7月 08

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告 その1

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)の読書会を行いました。
もともと大学生・社会人ゼミ主催の読書会だったのですが、今回のテーマが「家庭論」でしたので、
鶏鳴学園(中学、高校生対象の塾)の生徒や保護者の方々にもご案内しました。
以下の「1.テキストと著者」はその案内文で、
「2.本書の読み方」は参加者に読み方のアドバイスをしたものです。

当日はゼミ生4人以外に、卒塾生(大学生)1人、生徒2人、保護者の方4人が参加しました。
10代から60代までが集って共に議論をするという、壮大で、異色の勉強会でした。
家庭というテーマが、すべての人に共通する、本質的なものであることを、改めて再認識しました。
こうした勉強会を、
今後も用意していきたいと思います。

この読書会の報告を3日にわたって掲載します。
本日は、以下の
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」
まで。

 ■ 目次 ■

1.テキストと著者
2.本書の読み方
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)
4.塾の保護者、生徒の感想
5.卒塾生とゼミ生の感想
(1)T君(大学1年生)
(2)加山 明
(3)畑間 香織
(4)掛 泰輔
(5)田中 由美子
6.おまけ

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1.テキストと著者

少子高齢化社会を迎え、核家族のもとでは両親の介護の問題が深刻です。
私たち自身の老後にも不安があり、男性の定年後の夫婦の生き方の問題もあります。
そうした中で女性の生き方も改めて問われます。
子育てや子供の教育に関しても悩みは多いと思いますが、根底には母子一体化の問題があるように思います。

こうしたことを考えるために、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)を読みます。
1979年刊行の本で、少し古いのですが、根本的なところから家庭の在り方を捉えているので、本書を選びました。

戦後、家族や家庭の在り方に大転換がありました。
3世代の大家族から、核家族になり、マイホームや専業主婦が現れてきました。
そうした変化の背景やその意味を、本書はわかりやすく説明してくれます。
そこからどのような問題が生まれているかを考えてみたいと思います。

松田道雄(1908-1998)は、小児科医であり育児書『育児の百科』(1967年出版)はベストセラーになりました。
開業医として、地域の家庭の変容を見守り、母親、主婦の声に耳傾け、
さらに老人たちやその孫たちの思いもしっかりと受け止めようとしています。
また彼は京都大学の人文科学研究所のメンバーとして共同研究にも参加し、
広く人類の社会と歴史を研究しています。
そうした豊かな視点から、家庭問題を解明しているのが本書です。

                                        

2.本書の読み方

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』は、読みやすくわかりやすく書かれた本ですが、200ページ以上あります。
読書会では読むテキストと論点を絞って議論したいと思います。

一「民主主義のなかの家庭」(前半)は、日本の家庭に敗戦後に起きた大きな変化をとらえたものです。
ここでは、「あなたの家庭はそれでよいか」は省略し、「マイホームと現代」と「親と子」と「一夫一婦制と性」を取り上げます。
「マイホームと現代」は、老人問題を考えています。老人介護の問題が緊急な課題となっている現代では、切実です。
「親と子」では、特に「父親考」が重要だと思います。「おやじと私」は松田自身の父親が書かれており、面白いです。
「一夫一婦制と性」では「自由と男と女」を読めば良いと思います。

二「母親たちの明日」(後半)は、いわゆる「女性の自立」の問題を扱っています。
ここでは「母親へのメッセージ」から「母性愛今昔」と「独立した個人として」と
「主婦の生きがいとは何か」と「子どもの文化・母親の文化」を読みたいと思います。
特に「主婦の生きがいとは何か」が重要です。

                                          

3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)

 「家庭」論は、ムズカシイものです。
「家庭」については皆がよく知っているのですが、
その本質や問題を平易に説明するのは、至難の業です。
それを本書は、楽々と余裕を持って行っていることにまず、感心します。

 これまで私が読んだ家庭論では、ヘーゲルの『法の哲学』の家庭論を別格とすると、
社会主義者の堺利彦の『家庭の新風味』がダントツです。
子どもを「次の時代の働き手」と規定し、それゆえに子どもとは人類と両親にとっての「夢」そのものであることを示します。
そこから「子どもは社会からの預かり物」として大切に愛し育てなければならないという規定。
それは「子どもを親の私物化することを許さない」というまっとうな方針を含みます。
こうした大きな原理原則を踏まえながらも、日常の基本的生活の実用書でもあります。
戦前に、こうした著書があったことを嬉しく思います。

本書は、それに匹敵するもので、20世紀後半の日本社会の家庭の大きな変化の本質と問題をあざやかに示しています。

特に、明治維新後の大きな変質の指摘にはうなりました。
明治維新の指導者(旧武士)たちは日本に近代国家を作るために、
それまで国民にあった「家」を守るための原理「親孝行(孝)」を基礎に置きながら、
天皇と国民を疑似親子関係とした「天皇制」の上に人工国家を作りました。

