7月 05

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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 ■ 本日の目次 ■

  1.マルクスの労働過程論 ノート(その2)   中井 浩一
B マルクスの労働過程論の構成
C 本来の構成(代案)

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B マルクスの労働過程論の構成

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係の話から、
     一般的な労働過程論へ    …1段落

(2)一般的労働過程の内部構造
    [1] 人間と自然の物質代謝が労働  …2段落
    [2] 人間は労働で人間のために自然を変えてきたが、
      同時に人間自身を変えてきた  …2段落
      ・人間はその潜在的能力を労働によって発展(開花)させてきた
    [3] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 思考=目的意識性
       …2段落
    [4] 労働過程の3要素  …3段落
       人間労働(合目的的活動)→直前の[3]にあたる
       労働対象 →次の[5]にあたる
       労働手段 →次の[6]にあたる
    [5] 労働対象  …4段落
    [6] 労働手段  …5段落
    [7] 傍流 空間が前提 …6段落
    [8] 労働過程の結果・成果、それを止揚したのが生産物
        …7段落

(3)生産物の立場からの、労働過程の検討
    [1] 生産物の立場からの労働過程を振り返る 「追考」の宣言
       …8段落
    [2] 過去の生産物から新たな生産物が生まれ、それが次の労働の条件になる
       …9段落
    [3] 人類史からの事実命題 人間は労働の蓄積で、世界を変えてきた
       …10段落
    [4] 大工場内部での労働の蓄積
      ・主原料と補助原料 …11段落
      ・1つの生産物が多様な原料になる …12段落
      ・1つの労働過程で、1つの生産物が、
       次の生産の労働手段にも労働対象にもなる …13段落
      ・中間生産物 …14段落
      ・全体の中での役割で、何になるかは決まる …15段落
      ・すべての過程を止揚したものが生産物 …16段落
        止揚されていないのは欠陥物

(4)生産と消費
    [1] 消費されない生産物は、使用価値が無になる
       …17、18段落
    [2] 生産=消費 …19段落
       2つの消費=2つの生産物=生産物と人間自身
    [3] 注釈 人間の労働によらない大地がある …20段落

(5)一般的な労働過程論のまとめ …21段落

(6)資本主義社会の労働過程の特色
    [1] 一般的な労働過程論から資本家と賃金労働者の関係にもどる
       …22段落
    [2] 資本主義社会の労働過程の2つの特色 …23段落
      ・労働も資本家のもの …24段落
      ・生産物も資本家の所有物 …25段落

    骨子は(2)労働過程内部、(3)その生産物から労働過程を振り返る、
   という2つ。この方針自体が、唯物史観をきっちり説明するには不十分。

    仮に、マルクスの大枠の方針を認めたとしても、本来は、
   (3)の[4]と(4)の[1]は、(2)の[6]の後に入れるべき。
   整理されていないので、読みにくい。

    マルクスがここで実際にやっていることは、労働関係の用語〔(3)の[4] 〕
   (原料、労働対象、労働手段、中間製品、など)を、全体の労働過程に
   位置づけることで、その用語の意味を確定すること。

    しかし、ここは本来は、そんなことをやる場所ではないはず。

C 本来の構成(代案)

      マルクスは労働過程論を、本来はどう書くべきだったのか。
     唯物史観の3要素はどこからどう導出されるべきなのか。
     以下に、私の代案を示す。

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の話から、労働過程論へ

       資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係が
      なぜ生まれたのか、
      そしてそもそも労働が価値であるとはどういうことなのかを
      理解するために、労働とは何か、人間労働が他の動物と
      何が違うのかを考えなければならない。

(2)労働における人間と動物の違い

    [1] 生物と自然の物質代謝が労働 
 
    [2] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 目的論
       目的意識性
      → 人間の思考(内的二分)
      → 対象世界をも二重化することを可能にした。

