12月 02

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その2) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 アダム・スミスとその時代
1.スミスの課題
2.スミスの人生
3.スミスの能力
(1)全体を見る
(2)ダイナミズム 運動を運動として
(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法

なお本稿での『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。
1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけた。

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第3節 アダム・スミスとその時代

1.スミスの課題

彼は近代が近代として成立しようとしている時期の思想家で、
近代とは何かを示すことが役割だった。
近代社会とは何か、近代国家とは何か。資本主義社会とは何か。
その全体像を論じた初めての試みが『国富論』である。

近代という固定的で安定した時代があったのではない。
逆に、近代こそ、つねに運動し、運動し続けることでしか存在できない時代であり、
それが始まっていたのである。

スミスの時代は大きな転機の時代であり、危機の時代だった。
国内では産業革命が始まり旧来の手工業者が没落した。
新たに勃興した資本家階級を中心に選挙法改正運動が起こっていた。
イギリスは海外ではスペインやオランダとの戦いを制し、
植民地支配を全世界に拡大し世界を支配していたが、それはイギリスの経済に大きな負担となり
国家財政は破たんに直面していた。
しかもアメリカの独立戦争がはじまり、その対応を間違えればイギリスも過去の栄光に生きる国になってしまう。

その国家的な危機を前にして、従来の重商主義的な政策は決定的に破綻していると考えたのがスミスだった。

「富とは何か」が改めて問われたが、重商主義は、富を金銀や貨幣とし、
貿易差額によってそれらを蓄積することを目的とした。
「国際競争力」のために、国内の一部の独占商人と他の規制、外国産業の排除と保護貿易。
巨大な海軍力で植民地を拡大し、原料の確保と自国産業の独占市場を確保しようとする(大きな政府)。
こうしてできあがった国家による独占的な統制経済の体系が重商主義である。

これに対して、スミスにとっての富とは生活必需品(消費財)であり、
富をもたらすのは労働である(労働価値説)。
この考えは、『国富論』の冒頭で高らかに宣言されている。

「国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品と便益品のすべてを
本来的に供給する源であって、この必需品と便益品は、つねに、労働の直接の生産物
であるか、またはその生産物によって他の国民から購入したものである」。【1?1】

そうであれば、富を増やすには労働生産性を高めることが核心であり、
そのためには交換と分業を増大する必要があり、そのためには公正な市場原理が貫徹される必要がある。
しかし重商主義の統制はそれを阻害し、経済力の発展を困難にする。
海外市場ではなく、国内市場こそが優先されるべきだ。
したがってスミスにとって必要なのは「夜警国家」(小さな政府)である。

このスミスの考えを「自由主義」「自由放任主義」と名付けたのは後世の人たちのようだ。

2.スミスの人生

スミスは1723年にスコットランド東海岸の小さな港町カコーディに税関吏の次男として生まれた。
そこでの産業の中心は北海貿易で、付近にはいくつか工場もあった。
その後、植民地貿易で栄えていたグラスゴーのグラスゴー大学に入学。
宗教から距離を置いた自由な学風の大学だった。

大学卒業後、イングランドのオクスフォード大学で学んだが、
当時のオクスフォード大学は政治的反動と学問的沈滞の渦中にあったそうだ。
スミスはグラスゴー大学で教えることになる。そこでヒュームとの親交が始まる。
スミスは道徳哲学を担当し『道徳情操論』を刊行しブレイク。その後、経済学の研究に専念。
スミスはしばらくフランスに滞在し、重農主義に学ぶ。ケネーの経済表、経済の循環、再生産の構想など。
そして帰国。10年の研鑽を経て『国富論』を完成。1776年のことだ。

当時の世界的思想家であるスミスとヒュームが、イングランドではなくスコットランド出身である
ことには意味があるだろう。スコットランドとイングランドの両国は1707年に1つの国家に統合されたが、
両国の関係には対立・矛盾があった。
スコットランド内部にも、保守層と植民地貿易で繁栄する新興層の対立があった。
スミスはそうした中で、観察眼を養っていたのだろう。
こうした背景に今も大きな変化がないことは、2014年9月のスコットランドの独立騒動からも明らかになった。

3.スミスの能力

『国富論』を読むと、圧倒的な面白さを感ずるが、それを能力として捉えると、以下のことが挙げられるだろう。
(1)全体を見る
(2)ダイナミズム 運動を運動として
(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法
(4)発展的にとらえる
(5)時局問題への対応
(6)平易なわかりやすさ

