11月 22
12月18日の読書会(午後5時から7時まで)は
『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
今年、ゼミの学習で出てきた思想の概略を確認します。
古代
アリストテレス 第1編 第6章(74から87ページ)
ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90から102ページ)
中世
アンセルムス 第2編 第1章(133から136ページ)
近世
デカルト 第1編 第3章(165から174ページ)
スピノザ 第1編 第4章(175から184ページ)
以上を取り上げます。
全体で50ページ弱です
本は購入することを奨めます。
今後、哲学史は私たちの前提になります。
なお
初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。
1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
2. 何を学びたいのか
3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
などを書いて、以下にお送り下さい。
E-mail:
sogo-m@mx5.nisiq.net
10月 01
夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
参加した内から3人の感想を掲載します。
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◇◆ 必然的な展開を示すことの凄さ E ◆◇
今回のヘーゲルの合宿では、前半に『大論理学』の判断論を読み、
後半は『精神現象学』の自己意識の部分を読んだが、
どちらかというと印象に残ったのは前半の判断論の方だった。
例えば、質の判断で「このバラは赤い」、「このバラは赤くない」、
(赤ではなく)「このバラは青い」という肯定判断と否定判断を
無限に繰り返すうちに、「バラは色をもつ」という普遍にたどり着く。
そこから次の反省の判断、「この植物は?である」、「いくつかの植物は?である」、
「すべての金属は?である」へと移るのだが、質の判断の肯定と否定の繰り返しが、
実は既に反省の判断にもなっていた。つまり、反省の判断の主語、
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」は、前の質の判断で
個別のバラを比較した時に、事実上出ていたものだった。
ただ、質の判断では述語(「赤い」、「赤くない」など)に注目し
主語はいったん脇に置いていたので、反省の判断では主語に注目して
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」ともってきた。
こういう展開を読んで、それが普段の生活の場面とどう関わるのかと
聞かれると即答できないが、しかし何かを「考える」ということは
こういうことではないかと思った。「こういうこと」というのは、
普段人々が無意識に使っている無数の言葉や考え方、言い方を
目の前にした時、一見それらは無秩序にただ並んで存在するようだが、
自分の力で相互の関係の必然性を見つけて段階的につなげていく、
ということである。しかもその時に、「このバラは赤い」などという
一番平凡で低い段階から始めながら、その中に、次のより高いレベルの
判断が内在しているように並べている。
こういう展開を、カントをはじめとする先行研究から学びながらとはいえ、
ヘーゲルが自分の力で考えて示していることに、途方もない凄さを感じてしまう。
自分が読む側にあり、しかも自分ではわからない多くの部分を中井さんの解説を
聞きながら読んでいると、まるで最初からこの展開が出来上がったものとして
あるように錯覚してしまうが、これを自説として作り出していることの凄さを
改めて感じた。
合宿の全体については、今年3回目を迎えて、年々良くなってきていると思う。
施設などの生活面以外に、特に報告の時間が前回より充実していて、
各自にとって今一番重要な問題を、当事者に限らず全体で丁寧に
考えられるような時間になっていた。そうなったのは、合宿ということで
ゆとりを持って報告の時間をとれたこともあるだろうし、今まで5年間
報告の時間をやり続けてきた成果が、合宿の場で表れたということもあると思う。
【中井からのコメント】
Eさんが触れていないことで、私が面白いと思う点がある。
ヘーゲルは「判断」を、認識の運動の前に、まずは対象の運動として
とらえている。バラが赤かったり、青かったり、白かったりするのは、