    [3] 自然への働きかけの変化 自然界を二重化した
       人間は、対象の自然を労働対象と労働手段に分け、
       労働手段で労働対象に働きかける方法に変わった。
       労働対象の説明
       労働手段の説明 →これが社会の生産力を規定する 

    [4] 人間は労働で、人間の社会を二重化した
       人間の現実の社会(存在)と、それを反映した法律、思想(当為)の世界
       これが生産関係と上部構造
       人間社会は対立分裂し、それによって発展する
       法律や思想もそれを反映する

    [5] 唯物史観 生産力を高め、発展するための発展
       労働手段を改良して生産力を高め
       人間の生産関係を発展させ
       法律や思想も発展させてきた。
       この3つの関係は相互関係であるが、従来は大きくは
       上が下を規定してきた。
       ヘーゲルの思想が生まれた以降は、思想が全体を指導する

(3)実体への反省 発展とは本質に反省する変化

      人間は労働過程を通して人間になってきた。
      自然も労働過程で本来の自然になってきた。
      可能性が現実化したと展開したのは、実体へ反省する準備で
      なければならない。
      人間の使命、自然が人類を生んだ意味を示す。
      自然の概念、人間の概念を説明する。

(4)唯物史観の立場からの人類史のスケッチ(人類史における労働過程)

      自然と人間の発展過程
      唯物史観による生産力、生産関係、上部構造の発展の過程

(5)資本主義段階の社会の簡潔な説明(その生産力、生産関係、上部構造)

7月 04

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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■ 本日の目次 ■
1.マルクスの労働過程論 ノート(その1)
 A 全体への批判

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1.マルクスの労働過程論 ノート
                    2013年10月22日 中井浩一

  A 全体への批判

 (1)唯物史観の導出ができていない

     マルクスが『資本論』のここに労働過程論を入れたのは、
    労働価値説の証明と、唯物史観の導出のためである。

    ところが、2つともにできていない。

     唯物史観の導出ができていない点については、
    道具(労働手段)が生産力と関係することを言うだけで、
    生産関係や上部構造がどこから出てくるのか、
    またこの3者の関係はどうなっているのかを示せない。

     これは唯物史観を主張するマルクスにとって
    致命的な欠落だったのではないか。

     それは冒頭で、一般的な労働過程論を展開するとしたことで、
    避けられなくなった。資本主義社会といった特定の社会段階から
    切り離した、共通部分として書くと言う。
    抽象的悟性の立場、外的反省の立場に立ってしまった。
    しかし、資本主義社会から切り離して論ずることは実際にはできない。
    そこで、資本主義社会のことが、無原則に労働過程の本質論に入り込む。

     当初は「人間」論のはずが、2段落以降で「労働者」が主語に
    なってしまう。「資本家」は労働していないかのような仮象を
    与えている。

     人間は労働によって、自分たちの都合のよいように、この世界を
    変えてきた。しかし、同時に、自分自身をも変えてきた。
 
    思考、目的にあった労働形態を作るために、
    つまり生産力を高めるために、道具などの生産手段を生みだし、
    それにふさわしいように自分自身の能力(肉体的にも精神的=思考にも)
    を高め、さらには人間の生産関係を変えてきた。

    この点を言えなかったのは、唯物史観の創始者にとって致命的だった。

     ある思想の創始者には、創始者としての責任がある。
    この資本論の労働過程論は、人間の本質を明らかにし、
    唯物史観の意味を鮮明に描き出すべきところだった。
    それがまるでできていない。

 (2)「実体」への反省が不十分

    (1)の結果に終わったのは、「実体」への反省が不十分だからだ。
    構成上は、次の B「構成」で示す「(3)生産物の立場からの、
    労働過程の検討」の中で、結果論的な考察(Nachdenken)、つまり
    「実体」への反省がなされなければならなかった。

     そして、人間の使命、自然が人類を生んだ意味を導出する
    べきだった。
    人間はなぜ労働をするのか。自然と人間はどういう関係なのか。
    自然の概念、人間の概念、労働の概念とは何か。
    そうしたすべてが明らかにされないままに終わっている。

