9月 20

 今年も夏の合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 今回のメニューは、ヘーゲル『大論理学』(寺沢恒信訳、以文社)の
 「判断論」(「必然性の判断」のみ原書)、『精神現象学』
 (牧野紀之訳注、未知谷)の「自己意識論」を読みました。
 晩は「文章ゼミ」と、各自の報告会もおこないました。

 私以外に8人の方が参加しました。大学生4人、社会人4人です。
 「なぜ合宿をするのか」という私の文章と
参加した内から3人の感想を掲載します。
 ヘーゲル哲学について私が学んだことは、別にまとめます。

 ちなみに、来年は8月18日から21日(3泊4日)を予定しています。
 
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◇◆ なぜ合宿をするのか 中井浩一 ◆◇

 参加者から、「なぜ合宿をするのか」という問いが出された。
「参加者ではなく、主催者(中井)にとっての意味は何か」という問いかけだった。

 「私自身がヘーゲル哲学を学ぶため」。それが回答。

 「それなら、一人でやれば良いのではないか」。

 それがダメなんです。どうしても、私の話しを
聞いてくれる人が必要なんですね。それも真剣に全身で
受け止めてくれる人に向かって話すことが必要だ。
それでこそ、私の学習が前進できる。そういう人を確保することが、
5年前から始めた「師弟契約」で可能になった。「先生を選べ」の原則で選び、
選ばれた関係が、これを保障する。こうした条件下では、
「教えること」は「学ぶこと」そのものになる。

 ゼミの参加者の中には、興味本位な人や、一時的な参加者や、
緊急避難的な人もいてよい。しかし、そうした人を受け入れても
「壊れない」ためには、しっかりした基礎が必要で、
それはきちんとした師弟関係だと思う。

 これが、「中井にとって師弟関係の必要な意味とは何か」への回答になる。

 「しかし、それは普段からゼミでやっていることで、
 なぜわざわざ『合宿』をしなければならないのか」。

 「効果」が違うんですね。この3泊4日で朝から晩まで
ヘーゲルを読むことで、自分を追い込む。そのことで、普段より集中し、
一つ上のレベルの気づきや発見をすることができる。

 ヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識論」で、人間の相互「承認」の
重要さが言われていたが、私にとっては、このメンバーたちにこそ
「承認」してもらいたいのだ。この人たちにこそ、ヘーゲルの
「凄み」を見せつけたい。見せつけられる自分でありたい。

 そのようにして、3年間自分を追い込んでやってきた。
実際に、この3年間の自分の成長を実感できる。
ヘーゲル哲学の理解は確実に深まっている。
他方、師弟契約をしている人も、ゼミの参加者も、
それぞれのペースで成長してきたと思う。
この5年間は間違いではなかった。

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2月 11

 ヘーゲル哲学学習会では、『精神現象学』の序文に出てきた「存在の運動と認識の運動の一致」を確認するために、「ヘーゲルの弟子」を自称しているマルクスの『経済学批判』『資本論』を読んでいます。

 その中で考えたこと、気づいたことがいくつかあります。その中から、2点をまとめました。
 「人はいかにして自立できるか ーマルクスの「思想的履歴書」ー」は『経済学批判』の「序言」について。
 「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」は、「経済学批判序説」の有名な「経済学の方法」。その中の「自己批判と他者批判の統一」という有名な主張から考えました。

 「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」で今回問題提起したのは、実に大きな問題だと思っています。

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◇◆ ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか ◆◇