バラ自身が判断をしているのだ。すべての事物はそのように自己を判断し、
自らを現している。それゆえに、私たちがそれを認識できる。
ヘーゲルは、この原則をすべての場面で、すべての対象に適応していく。
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9月 26
夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
参加した内から3人の感想を掲載します。
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◇◆ 長い長い思春期 K ◆◇
精神現象学は、人間の成長段階に合わせて、時間的順序に則って
叙述したものであるという。そして、今回の合宿では自己意識、
すなわち自我の目覚めと思春期が範囲であった。だとするならば、
現代においては、思春期とは十代のごく一時期を意味するものではなく、
十代から二十代にかけての二十年間、まさに一世代にも及ぶものではないだろうか。
自己意識は、人類や絶対的存在を意識し、絶対的否定を経ることで
芽生えるというが、自分の経験を振り返ってみるに、それは、二十歳を過ぎて、
鶏鳴学園に通うようになってからのことであった。夏目漱石を通じて
人間のエゴイズムに圧倒され、途端に、それまでの自分の人生が、
どうしようもなくみすぼらしいものであるように思うこととなった。
そうして、初めて、人間(自分)が生きることとは何かを問い、
人間(自分)とは何かを問うようになった。無論、それまでも問いかけてはいた。
だが、まともに考えていたとは言えないし、問いかけ方も個々別々の
経験の範疇を出るものではなく、拒絶感もその場限りであったし、
何より普遍性がなかった。やはり、ヘーゲルの言うとおり、
圧倒的存在に触れることは不可欠なのだと思う。しかし、一足飛びに
そこまで到達するものではなく、一定以上の経験を積んだ上でなければ、
何も反応できないのではないかとも思う。
なお、こうした問いに対し、本腰を入れて考えるようになってから
五年が経過したが、未だにその答えは出ていない。あと二年で
華ある二十代も終わり、三十路を迎えてしまう。だが、その答えの芽は
出ているように感じているし、その手応えもある。行き詰るたびに
圧倒的存在に当たり、都度、打ちのめされ、しかしそこに希望を感じながら
成長していく。これしかないし、それがすべてだと思う。そして、鶏鳴学園という
目的を同じくする仲間たちとの研鑽の場があることを、幸せなことだと思う。
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9月 25
夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。
参加した内から3人の感想を掲載します。
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◇◆ 報告することの意味 M ◆◇
今回の合宿は後半の精神現象学の講読から参加した。
自己意識が今回の範囲だったが、内容は正直それほど興奮するものではなかった。
ヘーゲルに関する知識を得て、お勉強をしたと言う感じで、
自分の身につまされて、背筋がピンと張るという瞬間があまりなかった。
それは自己意識が範囲といってもまだ始めの段階で、自己意識のあり方が、
まだどこか受動的な段階についての記述であったからだと思う。
次の範囲を早く読みたいと感じたのが正直な感想だ。
各自の報告の時間は印象深かった。うまく言えないが、各自が報告をし、
それについてそれぞれが意見を言う。これまで5年間続けてきたことだが、
このことにどんな意味、効果があるのかと深く考えたことはなかった。
今回初めて、一体何が起こっているのだろうかと考えた。
一番大事なのは、報告するその人が一番自分にとってその時
切実な事について正直に書くこと。この切実な事というのは、
書いた本人にとってこれでいいのだろうか、これは間違ったことを
書いているのではないか、自分の考えはおかしいのでは、と自分でも
自分の書いたことを認められず、消化出来ないことが多い。
そして、第二にこのように切実な事について書いた文章を
みんなに読んでもらい、一通りの意見を聞く。その意見が
自分の切実な問題についての意見であろうが、全く見当はずれの意見であろうが、
あまり関係ない。自分は言いたいことを書いた、言った。
この人は一応読んでくれた、聞いてくれた。この時点で、ある程度の目的は
達成されるように思う。
目的というのは自己理解を押し進めるということだが。