それはそれまでの「家内安全」の家族主義を国家規模にまで拡大するもので、
「孝行(孝)」の原理を、「忠君」の原理に取り込んでしまったものです。
国家を大家族としてとらえたのです。

これは上手いやり方でした。
ここから国家のためには「家」(両親、妻子)も犠牲にする「忠君愛国」の兵士と労働者が誕生し、
彼ら壮年の男子と家を守る女や年寄との分業も進み、
日本は近代化と戦争と海外の植民地化に向けて邁進することになりました。
もちろん「忠君愛国」は「家内安全」を犠牲にするところにしか成り立ちません。

敗戦後に生まれた核家族とマイホーム主義に対しても、松田の批判は辛辣です。
アメリカ占領軍は、封建制解体、家長による大家族制の解体の方針を出しましたが、
それを受けて、いっきょに3世代の家族のありかたが壊滅し、核家族とマイホーム主義が覆い尽くしました。
それは「強制」だけではなく、むしろ国民自身が望んだことでした。

これは封建制に対する民主化の「つもり」だったのですが、
それはあまりに短絡的で視野が狭かったと、松田は批判します。
人間は、子供時代と老年期に人の助けを必要とします。
そのために、人間たちは「家」を守ることを必要とした。
それを解体するのなら、老人が切り捨てられることになる、と松田は指摘します。
松田は、高齢者の「年を取ってから楽をする権利」は「基本的人権」だと主張します。
私は、こうした指摘を自分自身への厳しい批判として重く受け止めました。

松田は全体として常に「自立」「自己決定」「基本的人権」を問題にします。
それが生きること全体を貫く原則として示されていることに感心します。
それは松田自身がそう生きていることの表れでしょう。
彼は京大の人文研のメンバーとしても活躍していますが、もともとは町医者です。
そして、彼の父もまたそうであり、その父の方針から多くを学んだようです。

彼は患者の自己決定権を大切にしようとします。
「症状があっても、その症状が本人の現在の生活にとって支障になっていなかったら、
医者は治療という名で、その人の生活に立ちいるべきではない」94ページ
さらには「安楽自殺の権利を要求するところまでいかないのは、
自由意思で生きようという老人が少ないせいだろう」(61ページ)とまで述べています。
「ここまで言うか」と驚きました。

女性の自立についても、女性が外で働けば解決ではありません。
むしろ奴隷化が強まる可能性もあるのです。松田はそこを見逃しません。
「指図してもらわないと落ち着かないからというような自由恐怖症の女だけが働くことになれば、
女の地位は今よりよくはならない」183ページ

家庭の問題は、誰にも身近だからこそ、どうしても感情的になったり、一面的になりやすいものです。
本書は違います。
ここには広い視野に基づくおだやかさ、
過激な問題提起を含みながらも、人間を見つめるまなざしの温かさがあります。
それに改めて感心しました。

松田は何も触れていませんが、
本書の論考は、梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」に触発されて書かれたように感じました。
梅棹の問題提起を受け、その不十分さを補いながら、それをさらに客観的に深めているように思います。

松田の論考は70年代で終わっています。その先を私たちは進まなければなりません。
そこでは社会における「家族主義」を改めて問題にしなければならないと思います。
明治維新後に「孝行(孝)」が「忠君」に取り込まれたのは、
それほどに「家族主義」的な感情が私たちに強く作用するということでしょう。
それは身内の一体感を大切にしますが、ひとたび身内でないと判断すれば、徹底的に排除する論理です。
それは国家にも会社にも役所にも学校にも、マイホームにも根付いているのではないでしょうか。
そこを解決していかなければ「自立」「自己決定」は不可能であり、先の展望は開かれないと思います。

                              2015年7月5日
                                               

7月 07

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」を久しぶりに読み直しました。
女性の自立の問題を考えるためです。

これと併せて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会も開催しました。

本日は梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について私見を述べ、
明日は、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告をします。

■ 目次 ■

1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
 中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起
(2)妻という生き方、母という生き方
(3)梅棹の一面性
(4)人類学の意義と限界

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1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
  中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」(『女と文明』中公叢書に収録)は1959年に発表された。
この1959年は、55年頃から始まった高度経済成長により「主婦」層が急増していた時期だった。
この論考は発表されるやいなや、一大論争を巻き起こす。それは約10年ほど続く大論争の火付け役をになったのだ。
これらは後に「主婦論争」として本にまとめられている(『主婦論争を読む』上野 千鶴子編著、勁草書房1982など)。