(1)全体を見る

スミスに感心するのは、その全体を見る力である。彼は全体を全体として示すことができる。
だからこそ、スミスは「公平」「公正」な視点を持つことができた。
他の人にそれができないのは、さまざまな価値観や偏見にしばられて全体が見えなくなっているからだ。

彼が経済の根本に据えた「労働」を考えるとわかりやすい。
それをスミスは直視するが、それは以前はできない事だった。奴隷制社会に生きたアリストテレスには、
労働一般は見えなかった。彼に見えたのは「精神労働」だけで、奴隷と肉体労働は視野の外にあった。

スミスにはそうしたことがない。それどころか、社会の下層の人々、たとえば死刑執行人や動物解体業者
【1?167】をも視野に入れている。
だからこそ工場内の賃金労働者の労働を国家の富の源泉ととらえることができた。

スミスは、冨が社会の最下層にまで行きわたることの是非を正面から問う【1?133】。
当時のエリートたちの多くは、心に思っても口にはしない。そうしたタブーがスミスにはない。
それほどに、彼は全体的で公平な視点を持っている。

(2)思考のダイナミズム 運動を運動として

 重商主義は、結局は貿易差額を富の源泉とするのだから、足し算引き算の世界で、静的な世界だ。
これをとらえるには悟性段階で十分だ。
しかし、資本を運動させ拡大再生産をし続けないといけない資本主義をとらえるには、
運動を運動として、「力」の現れとして動的にとらえることが必要になる。

当時の勃興する資本家たちを代表するスミスには、そうしたダイナミックな思考力がある。
彼は、矛盾した2面をおさえながら、考察できる。
相反する2要素を組み合わせて、価格決定の仕組みを説明できる【1?145】。
関係を「力」や「支配力」とその現れを通してとらえることができる。【1?54】。

全体の中に様々な要素があれば、全体を「規制」するものは何かを問わねばならない【1?70】。
これは、社会のすべてを構造的に、上下関係でとらえることになっていく。
それは根源にさかのぼることでもあり、マルクスの言う「下降法」を徹底することになる。

スミスは経済活動の根源を明らかにする。
交換と分業が生産力を高める以上、その根本を動かすのは人間の欲望である。
スミスは欲望を全肯定する。すべてをそこから導出しようとするのだ。

(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法

スミスは物事の表面的な現象に騙されることが少ない。事実を事実として示すことができる。
普通は、「常識」という名の「偏見」や、「道徳」という名の「習俗」や、自分の欲望から
事実は見えにくくなる。しかし、彼はキレイごとや建前ではなく、事実を見ることができる。
だから楽々と核心を突き、平易にそれを表現する。

それができたのは、経済活動がすべての基礎であり、そこから社会や政治や文化現象の真実を
説明できることを、スミスが知っていたからだ。それは唯物史観に通じている。
スミスは『道徳情操論』をまとめているが、彼の主張や論旨には、およそ「道徳的」なところが
ないことに驚く。スミスにとって「道徳」とは社会の現実の関係の反映でしかなく、
それは社会をリアルに見ることで認識できるとかんがえていたのだろう。

たとえば、奴隷制度の是非も、スミスにとっては経済問題に過ぎない。
スミスは、使用人が奴隷と自由人で、どちらがコストパフオーマンスが良いかという問いを正面から
立てる【1?136,7】。もちろん自由人の方が、自分を大切にするので結局は安上がりなのだ。

また、スミスは人間の価値観や意識や無意識までを経済から説明する。例えば、貧困と出産率【1?134】、
就職先としての海軍と陸軍との違い【1?181,182】など。

スミスは自らの社会が、その経済関係から、3大階級(賃金労働者、資本家、大地主)にわかれている
ことを見ていたが、その階級の大枠や、その細部の違いが、人々の思考や価値観や生活意識の違いとなって
現れることを的確に見抜いている。いたるところにそうした指摘があるが、例えば、文明社会の道徳を
スミスは2つに分ける。庶民の厳格主義と上流階級の自由主義だ【3?166,7】。鋭い指摘だと思う。

1つの政策は特定の階級と結びつく。
重商主義もスミスの自由主義も、それぞれが依拠する階級の利益を代弁している。そのことにスミスは自覚的だ。
たとえば「穀物貿易法」が誰の利益になっているのかを、スミスは推理小説のような鮮やかさで暴露する【2?130】。

