1月 15

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その4

 四.自己意識の自由

 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」

 ┏主と奴は、事実(偶然)の承認関係。
 ┗ストア主義と懐疑論は、思考による承認関係。
  
  だから思考を出す。353ぺージ

 ┏主と奴 偶然性による上下関係。親子関係、親分子分関係。選択ができない。
 ┗ストア主義以降。思考の自由。上下関係の否定。しかし反抗であって自立ではない

 思考の自由は、上下関係そのものの否定にはならない。
 選択による上下関係がなくなるわけではない。「先生を選べ」、信仰など
   →これは「不幸な意識」以降で問題になる。

 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的

【1】ストア主義は抽象的正義のこと。外的反省
  若い時の表面的、一面的な正義感。
  内実がない。個別具体的なものはない → 若い時の特徴。

【2】懐疑論はこれへの反発
  否定の対象があるから、具体的ナカミがある。
  しかし一面的になりやすく、豊かな内容があるのではない
  否定はできても、肯定(代案)がない。若者の特長。

 ┏ nicht ?
 ┗ sondern ? ← これを出せるかどうかが自立の核心

 この懐疑論への反発から、ストア主義に戻ることもある。

 (3)不幸な意識 

【1】「不幸な意識」には、牧野紀之の注解がほとんどない。
  このムラの大きさが牧野らしい。
  例として「先生を選べ」を出すべきだし、弟子相互の関係、
  集団としての側面を出すべきだった。
 牧野の定式化した「先生を選べ」は、ここ以下の問題の解決策なのではないか。

【2】「先生を選べ」の矛盾
  「ストア主義」と「懐疑論」は一応自分に自信がある段階。
  不幸な意識とは、自分への自信を失った段階。ここで再度、主と奴の上下関係の問題が出る。

 自分の低さに気づいた時にだけ、次のステップへ進む可能性が生まれる。
それは「先生を選ぶ」(先生=ある思想、立場、宗教、政治などの組織)ことになる。
ここで再度、上下関係が出てくるが、これは主と奴のような偶然的なものではなく、
客観的で社会的な基準で選択されたものになっている。

 しかし、「先生を選べ」には矛盾する両面がある。自立(自己肯定)のために、
徹底的に自己否定することが求められるからだ。

 そこで先生や組織に依存したり、自己否定を競い合うようなことがおこる。
この問題を、ヘーゲルは論理的に解き明かそうとしているのだと思う。
この問題については、竹田青嗣が実に鮮やかに説明している。
それは五.で取り上げる。

 (4)不幸な意識の展開

 その1.ユダヤ的
 自己への絶望。より上の他者。

  ↓

 その2.キリスト教

【1】上を上としてあこがれ従うが、自分がそうなろうとはしない。
   分裂がある
  「先生の言うことをおとなしく聴く」
 

【2】欲望と労働。これは何か。ここに主と奴の関係の逆転の契機があったはず。
  感激と自己放棄による統一
  しかし、それがエゴがあるので完全にはできない。

  ↓

 その3.ここで教団が媒介する。

 あまりにも叙述が抽象的で、平面的。
 ツッコミがなく、平板。
 媒介としての教団の矛盾。意義と限界もキチンと出すべき

 教団は神と個人の1対1の関係に立ち入れない。
 それを互いに支えようとするだけ

 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 「他者本位」から「自己本位」(私が真理)へ
 夏目漱石の『私の個人主義』で言えば、それまでの「他者本位」を克服し
「自己本位」の立場に立った段階であり、それが「主体性」=「理性」の段階だろう。
これは、いかに高い大変な段階かがわかる。ほとんどの人はこの段階まで進めないだろう。

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1月 14

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その3

三.主と奴

 (1)冒頭

[欲望]※自己意識と対象意識の統一の一番原始的な形態
    他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、自己形成。他者は否定されるべき
  ↓

[食欲]生きる時間、起きている時間のすべてを食べる時間にしている生物がほとんど。
    小鳥など。
    食欲が生物にとって、いかに根源的か。
  ↓

 食欲の対象は[生命]
 ※ここで、対象意識から、その対象へと話を転し、
  対象としての生物発展の運動から人間の発生を説明する※

 人間の雑食性。食物連鎖のトップに人間が立つ。
 食物連鎖の中に類の発展。
 地球から生物発展の全過程が、この食物連鎖の背景にある。
 このトップとして人類があること。
 それが、人間のみが「思考する」(他のすべてを止揚できる)ことの意味でもある。

