会は60周年記念大会として開催されます。幸いにも東京都教育委員会はじめ多くの区市教育委員会の講演をいただくことになりました。
 高校作文教育研究会が担当している高校分科会もまた、全国の実践家に発表をお願いし、これまでにも増して分科会としての充実を図っています。地元企業に取材してポスターセッションを行った音川さん(京都)、連歌は実作してこそおもしろさが分かると創作指導に取り組んだ黒岩さん(福岡)、被爆体験の聞き書きを子ども時代に体験し、今教師としてそれを指導する立場にある渡辺さん(広島)が語り継ぎ、聞き継ぐことの意味を考えた実践、不登校の兄への聞き書きを通して発見したこと、それを論文、志望理由書にまで高めていった生徒のことなど、昨年のホットな実践を報告する中井さん(東京)。4本のレポートを1日半かけて、報告&討議します。どれも見逃せない魅力いっぱいのレポートです。
みなさんのご参加をお待ちしています。

■ 期日
  7月29日(金)?31日(日)
■ 会場 東京 
(1日目)調布グリーンホール (2・3日目)正則高校
■ 参加券 5000円 (当日券 5500円)
■ 宿泊 案内にあるホテルをご利用ください。
■ 内容 7月29日(金)全体会(調布グリーンホール)
10:00 オープニング
10:10 60周年記念行事「子どもと作文教育の未来と希望を拓く」
11:10 東京の若い教師からの発信
      「わたし、こんなことやりたくて先生になったんだ」
12:00 昼食・休憩
13:00 中野七頭舞
13:15 東京からの実践報告
      「『先生聞いて!』おしゃべり大好きな子どもたちと作る詩の授業」
       報告・授業DVD・パネル討論
14:45 休憩
15:00 記念講演「子どものこころ 詩のこころ」工藤直子
16:30 閉会
17:00 世話人・発表者打ち合わせ
17:45 終了

7月30日(土)分科会(正則高校)
9:00 分科会
16:30 終了(17:00より総会)

7月31日(日)講座・分科会・全体会(正則高校)
9:00 講座・分科会(高校分科会は7/31も分科会を行います。)
12:00 昼食・休憩
13:00 全体会 特別講演「憲法を活かして平和をつくるー世界68カ国を取材してー」伊藤千尋
14:30 閉会集会(感想発表・次期開催地発表)
15:00 散会

高校分科会(第?分科会)の内容
この分科会は、1日半の分科会です。7/31午前中も分科会を行います。
?「読むこと」「書くこと」の日常的な指導について
 音川誠一郎(京都府)
 地元企業への取材を元にポスターセッションを行った。取材内容を文章にまとめる力、それを他人にわかりやすく伝える力の育成をねらいとした。対象は高校1年生。時間は約10時間。その実践の一端と生徒作品を紹介します。

?「連歌」を取り入れた授業
                 黒岩 淳(福岡県) 
「連歌」は、日本の伝統的な文芸であるが、その面白さは、実作してみて実感することができると考える。そこで、生徒の創作を取り入れた古典の授業を行った。「俳諧連歌を理解させる『奥の細道』?芭蕉の発句をもとに『表八句』創作―」と「脇句の創作を取り入れた発句の学習指導―西山宗因の発句を教材として―」である。

?語り継ぎ聞き継ぐ国語表現
   渡辺郁夫(広島県)
 『月刊国語教育』誌での『彼岸花はきつねのかんざし』紹介記事から私と広島での被爆体験との関係を語り、続いて国語教師として、放送班参与としての指導を通しての取り組みを語る。困難な体験を通して、ただ悲惨さを伝えるのではなくそこから学ぶべきものを語り伝えていきたい。

?聞き書きから論文、志望理由書まで
          中井 浩一(東京)
聞き書きは、高校生が社会と自分を見つめ直す大きな機会になります。そこで生まれた問題意識を深めるための指導を、どう展開できるか。論文、志望理由書へとどう発展させられるのか。それを昨年の実践から報告します。ある女子高生が「不登校」の兄に聞き書きをした記録です。
                                              
連絡先 中井 浩一 鶏鳴学園
  ? 03(3818)7405 Fax 03(3818)7958

7月 06

日本作文の会の機関紙『作文と教育』2011年6月号では、聞き書きの特集が掲載された。
私が代表を務める高校作文教育研究会からは、私と古宇田さんと程塚さんが寄稿した。

