4月 08

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

大林監督の尾道3部作(「転校生」「時をかける少女」)を見たのは、すでに30年以上前。
寺社仏閣と古い街並み、海岸近くまで張り出した山(坂道)と海とが一体となった地勢に引き付けられて、一度行ってみたいと思っていました。

それが今回実現しました。

連日、ゼミ生のA君が案内をしてくれました。尾道は彼の郷里なのです。
A君のおかげで、尾道の現地の方々と、尾道の問題や文化について語り合うことができました。
それがとてもありがたかったです。尾道が私の内側に入ってきた実感があります。

3日間を振り返り、
須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 尾道の3日間 ◆◇

 2015年1月17日から19日までの3日間を、1日ごとに振り返りたいと思います。

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1月17日

(1)昼から尾道市立美術館で学芸員の方に案内してもらい、展示中の小林和作の絵(代表作20点ほど)を見ました。
彼は小林を「ヤクザの親分のような人」「尾道の天皇」と称していました。
小林が尾道で後半生を過ごすことになった理由では
「尾道では人との関係ができたから居座ったので、尾道の風景と彼の絵画には関係はない」と説明していましたが、
彼の風景画は、この尾道の地勢、気候、風土において確立したのだと思います。須田はそう言っています。
 なお、バブル期に地方でもたくさんの美術館が設立されています。その設立はよいとして、
その後の維持費は人件費も含めて大変な負担になっていると推測します。
尾道市立美術館の学芸員は1人しかいないようです。

夕方に、尾道駅から近い「おだ画廊」で和作の絵を10点ほど見せてもらいました。
日本画も数点あり、掛け軸も見せてもらいました。掛け軸は素晴らしかった。
和作にとって日本画も西洋画も、それほど違いはないように感じました。

その店主と話しました。先代が和作との直接の付き合いがあったようです。
地方での美術館と画廊との提携などについても聞いてみました。
一部の美術館では画廊と学芸員が協力して展示を企画するようなことも実現しているようですが、尾道にはないようです。

(2)美術館の周辺のロケ地めぐりもしました。

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18日

(1)昼からお隣の福山市に行き、ふくやま美術館(福山市立)で「須田国太郎と独立美術協会」の展示
(収蔵品の展示ですが、常設展示の一部を企画展風にしたもの)を見ながら、
学芸員の方に話を聞きました。
須田の水墨画風の松図(屏風)、和作らとの共作の掛け軸や共作で絵付けした焼き物などもありました。

尾道美術館とふくやま美術館。美術館によって、企画力に大きな違いがあることを痛感します。
ふくやま美術館では常設展の中にも、一部に年数回の企画展を実施しています。
美術館それぞれの予算や、スタッフ数などは違いますから、ふくやま美術館には余裕があると言えるかもしれません。
しかし、何よりもそれは、志の高さの問題であり、トップの考え方によるのだと思いました。

(2)その後、古い民家の再生と斡旋仲介(尾道全体の再生)をしているNPOが再生を試みているガウデイハウス(と呼ばれる)など、
彼らの拠点と駅の裏の散策からロケ地めぐりをしました。「転校生」で2人が入れ替わってしまう場面の神社とその石段を見ました。

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19日

(1)午前中は小林和作の旧宅を訪れました。ここを須田がしばしば訪れて、2人で語り合ったり共作していたのかと思うと、感慨がありました。
さらに、尾道大学の美術館で小林和作のスケッチ10点ほどを見ました。

(2)尾道のロケ地めぐり(「転校生」の主人公の家)をし、タイルのある小道(「時をかける少女」)を発見して喜んだり、ミーハーそのものですね。

(3)午後に、古い民家の再生をしているNPOの代表・豊田雅子さんと話しました。
  JTBの海外のツアーガイドをしていた普通の女性が、故郷にUターンしてからNPOの代表として大活躍をするまでの物語も面白かったです。