  ↓

 生命の運動 ※対象としての人間から[自己意識]を説明する
 [類]類内の個と個。[自己意識と自己意識]。
 類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開される
 精神(社会的意識)。

 (2)承認

 承認を「人間」としての根源的な欲求として、とらえることの本当の意味は何か。
人間が事実として社会関係の中でしか、人間になれないと言うことを述べている。

【1】他者からの承認は、自己確認であり、ほめてもらう、上位に立つことに限定されず、
  その反対も多い。
  嫌われること、叱られることで自己確認、自分に注目してもらうことも多い
 (男の子が好きな女の子をいじめたりして泣かせる)

【2】集団のいじめ、そこでの「受け」も、承認論で考えるべきだ。
  子供の世界の上下関係は、力で決まる。親分・子分関係。

【3】親からの承認(関心、注意)を得られるかどうかは、子供にとって生死の境目。
  親子関係、友人関係で自分を考えるとき、自分と他者の両者を超える視点が必要。
  類の自覚の必要

【4】ヘーゲルの承認論。他者として誰でもいいわけではない。選択していく。
  偶然の友人 → ライバル、ある特定の人 → 先生 → 人類の歴史に名を残した人 → 神
  この辺を具体的に展開すべき。それがない。

 (3)主と奴、逆転(346)。危機感と労働
    能力の問題がある

 2つの例

【1】個人の内では精神と肉体の。思考と感性
  いわゆる「精神分裂病」(統合失調症)は、悟性に抑圧された感情が、
  自分を死守するために引き起こしている症状なのではないか。

【2】社会では、資本家とプロレタリアートが例にされる。※これは正しいか

1月 13

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)

  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その2

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか

 自己意識は類の自覚から生まれた。
 それをヘーゲルは自己意識論の冒頭で説明している。

 この冒頭は、欲望、食欲から始まり、その対象として生命を出している。
ここは、わかりにくい個所なので、議論があるところである。
ヘーゲルはここで何をしようとしているのか。

 これは、人間(自己意識)の成立を、発生史的にたどったのではないか。
意識一般から自己意識が生まれる過程とは、動物から人間が進化してきた
過程に他ならない。しかし、それがなぜこのような欲望、
食欲から生命という展開になるのだろうか。

 ヘーゲルは2つのことをここで明らかにしようとしている。
一つは、類の自覚と自己意識とは一体のものであり、類の自覚から
自己意識が生まれたということ。しかし、ヘーゲルはその類を
対象意識の対象として、導出しようとする。つまり、その類の導出を欲望、
食欲から始めようとしているのだ。ヘーゲルはここで自己意識の持つ
欲望の根源性を示したかったのだ。それを後に展開するための伏線として、
また後に思考を出すための伏線としてである。
これがヘーゲルが示そうとした2つ目である。

 欲望、食欲とは、自己意識と対象意識の分裂以前の意識の
一番原始的な形態であり、すべての動物にある。食欲を満たすとは、
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)とすることだ。
そこにはすでに、他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、
自己形成の論理がある。他者は否定されるべきなのだ。

 この動物一般から人間を導出する方法が、ヘーゲルの独自のものだ。
意識の話が、急に意識の対象の話に転換する。食欲という対象意識から、
対象の側に話を転じ、動物と生物一般の客観世界における食物連鎖の世界を
ヘーゲルは、たどろうとする。そして食物連鎖の世界でのトップとして
人間が位置づけられる事を示す。対象としての生物発展の運動から
人間の発生を説明するのだ。そこから類の自覚を出すためだ。

 ヘーゲルは人間の雑食性、他の生物を食べる事実を
示すことによって、食物連鎖のトップに人間が立つことを
示しているのではないか。地球から生物発展の全過程が、
この食物連鎖の背景にあり、食物連鎖の中に類の発展がある。
そのトップとして人類がある。

 こうして食物連鎖の中に類が現れ、その頂点に存在する人類において、
その類の自覚が可能になる。ここで、類も対象として、対象意識から
現れてくるのだ。これが対象意識から自己意識が生まれることを意味する。

 しかし、どうして類の自覚が自己意識とつながるのか。類の自覚とは、
その類の一人として自分を意識することだから、類の一人として
自分を意識することは、他の人をも自分と同じ人類の一人として
見ることであり、自分と同じ人類の一員が無数に存在することになる。
自己意識には自己意識が、同じ権利で向かい合っているのだ。