 マルクス、エンゲルスは自らの立場を唯物弁証法、唯物史観とし、ヘーゲル哲学を「観念論的」弁証法だとして批判した。ヘーゲルの弁証法は哲学史上の最大、最高の遺産だが、それは観念論であり、「逆立ち」しているのでそれを唯物論の立場からひっくり返したのが唯物弁証法だというのだ。
 しかし、このまとめは大きな間違いだったと思う。政治パンフレットのわかりやすさとしては良いが、そのわかりやすさとは、いかにも悟性的であり、他を一面的に切り捨て、発展的な理解、つまり弁証法からかけはなれたものだったからだ。
 本来は、悟性の意義と同時にその限界を指摘し、仲間の人々には悟性を克服する学習運動をうながさなければならないはずが、その逆になってしまった。
 「空想的」社会主義者に「科学的」社会主義を対置し、上部構造に下部構造を対置し、宗教に科学を対置し、両者を単純な対立関係とし、前者を切って捨てた。その結果、仲間や支持者の間に「観念」や「理想」や「夢」への蔑視、軽視の傾向を生んでしまった。

 ヘーゲルはすでに「存在が意識を規定する」ことを明らかにしていた。それは彼の論理学が客観的論理(存在論と本質論)から主体的論理(概念論)がでてくることに端的に示されている。また、彼の哲学史、歴史哲学、法哲学などでも、このことは確認できると思う。ただし、ヘーゲルにあっては、この規定を精神史一般、人類史一般、民族一般の運動として考察していた。
 これは「存在」の意味が抽象的で一般的なままにとどまっていたと言える。これを具体化、現実化したのが、マルクスの唯物史観である。つまり、「社会的存在が社会的意識を規定する」とし、それを経済と政治の関係としてとらえ、下部構造が上部構造を規定するとしたのである。これはヘーゲルの抽象的普遍を、一層発展させ、より具体化、現実化、個別化したのである。(以上は牧野紀之「価値判断は主観的か」による)

 この時、マルクスは、自分が乗り越えたヘーゲルをどう批判し、どう評価するのが正しかっただろうか。
 実際にマルクスが行ったことは、ヘーゲルを「観念論」だとし、「逆立ちしている」と批判することだった。これは、どこまで正しい批判だっただろうか。ただし、ここでの「正しさ」とはマルクスが到達した発展段階、唯物史観の立場からのものを言う。

 ヘーゲルは確かに唯物史観には到達できなかった。そのことを指摘し、それを批判することは正しい。しかし、それをヘーゲルの「観念論」の責任にするのが正しかっただろうか。もちろんヘーゲルの叙述の中に、精神至上主義的な個所は多数指摘できる。しかし、同時に、かれが経済発展とその矛盾故の市場拡大の動き、経済を反映した法関係といった理解を示している個所を挙げることも簡単なことなのだ(『法の哲学』を参照)。
 ヘーゲルにあっては、唯物史観で言うところの上部と下部への分裂が明確に意識されていなかったと言える。しかし、それを持って「観念論」と批判するのは妥当だろうか。ヘーゲルは「精神」という言葉で、市民社会も、その経済活動も含めていた。上部と下部の区別がなく、混在していたのがヘーゲル哲学であり、彼の時代ではなかったか。

 マルクスのヘーゲル批判が、「観念論」という言葉の不適切な拡大だというだけではない。この批判の仕方には、もっとずっと根本的な問題が含まれている。マルクスが、唯物史観の立場から唯物史観で唯物史観をとらえるという「自己批判」をしていることは有名である(『哲学の貧困』第2部第1章第7の考察)。
 また「経済学の方法」(『経済学批判序説』第3)ではそうした「自己批判」なしの「他者批判」では一面的な考察しかできないと述べ、事実上「自己批判と他者批判の統一」を主張している。
 これらは画期的な観点であり、自らが他と群を抜いて高い立場にあることを示すものだった。しかし、マルクスにも、実際にはそれはできていなかったのではないか。それがヘーゲルへの「観念論」だという批判の仕方に現れていないか。

 マルクスは、ヘーゲルを観念論として批判するのではなく、ヘーゲルが唯物史観には到達できず、その思想を具体化できなかったと、批判するのが正しかった。
 マルクスは、ヘーゲルの不十分さの理由を、ヘーゲルの「観念論」のせいにする(それこそが観念論的ではないか)のではなく、社会的、経済的発展段階の問題として考察すべきではなかったか(これが唯物史観だろう)。
 つまり、ヘーゲルがそこに至らなかったのは、当時の発展段階がそこまで到達していなかったからだし、マルクスがそれを把握できたのも、彼の時代が、ドイツで資本主義が大きく発展し、大土地所有者とブルジョワジーの対立が激化した時期だったからに他ならない。こうした理解が、発展的理解(「自己批判と他者批判の統一」)と言うものだろう。

