10月 28

高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる」で次のように説明する。
「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。
時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、「あるべきようわ(何か)」である。
「ある」=存在を問うことが生き方(当為)を決める点が真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。
「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、
存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

7月 30

いつものように今年も夏の合宿を行います。

以下のような内容です。

参加希望者は連絡をください。詳細をお伝えします。ただし参加には条件があります。

? 日程
8月21日(木)から24日(日)の日程で、山梨県の八ヶ岳の麓の清里で、合宿を行います。
一部だけの参加も可能です。

? 学習メニュー 

(1)8月21日、22日は
ヘーゲルの原書購読です。目的論(大論理学)を読みます

(2)23日、24日は
ヘーゲルの『法の哲学』第1部、第2部、第3部(中公クラシックス版。私は『世界の名著』版で読みます)を読みます。
「序文」「緒論」はすでに7月の読書会で読みました。

(3)8月22日、23日の晩にはそれぞれ「現実と闘う時間」(各自の報告と討議)を行います。

7月 08

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その3)
                                中井 浩一
   【9】【10】【11】【19】【21】段落

   ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

   ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
   ・(1)(2)などは私の注釈の番号

   ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
    私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程
     
 【9】 ある労働過程から〔新しい〕使用価値〔生産物〕が現れてくるとき、
    それ以前の労働過程から生まれた別の使用価値〔生産物〕は〔次の
    生産物のための〕生産手段として〔新たな〕労働過程にはいって行く。
    以前の労働の生産物が持っていた使用価値が、今度は新たな労働の
    生産手段〔という使用価値〕になる。それだから、生産物は、
    労働過程の結果(39)であるだけではなく、同時にその条件(39)
    でもあるのである。

 ◇注釈
 (39)「労働条件」という用語はヘーゲルの『小論理学』の現実性の箇所を
     思わせる。「労働条件」というくくりには、労働対象も労働手段も、
     人間もすべてが入るはず。

 【10】 鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを
     開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている
     採取産業もある。しかしそれは例外であって、他のすべての産業部門が
     取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された
     労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。たとえば
     農業における種子がそれである。自然の産物とみなされがちな動植物も
     〔本当はそうではなく、人間労働の産物なのだ。しかも〕、おそらくは
     前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態になるまでには、
     いく世代にもわたって、人間の制御のもとに人間労働に媒介され続けてきた
     変化の産物である(40)。しかし、特に労働手段について言えば、
     その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示している
     のである。

 ◇注釈
 (40)人類史の中での労働と人間と自然の関係がまとめられている。無いのは、
     人間自身もその過程で作り上げられてきたことだ。

 【11】 原料は、ある生産物の主要実体(41)をなすことも、または
     ただ補助原料(41)としてその生産物の形成に加わることもありうる。
     補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草が
     ひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、
     または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、
     染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を
     起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や
     採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。
     主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。
     なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として
     現われるものはなにもないからである。

 ◇注釈
 (41)この「主要実体」は単に、「補助原料」の対でしかないが、本当は
    「実体への反省」が書かれなければならなかった。人間の使命、自然が
     人類を生んだ意味を導出するべきだった。つまりNachdenkenになって
     いない。
     マルクスがそれをできなかったので、許萬元が代わりにそれを行い、
    『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を刊行する必要が出たのだ。
     許はそれを行ったが、それをしなかったマルクスの批判は行わない。

 
 【19】 労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを
     食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この
     生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている
     個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の
     働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。
     それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は
     消費者とは別な生産物である(42)。

 ◇注釈
 (42)消費との関係で書かれているが、生産物は普通の意味の生産物だけではなく、
     人間自身もそうだと言うことが、ここに示される。これをもっと展開する
     べきだった。