 逆に言えば、自分と並ぶ無数の他者を意識するのが、自己意識でもある。
これが「対象意識→無限の止揚→自己意識」という論理の意味なのではないか。
対象意識から類の自覚=自己意識が生まれたが、自己意識論ではここから、
類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開されることになる。
しかし、それは直接的には、欲望・食欲の延長であり、自己への
「承認」欲求として現れてくる。
これが人間としての根源的な要求であることになる。

 他方で、対象意識の方は次の理性で、ふたたび新たな対象を
ともなって現れてくるが、それは「思考」としてである。
この思考も、自己意識ですでに生まれていたのだ。自己意識が生まれるとき、
意識内では個別と普遍の分裂が起こっている。それが「思考」の発生である。
思考は他のすべてを止揚して、観念的な契機として、自己内に
取り込むことができるのだが、それは食欲で、食べることが
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)としたことに対応する。
つまり、自己意識=思考は、欲望、食欲の発展した形態であり、
欲望の論理を持っている。
この思考そのものの働きは、理性の段階で対象とされる。

────────────────────────────────────────

 4)人間の羞恥心と狼少年

 さて今は、類と自己意識の問題であり、その考察がこの「自己意識」論である。

 サルトルは『存在と無』で、この自己意識の例として、
人間の羞恥心を出している。ここに注目しているのはさすがだと思う。
私も高校生や大学生相手に「自己相対化」を説明する際に、
いつも羞恥心を例にしてきた。

 羞恥心には、確かに自分と他者の一体の構造がある。例えば、
駅で電車に間に合うように走り寄って、目の前でドアが閉まったとき、
目の前で私を見ている車内の人々に、笑われているように感じて恥ずかしい。
しかし、実際に笑われているというよりも、そう感じて恥ずかしく
思っているのではないか。こっけいな自分をこっけいと感じる自分が自己内にいる。
それゆえに、強い羞恥を感じる。

 ここには見られる自分と見る自分の分裂があり、その分裂によって
「自己相対化」が起こっている。これが、意識の内的二分であり、
自己意識の特色だ。他者に見られて恥ずかしいのは、自己内の
内的二分によって、自己が自己に見られているからだ。
自己内の「見ている」自己が「他者」の代表なのだ。この内的二分がないと、
他者は原理的には自己内に存在しない。このように自己と他者は結びついている。
そして、こうした他者と自己との一体化の関係から、人間だけに、
羞恥心といった感情が生まれてくる。

 つまり、自己意識、意識の内的二分、人間の感情。
これらは人間が人間社会の中で育てられないと、
獲得できない能力である。それを考えるには、
狼少年の例がわかりやすい。

 動物は、ほっといても大人に育つ。イヌはイヌになり、
猫は猫になる。しかし人間はそうではない。

 人間には人間になる可能性はあるが、人間になれない場合もある。
オオカミに育てられるとオオカミになってしまうことがその証拠だ。
人間でないというのは、言葉が話せないといった高級なレベルだけではない。
もっと根源的な喜怒哀楽などの感情が育たないことであり、
羞恥心が無いということだ。

 人間の自己意識、意識の内的二分、そこから発生した羞恥心や感情。
これは人間社会の中で育てられないと、獲得できない能力なのである。

 では、こうした意識や、羞恥心などの人間特有の感情は、
どのようにして育まれるのだろうか。実際に、その育つ過程の中で、
自己と他者が結びついた関係から生まれるのだ。だから、人間は
他の人間(母親や父親など)との緊密な関わりの中で、学習していく
過程が必要なのだ。それがないと、内的二分は起こらず、人間になれない。
これが「承認」の欲求とつながる。

 この自己意識論では、こうした根源的な人間の本質を
明らかにしているのではないか。

 以上で、形式的な(1)から(3)の3つの課題の私の回答を終える。
残りの(4)と内容上の課題については、以下に、
テキストの展開にしたがって、レジュメの形で示す。

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1月 12

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その1

 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 まず、「自己意識」論を読む上での大きな問題を確認しておくと、
形式面では次の4点(特に最初の3点)があげられる。

(1)対象意識から自己意識が生まれるとはどういうことか
(2)対象意識と自己意識の統一から理性が生まれるとはどういうことか
(3)自己意識をなぜ、欲求や生命から始めたのか
(4)第3節の第1段落の主人と召使のレベル、第2段落と第3段落、
   さらに第4段落の展開の意味。それが実際に意味するものは何か