 マルクスは、本来はこう言うべきだった。 

 「ヘーゲルは発展的な理解を明らかにするという巨大な仕事をした。それは近代市民社会の生成という時代を反映している。しかし、当時のドイツは資本主義の未発達な段階だったために、『存在が意識を規定する』というヘーゲルの定式は個人の、または歴史一般のレベルにとどまっていた。
 しかし、ドイツでも近年急速に土地所有階級が没落し、資本家が成長し、資本主義を論理的に考察できる段階になった。それゆえに、ヘーゲルの限界を超えて、『存在が意識を規定する』という定式を、個人から社会全体に押し広げ、または歴史一般、民族史一般から具体化し、『社会的存在が社会的意識を規定する』と定式化できた。それが、私(マルクス)の唯物史観である。
 しかし、ヘーゲルがそうであったように、私の考え『唯物史観』も時代の制約下にあり、その不十分な点は、次の時代の後継者に乗り超えてもらうことを期待する。そのためには、ヘーゲル哲学を徹底的に学び、その発展として私の唯物史観を理解し、その上で唯物史観をさらに発展させてほしい」。

 ところが、マルクスはこう言うことができず、ヘーゲルを「観念論」だと切り捨ててしまった。それはマルクス自身の思想を「一面的」なものにした。これは大きな間違いだっただろう。これによって、彼の支持者たちが、ヘーゲルの弁証法、発展の考え方を継承することを難しくしてしまったからだ。
 マルクスとエンゲルスは、「科学的」「唯物史観」「唯物弁証法」の立場を口にはしたが、実際にはそれを貫けず、他を「空想的」「観念論」などと切り捨てる一面性に陥った。そのために、彼らは、理想、夢、空想などを一般的にいけないもの、否定すべきものとし、その結果、夢や理想主義を馬鹿にする傾向、語れない傾向を生み、それらを語る他派や宗教者を理解する力を失った。マルクス自身、結局、夢の世界像を示せなくなった。
 こうした批判の一面性、傲慢さが、宗教批判、国家批判にも出ているのではないか。

 ところで、私が以上のことを言えるのは、今現在が高度経済成長が終わり、社会主義が破綻し東西冷戦が終わったという、かつてない未知の段階に到達しているからなのである。
(2010・1・26)

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8月 27

8月6日から9日まで、3泊4日のヘーゲル学習会の合宿が行われた。参加者は私以外に6人(4日間を通しては3人)。男4人、女2人。学生4人、社会人2人だった。昨年と同じ人数だが、今どき、ヘーゲルを読むために、これだけの人間が集まってくれることは、ありがたいことだ。

昨年についで今年が2回目。4日間、とにかくヘーゲルを読み続ける。これだけ集中して朝から晩までヘーゲルを読んでいると、ヘーゲルが乗り移ったような状態になる瞬間がある。その時には、ヘーゲルが憑依して、ヘーゲルが語っているような気になる。
それは、私が私自身を追い込んだ結果でもある。私にとっては、この参加メンバーたちが本当に大切であり、彼らにヘーゲルの凄みを見せつけたいと切に願っている。

最初の2日間は『精神現象学』の原書講読で、「序言」から中ほどの10ぺージほどを読んだ。存在と思考の一致、存在の運動と認識の運動の統一について述べている範囲で、当然それを考えるのが目的だった。
この問題については、牧野紀之氏が「悟性的認識論と理性的認識論」で、わかりやすく説明している。だが、ヘーゲル自身がどう説明しているのか、それを直接読んで、そこから考えてみたかった。そして、その点で大きな収穫があった。

