6月 14

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の1回目 

吉木政人君は、この春に立教大学(教育学専攻)を卒業した。8年かかっている。彼は、5年前に私のゼミに通い、卒論で『山びこ学校』に取り組んでいた。その時は挫折し、ゼミからも消えた。

それが昨年の春に復帰した。こうした「復活」劇は、ゼミの歴史上初めてのケースとなった。彼にはこの4年間に、それなりの事があり、それなりの覚悟ができていたように思う。そして卒論にまた取り組むことになった。しかし、順調には進まなかった。

結局、12月の締め切りに何とか間に合ったものの、本人も納得できない内容だった。
今年2月3月の就職活動がきっかけとなって、書き直しをすることになった。その書き直したものと、それを振り返った文(「ありのままを認めるということ」)と、全体への私のコメントを掲載する。

吉木君のように、ゼミを1回やめてから「復活」したような人の経験こそ、読者にとって参考になるのではないだろうか。

なお、今回、卒論の一部ではなくすべてを掲載した。この長大な分量の3分の1ほどは、『山びこ学校』の3つの生徒作品からの引用である。それを省略することはできたのだが、このメルマガで『山びこ学校』を初めて読む方もいることを考えて、あえて全文を掲載した。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。戦後教育を語るなら、まずは『山びこ学校』を読まなければならない。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない、このメルマガの若い読者たちには、一度でもそれを体感してほしいと思う。『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。

■ 全体の目次 ■

・卒業論文「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
 →1回?11回
・ありのままを認めるということ 吉木政人
 →12回
・父親と向き合う 中井浩一
 →13回

■ 卒業論文の目次 ■

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
序章 →1回
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
 第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」 →2回
 第2節 問いについて →3回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 答えを出した結果どうだったのか →4回
第2章 江口江一「母の死とその後」
 第1節 「母の死とその後」 →5回、6回
第2節 2つの問い →7回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 次の課題へ →8回
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
 第1節 「ぼくはこう考える」 →9回
 第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
 第3節 佐藤の素晴らしさ →10回
終章  →11回

=====================================

◇◆ 「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 ◆◇

序章

『山びこ学校』は戦後間もなくの山形県山元中学校で行われた文章表現指導から生まれた詩・作文集だ。『山びこ学校』は1951年3月に出版されている。
私は『山びこ学校』の作文に力強さ、迫力のようなものを感じる。なぜ彼らはそのような文章を書けたのだろうか。『山びこ学校』の実際の生徒作品を詳しく分析することで少しでもその答えに近付ければよいと思う。
以下、『山びこ学校』に関する簡単な背景説明をしておく。
山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、無着成恭という新任教員である。無着は1927年生まれで、同じ山形県南村山郡内の出身だ。ちなみに当時、山形県の南村山郡にあった山元村は、1957年には上山市に編入されている。また、山元中学校は生徒減少のため2009年春から廃校となっている。
無着は戦前からの生活綴方に学び、自身がその実践を戦後の中学校で行った。山形新聞の論説委員で、戦前には教員として旧制小学校で生活綴方による教育を行っていた須藤克三からは特に多くを学んだようだ。
『山びこ学校』に収められている文章を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は変わらない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。その学年の全ての生徒の文章が『山びこ学校』には収められている。新任である無着にとって、彼らは教員として初めて受け持つ生徒だった。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。新任として赴任した当時、山元中学校には1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員が校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという(佐野眞一『遠い「山びこ」』新潮文庫、2005年、19頁を参考)。
ちなみに、『山びこ学校』は1951年3月に初め青銅社から、後に百合出版、角川文庫から出版されている。しかし、いずれも絶版となっていて、1995年から現在にあっては岩波文庫で発行されている。この論文では岩波文庫版を参照した。それから、『山びこ学校』という本は実は、「きかんしゃ」という学級文集をもとに作られていることを述べておく。『山びこ学校』に収められている生徒の文章は、そのほとんどが無着学級で作られていた「きかんしゃ」という文集(全16号)の中から選ばれた一部に過ぎないのだ。「きかんしゃ」は、あくまでも学級文集であって公に出版されたものではないのだが、山形県立図書館に複写版が保存されているので、現在でも読むことが出来る。この論文の中で「きかんしゃ」を参考にした箇所があるので先に述べておいた。
この論文では生徒作品を全部で3つ扱う。
第1章では、川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」。川合末男は病気だった父が亡くなり、その父のことを考えている文章だ。
第2章では、江口江一の「母の死とその後」。江口江一の家は山元村でも最も貧しい。こちらも母が亡くなって、貧しさと母の死という2つの問題をしっかりと見つめようとしている文章だ。
第3章では、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」。佐藤藤三郎は学級の代表的な人物で級長も務めていた。農村の問題についての意見文を書いている。
彼らは同じ中学校の生徒だが、それぞれ置かれている状況は異なる。まず、川合と江口は親が亡くなり、その直後に作文を書いている。
また、川合は農村の次男以下の問題、つまり家の財産を継ぐことができずに別の仕事を選ばなくてはいけないという状況にいる。
江口は親の死によって、中学2年生にして家の責任者となるのだった。江口の家は山元村でも最も貧しい家の1つで、自分でどうやって生計を立てていくかが彼のテーマだった。
 佐藤は、農家の跡取りとして育てられた。しかし、一方では級長を努めるほど優秀で、勉強をしたいという意思を持っている。
 彼ら3人の作文を分析するにあたって、注目したのは問いとその答えを求める運動にある。彼らの問いは何だったのか、何のために作文を書いたのか。どのような答えを、どうやって得て、その結果どうだったのか、作文を書いたことにどういう意味があったのか。そういったことを注意して分析した。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