以下が私の原稿。

異文化兄妹 「自分づくり」のための聞き書きをめざして 後半
  東京 鶏鳴学園 中井浩一

4.両親への聞き書き
 実は、この兄への聞き書きの中に、母への取材が挿入されている。
「お兄ちゃんが学校にいかなくなったときは心配だった?」「できることなら普通に学校も行く子にそだってほしかった?」「学校に行かなくなった頃は登校するようにすすめた?」「まさか自分の子供がこのように育つとは思ってなかった?」といった質問が並ぶ。
 母は次のように答える。
「お母さんってどちらかというとK(N・Kのこと)と同じタイプじゃない?赤点とって学校卒業できませんとかはありえなかったし自分の人生を参考にできないから戸惑った。どうしていいのか想像もつかなかったから。でも途中で面白がろうと思ったよ。中3のときに担任の先生に言われて気づいたように信じてあげようって。心理学者の本も不登校の子の本もたくさん読んだけど結局はお兄ちゃん自身を信じてあげることなんだよね。自分の事を思い出してみたんだけど、お母さんもお父さん(おじいちゃん)にすごく信頼されててそれが嬉しかったんだ。だから人って誰か一人でもいいから味方を持ってるって大切なこと。親の役割は自分の子供を信じてあげること、それだけ」。
 母への取材は、Nにとっては自然だったろう。Nが「普通」(2の傍線参照)に強いこだわりを持っていることを思うと、Nに近い価値観の人が、兄をどう受け入れたのかを考えることになるからだ。
そして、兄への聞き書きに続いて父の仕事の聞き書きを行った。それ自体は弊塾での全員への課題なのだが、Nにとっては特別の意味があったろう。Nの家族構成は両親と兄と自分の4人であり、残った取材対象は父だけだった。父の視点からの兄の姿を知れば、自分の家族の全体像が浮かび上がる仕組みだ。
「兄と父親が喧嘩になる」ことも多く、父は「自分の合わないところには敏感な点はある意味お父さんとお兄ちゃんっていうのは似てるのかもね」と語る。父と兄の似ている点は、父親の進路や仕事の話から確認できる。
 父は理学部の出身だが、洋書販売会社に就職した。その会社は九〇年代の不況下で倒産し、重役としてその対応に奔走する。その後二回の転職をしている。

一番衝撃的だったのは、当時の会社の実態を知ったことです。自殺者が出たことは元から知っていたけれど、それよりも父が2年もの間無給で働いていたということの方が私にとって衝撃的だったように思います。会社の状況が悪いということを具体的な数字で聞いた時も言葉を失ってしましました。
また、父は理学部を出たのに洋書会社に務めました。進路を考える時にどうしても就職と結びつけて考えていた私は、そのことを改めて聞いて、パっと大学の学部を考える視野が開けたような気分になりました。
「世の中には数え切れない程の仕事の種類があるのだから、それをいくつかの学部に分類する方が不可能だ」という父の言葉にとても納得できました。そして父のように好奇心が旺盛であればどんな仕事も楽しめる、大学はその好奇心を作るために行くのだと聞き、やっと自分でも納得の出来る大学に行く意味というのが見つかったように思えました。※

5.志望理由書、作文、小論文
 これだけの内容をつかみとったNであれば、あとはそれを文章にまとめればよい。そして、取材で明らかになった経験と事実の意味を深く考える段階だけが残っていた。それらを夏の五日間の小論文の講習から始め、さらに秋以降も練習を重ねた。
既に兄と父の2人にインタビューをしていたので、あとはまとめて志望理由書や課題を仕上げるだけでした。私は上智と立教2つを受けようと思っていたので、志望理由書と課題レポートをそれぞれ2つずつ書きました。立教の課題は異文化についてだったので数回の書き直しですぐに書き終わりましたが、上智の課題は少し難しく、何日かはかかったけれど考えていたよりもずっとスムーズに進んでいきました。こんなにスムーズに進むなど関心事が無かった時や、インタビューの相手が見つからなくて焦っていた時には思ってもいませんでした。
しかしこのようにスムーズに進んでいったのはやはり兄と父へのインタビューの影響が大きかったと思います。中井先生は「インタビューをするなら自分が壊されてしまう程の衝撃がなくてはダメだし、そういうものが1つでもあれば何にでも繋げられる」とおっしゃっていました。そのことがこの夏期講習で実感できたと思います。また、ホームステイと繋げての異文化について、一学期の私は確かに本気で考えていたけれど、それでは誰でもできるし面白くなかったと徐々に自分でも感じられるようになってきました※。

 私が小論文の練習の課題文に選んだのは慶應大学の法学部に出題されたテキストで、マスコミが与える模擬現実と現実のズレをテーマにしたものだ。これによってNがこだわる「普通」の意味を問い直すことがねらいだった。それは結局は、母と自分の兄への態度の違いを考えることになった。私は、この作業を通じて「考えること」の意味を理解して欲しいと願っていた。
慶應の小論文のテーマは兄のことで通しましたが、先生にアドバイスをいただいて違った視点から考えるなど何回か書き直しました。例えば、私と母の兄のとらえ方の違いについても、始めのうちは自分と世間との関係について述べていました。しかしだんだんと母からの視点について取り入れ、最後の方はほとんど母がどのようにして兄を受け止めていったのかを述べるようになっていました。少し視点を変えるだけで全く違うものになりました。
難しい課題だったので、塾から家に帰るまでは何て書けばいいのか、どこから考えればいいか見当もつかないし、答えなんて出てこない、今日は一体何時に寝られるのだろうかと憂鬱でした。私は ‘考える‘ことから逃げていたのだな、と改めて感じました。しかし、一度取り組み初めてしまえば、時間はかなりかかるものの、様々な考えが浮かんできました。何回か続けていくと、自分が出した答えや考えにまた疑問が浮かび、考え、またの考えに疑問を出し・・・とどんどん掘り下げていくようになりました。
例えば、私と母の兄をとらえる違いは、世間の目を取り入れているかいないかの違いであるが、母もはじめは世間側から兄を見ていた→ではどうして兄をとらえ方が変わっていったのか、何が母を変えたのか、という具合である。※
こうして、Nは9月、10月には二つの大学に志望理由書と課題作文を提出した。立教大は不合格だったが、小論文や面接を経て上智には合格できた。見る目のある試験管に当たったのだと思う。

