12月 28
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
と掲載してきましたが
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。
(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
関口にとって、人間の意識こそが中心であり、世界は意識に反映された限りで問題にするにすぎない。これが現象学の立場だから当然だが、ここで世界が人間の意識を規定するのか、人間の意識が世界を規定するのかが改めて問われるだろう。それには判断中止し、世界は意識に反映された限りで問題にするのが現象学の立場だ。
ここにこそ、関口と、ヘーゲル、マルクスの対立がある。もちろん、言語表現を直接の対象にしている研究者にとっては、それで十分だということはできる。それどころか、関口は言語に反映された限りで世界に迫り、そこらのヘーゲル、マルクスの研究者以上に、果敢に世界の本質に迫っている。
しかし、だからといって、両者の違いが大きいことも明らかだ。関口は言語世界の運動と現実世界のそれとの関係を語らない。例えば、名詞論の始まりで、関口はヘラクレイトスの「万物は流転し止まることなし」を受け、「これはまた少し違った意味で『言語』という現象にも通用する」(183ページ)と述べる。しかし「少し違った意味」とは何かが、説明されることはない。
なぜ名詞に無限のニュアンスが生まれ、無限の「含み」が生まれるかと言えば、根本的には世界そのものが矛盾し、それゆえに運動しているからだろう。その世界の矛盾と運動を、言語では静止したもの「として」もとらえなければならず、その矛盾が言語や名詞の無限のニュアンスや「含み」を生みだしているのだろう。しかし、世界の運動は、他方では人間を生み、人間の意識の世界をも生みだしている。その人間の自己意識の世界もまた、それ自体矛盾し運動している。その世界をも言語表現は静止した形で表現するしかできない。したがって「含み」が生まれるのは二重の意味で必然なのだ。関口の「含み」の理解は、このレベルにまで深めて理解すべきだろう。
ヘーゲルやマルクスならこう言うだろう。「人間の意識の矛盾や運動は、世界の運動の結果生まれた物であり、それが世界を反映することは最初から決まっており、その反映の仕方も、対象と同じく、矛盾と運動によるしかない」。こうした理解の上で、関口が「含み」を研究したらどうなっていただろうかと、想像しないわけにはいかない。その「含み」は人間を解き明かすだけではなく、この全自然の「含み」をも明らかにしただろう。それはそのままに全自然史の展開になり、ヘーゲル哲学に近い物になっていたのではないか。そうした夢想を引き起こすほどに、それほどに関口のすごさは圧倒的なのだ。しかし、一方で、それはどこまでもハイデガーの立場に身を寄せてもいる。これもまた、この世界の矛盾の一つでしかないのだろう。
12月 27
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
と掲載してきましたが
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。
(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)
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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
さて、こうして生まれた関口のドイツ語学は、どのようなものになっただろうか。
まずそれは、人間の本質を明らかにする「人間学」となった。
関口のように語感と「含み」を中心にすることは、それを生み出した人間の意識そのものを問うことになり、それは「人間そのもの」を問うことにほかならない。
そして、それは同時に、ヘーゲル張りの「発展」的な把握、概念的な把握になっている。なぜなら、「含み」を明らかにすることは、潜在的な思いを顕在化することに他ならず、それ自体が発展の論理に他ならないからなのだ。それは冠詞論全体の構成、展開法から、個々の用語の細部の説明にいたるまで、貫徹されている。
感動的なのは彼の名詞論だ。『不定冠詞論』182?186ページにある「名詞論」は圧巻だった。
関口は言語表現の流動性に着目する。すると、およそすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