梅棹のねらいは、問題提起をすることそれ自体にあったろうから、それは大成功だったことになる。
彼はまさに問題の核心を突いたのだ。そしてそれは、今も解決できないままに残されている。

今回、この2つの論考を読み直し、考えたことをまとめる。

(2)妻という生き方、母という生き方

梅棹は、妻という生き方、母という生き方に問題提起をしている。
夫のみが直接に社会で生産労働を担い収入を得て、
妻は家庭に引きこもり家事労働、子育てを専門とする。
これでいいのだろうか。

近代以降、家事はどんどん産業化、機械化されてきたが、
高度経済成長下で家事の電化によって妻たちの負担は大幅に軽減された。
主婦たちに余暇が生まれ、主婦たちの「生きがい」が問題になる段階になった。
そこで梅棹の問題提起は威力を発揮した。

主婦の多くは余剰エネルギーを育児に振り向け、
過保護や母子一体化が進んでいる。
その結果、自分の人生の目的や計画は持たず、
子どもの人生がそのまま自分の人生であるような生き方に陥ることが多い。

女性が妻や母のポジションに埋没するのではなく、
人間として充実した生き方をするにはどうしたらよいのか。

梅棹の答えはこうだ。
「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」。

(3)梅棹の一面性

梅棹による妻や母の問題の指摘は、すべてもっともだ。
だからこそ、大きな衝撃力をもったのだろう。

しかし、この女性の問題は、基本的には男女の社会的な「分業」にともなうものだ。
すべての分業は一面性や、視野の狭さ、ゆがみなどを必然的に生み出す。
それは女性側だけのことではない。
男性側にも大きな欠落を生みだしている。
ところが、梅棹は男性側の問題を語らない。これではあまりにも、一面的ではないだろうか。

男は社会で生産労働を担い、女は家庭で家事労働や子育てを専門とする。
こうした分業は、そもそもなぜ行われたのだろうか。

梅棹は、そうした分業が行われるサラリーマン家庭を江戸時代の武士の系譜の延長に見ているが、
それは現象面での類似でしかない。
この分業システムは武士云々とは無関係に、
近代社会、資本主義社会に必然的なことでしかない。
賃金労働(これがサラリーマン化)が普遍化すれば、世界中のどこでも同じことが起こる。
それは近代化、工業化の必然的な結果でしかない。

分業はその社会の生産力を高めるために行われる。
男女の分業、そして社会的生産の場(会社)と家庭の分業も、そのために行われるものだ。
日本では、この男女の分業システムは、高度経済成長下で完成した。
「専業主婦」の在り方が一般的になったのだ。

男性はほとんど家庭にいない状態になり、家庭の仕事は全部が女性に託されるようになる。
男性は、サラリーマンとして企業に埋没して生きる。「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」。
家庭を顧みる余裕はなく、親子の時間も夫婦の時間もなくなった。
女性が、妻として母としてしか生きておらず、人間として生きていない、との梅棹の批判は正しいが、
男性もまた「会社人間」としてしか生きておらず、人間として生きていないのではないか。

女性の問題と男性の問題は1つの問題の裏表である。
したがって、この女性たちの問題は、
女性が男性と同じように外で働くこと、男性と同じことをするだけでは解決されない。
「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」が増えるだけのことだ。

こうした完全分業制は、生産力を飛躍的に高めることに成功したし、生産性が上がる限り続く。
しかし、そこには自己矛盾があり、その成功ゆえに崩壊していく面を持つ。
日本は高度経済成長で豊かになった。家庭には家電製品があふれ、家事の負担は大幅に軽減される。
その時、女性たちには時間的余裕が生まれ、改めて「生きがい」が問題となってくる。

工業化は公害を生み、環境保護が初めて意識される段階が現れる。
高度経済成長も終わりを迎える。
女性と同じことが「モーレツ社員」「企業戦士」たちにも起こる。
彼らも改めて「生きがい」の問題に直面したのだ。
その時、そこに「空虚さ」しか見いだせない人たちが大量に現れた。

梅棹の予言はまさに的中した。
しかし、それは現実の半分だけだ。
男性側の問題がそこには完全に抜け落ちていた。

(4)人類学の意義と限界

改めて、梅棹の先見性と、その一面性を考えたい。

梅棹の先見性はどこから生まれたのか。
梅棹は「社会人類学」や「文化人類学」を仰々しくふりかざしているが、
それはサラリーマンと武士との現象的類似を指摘するレベルのものでしかない。
この専業主婦の問題は、本来は、近代化や資本主義経済の基本的な枠組みからのみ理解できることなのだ。

しかし、経済学や政治学の研究者、社会主義運動の理論家や実践家からは
梅棹のような問題提起が生まれなかったのも事実である。
彼らには主婦や母たちの問題が見えていなかったのだ。