     つまり本来の結果論的な考察(Nachdenken)になっていない。
    そこで、許万元が『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』で
    マルクスの代わりにそれを実行した。
    しかし許は、マルクスの批判は行わない。

 (3)マルクスのこの文章ならびにその構成はかなりひどい。
    点数をつければ30点ほど。

 100点満点でのもの。
    以前はマルクス大先生の文章は常に80?90点ほどだと
    買いかぶっていたが、今回はそのひどさに愕然とした。

     この文章の目的、ねらいは何か。
    そのために、何をどういう順番に書くべきなのか。
 
    それを十分に考えて、全体の構成を練り上げてから
    執筆するべきだった。
    ところが、マルクスはそれが不十分なままに、出たとこ勝負で、
    行き当たりばったりで執筆しているように思う。

     本来の目的を見失い、本当に書くべきことが書かれていない。
    これでマイナス30点。
    全体の構成の練り上げが不十分で、必然的な構成ではなく、
    行き当たりばったりの個所が多い。これでマイナス30点。
    また、傍流が多く読みにくい。これでマイナス10点。

    以上の結果、総合評価は30点である。

 
 (4)この(1)から(3)の問題点について、いまだ誰も批判を
    していない

    せいぜい牧野紀之の批判的な言及があるだけだ。

5月 08

毎週月曜日のゼミを、しばらくお休みにしていましたが、5月12日から再開します。

参加希望者は早めに(1週間前まで、ただし全く初めての参加者は2週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。

午後5時からは関口存男著『定冠詞』を読みます。
冒頭から読んでいきます。すでに昨年に読み終えていますが、
今年の1月に『無冠詞』を読み終えて、新たな観点を持てたので、
再度、『定冠詞』を読み直します。

午後7時からはヘーゲルの大論理学・目的論の後半(ズールカンプ社版全集第6巻、445ページから)
を読みます。毎回2、3ページほどを読みます。

5月12日の後は、
19日は実施、
26日はお休みしますが、
6月2日、9日、16日と続けます。

10月 18

今年の夏の集中ゼミでは、マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」と
 第2編「貨幣の資本への転化」を読みました。

 第1篇「商品と貨幣」は一番難解とされています。
 この30年近く、何度も読んできた部分を、今、どのレベルまでマルクスの真意に迫り、
 それをヘーゲルの論理学の視点から批判できるかが、勝負だと思って読みました。

 マルクスのやろうとしていることがわかるようになってきたと、感じました。

 驚いたのは、第1篇「商品と貨幣」では、
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明を目指しているのに対して、
 第2篇「貨幣の資本への転化」では、
 貨幣から資本が生成した必然性の展開になっていないことです。
 ここでは単に、「貨幣による商品の等価交換」と
 「貨幣の増殖という資本形成の過程」の矛盾を示して、
 その矛盾を説明するものでしかないのです。

 このために、本当に第1篇「商品と貨幣」での
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明が必要だったでしょうか。

 その他、今回考えたことをまとめました。

■ 目次 ■

1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2編「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開
(1)第1篇
(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
(4)第1篇第1章内部
(5)第1篇第1章第4節と第2章
(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
(7)第1篇第1章の第3節
(8)第2篇

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1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2篇「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開

(1)第1篇
 【1】目的は貨幣の生成の必然性の証明
  そのために、まず商品交換の矛盾を指摘し、その矛盾から貨幣が生成するまでを展開する。
 【2】この第1篇は、ヘーゲル論理学そのもの。
  マルクスのヘーゲル批判の激しさと、ここでのヘーゲル論理学への追従ぶりの激しさとのギャップ。
 【3】この第1篇で、商品の使用価値と交換価値への分裂、労働の二重化の説明をするが、
  それが剰余価値を発見するための前提だった。それが4章で明らかになる。