5月 15

「子どもは親の所有物ではない。社会からの預かりものだ」

今回掲載したのは2008年に某雑誌に依頼された原稿ですが、家庭と学校の関係を人類の立場から原理的に検討しています。

モンスターペアレントや学校の校則や閉鎖性の問題について、いまだに解決の方向が見えない今、改めて、読んでいただきたいと思い、掲載します。

この考え方は、「原理的」であること、「人類」という視点、「発展の立場」から見ている点で、参考にしていただけると思います。

1. 時代の転換点
 学校に対して、理不尽な要求をする保護者が増えているらしい。その際の親の態度にも大きな問題があるようです。この問題については、小野田正利・大阪大教授が『悲鳴をあげる学校』で取り上げ問題提起をしてきました。その後この問題について様々な論者が論じるようになっています。
 しかしその議論はまだまだ混乱していて、問題の本質に十分には迫れていないように思います。ここらで問題を整理し、確認すべき原則や運営上のルールなどをはっきりさせる必要があるでしょう。
そもそも、こうした問題が起こり、その議論が錯綜するのは、今が時代の転換点にあるからです。そのために、学校も家庭も地域も、行政も政治も、この社会全体が目標を見失い、漂流しているのではないでしょうか。

2. 家庭が壊れている
 学校への理不尽なクレームや要求をする保護者が増えている背景には、明らかに家庭の変質、親子関係の変質があります。
 「子どもの親殺し」「親の子ども殺し」が盛んに報道されるようになりました。「子どもの親殺し」で私が一番不思議なのは、そんなに追いつめられているのに、なぜ家出をしないのか、ということです。本当にどうして彼らは家を捨て、親を捨てないのでしょうか。おそらく、子どもにはそうした発想すらないのだと思います。それほどに親子の一体化が進行している。そう私は考えています。
 一方の「親の子ども殺し」もそうです。児童虐待や育児放棄(ネグレクト)でも、親が子どもと一体化しているように思えてなりません。この対策として「赤ちゃんポスト」は有効だと思います。「殺す」前に、「他人(社会)に預ける」選択肢があることを示すことになったからです。子どもとの一体の世界から逃げる方法を、親にはっきりと示せたからです。
 昔から「わが子」という言い方がありました。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようです。そこに他者が入ることのない一体の関係です。これは無償の愛ともなるのですが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなります。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっています。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになりました。経済紙誌の「お受験キッズ誌」です。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供するものです。
 これは児童虐待とは反対のあり方に思われます。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないでしょうか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのです。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていました。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまいます。親離れ、子離れが極めて困難になっているのです。
 保護者から学校への無理難題が急増している背景に、こうした家庭の変質があることは明らかでしょう。