梅棹のように、世界中の民族を比較研究する中で、
家庭や女性や結婚のありかたを比較研究する視点からしか、
女性の問題は見えなかった。
男性社会であり、工業化社会であり、
その中に埋没して生きている限り、それを超える視点は持てないからだろう。
そこに梅棹の先見性があった。

しかし、一方で、近代化や資本主義経済の理解が不足している梅棹には、
男性側の問題の指摘はできなかった。
しかし、それこそが問題の中の問題、核心的問題だったはずだ。

「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」

これでは何も問題は解決しない。そのことを、今、私たちは知っている。

                          (2015年7月5日)

7月 06

『資源の循環利用とはなにか』細田 衛士 (著)の読書会の報告

5月24日(日曜日)の読書会では、『資源の循環利用とはなにか──バッズをグッズに変える新しい経済システム』細田 衛士著(岩波書店2015/2/14)を読みました。

環境保護運動は一面的なものになりやすいようです。
「エコおばさん」たちの言動におかしなものを感じることも多いですね。それは物事の現象面しか見ていない視野の狭さ、コストを無視した非現実的な発想、自分の正しさを疑わない独善的な振る舞いなどが、気になるからでしょう。
本書も、ある意味では環境問題を考えた本です。しかし、国内の、そして全世界における産業構造から経済学的に考えています。物事の両面性や、コスト面を含みこんだシビアで現実的な対策を出しています。

工業化社会では、資源(原料)から製品(商品)を生産する過程が中心に考えられてきました(これを本書では「動脈経済」と呼びます)。製品を生産し、それを商品として売るまでだけが意識され、それが消費されて捨てられる過程は無視・軽視されてきたのです。

実は、生産過程ですでに大量の廃棄物が生まれています。それを無視すれば「公害」として跳ね返ってくることは学びました。今では、生産過程や消費過程で発生する大量の廃棄物、その回収と処理、リサイクルが問題になっています(これを本書では「静脈経済」と呼びます)。しかし生産過程(「動脈経済」)と、「静脈経済」を一体のものとしてはとらえられませんでした。本書は、それを一体としてとらえようとするものです(75ページの図を参照してください)。その結果、新たにたくさんの課題が見えてきます。

当日に発表したレジュメと参加者のコメントをもとに、私見を以下にまとめました。

■ 目次 ■

資源の循環利用には、発展的な理解が必要だ 中井浩一

1.本書全体として
(1)経済の大きな転換点についての根本的な考察がある。
(2)欠点は発展的な考えと対策を求めながら、著者自身にその自覚も能力も不足していること  
(3)読者対象
(4)用語に問題が多い
2.全体と2章の構成への代案
3.大きな問題
(1)発展という見方
(2)経済(自由経済=市場経済)と法との関係
(3)日本の環境保護運動の問題 7章
(4)ナショナリズムと先進国と後進国の対立(いわゆる南北問題)をどう考えるか  
(5)人間の心理、感覚、感情の位置づけ
(6)本書の問題は、3・11後の福島の原発事故で端的に示された。
(7)EUの認証制度は重要  

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資源の循環利用には、発展的な理解が必要だ 中井浩一

1.本書全体として

(1)経済の大きな転換点についての根本的な考察がある。

1.経済の大きな転換点

20世紀までの経済と21世紀以降の経済が大きな転換点にあることがわかる。
本書はそれを「資源(原料)」という観点から述べている。

2.「全体」的で「発展」的な見方 根源的な考察がある。

現実の厳しさに押されて、事実上、発展的な見方に追い込まれる
     それがすぐれた成果を生んでいる
     「潜在的な資源を顕在化する」がテーゼ
資源の「始まり」から「終わり」までの全体を1つの円環構造としてとらえる。
     これは「発展」的な見方そのもの。また、そうでなければ、それは不可能。
そうした段階にまで、人類の経済が発展したとも言える。
     「業界の思いを救いあげていく」(225ページ)

3.この考えは単なるモノに限られず、文化まで広げて考えられる

      だから、本書は「地域資源」経営とも結びつく。
「地域資源」経営は、本来はこのレベルに立たないと解決ができないだろう。

4.新たな分野の開拓者として、問題提起が多い

(新たな事実の提示と問題と政策)
      「問い」の重要さ(21ページ)

(2)欠点は発展的な考えと対策を求めながら、
著者自身にその自覚も能力も不足していること

    特に構成と展開のひどさ 読みにくく、わかりにくい。
細田は展開をきちんと考えられていない。
総論と各論、本質と現象、理論と実践、一般論と具体論、本質論と戦術論
の区別が弱く、ぐちゃぐちゃになっている。