(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
  1章は商品交換から貨幣が生成する必然性の論理的証明
  2章は、その貨幣の立場からの生成過程の歴史的振り返り
  3章は、貨幣自身の論理的展開

  これはヘーゲルの論理学における3構成法の踏襲
  【1】生成の必然性の展開 〔生成史〕
  【2】その成果の立場からの振り返り
  【3】その成果自身の展開 〔展開史〕

(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
 【1】第1篇は第1章の商品交換(物々交換)から始めている。
  この資本論はブルジョア社会を前提としている。
  そうであれば、ブルジョア社会では物々交換は例外であるからおかしい。
  実際のブルジョア社会での商品交換は実際には貨幣を媒介している。

 【2】しかし、そもそも貨幣の生成過程の説明をしたいのだから、
  貨幣による媒介の段階から始められない。
  そこで貨幣による媒介が外在化せず、まだ内的で潜在的だった段階の物々交換から
  始めるしかなかった。

 【3】この物々交換の場合から始める点だけは、歴史的始まりでもある。
  これは商品交換(物々交換)が歴史的始まりだが、同時に論理的始まりでもあるから。

 【4】第1篇内部の1章「判断」と3章「推理」の関係
  これを概念論でとらえれば、3章は3項からなる推理で、
  1章は2項からなる判断である。
  そして、判断の矛盾が顕在化したのが推理であるという
  ヘーゲル論理学と同じ展開である。推理は判断の止揚なのだ。
  だから判断の2項から始めるしかなかった。

 【5】しかし、マルクスの説明はそうなっていない。
  マルクスは、判断から推理へと言う論理展開を意識できなかったのかもしれない。
  または読者にそうした理解を前提できなかったのか?
  マルクスが理解できなかったとして、それでも事実上、
  ヘーゲルの概念論の展開を行えたことは、マルクスがいかに深く、
  ヘーゲルの方法と能力を身につけていたかを示す。

(4)第1篇第1章内部
  第1節、第2節は、教科書的に、
  商品とその商品を生む労働の内部矛盾(議論の前提)と労働価値節の説明。
  それをまるで定義のような「断定」の形で置く。(「断定は科学の敵」牧野紀之)
  この唐突さはマルクスの本意ではなかったろう。
  読者にとっての「わかりやすさ」のために、こういう展開にしたのではないか。

  第1節、第2節を前提にして、商品の内部矛盾から貨幣を導出するのが第3節。
  ここで、この1節から3節までは、論理的証明。
  それに対して4節は何か。歴史的説明のようだ。

(5)第1篇第1章第4節と第2章
  ともに歴史的過程の確認、それを反映する経済学史の確認である。
  マルクスは、自分の論理的説明に、これらを対置している。

  違いは、4節は、商品内の価値=労働時間(労働価値説)の、
  歴史的展開(事実)と、経済学(事実の理論的反映)の発展の振り返り。
  (つまり第2節への注釈)
  2章は、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  貨幣の生成の必然性を問わないブルジョア経済学への批判
  (つまり第3節への注釈)

(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
  冒頭に、「問題提起」として、第1章第4節と第2章の内容を置く。
  つまり、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  商品内の価値=労働時間の歴史的展開。

  次に、それをとらえる経済学の発展の振り返りをして、

  最後に、アダムスミス以来のブルジョア経済学の意義と限界をまとめる。
  その限界を克服するには、論理的説明が必要で、
  それを行ったのがマルクス自身の経済学だとする。
  以上が冒頭の「問題提起」。

  この答えとして、第1篇の第1章の第1節から第3節までを出す。
  そうすれば、第1節、第2節の唐突さもなくなる。
  このように、歴史と経済学史からの問題提起と、
  その答え(論理的展開)とすれば、自然な展開になる。

(7)第1篇第1章の第3節
 【1】論理的説明だが、内在的と言うよりも、機械的(悟性的)な説明になっている
  ・AからBが部分と全体の関係
  ・BからCが「反転」という説明
  ・CからDが「置き変え」