3. 学校の変質
 家庭の変質の一方で、学校を取り巻く状況もすっかり変わってしまいました。それは、時代が大きく変わったということです。高度経済成長の社会は終わり、低成長下で先の読めない社会になったのです。
 高度成長期の社会は単純でした。戦争に負け、皆が一様に貧しい中から始まり、皆が一生懸命に働きました。社会の目標は「豊かになる」ことで、それに向けて、上から下まで、皆が横並びで生活していたのです。こうした時代には、社会全体の価値観は単一で、そこでは教育の目標も明確でした。学校は社会的な価値観の体現者であり、地域のリーダーでした。
 しかし、そうした時代は終わりました。今はもう「豊かさ」は達成し、それゆえに社会の単一の目標はなくなりました。もはや皆が一律に横並びで生きることはできません。価値は多様化し、各自が自分の生き方を模索するしかないのです。
 学校には以前のような権威はありません。昔は学校は地域のリーダーで、保護者たちはみな従ってくれました。今は、学校と保護者は対等です。
 そうした中で、親たちからの学校への要求が問題になってくるわけです。価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う新たな原則、ルールが問われているのです。
 このことを確認するためにも、今の議論の不十分な点を挙げておきましょう。先ず第一に、保護者から学校へのクレームや苦情が増えていること自体を問題にする人がいますが、それは間違いだと思います。むしろ、それは大いに歓迎すべきことです。苦情が「理不尽」であろうがなかろうがです。多数の異論の表明があることは正しいことなのです。以前の主従関係よりも、はるかに高い段階になったのですから。問題は、その対応方法が確立していないことだけだと思います。
 第二に議論が保護者から学校への苦情の話に限定されていることを、指摘したいと思います。学校から家庭への懸念や苦情の処理の仕方と合わせて考えるべきでしょう。学校のチェックだけではなく、家庭のチェックも必要です。なぜなら、今の家庭は多くの問題を抱えているからです。特に、親子の一体性は大きな問題で、外にチェック機能が必要だと思います。それが学校や塾などに求められます。

4. 子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか
 親と学校の関係を検討するために、原理的なことから考えましょう。この問題を突き詰めて考えると、ついには次の問題にぶつかります。子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか。
 先ず、教育を家庭教育と学校教育とに分けて考えましょう。家庭教育とは主に小学校までに家庭によって行われるもので、しつけや生活態度、学ぶ姿勢など、すべての教育の基礎になるものです。この責任主体は親(親権者)です。
 学校教育とは、家庭教育の上に、社会に出ていくための基礎教育(読み・書き・そろばん、基礎知識)を行うもので、その責任主体は学校です。この学校は行政上は、教育委員会や文科省(国家)にもつながります。
 さてここで、この教育主体を、より根源的にとらえて社会、究極的には人類とまで突き詰めて考えておきたいと思います。子どもの教育権は人類にあるということです。一方の学習の主体も、直接的には子どもたちですが、これも究極的には子どもの学習権は人類にあると考えたいと思います。
 教育主体は人類である、とまで突き詰めて考えておかないと問題がおこります。もし家庭教育でその主体を親とするだけなら、一部のダメ親を肯定することになりかねません。学校教育の主体を学校や教員とするだけだと、一部の管理教育や、「自由」の名の下の手抜き教育を是認するだけになります。教育全般の主体を教育委員会や国(文科省)とするだけだと、文科省の言いなりの地方教育行政や、かつての排外的軍国主義教育の是認になりかねません。
 つまり、親も学校も、地域や国家も、人類から人類の使命を実現する一助としての教育を委ねられていると自覚し、繰り返しその使命を反省しつつ活動すべきなのです。
 私たち人間は、この社会を発展させるために生まれてきたのです。人類の使命に貢献できるように学習し、大人になってからは教育をする権利と義務も担っています。
 子どもは親の所有物ではありません。子どもは次の時代の社会の働き手であり、社会(人類)からの預かりものです。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならないのです。