 内容面では以下のような論点があると思う。

(1)類の意識とはどのように生まれるか  
(2)労働、仕事は、どういう意味があるのか。
(3)他人に承認してほしいという欲望をどう考えるか
(4)第3節の第1段落「生命をかけた闘争」をどう理解するか?その経験は?
(5)第3節の第1段落、第2段落と第3段落、第4段落に対応する経験を出してみよう
(6)神とか絶対者をどう考えるか、どう考えてきたか 
(7)キリスト教から教団の話が出てくる
(8)「先生を選べ」と、教団の話はどう関係するか

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 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている

 形式上の(1)(2)が大きな問題だろうが、今回読んでみて、
ヘーゲルは「逆算」して書いているし、そう読むべきではないのか、
と強く思った。

 第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、第3部の5章「理性」と
6章「精神」を前提として、その伏線、準備として考える必要があるのではないか。

 ヘーゲルの精神現象学では、人間の社会を展開したのが第3部の6章「精神」であり、
その前提である、個人としての人間を扱っているのが第3部の5章「理性」である。
この「個人」の理性の実体から、分析的に抽象化された2側面が
第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論なのではないか。

 第3部の5章「理性」から、主体的人間と客観的世界の対立が現れてくる
(第1節が「認識」、第2節が「実践」)。その第3部の前の第1部
「対象意識」と第2部「自己意識」論は、その「理性」の前提として、
「対象意識」と「自己意識」が必要だから、前に置かれているのではないか。

 逆に言えば、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、5章「理性」の中で
より具体的に再度取り上げられていて、それらを止揚した6章「精神」で
さらに上の具体的なレベルで現れてくるのではないか。
つまり、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論だけで考えても、
抽象的でよくわからないのではないか。

 例えば、第2部「自己意識」論では「類」や「自己意識」が
でてくるのだが、自己意識論では、それが事実として存在することの
中にある論理を示している。つまり実体の段階であり、「理性」段階からが、
それを自覚する主体性の段階なのではないか。

 ヘーゲルの主体性は、自己意識では潜在的で、顕在化するのは理性、
精神の段階なのであろう。

 参加者から「自己意識論」は受動的で面白くないとの意見があった。
特に「不幸な意識」が抽象的だと思う。主体性は「理性」以降の
段階だからしかたがない面があるのではないか。

 こうしたことは金子も言っている(岩波版全集第4巻。662、663ページ)が、
本当にわかっているかどうかは別だ。2009年の夏に読んだ「対象意識」では、
感性的確信や知覚の章が、私にはよくわからなかった。
それも当然だったのではないかと思う。牧野紀之はそれをどこまで意識していたのか。
マルクスやサルトル、ハイデガーはどうだったのかが気になった。

 そこでマルクスの『経済学・哲学草稿』とサルトルの『存在と無』の
関連箇所を読んでみた。マルクスはさすがに読めていると思った。
サルトルは立体的な読み方はできていないと思った。

 2)対象意識と自己意識の順番と関係

 では、対象意識と自己意識の順番と関係はどうなのか。

 動物一般には意識があるだけで、対象意識と自己意識の分裂はない。
人間も最初は同じである。人間が他の動物からわかれたのは、自己意識が生まれ、
それによって、意識内部に対象意識と自己意識の分裂が生まれたことだ。

 人間の発生過程でも、人間個人のそれでも、最初は分裂以前の意識から始まり、
それが自己意識発生後、つまり自我のめざめ以降の意識の分裂とその止揚が
繰り返されている状態がおこっている。これが大人の人間の常態である。

 ヘーゲルは「対象意識」として、分裂以前の意識の状態(感性)と、
分裂後の自己意識と区別された意識(知覚と悟性)を扱っている。
一方「自己意識」は、もちろん自我のめざめ以降の自己意識を扱っている。

 それが、どうして精神現象学の「対象意識→無限の止揚→自己意識」といった
展開になるのか。自己意識とは、それ自体で存在できず、対象意識に媒介され、
それを止揚して自己内に含みもつ過程で生まれてくる。それは対象の
「無限の止揚」に他ならない。自己意識とは対象や他者を止揚した意識であり、
自己内に他者を含むのだ。しかし、この論理は正しいが、それは
歴史的な順番として悟性から自己意識が生まれたことを意味しない。

1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。