6.聞き書きの課題
 私が高校生に聞き書きをさせるのは、「自分とは何か」を考えさせたいからだ。「自分」とはその人のテーマ、問題意識に他ならないだろう。関心のある社会問題やあこがれの仕事の「現場」に行き、現実の問題と闘っている人の話を聞いて文章にまとめる。それは、高校生にとって、他者の問題意識を媒介にして、自分自身の問題意識を作り上げることに他ならない。そうした目的で行う聞き書きでは、以下の三点が重要だと思う。
(1)大きな問題と身近な問題
 「国際理解」とか「異文化理解」とかは、重要な問題だが、いささか流行りすぎで軽薄な理解が横行している。それらを、自分の身近な問題と結びつけることができなければ、本来のまっとうな力にはならないだろう。
(2)対象(他者)理解と自己理解
取材や聞き書きの対象や相手の選択では、問題の大きさ深さだけではなく、その取材者、書き手にとって、はっきりとした意味がなければならないと思う。対象理解は自己理解に他ならない。
(3)思考による一般化
問題意識は、思考によって深められ、一般化した形にまで高める必要がある。一部の方々は、大学入試の紋切り型の「小論文」への反撥などから、思考や一般化そのものまで否定するような傾向があるように思うが、大きな間違いだと思う。高校生がテーマ、問題意識を作るために一般化は不可欠ではないだろうか。

Nの文章は太字にした。実名は伏せ、長い文では省略した個所がある。段落などの一部は整理した。他は文章を変えていない。
 

7月 05

日本作文の会の機関紙『作文と教育』2011年6月号では、聞き書きの特集が掲載された。
私が代表を務める高校作文教育研究会からは、私と古宇田さんと程塚さんが寄稿した。

以下が私の原稿。

異文化兄妹 「自分づくり」のための聞き書きをめざして
  東京 鶏鳴学園 中井浩一

1. 異文化兄妹 ―志望理由書―
高校2年、アメリカにホームステイに行った。進んで自己主張をするアメリカ人と協調性重視で控えめな日本人の間に文化の差を感じ強い衝撃を受けた。
しかし文化の違いというものは国民間だけでなく、人と人の間、つまり兄妹にも当てはまるのではないか、いや、誰よりも近い関係なのにそれに気付かず理解出来ない方がずっと重大な異文化の問題ではないかと思い始めた。実は私と兄は異文化兄弟なのだ。
22歳の兄は中学から不登校、大学中退。いわゆる「世間の枠からはみ出た人間」である。現在はサブカルチャー系雑誌のライターをしている。一方、妹の私は友達や部活のために学校に行くことを生きがいとして、「兄はただのプータローだ」と思ってきた。
多くの面で私の方が兄よりも勝っていると思ってきたが、次第に自分の主張や独創的な考え強く持つ兄の方が人間的には面白いのではないか、自分はどこにでもいるような人間のうちの1人ではないか、と不安と疑問を持つようになった。
そこで、兄は今まで何を考えてきたのか知ろうと思い、インタビューをした。不登校ということで世間を敵に回すことが多かった兄から出てくる言葉は非情に衝撃的だった。今まで兄に背を向けていた自分、周囲の表面的で小さな社会だけを見て生きてきた自分に気づいた。そして何よりも、私と兄はそもそも互いに持っている文化が違うのだと感じたのだった。
 異文化というと、国民間や民族間のことだと考えていた私にとって、人と人との間にもあるのだという発見は、大変興味深いものであった。
 そもそも文化とは、どのようにして生ずるのだろうか、どうして兄妹という同じ環境で育った人間同士でも違う文化を持つようになるのだろうか。これらの疑問を、さまざまな背景を持った留学生や、学生が多く、多彩な教授陣に恵まれた環境で追求したいと思い、貴校を志望した。

これは二〇一一年度の上智大学総合社会学部の自己推薦入試で提出された「自己推薦書(志望理由書)」だ。著者は私立女子校の高三生(N.M)。Nには「不登校」の兄がいた。その兄の聞き書きをすることで、彼女に大きな変化が生まれた。「兄に背を向けていた自分、周囲の表面的で小さな社会だけを見て生きてきた自分に気づいた」。
聞き書きは、高校生が社会と自分を見つめ直す大きな機会になる。そこで生まれた問題意識を深めていけるような指導を、どう展開できるのか。論文、志望理由書へとどう発展させられるのか。それを報告したい。

2.兄に聞き書きをするまで
Nには、二〇一一年の一月に受験を振り返る文章を書いてもらった。それから引用しながら、先の志望理由書が生まれるまでを振り返ってみよう。この文章からの引用には末尾に※をつける。 
 高2の春、鶏鳴(弊塾の名前)に入った時の私は将来の夢も、時に興味のあることもありませんでした。高校2年の夏にホームステイに行き、何となく‘国際系‘がやりたいと思うようになりました。しかし、あまりにも漠然的すぎて具体的な事は考えても分かりませんでした。2学期の作文の授業でホームステイについて書き、「異文化」に興味が湧いてきました。※
Nは高三の四月には立教大(異文化コミュニケーション学部)、上智(総合人間学部社会学科)に自己推薦入試(AO入試)で受験することを決めていた。そこで異文化に関係するような現場取材と聞き書きを課題にしたが、なかなか取材先を見つけられない。
この頃の私は、とにかくAOで使えそうなネタなら何でもいいやとがむしゃらになっていたと思います。そしてとっさに思いついた、兄にインタビューをする、という事を言ってみると先生は「それだ!それが面白い!」とおっしゃいました。
国民間の異文化についてホームステイを理由にしてずっと言っていた私に「兄妹間の異文化だ」と中井先生はおっしゃいました。何となくまだ国民間の異文化を捨てきれずにいましたが、なるほど面白いと思ったし、これはこのような兄を持った私にしかできない考え方だと思いました。※
 