特に2章の内部がひどく、全体もひどい
彼自身が、第1部、第2部、第3部の構成を説明しているが(序章の22ページ)、
そのようにはなっていない。
いろいろな章で、前に出てきた話が何度も繰り返されるのは、構成が悪いから。
  

(3)読者対象

細田は専門家を相手に語ることはできても、普通の人を相手にできない
本書の読者対象は、業界と行政ではないか(行政と一緒に研究している人)
市民たち、消費者、主婦たちの役割が書かれていない

(4)用語に問題が多い
 
あいまいだったり、わかりにくかったり、御都合主義だったり
    これは細田というより、学会全体の通弊。
「トレードオフ」とは「矛盾」のこと。そう言えない。
「二重の資源問題」(6ページ)
「希少性」(37ページ) なぜ交換価値でだめなのか
「情報の非対称」(44ページ)
  「インフォーマル」→ヤクザ、ブラック企業

                                           

2.全体と2章の構成への代案

全体を以下の様に展開したら、読みやすく理解しやすいと思う。

(1)動脈経済と静脈経済 (2章)
75ページの図から始める。6ページの図はわかりにくい
この図の上の動脈経済と下の静脈経済の関係を説明(73?75ページ)することからすべてを始める

(2)経済の新たな発展段階と、要請される新たな経済学 (2章)
従来の経済学と政策は動脈経済しか考えていなかった。
現在では静脈経済をも視野に入れて、全体を考えないといけない発展段階になった。
  
   2章の社会主義批判や「格差」への言及部分は不十分だと思う。
工業化の過程で、資本家と賃金労働者の対立が激化すると社会主義が生まれた。
衣食住の基本部分の工業化の段階までは社会主義が有効だった。
しかしそれを越えて、付加価値が重要になった段階で、社会主義は敗北した。

(3)静脈問題の本質 (3章、4章の4)
1.静脈問題の顕在化
1.1先進国で60年代から70年代に、公害や汚染への対策が必須になった
1.2その後、潜在的な資源であることが意識されるようになった。
   2.現在は、グローバル化の流れの中で、
先進国と後進国でこの資源をめぐる葛藤がある。
2.1先進国を後追いする後進国
2.2先進国のリサイクル資源を資源とする後進国

(4)静脈問題の対策の歴史と現状とその課題
日本 (3章の1、7章、8章)
アメリカ (7章、8章)
EU (7章、8章)

(5)日本は今後どうすべきか (8章、9章)

                                           

3.大きな問題

(1)発展という見方 特に6章の3

1.an sich をfeur sich にしていくのが資源経営(78ページ)
     これだけでは不十分
2.「始まり」から「終わり」までを見通した経営を、強く打ち出すべき
全体が循環する ヘーゲルの円環運動 「発展」。ヘーゲルの「総体性」
「終わり」の自覚はある。 「最終処分場」(6章193)に言及している
「成熟化」(8章)とは発展のこと
マテリアルリース 272ページ、EU「資源効率性」273ページは重要
3.全体の関係性がオープンで透明になっていることが重要
「公開」と「説明責任」が必要なのだ
4.「縦割り」行政の弊害 (202,3ページ、125ページ)
行政はもちろんだが、業界団体も同じ。

(2)経済(自由経済=市場経済)と法との関係

1.ヘーゲルの『法の哲学』のような理解が重要
     事実どうなっているか、その中の理念の運動を見抜いていく。
2.「自由か規制か」が問題なのではない
     ここを細田は、よく押さえていると思う。
細田の言いたいことをまとめると以下になるだろう。
     市場が失敗するから、市場が機能するために調整機能(市場に対する制限)を市場自身が求めており、それが可能なのは「政府」しかない。
 
目的(課題)とその手段(解決策)(104ページ)が問題なだけ
「規制緩和」のあいまいさ(127ページ)
「強化」だけではだめ(104ページ)
アメとムチ(促進策と規制策)(141ページ)
3.「誰が」全体を管理するのか 274,276ページ
     国家か、行政か? 
ソフトローが重要 業界団体、市民たちの参加が必須
4.小型家電のケースは面白い
     ヨーロッパの「認証」制度の意味

(3)日本の環境保護運動の問題 7章
1.問題
1.1市場、経済合理性の無視 資本主義の威力の無視
1.2潔癖症、完璧主義、自他の区別なし、日本人の「きまじめ」 
正義が暴力になる
一部の「正義面したエコおばさんたち」のバカさ加減を的確に突いている
2.この2つが「原発」への日本の対応の失敗になった
3.「学習」が組み込まれない運動は堕落する
運動の中心には、常に学習があるべき
4.ビジネスを目指すべき 「ソーシャルビジネス」という名の甘えもあるのでは
5.EUとアメリカと日本の違いは何に由来するのか 8章
唯物史観からどう理解したらよいのか

(4)ナショナリズムと先進国と後進国の対立(いわゆる南北問題)をどう考えるか
   みなが豊かな生活をおくれるようになることを、大きな方向性として考えるべき。
本当の問題は先進国のデフレ 先進国で成長そのものができなくなったこと

(5)人間の心理、感覚、感情の位置づけ
「きたない」のは嫌だ、見たくない、は生理的な反応(117ページでは言及)。
このことをどうとらえるか。

(6)本書の問題は、3・11後の福島の原発事故で端的に示された。
本書は、具体例としてこの問題に触れるべきでは?