5. 話し合いの原則
 以上を踏まえた上で、価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う原則を考えましょう。ここで大切なのは、一方で多様な価値観と思想の自由を認め合いながらも、その一方で社会の規律、ルールをしっかりと守り合うことです。この両者を混同せず、区別した上で守ることが重要になっています。
 保護者が学校に疑問を持ったらどうしたらいいのでしょうか。
 ?学校教育の主体は学校です。したがって、親は子どもを学校に預けた以上は、学校の裁量権の範囲内のことについては、学校の最終決定に従わなければなりません。
 ?ただし、最終決定までには、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 同時に、家庭教育についても考えておきましょう。学校が家庭教育に疑問を持ったときはどうしたらいいでしょうか。
 ?家庭教育の主体は両親(親権者)ですから、学校は、両親の裁量権の範囲内のことについては、両親の最終決定に従わなければならなりません。
 ?ただし、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 ここで「学校の裁量権」とは、学校教育における、憲法や教育基本法などの法律違反以外、学校が掲げている教育理念や教育方針などへの違反以外のすべてです。「親の裁量権」も、家庭教育における、憲法や法律違反以外のすべてのことになります。憲法や法律違反に関しては、本来は話し合いの領域ではなく、警察に任せるのが正しいと思います。
 さて、こうした原則から見て、今の現状はどうなっているでしょうか。学校教育について考えれば、今は?の面がほとんど理解されていません。しかしこれが守られなければ学校教育は成立しません。ただ混乱するだけです。この点は保護者にもよく理解してもらわなければなりません。そうした一方で「学校と保護者の十分な話し合い」が保障されなければなりません。しかし「十分な話し合い」を行えば、家庭教育が問われることもあるでしょう。問題があったときに、悪いのは学校だけとは限らないからです。家庭の責任が問われることも多いはずです。保護者の方々は、学校に向けた刃はそのまま自分に返ってくることを自覚しておくべきです。
 ところで、学校教育の問題では、「保護者は学校の最終決定に従わなければならない」と言いました。なぜでしょうか。
 学校が最終的な決定権を持つのは、学校や教師が「正しい」からではありません。それは簡単には決められないので、学校教育の権限を持つ側に委ねておくという意味です。価値の多様化が前提とされる社会では、どちらが「正しいか」はもはや議論で決めることは無理だからです。
 ただしその時に考える基準として、学校や保護者の都合ではなく、当の子ども本人にとって一番良いことは何かを考えて欲しいと思います。そしてその際にも、人類の使命にまで立ち返って考えてみてほしいのです。
 子どもとは何なのか。子どもは親のものなのか。子どもは誰のものなのか。子どもを教育するとはどういうことなのか。家庭教育とは何か。学校教育とは何か。教師と子どもはどういう関係であるべきか。親子はどういう関係であるべきか。
 こうした本質的な問題の正解があるわけではありません。しかし、繰り返し意見交換をしていくべきです。閉じた学校を開き、閉じた家庭を開くためです。相互に、自らの使命を繰り返し反省するためです。
 
6. クレームの「窓口」を設け、議論をオープンにする
 最後に、すぐにできる、現実的な対策を提言します。学校には、苦情を受け付ける専用「窓口」を設けたらよいと思います。窓口の担当を置いて、学校が責任を持って対応すべきです。決して、当事者の教員個人にまかせっきりにしてはなりません。校長以下、学校全体で対応する覚悟を持つことです。
 そして、そこで行われている議論は、個人情報に配慮しながら、できる限りオープンにすることです。どんな苦情があり、どう回答し、どう解決したかを公開するのです。「通信」などで保護者たちにフィードバックし、保護者全体での議論を作っていくのです。場合によってはホームページ上に公開するといいと思います。
 閉じた場で議論するのではなく、できる限り、オープンにしなければなりません。変な議論は密室故に起こるのですから。
 私たちは、価値が多様化して、一切の権威が失われた社会に生きています。その中で、相互に考えを深め合い、子どもを見守っていける仕組みを構築することが求められているのです。

 (拙稿をまとめる上で、思想家の堺利彦氏と牧野紀之氏の論考を参考にさせていただきました。記して感謝します。)

4月 13

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
<個人公式サイト>
http://sasamoto.net
<個人公式ブログ>
http://sasamoto.sblo.jp

さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。昨日に続いて、以下の3.4.を掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

=====================================

◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

3.問題は基準の明確化である

本当の「公平、公正」とは、すべてを「同じ」扱いにすることではなく、その「違い」をはっきりさせ、明確な「区別」をすることではないか。「選別」「えこひいき」を積極的にするべきではないのか。