 【2】本来はAとBの交換に内在する矛盾が、顕在化し自己展開したと書くべき
  この分裂、矛盾を全面展開したのが、今のブルジョア社会と、説明するべき

 【3】交換(判断)そのものは本質論なのだが、その内部でのマルクスの説明は、
  存在論のカテゴリーがほとんど。
  質と量、悪無限からの止揚(独立存在)で説明している。

(8)第2篇
 【1】「貨幣から資本への転化」というタイトルだが、
  貨幣から資本の生成の必然性の証明にはなっていない。

  商品と貨幣の等価交換という仮象の中に、本質(秘密=剰余価値)を
  見出したという書き方。つまり推理小説のような面白さ。

  商品交換における使用価値と価値との対立から、
  論理的に「新たに使用価値そのものを生み出すような使用価値である商品」を
  さがすことになり、それが「労働」という商品だった、という展開。
  W-WからW-G-Wを出し、次のG-W-Gとの矛盾を示した。

 【2】なぜ、資本の生成の必然性を展開しなかったのか。
  当時は、それが無理だったからか。
  しかし、それなら、貨幣の生成の必然性を示すことにどれだけの意味があったのか。
  
 【3】マルクスの思考は、概念論よりは、本質論の範囲で動くことが多いように思える。
  用語では存在論のものが多い。そこに問題がある。
  しかし、ヘーゲルの用語を振り回す誰よりも、
  ヘーゲルの考え方を実行しているのもマルクスだ。
  貨幣の生成の必然性、資本主義社会の没落の必然性を書いたことがそれだ。

 【4】唯物史観と剰余価値の発見
  マルクスは剰余価値の発見を、自分の経済学史における最大の功績と考えていた。
  マルクスは、自らがプロレタリアートの立場に立っていることを、
  自分が剰余価値を発見できたことで確認できたと考えていただろう。
  ブルジョア経済学では無理だったと考えていた。

  しかし、剰余価値の創造には、プロレタリアートだけではなく、
  ブルジョアも多大の貢献をしている。それをまったく無視するのはおかしい。

 【5】剰余価値の発見には、第1篇の商品の使用価値と交換価値への分裂、
  労働の二重化が前提だった。それが4章で明らかになる。

10月 16

例年、夏になると八ヶ岳でゼミの合宿を3泊4日で実施してきましたが、
今年は、形を変えて、東京で8月24日、25日の2日間の「集中ゼミ」という形で行いました。

参加者は8人(内、大学生が2人)でした。

集中ゼミの初日晩には「現実と闘う時間」を実施。各自の活動報告をし、意見交換するのですが、結局は当人の「生き方」を問うことになります。

参加者(大学生)の感想を紹介します。

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1.商品論が生き方に通ずるのはなぜか 大学生

(1)資本論の商品論と生き方

 資本論を読んだ。マルクスもヘーゲルも読んだことのない私にとって、
その内容はわからないものだったが、特に第一章(第三節)あたりを読んで、強く感じるものがあった。

 それは、以下のようなことだ。

 私はこの夏に、牧野紀之の「先生を選べ」を読み、鶏鳴の場にレジュメを提出し、中井さんを先生に選んだ。
私は高校に入る前から、周囲の人間、学校の教師、親、友人たちの価値観や生き方につきあいきれず、
高校を辞め地元から東京に出てきて、高2の春に鶏鳴に入塾した。
そして、中井さんに言われて、初めて学校を辞めたことを家族と話し合い、
高校3年の春からは原発の聞き書きで自分の問題意識を深めてからも、ある種、無意識的にも中井さんを先生としてきた。
牧野の「先生を選べ」を読んで意識的に振り返ってみると、中井さんの言ったことを守り、行動し、批判され、
また考え、行動してきたという意味で、中井さんを先生にして過ごした2年間だったと思う。