 【21】 これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきた
     ような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、
     人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然との
     あいだの物質代謝の一般的な(43)条件であり、人間生活の永久的な
     自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく(43)、
     むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なもの(43)である。
     それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要が
     なかった(44)のである。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある
     自然とその素材、それだけで十分だったのである(44)。小麦を味わって
     みても、だれがそれをつくったのかはわからないが、同様に、この過程を見ても、
     どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわからない。たとえば、
     奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、
     あるいはまたキンキンナトゥス〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した。
     国民文庫の説明〕がわずかばかりの大地の耕作でそれを行なうのか、
     それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか※、というようなことは
     なにもわからないのである(45)。

 ◇注釈
 (43)「一般的な条件」「かかわりなく」「等しく共通なもの」という言葉が、
     マルクスが普通のレベルに落ち込んでいることを示している。冒頭の段落と
     同じだ。このために次の注(44)のようなことになる。
 (44)本当は、「労働者を他の労働者との関係のなかで」一般的に「示す必要」が
     まずあり、次にそれを具体的に示す必要があったのだ。だから以下のような
     叙述が出てきてしまう。
 (45)この段落で、注(44)の直後からラストまでの叙述が必要になるのは、
     もともと、個々の特定の社会状態を無視して、労働過程を書くことはできない
     のに、そうしたからだ。本来は、一般論の後に、唯物史観の立場から
     人類社会の発展を簡潔に示すべきだったのだ。

 ※への原注
      たぶんこの最高に論理的な理由からトレンズ大佐は未開人の石のうちに
     発見するのである?資本の起源を。「未開人が野獣を追いかけながら
     投げつける最初の石に、手のとどかない果実を落とすために彼がつかむ
     最初の棒に、われわれは、他の財貨の獲得を目的とするある財貨の取得を
     見るのであり、こうして発見するのである?資本の起源を。」
     (R・トレンズ『富の生産に関する一論』、七〇、七一ページ。)
     なぜ英語ではstock〔木の幹〕が資本と同義なのか、これも、たぶん、
     この最初の棒〔stock〕から説明できるのであろう(46)。

 ◇注釈
 (46)資本の起源を最初の道具に見ている。

7月 07

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その2)
                              中井 浩一
   【3】【4】【5】段落

  ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

  ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
  ・(1)(2)などは私の注釈の番号

  ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
   私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程

 【3】 労働過程の単純な諸契機には〔3要素がある。それは〕、合目的的な
    活動または労働そのもの(19)と労働対象(19)と労働手段(19)である。

 ◇注釈
 (19)この3つの出し方は内在的なものではなく、外的で機械的で悟性的なもの。
     この3つしかないことは、どこにも証明されていない。

 【4】 人間のための食料や生活手段として最初から完成したものを用意
    しているから、この大地(経済的には水もそれに含まれる)は、
    人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象(20)として
    存在する。自然界によって与えられたすべての物は、労働によって
    ただ大地との直接的な結びつきから引き離される(21)だけで、
    労働対象となる。たとえば、魚はその生活環境である水から引き離されて
    捕えられ、木は原始林から伐り倒され、鉱石は鉱脈から掘り出される。
    これに反して、労働対象(21)で、それ自体がすでに過去の労働によって
    いわば濾過されているならば、われわれはそれを原料(21)と呼ぶ。
    たとえば、すでに掘り出された鉱石が洗鉱されたならば、それが原料である。
    すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象は原料であるとは
    かぎらない。〔なぜならば〕労働対象が原料であるのは、ただ、すでに
    それが労働によって媒介されて変化を受けている場合だけ〔だから〕である。

 ◇注釈
 (20)この「一般的」と言う用語がわからない。本来は、人間が自らの対象
     である自然を労働手段と労働対象に分裂させ、特殊化する、と展開する
     べきだった。
 (21)この原料(労働による)と労働によらない労働対象の区別にどういう意味が
     あるのかわからない。「引き離す」こと自体も「労働」ではないか。

