5月 19

『「聞き書き」の力』(大修館書店)のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を掲載します。

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

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序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第1節 「聞き書き」とは何か

今ではオーラルヒストリーという言葉が広く世間に流布したようだが、以前は「聞き書き」と呼ばれていた。ではそもそも聞き書きとは何なのか。

それは別段、特別なものではない。人に取材、インタビューをし、その内容を文章にまとめたものでしかない。日々の新聞や雑誌の記事はほとんどがこの範疇に入るだろう。

その中でも、本人の語り口を生かしながら「ひとり語り」の文体で書かれたものの中には、自伝として有名なものが多い。
ロック界のスーパースター・矢沢永吉の『成りあがり』(角川文庫)は若き日の糸井重里が長時間のインタビューをまとめたものだ。矢沢の熱くシャウトとする語りは、彼のロックやブルースそのものだ。『マルカムX自伝』は、アメリカの黒人解放運動史に残る古典的作品になっている。後に『ルーツ』の著者として有名になる作家アレックス・ヘイリーが無名時代に編集したもの。同じ問題意識を共通する語り手と書き手のハートが熱くシンクロして、深い感動を与える読み物になっていると言えよう。これらは聞き書きが感動的な文学作品にまで昇華している例だろう。

近年では政治学者の御厨貴が、政治家への聞き書きを「現代史のための口述記録」と位置づけ、「オーラル・ヒストリー」という言葉を流行らせた。彼がまとめたものに『宮澤喜一回顧録』『武村正義回顧録』(岩波書店)などがある。
著名な人物の人生記録は、ただにその人物の自分史であるだけではなく、時代の証言であり、音楽業界や、黒人社会やその社会的解放運動の歴史的記録、政治や経済の裏面史などの記録としても重要だ。

しかし聞き書きの対象は必ずしも著名人である必要はない。もう少し一般的に生活者、労働者を対象とした聞き書きも広く存在している。柳田国男や宮本常一などの民俗学では「名もなき庶民」「村の古老」などの語りの文章が、基礎資料として多数編集されてきた。その中には、柳田の『遠野物語』、宮本の『忘れられた日本人』(特に「土佐源氏」や「梶田富五郎翁」)など、文学作品として高い評価を得ているものも多い。作家・塩野米松は、「一人語り」の文体を駆使して仕事をしてきた。『木のいのち木のこころ―天・地・人』は宮大工の棟梁・西岡常一の仕事の聞き書きだ。宮大工の西岡は著名だが、もっと「名もなき庶民」への聞き書きを多数、塩野は世に送り出している。

しかしこの「一人語り」の文体は聞き書きの1つの手法でしかないし、そもそも聞き書きという手法は文学作品を生みだすためにだけあるのではない。もっと一般に、事実やデータを記録するために、学術研究では広く使用されている。民俗学、民族学、文化人類学のフールドワークではもちろん、歴史学の「庶民の歴史」の編纂などでも基本的手法となっている。

そして冒頭に述べたように、この手法は、およそ取材をする場合のすべてで行われている基本中の基本でしかない。ジャーナリストにとって、取材・インタビューは必須の前提だ。本多勝一はこの手法をもっぱらたよりとして『中国の旅』を刊行し、大きな社会的問題提起をしたし、立花隆の『宇宙からの生還』は、宇宙飛行士たちが宇宙で体験した不思議な経験の詳細な口述筆記でしかない。そこには宇宙での経験だけでなく、その後の人生(宗教的伝道者になった人もいる)と絡めて、科学と宗教や人生の深遠な関係が感動的に語られている。
しかし、本来、この手法では、書き手、記録者は、そうした専門家に限定されることはない。普通の人による、普通の人の聞き書きも多数編集され刊行されてきた。戦後の戦争体験の聞き書き集、地域の生活史、会社の社史など、も多数出版されている。

以上で、読者には聞き書きが何かを理解していただけただろう。社会的に大きな影響を与えたものもあり、すぐれた文学作品とされているものも多い。

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第2節 教育手法としての聞き書き

さて、これからが本番だ。私たちが本書で問題にしたいのは、聞き書き一般ではない。この聞き書きを、あくまでも、教育手法として取り上げたいのである。教育と言っても、学術界やジャーナリズムの世界で行っている専門家養成のためではない。ここでは、義務教育課程や高校や大学で行われるべき教育として、すべての人が人生を生きるための基礎的能力の養成としての聞き書きを問題にしているのである。