では、なぜに名詞が必要なのか。「全体の円滑なる流動は、部分の非円滑なる凍結のおかげ」だからだ。「人間社会とその生存の努力は、滔々と流れ流れて停止するところを知らざる万象流転と新陳代謝そのものであるとはいえ、その流転、その代謝は、局部的停止、部分的凝固、一時的凍結なしには円滑に代謝流転できないのである」。これが言語の世界に名詞という反流動的な意味形態が必要になった理由として、関口が挙げる理由なのである。もちろんここには自家撞着(矛盾)がある。その結果、「名詞性に多少の段階」があるのだ。
関口は名詞と他の品詞を比較し、名詞こそが優勢であり、「名詞が本当にことばであって、名詞以外は何だかことばらしくない」というのが「感触の実状」であることを示す。
しかし、真実はその反対であり、「ことばというものは流動と融通と融解と無常とを以て根底とする」ものだと、言う。では、どうしてこうした逆転が起こるのか。
「流動そのものである言語は、しきりに何かはっきりとした姿を取った拠点、しがみつくことのできるような不動の何物かを求めてやまないからこそ名詞を重要視する」のだ。
ここには「無理」があり、矛盾がある。そのために「名詞の名詞性に無限の段階が生じ、無限のニュアンスが生ずる」。そして、その名詞性を示す「目印」こそが、「冠詞」なのだ。そこには定冠詞、不定冠詞、無冠詞の3種があるが、最も注目すべきなのが不定冠詞だという。
つまり、名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまなニュアンス(「含み」)を持つ。そのニュアンスを直接表に現すのが冠詞なのだ。これが関口の冠詞(特に不定冠詞)の説明なのである。
だから、関口は『不定冠詞論』で不定冠詞の含みを4段階に示し、その第2の「不定性」では「或る」の5種類として、その微妙な含み(ニュアンス)の違いを展開している。
このように関口は言語世界に矛盾とそれゆえの運動を見ており、それをとらえるために、全力を傾注している。それがヘーゲルやマルクスの弁証法のようなダイナミックな思考を生みだしている。
また名詞論で、関口は名詞が世界を「つかむ」(ここからbegreifen「概念的把握」をヘーゲルは引き出す)ために生まれたことに着目するが、この「つかむ」の説明のために、彼は労働論を展開する。そして労働(つかむ)から思考への発展を展開してみせる(327ページ)。これは労働から思考が生まれたという、ヘーゲルやマルクスの思想と同じ内容であり、関口がそれらを読んでいないだろうことを思うと、そのすごさに圧倒される。
言語世界が矛盾であり、絶え間ない運動であることを関口はよく理解しており、その矛盾が運動を生み出すこともよく理解している。だから、彼の言語学は、この矛盾を矛盾のままにとらえることになるのだ。
矛盾と運動が関口の対象なのだから、彼自身もまた誰よりも激しく運動する。彼はつねに内部に矛盾を抱え、自分と他者との間で激しく往還運動をする。それは日本語と西欧語の間でもそうだし、意味形態論と形式文法の間でもそうだ。
以上からわかるように、関口はヘーゲルの「発展の立場」に極めて近いところにある。しかし、そこにある大きな違いに目をつぶることはできない。
12月 17
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
以下の順で、掲載します。
1.言語学の連続学習会
2.日本語研究の問題点
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
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◇◆ 日本語研究の問題点 ◆◇
大野晋、尾上圭介、関口存男(牧野紀之も)。この3人の論考を並べて、比較しながら読んでみて、日本語研究についてハッキリと見えてくるものがあった。
日本語研究には大きくは3つの問題がある。
1つは、一般的なアカデミズムの問題。つまり「専門バカ」集団の問題だ。これはどこの国の、どの時代のどの分野にもあるだろう。
「専門バカ」集団の研究の多くは、根本、本質から逸脱した、些細なものばかりになる。その方が、すぐに成果が出るし、評価も受けやすい。
しかし本来は、すべての個別研究は、「日本語とは何か」という根本、本質論へ向けてのものであるべきだろう。ところが、個別研究をする内に、それが忘れられていく。
研究対象や研究方法だけの問題ではない。彼らは、そもそも現実や社会との関わりが弱い。そのために、生きた言葉の運動を問うことができない。言葉は現実社会の中で生きている。それでは過去の言葉の運動もわからないのではないだろうか。言葉の研究者には、その「生き方」が問われるのではないか。