(7)EUの認証制度は重要
    基本的には市場にまかせつつ、国民の自発的で自覚的な選択をうながすことで、
問題を解決しようとする。

12月 30

日本語の基本構造と助詞ハ  その1

松永奏吾さんの日本語学の論文「デハナイ」と、それに対する私の考えを掲載します。

松永さんの論文「デハナイ」は今年2014年3月に東大大学院の野村剛史氏のゼミで発表されたものです。
注の部分は省略しました。

また、この論文の概要(構成の説明と要約)を松永さん自身が野村ゼミでの発表のためにまとめた
ものを最初に出しました。これを読んでから、または並行して眺めながら論文を読むと、
読みやすいでしょう。

■ 目次 ■

一 「デハナイ」論文の概要     松永奏吾

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
→ ここまで本日 2014年12月30日に掲載

2. XはYである
3. デハナイ
→ ここまで12月31日に掲載

4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
→ ここまで2015年1月1日に掲載

6. 否定と対比
7. おわりに
→ ここまで1月2日に掲載

三 日本語の基本構造と助詞ハ  中井浩一
 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
 → ここまで1月3日に掲載

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一.「デハナイ」論文の概要           松永奏吾

1 全体の構成

(1)デハナイの一般性……1節
・「デアル/デナイ/デハナイ/デハアル」の数値比較。1533/12/134/2
・「デナイ:デハナイ=1:10」によって、デハナイの一般汎用性を示す。
・終止法で比較すると、「デナイ:デハナイ=1:20」。

(2)「XはYである」の論理……2節
・「XはYである」、ないし、助詞ハの生成する論理の考察。
・主語名詞Xの内的二分(存在者と属性の二側面、主語性と述語性)から、
「XはYである」が生成した。

(3)「XはYではない」の論理……3節
・「XはYである」から「XはYではない」が生成する論理の考察。
・「XはYではない」の構造  [Yで] は [ない]
・述語名詞「Y」の内的二分(属性と肯否の二側面)から、「Yではない」が生成。
・デハナイとは、対象化された認識の否定。認識の認識。否認。

(4)クナイ、シナイとの違い……4節
・クナイ(形容詞の一般否定形)は、属性の否定であると同時に対立属性を意味する。
・シナイ(動詞の一般否定形)は、運動の否定であると同時に未実現状態を意味する。
・クナイもシナイも対立を意味するが、デハナイ(「名詞+ではない」)は差異しか意味しない。
・シナイは否定の範囲が曖昧になり得るが、デハナイは否定の対象を明瞭に提示する。

(5)デナイとの違い……5節
・仮定条件でデハナイが避けられる(デナイが選択される)のは、
デハナイの仮想提示と低条件が重なるため。
・デナイ終止法(69例)の分析によれば、形容動詞の否定形「容易でない」など、
そのほとんど(59例)が対立を意味する点、クナイやシナイと同類の否定である。

(6)否定と対比……6節
・「AではなくB」(20例)、「Bであって、Aではない。」(6例)、「Aではない。B」(37例)
のようにパターン化すると、デハナイ87例中(疑問用法47例を除く)、対比を示す用例が63例ある。
・「対比」が否定から導かれることの考察。対比否定起源説。

2 全体の要約

 形容詞や動詞の否定と異なり、デアルの否定には助詞ハが介在してデハナイとなるのが一般的である。
そもそも「XはYである」とは、主語名詞Xの内的二分(存在者と属性)が「X─Y」と分裂し、
その分裂を反映(意識)した助詞ハによって一文が二分された文である。
「Yではない」は、助詞ハによって、述語名詞Yの内的二分(属性と肯否)が意識された述語であり、
対象化された認識の否定、である。

一方、クナイやシナイは否定と同時に対立を意味する点、それと、否定の範囲が明瞭でない点が
デハナイと異なる。
(デハナイは否認と同時に差異しか表さないが、クナイやシナイやデナイは否認と同時に対立を意味する。)