実は、この教育手法としての聞き書きにも、すでに長い歴史がある。民俗学者の宮本常一は小学校教師の時代にそうした試みをしている。戦前から生活綴り方運動の小学校教師たちも実践してきた。戦後は、父母の戦争体験の聞き書き、父母の仕事の聞き書きなどが広く全国の教育現場で行われてきた。近年では、立花隆が東大の教養学部の学生を指導した、70人近くの様々な分野のトップランナーたちへの聞き書き集『二十歳のころ』(新潮文庫)が有名だ。作家の塩野が高校生の「聞き書き甲子園」を組織して10年以上になる。高校生が森や海・川の名人を訪ねて「聞き書き」をして文集にまとめるものだ。

そして今、その聞き書きがまた注目をあびている。現代の若者たちについては、ニートやフリーターの急増、他者や社会問題への無関心、コミュニケーション能力の低さなどのさまざまな問題点が指摘されている。そうした彼らに、現実社会や仕事の話題を通して、大人たちの生き方に向き合わせ、自分の生き方を見つめる方法として脚光をあびているのだ。
新しい学習指導要領でも、この手法が大きく取り上げられている。事実、この方法で、子どもたちの学習の目的が明確になり、進路・進学の意識が高まり成績も大きく伸びた例が多数報告されている。また、この聞き書きは大学受験の志望理由書や小論文対策としても威力を発揮している。

なお本書では、特に高校生を対象として、この聞き書きの指導法を検討する。もちろん、本書の方法は、そのまま中学生や大学生にも使っていただけるし、小学生や一般社会にも応用していただけると思う。
しかし、だからといって、一般論を述べても仕方がない。私がよく知っている高校生に一応限定することで、諸課題を具体的に述べてみたい。それには高校生特有の問題も含むが、そこには聞き書きに本質的な問題が出ていると考えている。

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5月 18

(1)『「聞き書き」の力』(大修館書店)が、いよいよ刊行されます。

すっかり、お待たせしました。3年前からの作業過程をご存知の方は、待ちくたびれて忘れてしまったかも知れませんね。

この本は、高校作文教育研究会の共同研究の成果をまとめたものです。
研究会の共同代表である古宇田栄子さんと私の2人が執筆しました。

研究会では、テーマとして二〇〇五年には一年間集中的に「総合学習」における表現指導について、二〇〇九年からの二年半ほどは「聞き書き」(調査と取材)の研究を行ってきました。その討議を踏まえて、聞き書き指導の方法やその課題を明らかにしようとしたのが本書です。

「聞き書き」そのものの方法論だけではなく、たくさんの問題提起を行っています。

高校段階での表現の指導過程の問題も検討しました。自分史や生活体験文、調べて書く作文や聞き書き、意見文や論文(小論文も)、志望理由書などをどう関連付けて、指導していくべきなのか、という問題です。

本書のタイトルには「聞き書き」とありますが、広く一般的に、調査・取材したことをまとめた文章と理解してください。理科や社会科のレポートまでを範囲として考えています。対象は主として高校生を意識していますが、中学生や大学生、社会人の方々にも十分に有効だと考えています。
どうぞ、国語科や他教科での同志の方々との学習会などにご利用ください。

今、教育現場は「アクティブ・ラーニング」の取り組みで大騒ぎになっているようです。しかし、「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることが肝心だと思います。
「アクティブ・ラーニング」に真剣に取り組むならば、何よりも重要なことは、生徒たち一人一人が自分自身の問題意識、問いやテーマをしっかりと創っていけるように支援することでしょう。そのためには、「聞き書き」学習ほど適したものはないのではないでしょうか。

本書は、書店に並び、アマゾンなどで入手できるのは5月の20日過ぎごろになりそうです。

(2)本書の刊行を祝い、以下のような学習会(兼祝賀会)を開催します。

1 期 日 2016年6月19日(日) 10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園
3 参加費
  1,500円(参加のみ)      
  または3000円(会場で本をお渡しします)

みなで本書をさかなにしして、聞き書きについての疑問や悩みや、成果や主張などを出し合って、大いに盛り上がろうという趣旨です。

ここでは、共同研究の仲間からの問題提起や、コメントの紹介も予定しています。

参加される方は、本書をぜひ一読してから、ご参加ください。

なお、参加申し込みは1週間前までにいただけると幸いです。

(3)本書のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を、明日から掲載します。

2月 26

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

その学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

※以下、昨日のつづき。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子 
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

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◇◆ 2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子  ◆◇

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)学習会
                      (第1回、2015年11月8日)
 