第2に、日本のような「後進国」で学問をするという特殊な問題が、さらに重くのしかかっている。それは西欧への学問に対する「奴隷根性」の問題であり、夏目漱石の言葉で言えば「他者本意」で「自己本位」を失っているという問題だ。
明治以降の日本語文法では、日本語を西欧語の文法でとらえようとしてきた。そうした観点から見れば、日本語には多くの欠落があり、日本語への低い評価が生まれた。「主語がないから日本語は非論理的でダメ」とかと言った論調は、今も続いている。もちろんそれへの反撥も起きている。日本語の独自性の主張もある。しかし裏返しの「奴隷根性」であることも多い。この負の遺産とどう向き合い、どう改善していけるのか。これは夏目漱石の提起した「自己本位」と「他者本意」の問題と重なる。
そして第3に、言葉の問題自体のムズカシさがある。それは自分の無自覚な行為の自覚化であり、自分の認識自体の認識であることのムズカシさである。これにはどうしても、認識論や哲学が必要であろう。この問題とは、そもそも、言葉、文章とは何か。認識とは何か。人間とは何か。といった問題をはらんでおり、日本語とは何か。日本人とは何か。といった問題はその特殊な問題となる。
以上の3つの問題にどういうスタンスを取るのか。どれだけしっかりと向き合い、これらの問題をとらえられたか。特に、第2点目は、日本語学だけではなく、日本の他のすべての分野において問題になる。特に文科系では、それが決定的だ。
以上の3つの問題に関連して、日本語研究の内容面での課題も明らかになる。
日本語文法の核心的問題の一つとして、日本語の助詞のハとガの違いが問題になる。
次のような述語文(命題文、判断文)で、2つの使い方がある。
主語+ハ+?である
主語+ガ+?である
この違いの説明が問われるのだが、なぜこれが核心的な問題かと言えば、この問題の困難さが、日本語と西欧語との違いと、それを無視した分析方法に起因するからだ。西欧語の述語文、その主語と述語とコプラ(である)の枠組みで考えると、日本語では処理できないことが多数あるのだ。そもそも日本の文章には主語がないことが多い。
つまり、この問題の背後には、日本語の文法を外国語の文法構造で分析しようとした無理がある。つまり、第2の問題である。
しかし、この問題のムズカシサは、そもそもの判断自体のムズカシサである。それは述語文、判断をどう考えるか。主語と、述語とコプラ(である)の枠組みの把握自体が難しいことに起因する。これが第3の問題になるのだが、この問題は、未だに西欧ですら十分には解明できていない。
カント、ヘーゲル、ハイデガーなど、みながこの問題を考えてきた。こうした認識論、またそれは存在論とも深く関わる。私は特にコプラの問題が大きいと思う。ヘーゲルはコプラこそ、判断の発展をうながす矛盾の核心と見ている。
コプラ(である)は、英語のbe動詞もドイツ語のsein動詞だが、本来は「存在する」との動詞からコプラとしての役割が派生している。これをどう理解するか。それと認識の発展、言葉の発展とはどう関係するのか。
西欧語に対して、日本語ではこの両者の関係はどうなっているのか。日本語の発展を考える際には、ここに核心的な問題があると思う。
以上の問題点を確認したところで、それとの対比によって、関口ドイツ語学の核心部分が見えてくる。
12月 16
4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
以下の順で、掲載します。
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2.日本語研究の問題点
3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
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◇◆ 言語学の連続学習会 ◆◇
今年の4月から、関口存男ドイツ語学に挑戦することにした。約1カ月の助走期間をおいてから、関口存男著『冠詞論』全3巻の通読を開始したのだ。
きっかけの一つは、鶏鳴学園の同僚である松永奏吾さんの博士論文にある。彼は東大の大学院で日本語学(「国語学)という用語は使用しない)を学び、助詞ハの用法などを研究している。大学院に在籍してすでに10年近くがすぎ、現在博士論文に取り組んでいる。しかし、どうも壁にぶつかっていて、先の見えない濃霧の中で立ちすくんでいるように見える。それを側面から支援したいと考えた。関口ドイツ語学は、ドイツ語学だが、実はその裏側では、最高の日本語学である。