  そして今後の課題の課題から出てきた
「港町は職人を育てない」「職人を育てる枠組みを作りたい」とのコメントが、尾道を理解するうえで、興味深かったです。

3月 31

東京国立博物館で4月28日(火)?6月7日(日) 特別展「鳥獣戯画―京都 高山寺の至宝―」が開催される。
国宝「鳥獣戯画」の実物を見るチャンスだ。

実は、この特別展は、昨年秋に京都で開催されていた。
それの巡回なのである。

私は昨年、京都にこの展覧会を見に行った。
そこで感ずるところがあり、それをきっかけに、考えたことをまとめた。

それはすでに昨年2014年10月28日のブログに掲載した。

本日、再度、掲載しておく。

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高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」 中井浩一

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
明恵が青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる』で次のように説明する。「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、
「あるべきようわ(何か)」という問いかけである。

「ある」=存在 を問うことが、生き方(当為)を決める点が、真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。

「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

2014年10月28日

3月 07

絵の好きな人のために

ロベール・クートラス展を渋谷でやっています。

まったく知らない人でしたが、
NHKの「日曜美術館」での数分の紹介で知りました。

見てすぐに、これはいかなくては、と思いました。
(こうしたことはめったにない。5年に一度ぐらい)

すぐに見に行って、今も、その余韻の中に沈んでいます。
これは不思議な力を持っています。

詳しくは以下です。

渋谷区立松濤美術館 〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14 TEL : 03-3465-9421 FAX : 03-3460-6366

「1930-1985 没後30年 ロベール・クートラス展 夜を包む色彩 カルト、グワッシュ、テラコッタ」
会期: 前期:2月8日(日)?22日(日)
     後期:2月28日(土)?3月15日(日)
会期中休館日:3月2日(月)、9日(月)
※2月23日(月)?27日(金)は展示替えの為ご覧いただけません。
 本展は会期中、展示替えは予定しておりません。
開館時間:午前9時?午後5時(最終入館は閉館30分前まで)

画像 ©Robert Coutelas

  パリ・モンパルナスで生まれたロベール・クートラス(1930-1985)は苦学し、リヨンの美術学校で学びました。画廊と契約を結び幾つかの個展を開きましたが、それはどれも彼の理想とはかけはなれているものでした。画廊と決別したあとは、ひたすら一人だけの孤独な作業にのめりこむしかありませんでした。
 クートラスは亡くなるまでの長い時間をタロットカードの様に切りぬいたボール紙に描くカルト(carte)の制作に没頭していきました。どこで発表するでもない6000枚にも及ぶこのアトリエでの密室での作業は、クートラスの孤独な夢想のなかから生まれた、彼の人生そのものでしょう。
 本展ではそんなクートラスの代表作ともいえるカルトを中心に、グワッシュ、テラコッタなど約150点を展示致します。

 協力:岸真理子・モリア、Gallery SU

上記は松濤美術館のホームページ(以下)より引用
http://shoto-museum.jp/05_exhibition/index.html

10月 28

高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる」で次のように説明する。
「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。
時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、「あるべきようわ(何か)」である。
「ある」=存在を問うことが生き方(当為)を決める点が真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。
「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、
存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

5月 15

魂を鎮静する絵 バルテュス展の薦め

バルテュス展が開催されている。

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バルテュス展 Balthus: A Retrospective
東京都美術館
2014年4月19日(土)から6月22日(日)

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あまり期待しないで行ってみた。
ところが、すばらしかった。圧倒された。

彼の絵は少女が描かれることが多く、それを「ロリータ・コンプレックス」などと精神分析的な説明をする人たちがいる。
私はこうした手合いが大嫌いで、バルテュスには興味が持てないでいた。
しかし、そうしたチャラチャラした説明は、この絵とは無縁だと感じた。

ここにあるのは世界の本質に迫ろうとする意志と力だ。
それは何よりも、絵の構図とマチエール(画面の肌合い)によって実現されている。
当然セザンヌの影響があるのだろうが、私にはレンブラント、そして牛島憲之が思われた。

静謐、しかし圧倒的な力。

私の魂が鎮められていくのがわかった。深く深く内省へといざなわれる。そこに私の魂があり、私の本質があることがわかる。いつしか、それと向き合っているのがわかる。