つまり、存在は、自から運動し、「存在」「質」といった規定を生む。それは、自分の持つ多様な性質から、こうした規定を抽象することを意味し、それは存在が認識をしていることに他ならない。(これらの例はすべて存在論のもの。牧野氏の例は、主に本質論からと言える)
つまり、ここでは抽象化、比較による規定の抽出をものが行っており、それは存在が認識をしていることに他ならない。つまり認識、思考とは、人間だけがするものではなく、最初から存在するすべてのものが、行っている。ただし、自己意識がないので、その意味が自覚できないが、人間はそれが自覚できることだけが他との違いなのだ。これには驚き、深く感動した。
(以上は、ズールカンプ社版全集第3巻の53ページ)

しかし、ヘーゲルの執拗なシェリング批判。罵詈雑言のオンパレードが続く箇所には辟易した。執念深い粘着質の在り方は、大物に不可欠の要素だが、ヘーゲルのそれは、ここでも群を抜いている。

後半2日は『精神現象学』の翻訳(牧野紀之訳、未知谷)で、第1部「意識」論(第1章から第3章)を読んだ。
4章の「自己意識」をどう導出するか。それを対象意識である「意識」論から、出している。そこが一番の関心だった。その意味は何か。そこから何を学べるのか。

3章は面白かったが、1章、特に2章の意味がよく理解できなかった。1章は存在論、2章と3章が本質論だと思うのだが、またその哲学史上の意味は一応わかるのだが、その個人の成長上の意味がよくわからなかったのだ。
3章では、現象と本質、現象と法則、説明で、対象・現象の外化と内化の無限の運動を出し、それを認識できるのは、認識する意識もまた、同じ無限の運動をしているからだと持ってくる。すると対象世界の無限は、無限であることで、意識にとっての自己に他ならず、それを認識する意識とは、自己を意識することに他ならない。そこで成立している存在と認識の一致、それが「自己意識」だ。

だから、それは、単に自己についての意識なのではない。無限として捉えられた対象世界を自己としてとらえた意識が「自己意識」で、対象意識を止揚して自己内に持っている。それが「自我」だ、ということになる。
ただし、ここに成立した自己意識自身には、まだその意味が自覚されていない。それが自覚される過程を通して、次の理性が成立する。

以上は、自我の中に、なぜ全世界が含まれているのかを考える際に、大きな意味を持つと思う。ただし、わからなかったのは、自己意識が含む「全世界」に、他者、他の意識のすべても含まれることが明示されていない点だ。「意識」論での対象に、他者の意識も含まれているのだろうか(自分の意識は常に問われている)。これは、2章の物と性質で、対象に人(他者)が含まれているのかどうか、それが不明なことと結びつく。

3日目の晩には参加者の近況報告、提出した文章の検討も行った。近況報告では、各自の今の課題、今後の取り組みなどを話し合った。
ゼミ参加から1年余りの大学生は、家族問題に悩んでいることがわかった。今、若者が自立するには、家族について、親子関係の在り方について、きちんと考えることが不可欠であることがよくわかる。秋から、この問題を考える機会を与える予定だ。

この合宿でヘーゲル哲学について考えたことは、秋以降に再検討の上、詳しく報告する。

7月 13

◇◆ ヘーゲル哲学の学習会の合宿の概要 ◆◇

8月上旬にヘーゲルの学習会の合宿を行います。興味・関心のある方は連絡ください。詳細をお知らせします。

なお、参加希望者で初めての方には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。
 詳細は問い合わせください。
  E-mail: sogo-m@mx5.nisiq.net