デナイもまた本質的にクナイやシナイと同類で、対立を意味する。仮定条件でデハナイが避けられるのは、
デハナイの仮想提示と仮定条件が意味的に重なるためである。
デハナイには「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」などのパターンで
対比を示す例が多い。(デハナイは差異しか表さない場合が多く、その場合、対立規定が文脈上に現れる。)
対比は、助詞ハが否定の対象を明瞭にすることによって、対象外とされた存在者が暗示される、
という論理から生じる。

※「XはYである」→「XはYではない」→「XはYではなくZである」という展開。

2014/03/15 

                                         

二.デハナイ 松永奏吾

0. はじめに

 (1) 山田は大学生である。
 (2) 山田は大学生ではない。
 (3) 山田は大学生ではある。

 助詞ハは、(1)のように主語と述語とを二分するような位置に現れる一方で、(2)や(3)のように、
「述語内部」とも見えるような位置にも現れる。(2)は否定述語内部に、(3)は肯定述語内部に、
それぞれ助詞ハの現れた一例である。そして、そのこと自体は、動詞述語でも形容詞述語でも同様である。

(4)に否定の例を、(5)に肯定の例を、述語の形だけ挙げる。
(4) 食べはしない  美しくはない 
(5) 食べはする  美しくはある 

 以上の(2)-(5)は、その形態的特徴から見るだけならば、諸品詞の違いを越え、かつ、肯否の区別とも関
係なしに、ただ一様に述語内部に助詞ハが現れる、という現象を示しているだけのように見える。
しかし、(2)の「?ではない」だけは、他の(3)(4)(5)と根本的に異なる。以下、結論を先取りして述べる。
 まず、(3)の「大学生ではある」は、(1)の「大学生である」という一般的な述語に対する特殊な述語であり、
同様に、(4)もそれぞれ、「食べない」「美しくない」の方が一般的、(5)も「食べる」「美しい」の方が一般
的な述語である。つまり、助詞ハを内部に含んだ(3)(4)(5)は特殊な述語の形であって、助詞ハの特殊用法と
言って構わない。しかし、(2)の「大学生ではない」だけは、助詞ハを含んだこの形で、一般汎用的に使われる。
すなわち、「?でない」ではなく「?ではない」が、「?である」と肯否の対を為して使われる、一般的な述
語の形なのである。のみならず、(1)のような「XはYである」という形式の文を日本語の基本文の一つと見る
ならば、その否定文としての(2)もまた「XはYではない」というこの形式で基本文と見るべきである。故に、
そこに現れる「?ではない」という用法は、助詞ハの基本用法の一つと言い得る重要性をもつはずである。

 本稿の1節では、調査報告により、「?ではない」の一般汎用性を事実として確かめる。2節では、「XはY
である」という基本文の問題を論じ、それをふまえて、3節で、「?ではない」が一体いかなる否定述語なのか
を考察する。4節で形容詞や動詞の否定形との違いを述べ、5節では助詞ハのない「?でない」という否定形と
の違いを述べる。最後に6節で否定と対比の問題を論じる。

1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル

 本節は、助詞ハの介在した「?ではない」という述語の一般汎用性を、調査事実によって明らかにする。
以下、「?である」という述語を、デアル述語と略称し、「デアル」という表記によって、述語としての「?で
ある」を意味して使う。同様に、「?でない」を「デナイ」、「?ではない」を「デハナイ」、「?ではある」
を「デハアル」と略記する。

次の二点を留意されたい。

一、デアル述語は、「大学生である」「穏やかである」
「ゆっくりとである」「行くべきである」「行くわけである」等々あって、「である」の上接語は多様であること、

二、デアル述語には、口語的な「だ」、敬体の「です」「であります」等も含めて考えること、またデハナイの
口語体「じゃない」も含めること、の二点である。

 さて、デアル、デナイ、デハナイ、デハアルという四種の述語について、文庫本約210ページ 中におけるその
出現数を調べたところ、表(1)の結果が得られた。

表 1. デアル述語の出現数比較
デアル デナイ デハナイ デハアル
1533 12 134 2

この調査によって、次の事実が確かめられる。まず、肯定述語の数値に関して見ると、デアル1533例に対して
デハアル2例であるから、助詞ハを介在させたデハアルが非常に特殊な存在であることが分かる。ところが、
否定に関して見ると、デナイ12例に対して、デハナイが135例であるから、その出現率においてデハナイの方が
圧倒的に優勢であり、デナイの10倍以上である。つまり、肯定の場合と関係が逆転し、助詞ハを介在させた述語、
デハナイの方がむしろ普通一般の存在であることが分かる。
 さらに、この「デナイ/デハナイ」の関係に絞り、より詳しく内実を見る。下の表(2)と表(3)は、それぞれ表(1)
のデハナイ134例とデナイ12例について用法分類したものである。