 【5】 労働手段とは物またはいろいろな物の複合体(22)であり、
    労働者(23)はそれを自分と労働対象とのあいだに入れて対象に
    働きかけるのである(24)。労働者は、労働手段としてのいろいろな物の
    機械的、物理的、化学的な性質を利用して、自らの目的が達成できるように、
    他のいろいろな物(生産対象)にたいする人間の労働を伝える手段とする。
    労働者が直接に支配できる対象は、労働対象ではなく、労働手段である
   (25)。ただし、生活手段として完成しているもの、たとえば果実などの
    つかみどりでは、人間自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ
    のであるが、このような場合は別である。こうして、自然的なものが
    それ自身〔労働手段として〕人間の活動の器官(26)になる。
    その器官を彼は、聖書の言葉にもかかわらず、彼自身の肉体器官に
    つけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばす(27)のである。
    大地は人間にとっての根源的な食料倉庫であるが、同様にまた
    人間の労働手段の根源的な武器庫(28)でもある。それは、たとえば
    石を供給するが、人間はそれを投げたり、こすったり、圧したり、
    切ったりするのに使う。《大地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、
    それが農業で労働手段として役だっためには、さらに一連の他の労働手段と
    すでに比較的高度に発達した労働力とを前提する》。(29)
    およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された
    労働手段を必要(30)とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具
   (31)や石製の武器(31)が見出される。加工された石や木や骨や貝がら
    といった〔無生物〕(31)のほかに、人類史の発端でも、すでに労働に
    よって変えられた、つまり馴らされ、飼育された動物(31)が、
    労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用や創造(32)は、
    萌芽としてはすでにいくつかの動物も行なうことだとはいえ、それは
    人間特有の労働過程を特徴づける(32)ものであり、それだからこそ、
    フランクリンも人間を道具を作る動物だと定義(33)しているのである。

     死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと
    同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の
    遺物がもっている(34)。何がつくられるか〔労働対象と成果〕ではなく、
    どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を
    区別する(35)。労働手段は、人間の労働力(36)の発達の測度器である
    だけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係(37)の
    表示器でもあるのだ。

     労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と
    呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけで
    その全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、
    たとえば管や槽や寵や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかに
    より決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業で
    はじめて重要な役割を演ずるのである(38)。

 ◇注釈
 (22)あくまでも物質である。しかし、後で「動物」も労働手段となることが
     指摘される。
 (23)注の13で指摘したが、「人間」ではなく「労働者」を主語にしている。
 (24)わかりやすい「媒介」。3項からなる。しかし、これは労働過程の3項を
     前提とした説明方法で、内在的な説明にはなっていない。
 (25)人間は、直接に支配できる対象にしか関わることができない。それが道具である。
     だから重要なのは道具なのだ。しかし、何が労働対象で、何が労働手段なのかは、
     固定的に決まらない。
     問題は、人間が直接に働きかけることができる対象と、その対象を媒介として
     間接的に働きかけるしかできない対象とに区別されると言うことだ。そして、
     道具は次々と拡大していく。
 (26)この指摘はさすがである。道具は人間の手足の延長だと言うのだ。
     人間は科学技術と機械力を生み出し、産業を発展させてきた。これはすべて、
     人間の肉体の延長だと言うのだ。大きく言えば、これは大地全体(この地球の
     総体)のすべてが人間化したということだ。これは逆に言えば、人間の
     すべてが自然化したということでもある。
     そしてここから出てくる人間の使命とは何か。人間は自然の真理であり、
     自然を完成することがその使命なのだ。
 (27)前とこことで、労働手段は人間の肉体の延長だとする。
 (28)これが一般的労働対象から労働手段が分裂することのマルクスの叙述である。
 (29)これは傍流で補注の位置づけ。こういう傍流を入れまくるのが、マルクスの
     悪い癖だ。
 (30)労働手段(道具)の開発と、思考(目的意識)と、人間社会の成立とは
     同時なのである。
 (31)無生物の道具だけではなく、生物をも道具にする。人間を道具にしたのが
     奴隷だが、人間は人間(自分も含む)をも手段にする。資本家は労働者を、
     否、資本家たちをも道具にしている。ここから「生産関係」の話をするべき。
 (32)「労働手段の使用や創造」ができるかどうかが、猿と人間を分ける
 (33)人間と他の動物との違い
 (34)その社会の発展段階を決めるのは生産力であり、それは道具の威力に
     他ならないのだ。マルクスの凄みがここにある。石器時代、青銅器時代、
     鉄器時代といった区分が想定されている。
 (35)重要なのは生産物ではなく、それを生み出した労働手段(道具)だと
     いうのだ。それは正しいが、それだけを言うのは一面的だろう。
     最終的にはやはり生産物こそが重要で、それがその社会を決める。
     それは「何を」(what)と「どのように」(how)で、重要なのは
     最終的には「何を」(what)だということだ。手段は目的に従属するからだ。
 (36)ここと次の注が、マルクスが唯物史観らしきことを述べた唯一の箇所。
     唯物史観の生産力は道具の威力。
 (37)唯物史観の生産関係を規定するのは生産力。ただし、どういう関係で
     こう言えるのかは説明されていない。
 (38)この段落も、傍流的ではないだろうか。本来は、注36、注37で
     説明した内容を、くわしく展開するべきだった。それをしないで、
     枝葉末節の話に流れてしまう。これはマルクスの叙述の大きな問題だ。