近代の原理は自由と平等であるが、スミスにとってはこれも経済の反映なのだ。
近代社会では労働はすべての人間の本質、人間の根本規定として現れた。
スミスはそこから人間の平等の原理や、私的所有、職業選択の自由、移住の自由などをとらえていた。
逆ではない。
スミスははっきり言わないが、近代の人間観とは資本家階級を代表するものであり、彼らの利益と結びついている。
それが一般化されたということは、資本家階級が支配階級になったということだ。
こうした点を見抜き、決して道徳や倫理や「人間の本質」などの美名のもとにごまかすことをしないのが、
スミスでありマルクスだ。

人間の意識や価値観を経済が規定するという考えは確かに唯物論である。
ただし、機械的に経済が意識を決めるととらえているのではない。
意識という独立した機能を媒介にして反映するのだ。
それは「存在が、意識を媒介にして、意識を規定する」という唯物弁証法の立場である。

「存在が意識を規定する」ことについてのスミスの理解は深い。
例えば、東インド会社の酷さを告発しつつも、それを次のように擁護もする。

「私は東インド会社の使用人たち一般の人格になんらか忌わしい避難をあびせるつもりは毛頭ないし、
まして特定の人物について、その人柄を問題にしようとしているのではない。私がむしろ非難したいのは、
その植民地統治の〈制度〉なのであり、使用人たちがおかれているその〈地位〉であって、
そこで行動した人々の人柄ではない。かれらは、〈自分たちの地位がおのずからに促すままに行動しただけのこと〉
であり、声を大にしてかれらを非難した人々といえども、いったんその地位におかれれば、
いまの使用人よりも好ましく行動はしなかったであろう」【2?432】。

12月 01

昨年の秋から今年の春まで、アダム・スミス著『国富論』とその関連の書物を読んだ。
そのための読書会は5回行った。準備として高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)を読み、
『国富論』は3回かけて通読した。そして最後にまとめとして、マルクス著『剰余価値学説史』から
アダム・スミス論(第3章と第4章)を読んだ。学ぶことが多かった。それをまとめる。
 なお、『国富論』のテキストには中公文庫版を使用した。訳注に共同研究の成果が出ており、
岩波文庫版と比べると、用語や訳語、スミスの叙述への批判や疑問が率直に表明されている点を評価したからだ。
『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。全部で3巻からなるが、1巻、2巻、3巻をそれぞれ
【1】、【2】、【3】とし、1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
 マルクスの『剰余価値学説史』については国民文庫版を使用した。スミスの『国富論』と区別できるように、
1巻、2巻をそれぞれ《1》、《2》とし、1巻の15ページなら《1?15》と表記した。
 引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけ、中井が補った箇所は〔 〕で示した。

■ 全体の目次 ■

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ  中井浩一 (2014年11月7日)

第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる
→ ここまで本日、12月1日に掲載

第3節 アダム・スミスとその時代
1.スミスの課題
2.スミスの人生
3.スミスの能力
(1)全体を見る
(2)ダイナミズム 運動を運動として
(3)「存在が意識を規定する」 唯物弁証法
→ ここまで12月2日に掲載
(4)発展的にとらえる
(5)時局問題への対応
(6)平易なわかりやすさ
→ ここまで12月3日に掲載

第4節 『国富論』の篇別構成
第5節 スミスの経済理論
(1)分業と交換
(2)「人間分子の関係、網目の法則」
(3)欲望の全肯定
→ ここまで12月4日に掲載

第6節 国家の発生から近代国家が生まれるまで
(1)狩猟採取→牧畜→農業
(2)国家の発生
(3)産業構造の発展と王権の拡大
(4)近代国家の成立
→ ここまで12月5日に掲載

第7節 歴史と先人から学ぶこと
1.「労働商品」という矛盾
2.不生産的労働と生産的労働
3.矛盾から逃げない人
4.歴史から学ぶ 過去の遺産を継承発展させる
5.工業化の時代という限界
6.「学者バカ」マルクス
→ ここまで12月6日に掲載