3.兄への聞き書き 
兄へのインタビューは二〇一〇年の六月に行われた。以下がその聞き書きからの引用だが、引用部分は太字にし、兄のコメントは斜体字にした。傍線は中井。
Nの四歳年上の兄が不登校になったのは中学生の時だった。

 この頃の兄については今でも覚えている。この頃から兄が勉強している姿は全くといって良いほど見ていない。兄と父親が喧嘩になると兄はよく壁に穴をあけていたし、学校には行かないし、小学生ながらも、ヤンキーではないが周りの友達と同じようなお兄ちゃんでないことに気づきはじめていた。
 
学校を辞めろと言われた時はどんな気持ちだったのか聞いてみた。
「学校やめるってのは絶対嫌だったよ。これでも変に真面目な人間だったから世の中の流れから外れるのが恐かったんだよね。だから自分が学校側に合わせようと思ったんだけどダメだった。それで結局A学園はやめて不登校だった生徒もたくさんいるB学園に入ったんだ。そこの先生はうるさいこと言わないし、どんな話でも聞いてくれるし、学校が比較的自由だったね。小学校依頼初めて学校が楽しいと思ったよ。今でも付き合うのはここでの友達だね。」

兄が絶対に学校をやめるのは嫌だったと聞いて少し驚いた。当時私の目には、兄は学校が本当に面倒くさくてわがままをいっているように見えていたからだ。
しかし今は兄がいう「世の中の流れから外れるのが怖い」という理由が少しばかりわかる気がする。当時小学生だった私は学校を辞めたら友達に会えなくなるから嫌だと考えていた。しかし今は学校を辞めたら世の中の冷たく、職につくのも他の人より困難になるという現実を知りはじめたからだ。
私が学校に友達に会いにいっているとき、兄は自分とそして世の中の厳しさも含めてたたかっていたのだなと初めて気づいた。
 B学園に入った後の兄は妹の私からみても本当にたのしそうだったと思う。部活は陸上部に入り、彼女もできてやっと高校生らしいお兄ちゃんになったと思った。そしてどうかこのまま普通の人でいてほしいと思った。

兄に同世代の人でちゃんと学校に行けている人のことはうらやましいと思うかと尋ねてみた。
「昔は羨ましかったよ。何人かで集まって楽しそーに話してることに対するコンプレックッスっていうか。でも今は羨ましいと思わないよ。俺にとっての友達はリラックスして話し合える友達なんだよ。自然体でね。この前なんてマンガの話だけで10時間ぶっ通して話したよ。もう開き直ったね。今時の大学生を羨ましいとは思わない。俺に合う友達はいるところにはいるんだよ。」

考えかたなどが他と合わなかったとき、今はどう思うのか?
「世の中が悪いね。自分が合わせられそうな場所はどこかにはあるんだよな。それを見つければいいはなし。」

大学を出ていないと何かと不利になることが多いがどう思うか?
「それも大学、世の中がおかしい。よく周りは「がんばれがんばれ」いうけど先が見えて言ってることなんですか?って思うんだよね。頑張っても負けたら頑張りが足りなかったて評価されるのってズルイよな。フェアに試合しようぜ。」

私は兄に比べれば友達はたくさんいるほうだし、自然と学校や世の中に自分自身を合わせていた。世の中が自分にあっていないのが悪いなどほとんど思ったことはない。むしろ私たちはいやでも‘世の中’で生きていかなければならないのだから、自分が嫌だろうがなんだろうが自分自身が合わせなくては困るのは自分だし、世の中が悪いといっても自分の手では世の中は変えられないと思っていた。
しかし「自分の合わせられそうな場所はどこかにはある。」「俺に合う友達はいるところにはいる。」という言葉を聞いたとき、私は兄に対して強いなと思った。世の中にどう思われようが割り切って自分に合うわずかな場所を見つけながら生きている兄は自分の道を貫いているなと思ったからだ。
‘世の中’は普通に学校に行き、職につくという一般的な人生を指すのではないということを、私なりにわかっている気がしても自然と目にはいれていなかった自分に気づいた。それに比べ兄こそ‘普通の人’の目にはさらっと流れてしまうような世の中の隠れた部分、皆が自然と目をそむけている部分が見えているのだと思った。

私はどうして同じ両親から生まれたのにこんなにも性格が逆なのだろうと何度も思った。もしかしたらどちらかが養子なのではないかとつい考えてしまうほど逆だ。
人に「お兄ちゃん何歳?大学何年生?」と聞かれることも「どこの学校?」と聞かれることも嫌だった。ただ「ライターやってるよ」だったり「コンテストで最優秀賞とったんだ」などだけは自慢げに話す本当に都合の良い妹であった。兄弟の話題になるたびに適当に応えていたけれど、私は本当に兄に対して興味がなかった。「私のお兄ちゃんは変わった人」と思って勝手に目をそむけていた。
昔は「兄弟比べられて嫌だよねー」などという会話に共感はもてなかった。なぜなら勉強でも運動でも、人間付き合いの面でも私は兄よりも勝っていると思っていたからだ。しかし、年を重ねるごとに文章力でも表現力でもきちんと自分なりの意見を持っている面でも羨ましいと思ってきた。むしろ兄のほうが人にはないものを持っていて、よっぽど人として面白いと思った。