(1)日程と場所
山梨県の八ヶ岳で、8月6日から9日までの3泊4日で行います。

(2)内容は
8月6日、7日はヘーゲル『精神現象学』の序言の原書講読
8月8日、9日はヘーゲル『精神現象学』(牧野紀之訳 未知谷)の第1部「意識」論を読みます。

(3)前半だけ、後半だけの参加も可能です。

(4)関心のある方は連絡ください。詳細を連絡します。なお、初めての参加の方には、簡単な自己紹介文を書いていただいています。

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◇◆ ヘーゲル哲学の学習会 ◆◇

 夏合宿後は、10月に開講。毎週月曜日、約2ヶ月間行う予定です。

午後5時からは原書講読。午後7時から翻訳でヘーゲルを読みます。

 参加費は1回3000円です。
 いずれかだけの参加も可能です。

1)5時より ヘーゲルの原書講読 『精神現象学』序文
 ズーアカンプ版全集の第3巻と牧野紀之訳『精神現象学』(未知谷)を手がかりにします。
 毎回 2ページほどを予習してください。

 ドイツ語の全くの初心者にもできるように、サブゼミなどを用意しています。
 是非この機会に始めてみましょう。

2)7時より 翻訳でヘーゲルの『精神現象学』(未知谷 牧野紀之訳)を読んでいます。

6月 18

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
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◇◆ マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。さらに秋にかけて、マルクスの「ヘーゲル国法論批判」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読んでみた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは「ヘーゲル国法論批判」は『マルクス・エンゲルス全集第1巻(大月書店)』、「ヘーゲル法哲学批判序説」は岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』を使用した。ページ数はこれらのテキストのもの。

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○マルクスの学ぶ姿勢
(1)「先生を追い越す」ために「先生から徹底的に学ぶ」姿勢がある
「徹底的に学ぶ」ことは、徹底的に「真似」をすることだ。

?「科学的社会主義」
マルクスは、当時のドイツに入ってきたフランス直輸入の共産主義について「この共産主義はそれ自体、その対立物である私有制度の影響を受けた一現象、人道的原理の特異な一現象にすぎません」と言う(岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』の訳者解説から 165ページ)
これは次のように言っていることになる。「この共産主義は私有制度に反対するだけで、私有制度を理解した上で、それを止揚する立場として自らを構築したのではない。したがって、それは反対する私有制度に依存している低い思想でしかなく、自立していない。一方的に否定するだけで、その根拠は抽象的人道的原理があるだけだ」。
マルクスの言いたいことは、ヘーゲルの論理展開と一致する。この批判が「空想的社会主義」と概念化され、その代案としての自らの立場に「科学的社会主義」が対置された。それはヘーゲル主義と言って良いと牧野紀之は言うが、その通りなのだ。

?「疎外」論もヘーゲルから。
「疎外」論もヘーゲルからの継承発展。ただ、フォイエルバッハを媒介にして、ヘーゲルから間接的に導入したと言えるかもしれない。即自的や対自的「an sich][feur sich]もそう

?フォイエルバッハも、ヘーゲルから「徹底的に学ぶ」ことをしている。
彼の神の存在の否定(唯物論)、つまり「神は人間の本質を外に投影したものでしかない」ことを導き出す論理が、「ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質に他ならない」。つまり、ある対象の本質は、それが必然的に関係する対象に現れるのだが、そのヘーゲルの論理を応用したものだった。

(2)マルクスには性急で強引に否定する面がある。青二才の部分
 「論理的汎神論的神秘主義」(236ページ)の説明など
 これは青年期特有の、功を焦り、自立をあせり、唯物史観の確立へのあせりが大きな要因だと思う。しかし、これは大志を抱く青年につきものの欠点であり、批判しても仕方ない。マルクスは後に反省し、また周囲がヘーゲルの優れた点をあまりにも理解していないことにも気づき、ヘーゲルを持ち上げるようになる。

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○マルクスのヘーゲル国家論批判
核心は2点

(1)思想家としての自立のために、唯物史観を完成することが緊急の課題だった

?ヘーゲル哲学を観念論として激しく批判する
ヘーゲルは「観念論」だとの、マルクスのヘーゲル批判(「論理的汎神論的神秘主義」236ページ)は、結局、唯物史観での上部と下部のどちらを規定的と考えるかの相違なのだろう。
マルクスは経済と政治の対立を述べている。経済的解放と政治的解放との違い。
「政治的国家」と「市民社会」、「市民身分」と「政治的身分」の矛盾としてマルクスが指摘しているのは、すべてこの問題ではないか。