表 2. デハナイ134例の用法分類
終止(主文文末の用法) 57
単純接続1(「?ではなく(て)」 20
単純接続2(「?ではないし」) 2
順接・確定(「?ではないので」「?ではないから」) 5
逆接・確定(「?ではないが」「?ではないけれども」など) 3
疑問(「?ではないか」「?ではあるまいか」など) 47
計 134

表 3. デナイ12例の用法分類
終止(主文文末の用法) 3
単純接続1(「?でなく」) 1
順接・仮定(「?でなければ」「?でなくては」) 7
逆接・仮定(「?でなくても」) 1
計 12

 なお、用例が1例もなかった用法は項目を略した。さて、表(2)と表(3)を比較すると、次の四点の事実が注目
される。

 第一に、各表中の一段目、終止用法について比較すると、デハナイの終止用法57例に対して、デナイの終止
用法はわずか3例である。主文末終止用法こそが最も基本的な述語の在り方であるとすれば、デハナイがデナイ
の20倍近い比率で終止用法に現れるというこの結果は、デハナイの一般汎用性を改めて示す事実である。

 第二に、「単純接続1」とした用例について比較して見た場合も、「?ではなく(て)」20例に対して、
「?でなく」1例という極端な差がある。かつ、この「?ではなく(て)」20例は、表(2)のおよそ15%を占め、
終止と疑問を除けば際立って用例数が多い。

 第三に、仮定条件のみ、デナイが優勢を示している。どころか、デハナイの仮定条件用法は1例もない。
順接仮定条件の「?でなければ」とか「?でなくては」という用例7例に対して、「?ではなければ」とか
「?ではなくては」といった用例は1例もなく、逆接仮定条件の「?でなくても」1例に対して、「?ではなくても」
といった用例は1例もなかったということである。これは、さしあたり、デハナイの一般汎用性に反する事実である。

 第四に、表(2)の「疑問」とした項目を見れば、「?ではないか」とか「?ではあるまいか」といった用例数が
47例ある。かたや、デナイにそれに類した用例は1例もなかった。付言すれば、肯定のデアル1533例中、疑問用法
の数は50例あったから、それと比較しても、デハナイの疑問用法が47例あったという事実は特筆すべきものである。

 以上、「デナイ/デハナイ」の用法比較により、注目すべき事実四点を挙げたが、本稿は第四点、すなわち疑問
用法についての考察はしない。疑問用法のデハナイは「否定」から生じたものではあっても、すでに「否定」を離れた
デハナイの特殊用法である。本稿は、第一点、すなわち、デアル述語の一般的否定形が、助詞ハを含んだデハナイである
という事実のもつ意味を明らかにすることを中心課題とし、第二点、第三点についても論じる。

11月 21

拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書(2009年2月20日初版)が増刷され第5刷になりました。

今回の増刷にあたって、間違いを訂正し、表現をいくつか直しました。

48ページ
最初の図で
             そこ(古典)で言われていることじたい ×
古典が偉大な(理由)は
             そこ(古典)で言われようとしていること○
             =それ(古典)が私たちに投げかける志向性の影

は(によって)を3か所加えてください。以下です

             そこ(古典)で言われていることじたい(によって) ×
古典が偉大な(理由)は
             そこ(古典)で言われようとしていること(によって)○
             =それ(古典)が私たちに投げかける志向性の影(によって)

78ページの図では

自己を 国=統一国家 として  画する(閉じる)

これを以下に
                画する(=閉じる)

163ページの図は

[仮説を検証する段階]仮説 → 仮説から導かれた、事実(現象)に関する結論(推測)

を以下に直しました。

[仮説を検証する段階]仮説 → 仮説から導かれた結論が、事実(現象)と一致するか否かを確認

また162ページの文章を直しました。【 】部分を加えました。

となるでしょう。ここに【現象から仮説、仮説から現象という】、両方向の矢印が現れることに注意してください。実はこれが媒介なのです。
ところで、ここで仮説と現象は、いったいどちらが「根拠(原因)」なのでしょうか。読者の皆さんは、当然のように現象が根拠で、それによって仮説が形成されたと考えるでしょう。しかし、ではその仮説の真偽を検証する段階ではどうなるのでしょうか。仮説から導かれる現象【(結論)】を予測し、その結論が実験などで【実際が現象と一致するか否かが】検証されます。この「仮説から導かれる現象」とは、仮説を根拠にして現象を導き出しているのではないですか。

246ページは

「立体的構成」の(1)のマル2の
「環境説の極限の言説」を

「遺伝説の極限の言説」
に正しました。正反対のママになっていました。

以上について直しました。

他にも問題になる箇所、わかりにくい個所があることでしょう。
読書からの御意見をお待ちします。