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■ 本日分の目次 ■

アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その1)  中井 浩一

第1節 圧倒的な面白さ
第2節 近代の総体をとらえる

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アダム・スミス著『国富論』から学ぶ 
  中井 浩一  

第1節 圧倒的な面白さ

 そもそも、『国富論』を読む目的は何だったか。
それはマルクスにとっての前提が何だったかを確認することだった。
マルクスの『経済学批判』や『資本論』を読みながら、マルクスが批判しながらも依拠している
アダム・スミス著『国富論』を読まないと先に行けない思いに駆られた。

 それは以前からそうだったのだが、長大な『国富論』に怖気づいていた。
一方で、マルクスを読んでわかった気になっていて、読む必要がないとも思ったし、
また読んでもつまらなそうな感じがしていたのも事実だ。

 しかし、マルクスを深く理解するには、スミスとマルクスのどこがどう違うのか、
スミスとの関係はどうなっており、マルクスの独自性はどこにあるのか、それらを知ることが必要に思えた。

 そこで恐る恐る読んでみた。つまらなければ、また読む意味がないと思えば、
『国富論』の読書会は1回で終わりにするつもりだった。

 ところが面白い。断然面白い。圧倒的に面白い。経済学書がこんなに面白いとは思わなかった。
これまで読んだ経済学書中で、文句なく一番面白かった。

 それは欲望と野望に燃えるビビッドな人間たちがうごめいているからだ。彼らは出世や金儲けに奔走し、汲々としている。
それに対して、スミスは道徳やお説教を垂れることはしない。辛辣だがリアルな認識を示して見せるだけだ。

 欲ボケの人間たちは、笑い、怒り、悲しみ、唸りながら、最後はスミスの示す真実を「かなわないなあ!」と受け入れるしかない。
私たちはここでリアルな物の見方や考え方を学んでいるのだ。
それは難しく言えば、マルクスの唯物弁証法、唯物史観とよく似たものだ。

 しかも、それはまるでエッセイを読むような読みやすさなのだ。
専門家相手の論文調ではなく、しちめんどくさい数値や統計などもほとんど出てこない(付論とかにあるだけ)。
あきらかに読者として想定されているのは、エリートだけではなく、中産階級の大衆たち(後に資本家に成長する人たち)である。

 欲ボケの人間の真実を、これほどのわかりやすさで、まるでエッセイのように書き流してみせるスミスには驚嘆する。
これに比べると、マルクスは大衆にはとても読めたものではない。
だからエンゲルスによる通俗化の作業(たとえば『空想から科学』のパンフレット作成)が必須になった。

 さて、当初の問いだった、マルクスとの関係だが、
マルクスにあった重要な観点のほとんどすべてが、すでにスミスにあることを確認できた。
マルクスのオリジナルは唯一、「剰余価値」の発見だけではないか。
それは大きな一歩ではあるが、一歩でしかない。スミスの巨大さは、マルクスをほとんど飲み込むほどのものだった。
その確かな巨大さの上に、マルクスの世界は構築されている。

 スミスは大きな人だな?!というのが読後感だ。そこから説明してみたいと思う。

第2節 近代の総体をとらえる

 スミスは経済学の創始者である。経済学はそれまでの政治学の一分野から分離・独立したのだ。
そうした1つの学問の創始者、時代を画する思想の創始者、そうした人には大きく豊かなものがあるに決まっている。
アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり、関口存男しかりだ。
そうした大きさ、豊かさを実感しておくことは必要だ。それで初めて「小ささ」「貧弱さ」を理解できるからだ。

 しかし、スミスの大きさは単なる創始者としてのものだけではない。
その「大きさ」は何よりも、スミスが向き合っている近代社会そのものの大きさから生まれている。
スミスの凄みとは、近代社会をその根底でとらえている点であり、彼の大きさとは、その近代の大きさそのものだ。

 近代は、西欧世界が海外に進出し、その植民地を世界中に拡大して世界が一つになるまでになった時に始まる。
それが可能だった原因は、その経済力にあり、それは全世界を支配できるほどに巨大化していた。
人間の欲望をかぎりなく拡大していけた時代であり、
経済力が政治から文化までのすべての分野を動かす原動力になった初めての時代である。
しかし、一方では対立や闘争が全世界規模に拡大した時代でもある。
国内と海外が常に1つになって運動し、たえざる動揺と混乱の危機の時代でもあった。