私は今まで普通のお兄ちゃんだったら・・・と何度も思ったことがある。しかし私にはこの兄が唯一の兄弟なので、いわゆる‘普通のお兄ちゃん’とは何なのか分からない。私にとってはこの変わったお兄ちゃんの妹であることが普通なのだ。

6月 24

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の11回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の最終回

■ 目次 ■

終章
 次の課題を明らかにする
 運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
 教師の役割

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終章

次の課題を明らかにする

 私が分析した3つの文章は、その問いや答えが様々な出方をしていた。しかし、文章には基本的には1つの問いがあり、その答えを出そうとしていることが確認できた。川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」は、タイトルがそのまま問いになっていて、分かりやすく、明確だった。それに対する答えも明確で「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というもので川合は文章の中で繰り返し述べているのだった。
 江口江一の「母の死とその後」については一見、2つの問いに分かれているような文章だった。それは「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つだった。それに対応して、答えも母に関するものと、自分に関する内容があるのだった。しかし、2つの問いは実は重なり合っていたのだった。それは江口が亡くなった母と同じ立場(家の責任者)になったことによって、直面している現実が同じになったからだった。
では、佐藤藤三郎はどうかというと、彼の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、大きくは「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」というような問いが根本にはあるのだった。
 興味深いのは、1つの問いに沿って、文章が書かれ、その答えを出すのだが、答えを出したところで終わってしまわないということだ。
 川合末男の文章についていえば、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」という明確な答えは得たのだが、次に自分の課題を良い職業につくこととして書いているのだ。さらに、文章の最後では良い職業とは何かということを既に書き始めてしまっていて、川合はとりあえず警察予備隊を例にして考えたのだった。そして「予備隊は良い職業か」という問いが立ち、そのことを考え始めているのだった。
江口江一についていえば、川合ほど結論そのものが分かりやすくはない。というのは、第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするという、4つに分けたときに、第四の金をためて不自由なしにするということは「ハッキリ間違っている」ことが分かったのだ。第一の水準は達成できるかもしれないが、しかし、第二、第三の課題となると分からないのだった。これでは問いの答えがハッキリ出たとはいえず、当然さらに明確な答えを求めることになると思う。
けれども、私はすでにこの答えの段階で相当の進歩があると思う。それはまず、金をためて不自由なしの家にするなどということが無理だと分かったことだ。自分の限界をしっかりと見極めている。また、同時に課題も明らかになっている。それは第二・第三の水準を目指せるかどうか分からないという問いがすでに生まれているからだ。最後に、4つの水準に分けたことが素晴らしいと思う。「生活は楽になるのか」というややあいまいな問いでなく、例えば「扶助料なしで生活していけるのか」というように問い自体が明確になっていくだろう。
次に、佐藤藤三郎についてだが、「ぼくはこう考える」では文章の中ですでに問いと答えの連続になっている。佐藤は1つ1つのことに逐一問いを持ち、それに対しての意見を提示するということを連続してやっているのだ。分かりやすいところでいえば、「農村の子供たちは何を勉強すればいいのか」→「働くということについて考える土台が必要だ」→「その土台を見に就けるには何が必要か」→「みんなが堂々と学校に通えるようになる必要がある」というような運動が連続して起きている。
1つの問いがあり、その答えを出す運動は同時に、次の課題を明らかにするのである。そこに『山びこ学校』の作文の迫力があると言えるだろう。

運動が連続するような問いはどこから生まれるのか

 答えを求め、さらに次の問いへ移るような運動が起きるだけの強さを持った問いをなぜ彼らは持っていたのだろうか。
 彼らに共通するのは、まず貧しさという問題に直面していることだった。川合と江口に関しては、親の死という契機もあったのだが、根本には貧しさの問題がやはりあった。しかし、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なった。貧しさを解決するため、彼らのテーマが労働にあることも共通している。しかし、労働についてもまた、それぞれ異なる立場にあった。
 最も貧しかったのは江口だ。彼は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだったのだ。働く目的は何と言っても、生きることにあった。しかし、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立ということも求めた。
川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家として生まれながら、農業以外の仕事に追い出されるような状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。
江口と同じように、佐藤も山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。それは佐藤が農家の跡取りとして育てられてきた。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった。その結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。しかし、それは農家の跡取りとして、親とともに一生懸命働いてきたからであり、むしろ労働の中から学問の必要性が生れたと言えるのではないか。しかし、江口のようにあまりにも労働と一体である時には、なかなか佐藤のような考えにならないようだ。江口は労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を他(ここでは学問)と関係付けて考えることはできなかった。
 ここまでで分かるのは人はその置かれている状況、立場によって、課題(問い)が異なるということだ。そして、それを各自進めるしかできないのではないか。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めていることが分かる。しかし、そもそも彼らの直面している問題はまず分かりやすく、厳しく、立場もそれぞれ明確であるから問いが初めから強くあったのだろう。