7月 06

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

  ■ 全体の目次 ■

  【1】【2】段落 →ここまで本日に掲載
  【3】【4】【5】段落 →ここまで明日7日に掲載
  【9】【10】【11】【19】【21】段落 →ここまで明後日8日に掲載

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  ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その1)
 
   【1】【2】段落

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 第一節 労働過程

 【1】 労働力〔という商品の使用価値〕の使用が労働そのものなのである(1)。
    労働力の買い手〔資本家〕は、労働力の売り手〔賃金労働者〕に労働をさせること
    によって、労働力を消費(2)する。このことによって、労働力の売り手
    〔賃金労働者〕は、それ以前にはただ可能性として労働力、労働者(3)
    だったのだが、それが現実に活動している労働力、労働者(3)になるのだ。
    賃金労働者が〔自らの〕労働を商品にするためには、それをなによりもまず
    使用価値に、〔人間の〕何らかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に
    表わさなければならない。しかし、労働者がどんな特殊な使用価値、
    どんな品物を作るかを決めるのは、資本家であって賃金労働者ではない。
    〔しかし〕〔このように資本主義社会での〕使用価値または財貨の生産は、
    資本家のために資本家の監督のもとで行なわれるのだが、そのことによって
    使用価値の生産はその一般的な性質(4)を変えることはない。それゆえ、
    労働過程はさしあたっては、どんな特定の社会的形態〔たとえば資本主義社会でも〕
    からも独立して(5)、考察されなければならないのである。

 ◇注釈
 (1)労働と労働力を区別し、その両者の関係をこのように定式化するまでには、
    何十年にもわたるマルクスの研鑽があった。
 (2)「消費」と「使用」は同じ。マルクスはこの後で「消費」と「生産」が
    一体であることを説明する。
 (3)この可能性から現実性への発展を見ていくのが、ヘーゲルの「現実性」論だが、
    マルクスはそれをそのまま踏襲する。これは本来は実体に反省するため。
 (4)このように時代に無関係に、すべての時代の根底にあるものとして
   「一般的」ととらえるのは、ヘーゲルのいう「外的反省」の立場で、低い。
    マルクスはこう言いながらも、次の2段落(注の11,注の18)などで、
    繰り返し資本主義社会での特殊例を出す。これは、もともと、マルクスの
    この切り捨て方が無理だったからなのだ。
 (5)注4と同じで、「独立して」はダメ。