 だからこそ、経済学の政治学からの独立が求められ、
経済中心の物の見方、しかも対立・矛盾を直視したダイナミックな見方(唯物弁証法)が生まれたのだ。
世界が一つになり、他文明との衝突を経験すれば、全体の意識と全体から見た自己相対化が始まる。
世界を支配するまでに巨大化した自己自身の意味を、歴史的に、発展的に考える発想(唯物史観)が生まれる。
その全体的な見方の上に、スミスは近代をとらえようとした。
それは近代という時代が、自らを全体的な世界として示し始め、人間の欲望が人間を突き動かし、
世界を経済が根底から動かすものになったということだ。

10月 08

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その5) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
4.大衆社会の到来
5.時代の代弁者たち
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第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

4.大衆社会の到来

 しかし、桑原や梅棹らを含めた今西たちのグループが、
大学や学会全体の中で主流になったわけではない。
ただ、高度経済成長下の大衆から圧倒的に支持された。
アカデミズムからは煙たがれたが、財界人や政治家たちからも強く支持された。
こうした現象をどう考えたらよいのだろうか。

それは大衆文化の勃興、大衆消費社会の到来を意味する。
高度経済成長下で小金持ちとなった「中流」社会の大衆は、
文化的にも高いレベルでの「面白い」読み物を求めるようになった。

すべてが商品として現れる時代、衣食住レベルだけではなく、
文化的生活のレベルまで、上級の知識や学問までが商品化される時代に
入ったのだ。

そこでは小難しい理屈を振り回し、「専門用語」でしか
語れない文化人は不要だ。市井の言葉で、総合的な視点でものを言える
研究者が求められるようになった。
他人の言葉ではなく、オリジナルな自前の言葉で語れる研究者が。

桑原や梅棹らは、その流れを確実に読んでいた。そしてその流れに乗って、
それを拡充しようとしたのが彼らだ。「文化」が商品になり、
それが売れる時代が来る。それが彼らに分かったのはなぜか。
それをわかる感覚が、彼ら京都の文化人にはあるからだろう。
彼らの先祖は町衆であり、武士階級出身の文化人とは違い、
時代を見抜く目と商才があるのだ。「商才」をバカにすることなく、
そこに文化的能力を正当に評価できるのだ。
それが彼らの学問を他と違うものにしている。

5.時代の代弁者たち

 なぜ彼らに対して、大衆や財界や政界の一部からの熱い支持があったのか。
それは彼らが時代の代弁者、伴走者だったからだ。彼らの学問には、
敗戦後の復興をささえた大衆への励まし、勇気づけがあったのだ。
自信を失った彼らに日本人の誇りを回復させ、もう一度復興に向けて
立ち上がる勇気や覚悟を促すような力があった。

 敗戦は明治維新後に匹敵する日本の危機だった。敗戦ですべての権威が崩壊し、
空虚さが覆い尽くした。アメリカ占領軍の近代化方針は、日本に外から
押しつけられたもので、国民の内発的で自発的なものではない。
明治の夏目漱石が直面した危機的精神状況がそこにあった。

その時、いくつかの光を放ったグループがあったが、その1つが今西たち
だったのだろう。彼らは、近代文明と伝統の両面をかかえもっていた。
彼らには、日本人の誇り、日本人の原点 京都文化の誇りがあった。
失われた濃密な師弟関係 友情関係と師弟関係があった。

そして彼らはまさに日本の高度経済成長を代弁したのではないか。
彼らの中で、高度経済成長そのものに言及した人はいない。
直接にそれに関わった人もいない。しかし、事実上、また結果的に、
日本の戦後の方針や高度経済成長を擁護し、支援してきた。

今西の「棲み分け理論」は、日本が敗戦後に軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進したことを擁護するだろう。
結果的にこの「棲み分け」が大成功だった。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」はヨーロッパと日本の文明としての
同一性を強調し、日本の戦後の復興を当然のこととした。そして
自らその企画に参加した万博は、戦後、高度経済成長を成し遂げ
アメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つ
イベントとして開催された。

彼らは時代が求めるものを提供し、その見返りを得た。そう言えるだろう。
しかし彼らにできなかったことも、今日では明らかである。
彼らは時代の代弁者、伴走者であり、さらには時代をリードしたが、
時代を根底から批判し、それを越える観点を出すことはできなかった。
それは彼らの学問が、絶対的レベルでは低いものだったからではないか。