教師の役割

問いを自覚し、さらに進めて行く上で大きな役割を果たしたのは教師の無着だ。各章で分析した通り、無着の働きかけが3人の問いを進める契機となっている。ここで述べておきたいのは、無着があくまでも教師としての役割を果たしたということだ。
 生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中にあったと思う。生徒たちの直面する貧しさはそれだけ厳しかったし、また作文を書かせれば貧しさの問題がたくさん出てくるのだ。
 しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師としての本分を忘れなかったと思う。それは生徒の成長を進めるという本分だ。佐藤を級長として教育したことを考えてほしい。佐藤は農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーをして育てられたと思う。そういう意味では無着は佐藤に農村の問題を任せたと言えないだろうか。
それもそのはずで、無着はあくまでも学校教員なのだ。出身も寺の生まれなのだ。その無着にとって、本当のテーマはやはり農村の貧しさではなかったのではないか。突き詰めれば、無着は「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。そして、それは全く正しいし、実際無着はそれをやったのだと思う。

<参考文献>
・佐野眞一「遠い『山びこ』」(新潮文庫、2005年)
・無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫、1995年)
・(山元中学校学級文集)「きかんしゃ」5号(1950年)

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6月 23

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の10回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の10回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
川合末男や江口江一との違い
 佐藤の中心の問い、答えは何だったのか
第3節 佐藤の素晴らしさ
働くことと学問
 佐藤藤三郎の立場
 無着と佐藤

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第2節 佐藤の作文の分かりにくさ

川合末男や江口江一との違い

 第1章の「父は何を心配して死んで行ったか」や、第2章の「母の死とその後」では、その文章に表れている問いや、問いの答えを求める運動に注目して分析をした。しかし、実は佐藤藤三郎の「僕はこう考える」はそれがとても難しい。それは、この作文においてとにかく多岐にわたる問いや意見(答え)が連続して立っているからだ。あまりにも問いから答えへの運動が多すぎる。
それは、共産党やそれを語る「屋根ふきさん」についての批判(1)(2)(3)や、働かされて一冊の本を読む時間すらないことについての意見(7)(8)(9)、雑誌や新聞や本や小説についての批判(10)(11)、「働くことが勉強だ」という教師の発言に対する意見(12)、ヤミ炭についての問い(14)(16)、学校教育についての意見(17)(18)(19)(20)(21)(22)、といった内容になる。
 こうなってくると、これまでの第1、2章のように、「問い」、「問いから答え」といった具合の章立てで論じることが難しくなってくる。そこでこの「僕はこう考える」についてはそういう分け方はせずに、論じることとする。
「僕はこう考える」の全体を眺めてみよう。まず、日常を綴った日記のような文章でこの作文は始まっていて、それが(4)まで続く。その次に、自分の家についての説明、特に亡くなった姉のことについて書いていて、それは(5)まで続く。そして(7)のある段落から(22)のある段落までが大きくひとまとまりとなっていて、特にそこにおいて問いや意見が集中していることが分かる。ちなみに、(23)のある段落からはまた、日常を綴る文章に戻っていて、(4)の後の続きとなっている。
「ぼくはこう考える」は、特にその意見文の箇所において、問いや意見が連続しているので迫力を感じるのだが、内容が多岐にわたっていることで逆に佐藤藤三郎が一番悩んでいたことは何なのか、佐藤の中心をなす問いは何なのか、それが分かりにくいのだ。
もちろん、悩みや問いといったものには、一番だとか中心だとかいうものはなくて、それぞれがただバラバラに並んであるだけだという考え方もあると思う。しかし、そんなことがありうるのだろうか。第1章で扱った川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」はそのタイトル自体が問いとしてしっかりと中心にあった。第2章で扱った江口江一の「母の死とその後」では、母親について「あんなに働いてもなぜ暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、自分について「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いの2つが存在していた。しかし、その2つの問いで考えている内容はほぼ1つに重なり合っていたのだった。それでは佐藤の「ぼくはこう考える」はどうなっているのだろうか。川合末男や江口江一の文章との違いをどう考えればよいのだろうか。
問いや意見の出し方についてもこれまでの川合末男や江口江一の文章と異なることが分かる。それは佐藤の問いや意見が個人や自分の家の個別の問題として出されてるのではないことだ。そうではなくて、それぞれの問題を自分の学級全体に共有されるものとして意見を述べているのである。
「私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう」(7)だとか、「私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ」(17)など、佐藤は繰り返し「私たち」という言葉を使っている。もっと、ハッキリと「私たちの学級には」(18)と述べられている箇所もある。佐藤のいう「私たち」というのは、無着学級のみんな、という意味だろう。もともと「僕はこう考える」は本になる予定で書かれたものではなく、クラスメイトと無着が読者だった。
もっとハッキリするのは、「私たちのような山の子供たち」「年中労働にかりたてられている子供たち」(10)といった表現だ。つまり佐藤は自分個別の問題としてでなく、無着学級全体に共有されるような問題として問いや意見を出しているのだが、その無着学級で想定されるのは「農村の貧しい子供たち」ということだったようだ。
ここまで、佐藤の問いや意見の内容が多岐にわたっていて中心が分かりにくいこと、またそれらの問いや意見は「農村の貧しい子供たち」全体のこととして表現されていることを確認した。一体佐藤が最も悩んでいたこと、直面していた問題は何だったのだろうか。彼の問いはどういう事実から始まっているのだろうか。また、なぜ無着学級全体に共有される問題として問いや意見を述べているのか、そういうことについても考えて行きたい。
 