そして、もう一つ、こちらの方が本筋だが、私自身が長いことヘーゲルをドイツ語で読んできて、そろそろ関口ドイツ語学にアタックするべきだと思うようになったのだ。
これまで関口さんの本は機会がある度に読んできたが、本格的に取り組むことをしないできた。その自信がなかったからだと言える。ヘーゲルもそうだが、関口さんのような屹立した高峰は、よくよくの装備を持っていどまなければ、弾き飛ばされ遭難する憂き目にあう。それは、ヘーゲルを読んで痛感しており、関口に挑みかかる覚悟を持てずにいた。
それが変わったのは、この数年で、少しヘーゲルが読めるようになってきたからだ。ヘーゲルの読み方が深まってきたと感じる今こそ、関口に挑戦するべき時なのではないか。
もう一つ理由がある。25年以上、現代国語の読解と作文の指導をしてきて、ここでも深まりを感じている。作文に関しては研究会を組織し、すでに10年以上も学んできたが、ここにきて、問題点がはっきり見えてきた。文とは何か、文体とは何か。文の種類は、大きく分ければ、描写と説明の2つではないか。その発展過程はどうなっているのか。これらの根源的な問いを問いとして自覚できるようになり、その問いへの一応の私案が用意できた。その当否を確かめたいし、より深めたい。しかし、こうした問いに挑戦している専門研究者はほとんどいない。
ここは、ヘーゲルと関口に頭を垂れて学ぶべきだろう。そこでヘーゲルの「判断論」と関口の『冠詞論』を読むことにして、今年の4月からその連続学習会を始めた。
これが松永さんのハの研究とどう関係するか。日本語の助詞ハとガの違いは、判断や命題の本質、主語と述語の関係と深く結び付いている。そして、西洋語での「冠詞」の機能は、日本語の「助詞」の役割にほぼ一致する。
そこで、一方ではヘーゲルの「判断論」を読みながら、他方で言語学の連続学習会を組織してきた。それは以下のように進められてきた。
1.大野晋『日本語の文法を考える』岩波新書
2.尾上圭介「主語と述語をめぐる文法」(『朝倉日本語講座 第6巻 文法II』に収録)
3.牧野紀之『関口ドイツ語学の研究』
4.関口存男『冠詞論』全3巻
この内の1は一般書で、平易に日本語の本質的な諸問題をまとめている。そこで連続学習会の入り口として最適と判断した。
大野は70年代、80年代の日本語ブームの火付け人。『日本語の文法を考える』は大いに売れ、編者の一人だった岩波の『古語辞典』も大きな反響をよんだ。『日本語の世界』シリーズも売れた。最近でも『日本語練習帳』は200万部近い大ベストセラーになった。『係り結びの研究』で読売文学賞受賞。『光る源氏の物語』など作家の丸谷才一との共著は多い。大岡信や井上ひさしら文学者との親交も多い。これほど、啓蒙活動に貢献した学者はいないだろう。
しかしアカデミズムからの激しい批判にもさらされた。タミル語が日本語の起源だとする日本語起源論はほぼ黙殺。倒置説である『係り結びの研究』では読売文学賞を受賞したが、これもアカデミズムからは強く批判されている。
2は現在の日本語学のトップレベルの研究を知るために取り上げた。「主語と述語をめぐる文法」は、日本語の主語と述語論、そこから助詞ハとガの違いにもまとめている。
尾上は現在の日本語学におけるアカデミズムを代表する一人。東大の教授で、専門は日本語文法論。文の成立に関わる原理的な問題を扱い、主語と述語などの、日本語の根本問題を考えられる少数の一人らしい。また、関西出身で、大阪ことばと文化、落語や笑いなどに関する著作もある(『大阪ことば学』 創元社 1999)
3は関口ドイツ語学について書かれた、ほとんど唯一の本。これを、総論に当たる1章は丁寧に、他はざっと通読し、全体像を押さえてみた。それにしても、関口ドイツ語学について正面から論じた本が他にないのは酷いことだ。「敬して遠ざける」という極めて日本的なやり方だが、ここまで徹底した例は少ない。牧野紀之以外、誰一人としてこのエベレストに挑む人はいないのだ。よく似た例としては、ヘーゲル哲学研究の分野における、牧野への徹底的無視が思い浮かぶ。これが日本の研究者のレベルである。
関口 存男(せきぐち つぎお)は、このメルマガの読者のみなさんには縁遠いだろう。亡くなってすでに半世紀にもなる。しかし、すごい人だ。すさまじい人だ。ほぼ独学でドイツ語をものにし、全く独自の「意味形態論」という観点で、ドイツ語をはじめとする西欧諸言語の諸問題に解決案を出した。そしてその最高峰が『冠詞論』だ。彼はエベレストのように屹立する巨人だが、その巨人性は、他と比較して初めてハッキリ見えてくる。