 【2】 労働は、まずは人間と自然とのあいだの過程である。この過程で
    人間は自分と自然との物質代謝を、自分自身の行為によって媒介し、
    規制し、制御するのである。人間は、自然素材(6)にたいして
    自分自身をもまた自然力(6)として相対する。〔つまり〕
    その自然力とは人間の肉体にそなわったもので、腕や脚、頭や手(7)
    の持つ能力である。人間はそれらを働かせることによって、
    自然素材を、自分自身の生活のために使用されうる形態にしてわがものとする。
    人間は、それらの能力を動かすことによって自分の外の自然に働きかけて
    それを変化させる(8)が、それだけではなく、同時に自分自身の自然〔天性〕
    を変化させる(8)のだ。人間は、自分自身の自然のうちに眠っている
    可能性を〔能力にまで〕発展(9)させ、その能力の発揮〔労働〕(9)
    を自分のコントロール下に置く。

     ここでは、労働の最初の形態、つまり動物が本能的に行う労働は
    問題にしない。《労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に
    現われるという状態に対しては、人間労働がまだその最初の本能的な
    形態から抜け出ていなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられて
    いるのである。》(11)われわれは、〔動物ではなく〕ただ人間だけが
    行うような労働をここで考えよう。〔たとえば〕くもは、織匠にも似た作業を
    するし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。
    しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのだ。
    なぜならば、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いている(12)
    からである。労働過程の終わり(12)に出てくる結果とは、労働の始め
    (12)にすでに労働者(13)の心像のなかにあった、つまり観念的には
    すでに存在していた(14)のである。労働者は、自然的なものの形態変化を
    ひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の
   〔観念的な〕目的を現実のものとする(15)のである。その目的は彼が
    知っているものであり、自らの行動の仕方を規定する掟として、
    自分の意志を従わせなければならない(16)のである。

     そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。
    労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志(17)が
    労働の継続期間全体にわたって必要である。《しかも、それは、労働がそれ自身の
    内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、
    したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的話力の自由な営みとして
    享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。》(18)

 ◇注釈
 (6) これは唯物論。自然を人間が変革できるのは、人間が自然と同じ物質としての
     側面を持つからだ。
 (7) これも唯物論。頭(脳)を特別扱いせず、肉体としてとらえる。しかし頭と手を
     並べることで、「手が物をつかむ」ことが1つ上のレベルに止揚したものが
    「頭が観念をつかむ」ことを暗示している。両者を同一としながらも、発展的な
     とらえ方にもなっている。
 (8) 人間の自然に対する労働は、自然を変え、人間自身を変える。この両面を
     おさえるのが、マルクスの圧倒的に優れた点。
 (9) 可能性から現実性へ。人間の肉体面の能力もそうだし、言葉の獲得などの思考や
     精神面もそう。感情や感性面の表現もそう。集団形成や組織的行動もそう。
 (10)牧野紀之の「素質・能力・実践」で説明された「素質」→「能力」→「実行」
     を思わせる。
 (11)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。
 (12)「始め」と「終わり」の同一性が目的論の核心。
 (13)人間論のはずが、直前の資本家と労働者の話に引きずられ、ここから「人間」
     ではなく「労働者」が主語になってしまう。「資本家」は労働していないかの
     ような仮象を与えている。
 (14)当たり前だが、マルクスは「観念」を否定していない。
 (15)観念と現実。可能性と現実化である。
 (16)こうした側面を見ているのが、さすがマルクスである。
     人間は自分勝手な目的実現をめざすことはできるが、本気でそれを
     実現するためには、その目的を実現するために必要なこと(それは
    「掟」であり客観的なものだ)に自分もまた従うしかないのだ。
      一方的に自分の恣意を他者に押し付けるだけでは事は済まない。
     人間は目的を他者や自然に押し付けるのだが、同じ目的にその人間自身も
     また従うしかないのだ。そのために、人間は自分自身をも変えていく
     (成長する)しかない。ここに、人間の概念、自然の概念がちらっと顔を
     のぞかせる。
      ここの掟(Gesetz)が自覚され、蓄積されて、「学問」「科学技術」
     として体系化されていき、自然科学や社会科学となった。
 (17)目的=合目的的意志
 (18)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。