 そのような一連の過程が、資本論の第一章(第三節)あたりと重なって感じられた。

つまり、以下のようなことである。

 まず、ある一つの商品の中で、使用価値と交換価値という内的二分、自己分裂(葛藤、矛盾)が起こる。
これは人間におきかえれば自我の芽生えであるし、私自身も義務教育が終わって自己責任でやっていくとなったときに非常に葛藤した。
そのとき結果的に私の場合高校を辞めたのだが、そういう経験がある。

 次に、その商品がどの「商品」と交換されるのか
(例えば、20エレのリンネル=1着の上着、10ポンドの茶、40ポンドのコーヒー・・・)という、
「悪無限」が発生する。
 そうした「悪無限」というのは、私のことで言えば、私が高校を中退するときに、
私の人間関係とテーマの否定はできるが肯定(止揚)はできない、ということと重なる。
なぜか。私は高校を辞める前後で、無意識的に、自分の生きるテーマと、先生、仲間を探していた。
その時の私は、どうでもいいものが目の前に無限に「ある」、つまり、何も決定的なものが「ない」、という状態であった。
 そしてその「悪無限」を止揚して、貨幣が現れ、さらにその貨幣が、通約可能性をもつと、商品論に書いてあった。

 このことは、私が一人の先生を選び、そしてその先生を通して、私の新しい人間関係とテーマをつくっていく、ということになる。
このように、商品論には現在に至るまでの私の人生の形式がそこに現れているように思った。

 一体何故、「商品」という一見「生き方」とは遠いものを叙述していながら、そのようなことが起こるのだろうか。

 ひとつに、マルクスが先生として選んだヘーゲルが、自我を徹底的に究明したからだと思う。
 まず、「関係」を問題にするとき、それはAとBという二つのものの関係である。
ヘーゲルは何よりもまず自我を問題とした、ということを牧野さんの本で読んだことがある。
自我は内的二分であるので、まず内的二分の二つの関係から出発するのは、ヘーゲルを先生としたマルクスならそうするだろう。

 次に、先生を選ぶということについて、牧野さんの『生活の中の哲学』を読んでいて、
「感覚の個別」と「概念の個別」という言葉がでてきた。
前者は「世界中に一人しかいない」(すべての人にあてはまる)という意味で個別なのだが、
それは後者の「かけがえのない個別」よりも低いものだという。

 貨幣や先生は、後者の概念の個別ということで一致すると思う。
なぜならば、両者はそれまでの関係を止揚して現れた(悪無限を止揚して現れた)からである。
前者は諸商品を止揚し、後者はその人の人間関係を止揚した。

 以上のように、自我から出発し、「概念の個別」というヘーゲルの思想で物事を捉えると、
それは商品(の関係)であれ人間関係であれ、内的二分に始まり、止揚されるものとするものが現れ、
それが結果的に、「生き方」と同じ論理で現れているのではないか、と思う。

(2)「現実と闘う時間」
 後半の「現実と闘う時間」では、現在の私がいかに自分の周りで起きていることを批判できていないか、
ということを思った。

 現実と闘う時間で問題になったのは、同じ大学生のAが私の行ってきた聞き書きの「後追い」をして、
つまり私のインタビュー相手に同じインタビューをして、それを鶏鳴の文ゼミに提出したことだった。
私は彼がそのインタビュー相手にインタビューに行くということを(あるいは行ったということを)きいていたが、
何の疑問も感じられなかった。
ただ「私の聞き書きに不十分な点があり、それを知りたいがためにインタビューに行ったんだろう」などと「推測」してしまって、
直接理由をきかなかった。
そうした自分の周りで起こることひとつひとつに敏感になれないと、相手を批判できず、
ただ漫然と問題を見過していってしまうのだと思った。

 そして今後、社会問題と関わっていくなかで、外に対してだけでなく、自分たちの組織内部でもどれだけ批判をし合い、
代案を出せるか、ということが勝負ということがわかり、自分のやっていく方向性の中で、やるべきことが以前よりも具体的になった。

 私の中で確かな前進のあった合宿だった。