?ヘーゲルは唯物史観の観点でも、観念論的とは決めつけられないと思う。
第1部で所有権を人格の平等の根拠としていること。
第3部の市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
こうした点を、マルクスはどこまで理解していたのだろう。

?市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
それを受けて、国家論では、植民地政策と国家との一体化の運動について詳しく論述されると、私は期待していたが、それはない。ヘーゲルの国家論は政治組織論で、経済問題はごっそりと落ちている。制度論(形式論)で、内容の話がない。
この点の批判としてならば、マルクスの批判は妥当。

?§274へのマルクスの批判(251ページ)にもマルクスの曲解がある。
エンゲルスは、マルクスとは反対に、ヘーゲルの真意を、当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかった、と理解している。私も同じ。
エンゲルスは「フォイエルバッハ論」で、ヘーゲルの有名な「現実的なものは理性的であり、理性的なものはすべて現実的である」という言葉を説明して、「現実的=必然性」の意味だと述べ、「必然的なものは結局のところ、理性的でもあることが明らかになる」という意味だと説明する。  
そして、次のように述べる。
「これを当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題の意味するところは、だから、ただこういうことにすぎない。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりにおいてである。もしこの国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものに思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在しつづけるならば、政府の悪さは、臣民たちがそれに照応して悪いという事実で正当化され説明される。その当時のプロイセン人たちは、自分たちにふさわしい政府をもっていたのである」。
(エンゲルスの「フォイエルバッハ論」より)

 ?唯物史観の立場からヘーゲルを批判したければ、彼の「観念論」を批判するのではなく、当時のプロイセンの経済状態から、プロイセンの君主制を説明するべきだったはずだ。それをマルクスは行っていない。

 ?ヘーゲル哲学を根底から批判するとしても、唯物史観の観点からに限定しておけば良かった。「観念論」として斥けたことは、どれほど大きな災いをもたらしたか知れない。ヘーゲルを読まない人間を増やしたからだ。

(2)国家論
「政治的国家」と「市民社会」の矛盾(263?267ページ)が核心的
「政治的国家は亡くなる」(264下)。政治的国家(の彼岸の定在)は国民自身の疎外の肯定態に他ならない(265下)。

この点については牧野が次のように述べている。「マルクスは、国家は最初共同体の純粋な行政として(現在の自治体の住民サービスみたいなものとして)共同生活を円滑にするための道具として発生したが、階級社会に入ってそれは階級支配の道具に変質した、ととらえるからです。こうとらえる時には、宗教や国家を原始社会で発生した時の姿に求めて、階級社会での姿をその疎外態とみるか、階級社会での姿を本質とするかで考えが分かれます。レーニンの国家暴力説は後者に立つものです。(「唯物弁証法問答」より。『ヘーゲルと共に』180ページ)
ここで階級社会での国家は、国家のそもそもの本質の現れか、その疎外態か、という問題提起はまさに急所だ。これはやはり疎外態と考えるのが正しかったのだと思う。ソ連の失敗の原因としてレーニンの理解が間違っていたことが大きいだろう。
ただし、国家の始元をどこに取るかが重要で、この点では牧野にも理解が不十分な点がある。ヘーゲルも、したがってマルクスも、ここでは近代国家を前提としている。したがって、その国民(市民)とは地縁・血縁、共同体から切り離された人々であり、その人々の人格の抽象的平等と、市場を求めて拡大し続ける資本主義社会が前提なのだ。牧野が言うような原始社会で発生した時の姿、「共同体の純粋な行政」が前提ではない。こうした共同体が崩壊した後に、それを補うために成立したのが近代国家だろう。
問題は、原始社会で発生した国家の疎外ではなく、共同体崩壊後に生まれた近代国家、近代社会の本質とその概念であり、その疎外態かどうかなのだ。 

