6月 15

昨年からゼミのヘーゲル学習会が活発になった。ヘーゲルの『精神現象学』の序言を原書で読み、『法の哲学』は翻訳で通読した。『精神現象学』の序言を手がかりにして、許万元『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』(大月書店)を読み直し、ヘーゲルの本質論を再考した。『法の哲学』の「国家論」については、関連するマルクスの著作を読んでみた。

かなり収穫があったと思う。それらを、以下の文章にまとめた。?「ヘーゲルの本質論」だけは、まだまとまっていない。現在も、ヘーゲルの大論理学の現実性の箇所を読んでいるところだ。
?から?を、この順で本日から発表する。

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
?ヘーゲルの本質論 

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◇◆ ヘーゲル『法の哲学』へのノート  ◆◇

ヘーゲル『法の哲学』へのノート 2008年秋から09年春

昨年春から約1年かけて、ヘーゲル『法の哲学』を読み終えた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

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○『法の哲学』は、「近代社会とは何か」の問いへのヘーゲルの回答。すべての叙述の前提が近代社会である。第3部3章の国家の君主制以下は事実上プロイセン国家を前提している。

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○第1部、第2部、第3部の関係
(1)第3部は(近代の)現実社会、現実の近代社会が対象だ。自由がそこに実現している社会の内実。国家、市民社会、家族のこと。そこで個人の自由、社会の自由が実現している。

ここに「個人」が出てこないことに意味がある。普通は「個人」から初めて、そこから「国家」を出す。それを媒介するために「社会契約」などを考える。ルソーがそう。ホッブスもそう。「個人」が国家の成立の前提なのだ。

ではヘーゲルではなぜ、ここに「個人」が出てこないのか。現実社会では、個人は個人として存在していないからだ。実際に存在しているのは、家庭であり、社会であり、国家だ。
ではヘーゲルの体系で「個人」とはどこにいってしまったのか。

(2)それは第1部なのだ。そこに近代社会の原理として、その成立の条件として「個人」が存在する。人格の平等=所有権として。
この意味は、それは最も抽象的なもので、具体的でない=現実に存在するわけではない
しかし、すべての基礎でもある。それからすべてが始まる。近代の概念(始まり)なのだ。

(3)では第2部とは何か
それは「道徳」となっているが、人間の外界への目的的活動と、その内的反省である内面世界を問題にしている。人間の意識の「内的二分」「内的分裂」が問われるから、幸福、「善」と「悪」、良心が問われる。

(4)この第1部と第2部が、近代の「個人」の意味なのだ。普遍的な前提としての条件(第1部)と、その内面化された姿(第2部)。
それを踏まえて、第3部で、現実社会を分析している。
第2部ではカントが徹底的な内化を完成させた。そして、カントが極論にまで進めたので、ヘーゲルはそこから一転して自由を外化した第3部を展開できたのだ。
また、内面的な自由を守るために、国家が存在するという論理も重要だ。

※こうした「立体性」があるかないかで、何が違ってくるのか。答え。ルソーのような社会契約説などが入る余地が亡くなる。

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○第1部
人格 人格の平等 個人主義
自分のことは自分で決める。僕は僕
「ボクのもの」が守られること(「所有権」の保障)が、「ボクはボク」であることの保障
※これは唯物論的。経済が精神を保障する

この所有権を否定し、家族を否定し、国家も否定したのが、社会主義・共産主義。
それがいかに根源的な否定だったかがわかる。しかし、それは単純な否定でしかなく、否定の否定にはなっていないのではないか。それで近代社会を止揚する可能性があったのだろうか。

○国家を否定し、または無視や軽視する人
一部の文化人は、国家を語らず、国家を敵視する。
しかし市民社会の上に国家が存在している。これは事実である。
実際に、社会への絶対的権力として機能している。
国家否定論の安易さは、この厳しい現実を直視していないからではないか。