問題になるのは、「区別」「選別」をすること自体ではなく、その基準が示されないことなのだ。その基準を明示し、それがきちんと説明される限り、「区別」「選別」は奨励されるべきことだ。問題は「区別」「選別」ではない。問題は「区別」「選別」の基準それ自体であり、その基準の是非になる。それこそが、議論されるべきなのだ。

実は今でも、人気の高い人や話題になる人には、「読者や視聴者の関心がある」ということで「えこひいき」「選別」が平然と行われている。ただし、その理由、基準は「読者や視聴者の関心がある」からなのだ。つまり、新聞が売れること、テレビの視聴率が取れるか否かが基準なのだ。しかし「公器の責任」などときれいごとを言うだけで、そうした基準を明示せずにごまかしている。

では正面から問おう。選挙報道で報道するか否かの、候補者選別の基準は、「読者や視聴者の関心がある」で良いのか。

例えば、今回の地方統一選の報道であれば、その基準はどうあるべきなのか。
今の時代をどう考え、今の政治、地域の課題をどう理解するか、それを解決するには、どのような人材、どのような政策が必要か。それが基準になるだろう。

それをまず明確に示し、その基準にかなった人を推薦、紹介し、そうでない人を批判し、無視すべき人は無視する。
それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命を果たすことではないか。

マスコミが「公平、公正」を盾にして、候補者を横並びにしたがるのには、保身の他に、より根本の原因がある。それは、マスコミの多くには、こうした選別の基準を用意するだけの能力も覚悟もないということだ。それが「公平、公正」を振り回す一番の理由ではないだろうか。

もちろん、こうなる経済的な理由がある。広告収入に依存している事情や、大新聞の「全国紙」というありかた、地方紙も各県に1紙しか存在せず寡占状態になっていることなどが挙げられるだろう。

4.「政治的な中立」

さいごに、マスコミの「政治的な中立」について触れておこう。私のようなことを主張すれば、すぐにこの問題が持ち出されるからだ。

まず確認すべきことは、そもそも政治的にも経済的にも、文化的にも、およそ「中立」などというものは存在しない、という事実である。すべての人間、組織には、それぞれのおかれた立場があり、その能力も限られており、限定された立場を持っている。
こんな当たり前のことを確認しなければならないことが情けない。

したがって、今回「公平、公正」で主張したことを、この問題でも繰り返すしかない。つまり、「中立でないこと」や「立場」があることが問題なのではない。その「立場」を明示せず、中立を装うことが問題なのだ。責任を求められる人や組織は、自分の立場を明示し、その上で、意見を言い、報道をし、表現活動をすればよいだけだ。

私たちがすべきことは他人に「中立」を求めることではない。求めるべきは、その立場をきちんと表明することであり、その立場を個々の報道においてわかりやすく説明することである。私たちはそれらを比較検討し、自分の「立場」を考え、個々の事実や事件の評価を決めればよいだけだ。

さて、こんな当たり前のことがなぜ通用せず、おかしなことになっているのか。それを考えることは重要だ。東西冷戦という時代背景も、日本的「ムラ社会」も、価値判断の客観性の問題も、これに関わるだろう。

しかし、いいかげん、こうした低いレベルで議論することを止めなければならない。

なお、蛇足ながら付け加えておく。今回取り上げた「公平、公正」の問題は、行政や教育界にも蔓延している。それらの問題も基本的には同じ原則で解決できると、私は思っている。

4月 12

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
<個人公式サイト>
http://sasamoto.net
<個人公式ブログ>
http://sasamoto.sblo.jp

さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。以下の3.4.は明日掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

=====================================

◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

1.報道されなかった記者会見

笹本さんは、すでに2カ月ほど前の2月7日に、山梨県庁の記者クラブで出馬の記者会見を行った。彼は記者会見の冒頭で学習会中心主義の話をし、学習会で1年間かけてつくった「政策集」を発表した。

笹本さんは地元の「有名人」なので、20人近くの記者が駆けつけて大盛況だった。集まったのは山梨日日新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHK、テレビ朝日、テレビ山梨、山梨放送など。