自分の感覚では、最初に自分の報告を話すときは何かおかしなことを
書いたのではないか、実はこんなことを全く自分は考えてないのではないかと
ドキドキしながら、みんなの意見を聞いていき、それが一通り終わると、
自分がそのことを考えているということを自他ともに認められるということで、
落ち着く。
そして、第三に中井さんの意見を中心にその問題について、
どういうことか、どういうことをしていけばいいのかを考えられ、
一歩ずつ進んでいく。
今回初めて感じたのが、人に聞いてもらうこと、人に自分の問題を
聞いてもらい、認めてもらうことの重要性である。この段階で初めて
自分でもそのことを自分のものとして認められ、位置付けようと
することが出来る。この段階が無いと自分で文章を書いても、
それを自分で消化できない。
ヘーゲルの講読でも他人の承認というテーマが出ていたが、
このことの重要性を感じ、またどんなテーマでもまず受け入れてくれる
鶏鳴学園という場は貴重だと感じた。まず受け入れてくれないとその時点で
パニックに陥ると思う。そういうきわどさも今回初めて考えた。
【中井からのコメント】
M君が提起したのは大切な問題だと思う。
「どんなテーマでもまず受け入れられる」条件が問われているのだと思うが、
それは何か。第1に「先生」の実力であり、第2に師弟関係、
第3に弟子同士の関係における信頼度。別の視点から言えば、
師弟のすべてが、真理の前に謙虚であることが必要だろう。
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9月 20
今年も夏の合宿を行いました。
8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。
今回のメニューは、ヘーゲル『大論理学』(寺沢恒信訳、以文社)の
「判断論」(「必然性の判断」のみ原書)、『精神現象学』
(牧野紀之訳注、未知谷)の「自己意識論」を読みました。
晩は「文章ゼミ」と、各自の報告会もおこないました。
私以外に8人の方が参加しました。大学生4人、社会人4人です。
「なぜ合宿をするのか」という私の文章と
参加した内から3人の感想を掲載します。
ヘーゲル哲学について私が学んだことは、別にまとめます。
ちなみに、来年は8月18日から21日(3泊4日)を予定しています。
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◇◆ なぜ合宿をするのか 中井浩一 ◆◇
参加者から、「なぜ合宿をするのか」という問いが出された。
「参加者ではなく、主催者(中井)にとっての意味は何か」という問いかけだった。
「私自身がヘーゲル哲学を学ぶため」。それが回答。
「それなら、一人でやれば良いのではないか」。
それがダメなんです。どうしても、私の話しを
聞いてくれる人が必要なんですね。それも真剣に全身で
受け止めてくれる人に向かって話すことが必要だ。
それでこそ、私の学習が前進できる。そういう人を確保することが、
5年前から始めた「師弟契約」で可能になった。「先生を選べ」の原則で選び、
選ばれた関係が、これを保障する。こうした条件下では、
「教えること」は「学ぶこと」そのものになる。
ゼミの参加者の中には、興味本位な人や、一時的な参加者や、
緊急避難的な人もいてよい。しかし、そうした人を受け入れても
「壊れない」ためには、しっかりした基礎が必要で、
それはきちんとした師弟関係だと思う。
これが、「中井にとって師弟関係の必要な意味とは何か」への回答になる。
「しかし、それは普段からゼミでやっていることで、
なぜわざわざ『合宿』をしなければならないのか」。
「効果」が違うんですね。この3泊4日で朝から晩まで
ヘーゲルを読むことで、自分を追い込む。そのことで、普段より集中し、
一つ上のレベルの気づきや発見をすることができる。
ヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識論」で、人間の相互「承認」の
重要さが言われていたが、私にとっては、このメンバーたちにこそ
「承認」してもらいたいのだ。この人たちにこそ、ヘーゲルの
「凄み」を見せつけたい。見せつけられる自分でありたい。
そのようにして、3年間自分を追い込んでやってきた。
実際に、この3年間の自分の成長を実感できる。
ヘーゲル哲学の理解は確実に深まっている。
他方、師弟契約をしている人も、ゼミの参加者も、
それぞれのペースで成長してきたと思う。
この5年間は間違いではなかった。
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