○ヘーゲルのリアルさ、現実感覚
ヘーゲルは理想論をしていない。事実、そうなっていることを示し、その説明をしようとしている。
国家と宗教との関係で特に、リアルなことがわかる。
マルクスの「宗教は阿片だ」とのえらい違い
ヘーゲルが受け止めた、国家成立の重さを、マルクスはきちんと受け止めているだろうか。

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○概念の生成史と展開史の区別の観点から
 ヘーゲルの時点では、近代社会が生まれてまだ50年から100年。展開史にはまだならない。
 それを書けるのは我々。その後、資本主義社会を止揚すると唱える社会主義が生まれ、逆にそれが止揚されて、今の「資本主義社会」が生まれた。工業化社会から情報社会に移行し、豊かになり、フリーターやニートが急増している現在の時点で、明らかになってきた近代の意味(本質)があるはず。 

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○選択の問題 なぜ選択ができないか (「緒言」より)
 先生、友、恋人。進路・進学の問題。仕事(フリーターやニート)の問題
選択とは、他の可能性のすべてを捨てること。すべてを捨てる覚悟がないから、一つを選ぶこともできない。
5節から7節の展開でわかる。すべてを捨てること(5節の意志の普遍性)ができない人間は、一つを選択(6節の意志の特殊性)できず、意志の自由(7節の意志の個別性)まで進めないのだ。
12節から16節でも同じ問題と関係する。フリーターの望む自由は15節と同じ抽象的自由だ。しかしこれは多くの大人たちが望むものでもある。すべてを捨てる覚悟がないのだ。
 
○意志(の自由)の3契機
 第5節 3契機のその1 普遍=絶対的抽象=無規定=悟性の自由=否定的自由
       純粋な自己反省             フランス革命
第6節 3契機のその2 特殊化=対象を規定する=現存在に踏みいる
        =普遍(第1の抽象的否定)の否定
 第7節 3契機のその3 個別=意志の自由
  意志は始めから主体ではない。運動そのものであり、その結果。
   【追加】自由=多のものの内にありながら、しかも自分自身のもとにある

○12節から16節
 第12節 意志の決定 (選択を)決定する=個別性の形式を与える=現実性
    外に現れる
 第13節 意志決定の形式的抽象的自由(知識の有限性)
  意志決定によって意志は個人の意志、外と自分を区別する意志として自分を定立する
  【追加】無限(抽象的普遍)を捨てて、有限となる
 第14節 選択の可能性
 第15節 恣意=偶然性=(普通の人が考える「自由」)
   反省哲学(カント、フリース哲学)の批判
 第16節 無限進行=偽の無限
    選択したものを放棄することもできる

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○善と悪について  136節から140節。特に139節、

人間には内的二分が起こり、すべてを内面化・主観化・特殊化することができる。
この時、すべてが仮象として現れる。すべてが特殊性(悪の可能性であり、善の可能性でもある)として現れ、それが発展して、その真の姿としてのみ善が現れるのだ。その段階で、善と対立する悪もはっきりと現れる。
この過程を経ずに行われる「善」。つまり抽象的悪と対立した善は、抽象的善でしかない。形だけの善、世間の善を外見上行うだけ。
善と悪との両者を、その生成から転化までを視野に入れて見るべき。
大きな悪、根源的な悪(の可能性)からこそ、巨大な善は生まれる。
悪の中に善がある。悪ナシで善はない。その上で、善から悪への転化も起こる。
定義としては、絶対的普遍性=善、特殊性=悪と分けられるが、それは結果であって、最初から両者の区別が立てられるのではない。
悪(特殊)をくぐらずして、善はない。
自己の特殊性(悪の可能性)を生かすことが、社会全体(普遍性)のためになることを理解していく過程で、善は実現していく。最初からエゴや特殊性を放棄することで、実現するのではない。
むしろ徹底的なエゴの主張、特殊性へのこだわりの中にこそ、善や普遍的な意志の実現の可能性がある。