政策の内容は評価され、その日の「知事報告事項」として県庁の広聴広報課でテープ起こしと政策分析をしたようだ。しかし、その記者会見が記事になることはなかった。新聞でもテレビでも報道はされなかった。その理由を、ある新聞社の記者は「他の候補者との公平性を守るために報道はできない」と説明したという。

さて、では考えてみよう。マスコミにとっての公平、公正とは何なのだろうか。
今回のように、すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしないことが公平、公正なのだろうか。

2.マスコミの建前と本音

マスコミがどう弁解しようが、実際の彼らの行動は「すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしない」ものではない。著名人や、話題になっている人は、特別に扱うのが普通なのだ。
ただし、その時は「読者が、視聴者が知りたいことだから」という言い訳を用意しているだけなのだ。

では笹本さんの記者会見だけを報道すれば、何が起こるだろうか。おそらく、他の候補者、諸政党や「有力政治家」からの批判、疑問の声が寄せられ、圧力がかかるだろう。一部の読者からもそうした批判がおこるだろう。マスコミはそれを恐れているだけではないのか。
そうした圧力が予想され、それへの言い訳が用意できないときには、報道しないことで身を守る。そして「公平、公正」を持ち出して、報道しないことを正当化する。

だから彼らの「公平、公正」はあくまでも建前であり、外部からの圧力から自分を守りたいのが本音であり、他方で商売になるとなればいくらでも「不公平」なことをしても平気でいられるのだ。

しかし、マスコミにとって「公平、公正」が建前だとしても、「公平、公正」の理念そのものはあくまでも正しいと思う。問題はその本当の意味が理解されず、都合のいいように使われていることだ。そこで、その使用法のおかしさを示し、その本来の意味を明らかにしたいと思う。

もし、彼らの言う「公平、公正」、つまりみなを「同じ」扱いにすると、どんな結果になるだろうか。
今回の笹本さんのような、やる気のある人、能力の高い人が正当な評価を受けず、やる気のない、能力の低い人に合わされてその中に埋没してしまう。その結果、やる気のある人の足を引っ張ることになる。
記者会見をやれるだけの準備をしてきた人は、本来評価されるべきであり、記者会見をやらない(やれない)人、きちんとした政策を発表できない人と同じ扱いを受けるのは、「不公平」そのものではないのか。

本来は、むしろ、やる気のある人、能力の高い人を応援し、積極的に紹介するべきだ。そうしてこそ、全体に刺激を与え、全体のレベルを押し上げ、ひいては社会を良くすることになるだろう。それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命なのではないか。
現状の「悪平等」な対応は、そうしたマスコミの使命の放棄であり、無責任極まりないと思う。

12月 09

2010年ワインツーリズムの総括準備会議

12月6日に、甲府に行ってきた。

笹本貴之さんたちワインツーリズム実行委員会の2010年度のワインツーリズムの総括会議(準備会)があり、そこにオブザーバーとして参加したのだ。

問題点、矛盾点がきちんと出されて話し合われたのが良かった点だろう。どの運動や組織にも問題点があるが、それが隠されたままで、議論されることが多いと思う。

ワインツーリズムの現在の最大の問題点は、地元やワイナリーたちの主体性がまだまだ弱いことと、笹本さんたち企画運営にたずさわるメンバーがただ働きになっていることだ。3年たっても、それが改善されない。その問題はもはや放置できないところまで来ている。

企画運営の主体(会社組織か、NPOかといったあり方は一応別として)を立ち上げ、それがビジネスとして成立する形を目標にすべきだろう。しかし、それとともに、各地元の実行委員会が主体性を発揮し、企画運営組織と対峙し、対等な形でのジョイントにならなければ、本末転倒だろう。

そうしたところに、今さしかかっている。
それがきちんと確認され、意見交換ができたのがよかった点だろう。

なお、霞ヶ関でも動きはある。経済産業省の地域経済産業政策課が「地域資源経営勉強会」を発足させる予定で、そのコアメンバーとして、笹本さんたちワインツーリズム実行委員会から数人が参加する。他には風見正三(宮城大学事業構想学部事業計画学科 教授)、木下斉(一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス 代表理事)などがいるが、この2人は例の『コミュニティービジネス入門』の編者や著者である。
この成果にも期待したい。