上記の1?3を読むことを、関口ドイツ語学に入るための準備作業として、6月からいよいよ『冠詞論』を読み始めた。全体は『定冠詞』『不定冠詞』『無冠詞』の3巻から成るが、『不定冠詞』から読み始めて、いま、『不定冠詞』全体の半分ほどを読み終えたところだ。「述語論」が入っていたのが『不定冠詞』だったので、これから読み始めたのだが、不定冠詞には語学上の問題が集中しているようで、抜群に面白い。これほどの興奮、感動は、久しぶりだ。11月に読み終えたが、来年には『定冠詞』『無冠詞』を読み終えたいと思っている。
まだ、関口ドイツ語学のナカミそのものに言及する段階ではないが、日本語学の現状については思うことがあるので、それをまとめておきたい。そして、それに関連する限りで関口についても述べたい。
なお、ヘーゲル論理学の方は、判断論を小論理学と大論理学で8月に読み終え、10月から始めた推理論も12月に読み終えた。こちらについては、別にまとめる予定だ。
12月 11
独断論
ヘーゲルは小論理学の32節で「独断論」について述べている。
「独断論」とは「有限な規定の本性によって、2つの対立する主張の内の一方が真で他方は偽でなければならないとする」考えと、本文にある。
また、付録には、「一般には『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」「真理は全体的なものであり、独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」とある。(以上、牧野紀之訳、鶏鳴出版から)
さらに、牧野紀之は注釈で、次のように述べている。
ヘーゲルの弁証法は「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」という考え。したがって、対立物の一方をすてて他方だけをとるやり方は、どんな根拠に基づいていても、真の根拠を示さないことであり、根拠を示さない主張、つまり独断論と言える。
ヘーゲルの説明よりも、牧野の方がさらに一歩踏み込んでいると思う。さて、では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とは、具体的にはどういうことか。
親子や夫婦の関係で、その共依存関係を説明しているような本では、両者の共依存の関係がいかに大きな問題で、自分と相手の自立を妨げるか、といった説明が一般的だ。ここではすべての関係を自立と依存を2つにわけ、「自立か、依存か」の2者択一を迫っていると言える。これが「『あれかこれか』を厳しく考えるもの」「悟性の一面的な規定に固執し、それと対立するもう一方の規定を排除するような考え」である。
拙著『大学法人化』でも、文科省と国立大学の関係を甘ったれ坊やと過保護ママとして批判したが、これも共依存の側面を強調したもので、悟性的な批判と言えよう。
こうした説明はわかりやすく、ある側面をくっきりと浮き上がらせる効果がある。しかし、それだけでは一面的であり、大きな方向性を考えるには良いが、実践的にはあまり役に立たない。実践は、個々の具体的状況を踏まえなければならないからだ。
では、「ある規定の根拠をそれの対立物に求める」とか、「独断論が切り離して真理だとし確固たるものだとした諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」というのはどういうことだろうか。
例えば、上の共依存を例にすれば、「自立(区別、バラバラの側面)」の根拠に「依存(支え合い、分かち合いの関係)」を求め、「依存」の根拠に「自立」を求めることだ。それはどういうことか。「良い自立」は「良い依存」に支えられ、「悪い依存」は「悪い自立」と一体のものであるということだ。人間関係は、すべてに依存と自立の両側面があり、それらは相互関係であって、切り離せない。したがって、問いは「自立か、依存か」ではない。問題を正確に現せば、「どのような自立が、どのような依存とつながっているか」なのだ。こうした相互関係を見抜き、どのような関係が、二人の成長発展を促進するか、妨げるかを問題にしなければならない。個々の具体的状況のもとで、こうした関係性を具体的に捉えない限り、実際の問題解決には役立たないだろう。
そしてこれが「(「自立」と「依存」という)諸規定を(止揚して、契機として)自己内に含み、統一させる」ということだと思う。つまり、自立と依存の奥に、人間の成長や発展の運動を見抜き、そのための契機として両者の関係を見ていかなければならないのだ。
(2010年12月6日)