「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指す。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。
しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、
いつもどこか不機嫌という家庭像、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、
しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。
それは、本書でこの問題の本質としている、「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、
親から継承してきた人が少なくない。
そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。
しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題をどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
私たちは、まず自分自身の問題に取り組むしかない。子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

(1)生きる目標の問題が核心
初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。
まさにそこが本丸ではないだろうか。
今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、
まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

問題のない家庭を目標とする生き方
学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。
私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。
ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。
しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。
そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には
何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の無気力には、そういう意味もあったのではないか。
問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

家族の幸せを目標とする生き方
別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。
夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、
彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。
そういうことが共依存だが、共依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくという
よい連鎖になるなら、共依存は悪いことではない。また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、
葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。
確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、
依存し合って生きるものである。「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、
人間が生きる醍醐味である。
彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということを
よく考えてこられたのだろうと感じた。子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。
同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事だったんじゃないか
という不安を話された。
子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。
しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

社会的な観点を持つ生き方
 私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。
 さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。
社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

(2)親による無意識の刷り込み
 『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。
「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、
これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、
親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」
 
 私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
学習会で、それに対して、何故私が違和感を持つのかをいう疑問が出された。
親の立場としても、子どもの立場としても、とても重要な箇所だ。
私が「強制する」という言葉に違和感を持つ理由は、親が「世間の基準」が自分自身の基準ではないことを意識し、
さらに、子どもにそれを押し付けていることも自覚したうえで「強制する」ことを意味しているように感じられるからだ。
しかし、実際の「やさしい暴力」とは、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、
それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。その基準に従う以外に、
親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。
確かに、それは正に、子どもにその中で生きることを強いる、「強制」だと言える。親にその全責任があり、
子どもにはそれ以外の人生を選ぶ能力がないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親が自らの子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから
遠ざけると感じる。親は、自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まるのではないか。
また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。
中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。
しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと
考えなければ、一歩も前に進めない。生まれたときから毎日毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、
「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。
そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、
私も含めて誰もが背負っている。
 だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

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◇◆ 3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子 ◆◇

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)学習会
(第2回、2015年12月13日)

私たち大人の「ひきこもり」
                                 
今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70?80万にも上るという
社会問題について学ぶためだけではない。
まず、この問題が、私たちの子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。
一言でいえば、親子の一体化の問題だ。そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、
子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾があると言える。親として、子どもに何をどう指導し、
また子どもの自主性、主体性をどう尊重するするのかという問題は、子育ての中で日々直面するものではないだろうか。

また、子どもの「ひきこもり」増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、
私たち自身を振り返るためのテキストだった。まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、
あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。
斎藤は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を
失うという問題を指摘している。特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する
(=ひきこもる)父親の問題だ。ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化に
つながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。
また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中に
ひきこもっているという見方もできるという意見が出された。主婦が成長の機会に乏しいのではないかと
いう問題提起だったと思う。
私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。多少の仕事や付き合いはあっても、
子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。
20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。
私が授業で接する中学生たちも同じだ。「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が
至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。
私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会を
つくったのではないか。その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの中で生きた昔の人たちも、個人がバラバラでもとりあえず
生きていける私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきた
のではないだろうか。
人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここから
つくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。さて、それはどういう生き方なのか、
それが私たちのテーマだ。

11月 03

◇◆ 旧約聖書を読んで ◆◇              
           
2.旧約についてのメモ

(1)ユダヤ民族の特異性
  1その弱さと強さ それが人間の普遍性の象徴になったことの意味
  2弱小民族の生き残り戦術。巨大国家と強力な民族の間の弱小民族の悲哀。
  「寄寓」「よそ者」。
   土地を持てない(墓のための土地を所有するのが限界)、さすらい人。
    それゆえに、「よそ者」として生き抜いていく戦略が必要で、
   「契約」を中心とする生き方を徹底した。所有、財産への希求の切実さと強烈さ。
  3しかし偉大な人物の多さ。マルクス、フロイト、レヴイストロース、
   アインシュタイン、スピノザ
    
(2)一神教の神(ユダヤ教)とは何か 
  1背景 弱小民族の絶望。圧倒的な孤独。満天の空と砂漠。
  2人間と契約をする神 その契約内容が律法
     したがって、人間とダイアログ(対話)をする神である
  3論理的には、自己内二分、自己意識が生んだ絶対的他者
     → 自己と他者との区別の絶対性(先生と生徒)
  4契約関係から、人間の平等の原理が生まれる
  5死後の話はない。今生がすべて