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○ヘーゲルとマルクスの違いは、時代の進展の違いが最大の理由
ヘーゲルが知っていたのは近代社会の生成史まで、マルクスも展開史の初期でしかなかったと言えるのではないか。

     ヘーゲル マルクス
目的  ?立憲君主制の確立 ?立憲君主制の批判=打倒=革命前夜
ドイツの独立、自立の達成
プロイセン政府の擁護

                     ?ヘーゲルの観念論批判
                       =唯物史観の模索
                     ※この目的がすべてに優先した

時代背景 フランス革命後
    立憲君主制が進歩的だった 立憲君主制が反動化
             ※マルクスはこの意味を唯物史観から明らかにすべきだった

     産業改革前        産業改革後=工業化
農村国家

土地の所有権は不自由 私的所有権が前提
土地は特殊な私有財産 土地所有も自由
市民社会内の自由競争=格差の拡大

     大土地所有者が基盤 市民階級(ブルジョア)が台頭してきた
     農村国家 プロレタリアートも存在

     身分社会 階級社会へ

     国家と市民社会の分裂 国家と市民社会の分裂
その解決は、官僚制と議会 官僚制と、身分議会では無理
 土地所有階級が媒介 市民社会の混乱を国家が抑制する
                     完全な普通選挙の実施
                     市民社会内部での階級対立の解決

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○しかし、マルクスの問題提起で、近代の矛盾がよりはっきりと捉えられた側面がある
それは人格の平等ゆえの階級社会の成立、格差の拡大という矛盾だ。形式的(人格の)平等と内容的(能力の)平等との矛盾だ。

(1)人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。
 地縁、血縁は、その内部では均一でも、全体としては多層的で複合的で多様。
その地縁、血縁が壊れたことと、抽象的人格や所有権での平等とは同じこと。それは人間の均一化であり、画一化である。その上に成立したのが近代国家。
地縁、血縁社会には抽象的な所有権はない。身分が固定していた中世との違い。
人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。

(2)国内部の均一化が国家成立、国内統一ということ
 日本の明治維新で言えば、徳川幕府は諸藩の連合体の代表で、国家は存在しなかった。
  横の関係が中心で、絶対的な抽象的な一般的な上下関係ではない
 国内の多層的で複合的で多様な統治が壊れ、均一化し、中央集権化する。
 「教育」が、国家の観念を植え付けるための先兵になる
 天皇制だけが、血縁関係を残した部分

(3)国内統一と国外への対抗・侵略とは一体
?先進国では国内の対立を使用するために植民化
それを協力に押し進めるために国家が必要
  ?後進国では国家の目的は、外の他国から守るため。植民地化される危機。
また、内部の統一体を作るため
教育と殖産を振興し、産業改革で工業化を達成するため

(4)マルクスは国家と市民社会、公私の対立を強調している。ヘーゲルの予定調和の考え方への批判。これは絶対的に矛盾し、対立する、と言う。
  マルクスにあっては、これは階級社会を意味した。その克服を考えたのがマルクス。
  しかし、さらに根底には(1)の矛盾があるのだ。

(5)愛国心を言う人
国はムラではない。その正反対のもの。地縁、血縁が壊れ、抽象的人格や所有権での平等、つまり人間の均一化の上に成立したのが近代国家。
近代以前には公私の区別はなかった(266ページ)。それは一体だったから。
私が私になり、公が公になったのは、同時である。
愛国心や公共心の確立・再建を言う人は、公を求めているのではない。公私の分裂前の一体の時代への回帰を求めているのだ。
  公を確立するには、私を確立するしかない。現代の日本では、私が私にならず、小さなムラに留まっている。依然として個人はいない。

(6)市民社会と国家の分裂、対立
 官僚機構や国の諸制度は、本来の目的から離れて自己運動してしまう
 高度経済成長下で生まれ、拡大し続けた制度を変えられない
 ここから「小さな政府」「官から民」が出てくる必然性がある。