佐藤の中心の問い、答えは何だったのか

 まず、佐藤の一番考えていたこと、核となるような問いは何だったのだろうか。そもそも核となる問いがあるのだろうか。そういうことについて考えたい。そこで問いや意見の集中している(7)の段落から(22)の段落までに絞って詳しく見ていく。
するとまず、「(農村のくらしは)よくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていない」ということ、そしてそれに対する意見から始まることが分かる。本を読む時間すらないのでは、「私たち」、つまり農村の人々は貧しいままだという批判は「だろう」「だろう」「だろう」というふうにたたみかけるように述べられている(7)(8)(9)。そもそも、この作文自体は本を読もうとするたびに働かされて読むことがかなわない日常を綴っているところから始まっている。意見文がそのことから始まるのも納得がいく。
続いて、本を読んだとしても、あらゆる雑誌、新聞、本、小説にいたるまで、ほとんど「私たち」、つまり「山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たち」のことと関わりのない内容ばかりであることを批判している(10)。ここで注目すべきなのは、「私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか」という批判の仕方だ。これは別の見方をすれば、自分達が「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問いを佐藤が持っていたことを表わしていると思う。
その問いは「働くことが勉強だ。」という先生の発言に対する疑問、批判(12)につながっていると思う。佐藤は働くだけではなくて、「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要だと主張するのだが、これは自分達に必要な勉強は何なのかということを語っているのだ。「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問い(10)に、「『働く』ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか」という意見(12)は答えとして対応している。
続いて、その働くということについての考えられる土台とはどういうものなのか、ヤミ炭の問題を例として説明している。この説明はとても自分が分かっていることと分からないことが明確で、「働くことが勉強だ」ということについては「わかっている」「わかる」「わかったのだ」(13)と繰り返している。ところがそれではなぜヤミ炭をしなきゃいけないかが分からないのだ。
「働くことが勉強」を佐藤は実際やってきたわけだが、それだけではヤミ炭の問題はどうしても分からないわけだ(14)。そこで、なぜヤミ炭をやらざるをえないのかということを、佐藤は中学校で「先生と計算」(15)したりして実際に考えているところがまっとうだと思う。
そこで佐藤はヤミ炭という問題を考えることができるような、つまり「働く」ということについて考えられる土台というのを作るために、まずは「私たち」、つまり農村の子供たちが全員毎日学校に来れるようにするべきだという意見に至る(17)。佐藤は働かされて本を読む暇さえないと言っていたが、佐藤の学級には満足に学校に来ることすら叶わない生徒がたくさんいたのだ。
ここから後は、同じように学校教育への意見が続き。最後は「こういう問題は誰が解決するんだろう」(22)という問いで終わる。そこで佐藤が立派なのは、「学校はどのくらい金がかかるものか」という別の文章で実際に学校の予算にどのくらい必要かなどを調べたことだ。その文章は『山びこ学校』に収められている。
ここまで詳しく読んできたが、どうやら矢継ぎ早に提示されている問いや意見はどうやらバラバラなものではなく、1つの連関の中のあるように思える。この文章においては、働くための土台が必要だという主張が佐藤の文章の中心としてあるように思える。
その主張は、農村の子供たちはどんなことを勉強すればよいのかという問いに対する答えであり、ヤミ炭の問題は「働くための土台」を説明する具体例であったし、学校は「土台を作る」ための手段として位置付けられているし、本を読む時間がないのも「土台を作る」ことができないことができないから批判しているのではないだろうか。本当にそこまで言えるかどうかは分からないが、この作文が何か1つのテーマのもとにあるということは確認できるのではないだろうか。大きくは「農村が貧しさから抜け出すためにはどうすればよいのか」という問いになるのだろう。

第3節 佐藤の素晴らしさ

働くことと学問

 佐藤はただ働くだけではダメで、「働くための土台」が必要だと主張し、「働くことが勉強だ」という無着の発言を批判している。ここまで強く、無着を批判しているのは佐藤の他にいない。
 また、批判の内容は当たっているのではないだろうか。炭焼きという仕事を例に挙げれば、炭を焼くこと自体は炭を実際に焼いてみて、研究はしているのだ。しかし、その炭をヤミで売らなければならない理由はやはり分からないのだ。無着と一緒に計算をし、ヤミで売らなければ原価割れすることは分かったのだが、では「なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)」ということは分からないのだ。
 つまり、目の前の現実をただ見つめるだけではやはり分からないことはあるのではないだろうか。そこで佐藤藤三郎は学問の必要性を強く自覚していることに驚かされる。佐藤は本当に学問を必要としている。佐藤ほど強く学問への意欲を文章で表現している生徒はいない。そこまで気付けたのであれば、佐藤は学問をやらなければいけないと思う。実際に佐藤は中学卒業後、高校に進むことになる。
 佐藤はなぜ学問の必要性に気付けたのだろうか。それは1つには労働に深くかかわっていたからだろう。つまり、佐藤も他の生徒たちと同じように、家ではすでに労働者だったのだ。それだけではない。佐藤の場合、農家の跡取りとして育てられたのだ。それだけ農業に対する取り組み方も深かったのではないか。『山びこ学校』所収の「すみやき日記」という別の作文には、佐藤が父親と一緒に炭焼き用の窯を作りながら仕事を教わっていく過程が描かれている。
 山元中学を卒業して高校に進学したのは佐藤を含めて4名だった。その中で農家の跡取りとして育てられた佐藤から学問への強い意欲が生れたことには意味があるだろう。他の3名は、農家の生まれの川合義憲、村長の孫で財産家に育った横戸惣重と、教員の息子の川合貞義だ。その中でも農家の生まれでなく、経済的に余裕のある横戸と川合貞義からはそもそも差し迫った村の問題が出てこない。佐藤が強い学問への意欲を持つようになったことには、まず貧しさという問題が目の前にあり、さらに跡取りとして育てられたために貧しさに対する関わり方が強かったからではないだろうか。
 しかし、それではなぜ他の農家の跡取りから佐藤のような学問の意欲が出てこなかったのだろうか。そのことは佐藤が目の前の問題を「私たち」などといって、学級全体の問題として捉えたことと関係する。