(3)西欧(キリスト教)、イスラム世界における、世界観、社会観の基盤であり、大前提
  1キリスト教の三位一体性(弁証法)はすでに旧約にある
  2西欧の芸術の根源(絵画や小説や音楽) 
   ゴーギャン、ドストエフスキー、ヘッセ、トーマス・マン、スタインベック『エデンの東』など無数
    彼らには、常にキャッチボールの相手がいる。 モノローグにならない 

(4)人間の悪、色と欲望の世界が全面展開されている。圧倒的なリアルさである。
  これでもか、これでもかというまでの、執拗さ
  殺人、かけひき、だましあい、しのぎあい。男色や近親相姦。
  主人公の多くが、悪行をした罪人である。
  罪人なのに神に愛され救われる。善人がバカを見ている。
   →問題は善悪ではなく、その存在の深さが問われている

(5)罪、悪、弱さの自覚の有無とその大きさ(絶望)が、
  神を求め、契約、法を求めさせ、守らせる。

(6)資本主義の大前提(マックス・ウェーバー)
  「契約」の重さ 私的所有と契約
  道徳ではなく契約、リアルな人間関係の認識、能力主義 

(7)「えこひいいき」(神も両親も)と、それへの怒りと人殺しばかりである
  1人間がいかに承認と愛されることを求めるか
  2それは問題はない。問題は、その求める承認のレベルである。
   誰からの承認を求めるのか。それが核心。
   事実としては、それぞれの人のレベルに応じた承認を求めている。
  3神も、両親も、えこひいきをする
    対策は、各自が、神を求め、テーマを作るしかない。

(8)名前とは何か。それは使命を意味する 
    名前が変わるとは、使命が更新されること
    神との契約関係は、どんどん更新されていくべき。
    成長・発展のためだ

(9)旧約は書かれた文書ではない。書き言葉ではない。
  伝承であり、語りであり、音韻と響き、歌やリズムである。
  「民謡」のような繰り返しの多用、語呂合わせの言葉の群れ。
  ムズカシイ顔して読むだけでは、この精神はとらえられない。
  笑い、歌い、掛けあいの世界。掛け声やあいの手が入り、手をたたき、笑う。
  そうした世界だ。
 

11月 02

◇◆ 旧約聖書を読んで ◆◇              
           
1.ごろつきばかりの物語 (本日11月2日掲載)
2.旧約についてのメモ (明日11月3日掲載)

1.ごろつきばかりの物語

私は聖書については、旧約も新約も通読したことはなかった。
今回、「創世記」を初めて通読した。これが旧約かと、たじろいだ。
初回の通読では、ビンビンに感じるどころか、わけがわからなかった。巨大な謎。巨大な矛盾。混沌。

ろくな奴が出てこない。やくざ者ばかり、悪人、犯罪者たち、ごろつきばかりである。
その悪や犯罪もそれほど大きなものではなく、ちんまりしている。
色と欲望、嫉妬、ねたみ、意地とプライド、ばかしあい、だましあい…。
つきあっていられない。低レベルの同じような話ばかりで、退屈でつまらなかった。
こんな連中と関わる神も大したことがないなあ。こんな連中の物語が、なぜ「人類最大の遺産」なのか。わけがわからない。

正直、もう降りたくなったが、テキストに旧約を選んでしまった責任があるし、
外部からの参加申し込みが結構あって、やるしかなかった。
そこで、何冊かの解説書を読んでみた。
背景の古代社会のあり方、ユダヤ民族の歴史、旧約の成立史など、少しずつわかってくることもあった。
さらに「創世記」全体を2回通読し、2部(その内部ではヤコブとその前2代アブラハムとイサクの物語)は3回通読した。

読みながら、気づくことがあった。
ここには、一切の虚飾や粉飾はない。圧倒的なリアルさである。

ごろつきは、ただごろつきである。ヤコブ(イスラエル)などは、ごろつきそのものではないか。
そして、ごろつきがごろつきのままに、神と契約を結び、神との関係の中で生きて行く。
しかしそれによって、善人に生まれかわるようなことはない。ごろつきのままに、深まっていく。それがすごい!
それにしても、これだけごろつきばかりの物語を、自分たち民族の基礎とするユダヤ人とは、これも尋常ではない。
このごろつきヤコブはイスラエルの12部族の始祖なのである。

そのリアルさは、個々の人間についてだけではない。
当時の社会矛盾、奴隷、差別、タブーなどが、これまた粉飾なしに赤裸々に語られている。