佐藤藤三郎の立場

 なぜ佐藤は「私たち」などといって、学級全体のこととして問題を捉えたのだろうか。
佐藤は農家の生まれだ。それも跡取りとして育てられた。子どもの頃から農業従事者として働いていたが、卒業後の進路もやはり農業従事者となるわけである。そういう意味では、佐藤がヤミ炭や学校教育の問題を農村全体の問題として取り上げたのは当たり前とも言える。しかし、川合末男や江口江一にしても農家の生まれであるし、特に江口はすでに農家の一家の責任者となっていた。それではなぜ佐藤は農村全体の問題として取り上げることができたのだろうか。
 それは、経済的に佐藤の家が無着学級の中で「中よりも上」の家だったからだろう。佐藤の家は過去に女工にうられた姉が亡くなったりはしているが、一応両親も存命で働いていたし、川合や江口よりは金銭的に余裕のある家だった。もちろん山元村全体が貧しく、「中より上」の佐藤の家も貧しくはあったのだが、川合や特に江口の家と比べるとまだ余裕があったのである。特に江口の家は生きていけるかどうかギリギリの水準だったが、佐藤は高校にも進んでいる。江口などはとりあえず、自分が生きて行くことで精一杯で周りを考える余裕はほとんどなかったのだと思う。それに対して佐藤はまだ農村全体を考える余裕があったのだ。
 無着学級の卒業生42名から高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だった。しかし、そのうち2人は山元村の一般的な農家ではなかった。祖父が村長だった横戸惣重は財産家の出身で、川合貞義は父親が教員をしていて裕福な家だったのだ。川合義憲と佐藤藤三郎は、農村である山元村の一般的だったヤミ炭のような貧しさの問題に直面していて、他方では何とか高校に行けるだけの経済的な余裕はあったのだった。佐藤が農村の貧しさを学級の生徒と共有しながら、そのリーダー的な立場に立ったのには、そういう背景があった。
 農家の中でも佐藤が学問の必要性にまで気付けたのも、経済的な余裕が関係あるだろう。例えば、江口江一に学問をやる余裕が実際にあるだろうか。実は江口にしても、作文の最後で「お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、37頁)」と学問の必要に気付いてるような表現があるのだが、佐藤ほどの強さはない。また、農村全体の貧しさとまで捉えられてもいない。それは仕方ないと思う。江口はとりあえず一生懸命生きて行くだけで精一杯なのだ。その江口に学問を求めることはできないだろう。

無着と佐藤

 先に、佐藤ほど強く無着を批判している生徒はいないと述べた。それは「働くことが勉強だ」ということに対して、「働くことを考える土台」が必要だと批判したのだった。しかし、佐藤と無着が全く疎遠であるということではない。むしろ佐藤と無着の間には響き合うところがたくさんあったのだと思う。
 そもそも、無着が佐藤を級長にしたことをどう考えたらよいのだろうか。それは無着が佐藤を最も高く評価していたということではないか。また、『山びこ学校』に「学校がどのくらい金がかかるものか」という調査報告文があるが、無着はその班長も佐藤にやらせ、組織させている。他にも、学級文集「きかんしゃ」において度々編集を佐藤に任せている。この作文に佐藤が無着と一緒に炭の原価や売値の計算をやったとも書いている。無着は佐藤にかなり多くの課題を与えていたのだろう。
 先ほど、佐藤がリーダー的立場に立ったのは、農家の出身でありながら経済的に比較的余裕があったことが背景だと述べた。しかし、それだけではなく、無着が級長にしたことによって、よりリーダー的な立場、農村全体を考える視点を自覚し、「私たち」などという表現に至ったのではないだろうか。また、佐藤を級長にし、様々な課題を任せたのは、無着が意識的にリーダーを育てようとしたと考えられないだろうか。その佐藤が学問の必要性を強く自覚するまでに至ったことは、無着の意図が成功していることを意味しないだろうか。
 佐藤にしても、作文の中では無着を批判しているが、当然尊敬していたと思う。卒業式の答辞で「私たちは、はっきりいいます。私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、298頁)。」と述べている。また、尊敬していなければ、無着の教育に応え数々の文章を書かなかっただろう。尊敬している無着だからこそ本気で文章を書いたのではないだろうか。
 佐藤が無着を尊敬し、無着も佐藤のことを認め、級長という立場を与え、様々な課題を与え、成長を促した。特別に優れている人間はそういう中で生まれてくるのではないだろうか。教師は生徒の能力や意欲に応じた要求をしていくべきではないだろうか。もしも、無着がどの生徒にも一律に同じ課題を与えるなどということをしていたら、佐藤はここまで成長できなかったのではないだろうか。

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