今西の理論的な不十分さは、彼らのグループ全体において言えることである。
共同討議や共同研究には明確な限界がある。そのレベルは討議のメンバー中の
最高者のレベルに規定され、それを超えることはできないということだ。

今西の「棲み分け理論」のように、日本は軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進した。しかしその成果が出た今、
そのつけが回ってきている。
中国や韓国との歴史認識問題の解決が見いだせない。

梅棹が関わった日本万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」だった。
しかし「進歩」は必ず対立・矛盾を激化する。それを解決するのは
「調和」ではない。梅棹は『世界の歴史』河出書房版の最終巻『人類の未来』も、
ついに完成させることができずに終わる。
これは根本的に、梅棹が「発展とは何か」に回答を出せなかったということだ。

こうした彼らの未解決に終わったすべては、今を生きる私たちの課題である。
私たちはそれを引き受けて、その先に行かなければならない。

                          2014年7月2日

10月 07

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その4) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
1.逆転
2.桑原武夫の功績
3.文明論の大家・梅棹忠夫
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第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

1.逆転

 第2節では、今西理論の根源性とその限界の両面を見た。
私は今西の限界も指摘するが、それは絶対的基準から言うのであって、
今西が当時の世界基準において屹立した生物学者であったことは間違いがなく、
今回、本書を読むことで、その巨大さ、重厚さから学ぶものが多かった。

それにしても驚くのは、当時の日本で、ここまでの巨人がいたことだ。
そうした突出した研究者は、当時の学界にあっては孤立し異端的な
位置にいた。傍系とされ、無視されていたのだろう。

しかし敗戦後、逆転が起こる。すべてが灰燼に帰した中からの
日本社会の復興と高度経済成長の中で、傍流だった今西や今西グループは
脚光を浴びる。今西および彼の門下生たちは、戦後の日本の学術調査や
研究はもちろんのこと、さらに広くマスコミやジャーナリズムの分野でも
大活躍をした。今西は岐阜大の学長になり、1979年には文化勲章を受賞している。

こうした逆転を端的に示すのが、『生物の世界』だ。
その最初の刊行から30年後に講談社文庫として刊行されたのが
1972年。そして今もそのまま文庫で入手できる。
私が読書会のために購入した文庫本の奥付には
2010年12月1日印刷で第26刷とある。
こうした学術的な内容の本で、これほどのロングセラーは
他に存在しないのではないか。
いったい何があったのだろうか。

2.桑原武夫の功績

 もちろん、今西の学問の巨大さ、根源性、その真っ当さがあった。
それは大前提である。しかし、それゆえに異端で傍系とされていたのでは
なかったか。それが中央に躍り出たのはなぜだったのか。

それには、戦後の時代の大きな転換と、その流れを的確にとらえて
それをリードした人間が、今西グループにいたということが大きかった
のではないか。

その役割を果たしたのは、桑原武夫と梅棹忠夫である。

桑原武夫(1904年?1988年)は戦後、京都を中心とする学者たちの
中心的存在として、戦後のさまざまな社会問題や文化的問題への
発言で、主導的な役割を担った。

桑原は今西の親友であり、ともに京都の山岳会を作り上げた盟友
でもある。その登山の方面では、戦後の1958年に京都大学学士山岳会の
隊長として、パキスタンのチョゴリザへの登頂を成功に導いている。

 学者としては、共同研究という画期的なシステムの開発し、
実現したことが大きい。京大人文科学研究所(人文研)の所長として、
さまざまの分野の研究者を組織することにより、総合的な広がりを
持った研究を実行し、多くの実績を残した。その中に、
『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)
などがある。

 これは従来のアカデミズムの方法を打破する画期的なもので、
文系も理系もすべてを総合して学際的な学問をめざすものとなっている。
この共同研究の方法は明らかに、今西グループの登山や探検の活動方式
から必然的に出てくるものだろう。

桑原のすごさは、この共同研究者に多様な分野から、その所属に
関わりなく逸材を招集したことだ。梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、
鶴見俊輔、多田道太郎らがそうだが、こうして、人文研では
多様な分野の多重的なネットワークの構築に成功した。
そしてそのネットワークから、新たな試みが多数生まれていった。
たとえば、鶴見が作り上げた『思想の科学』という雑誌の同人には
梅棹忠夫らも参加している。

桑原の凄さは、こうした人文研のメンバーに今西までを取り込んで
いたことだ。無給講師だった今西は、1950年に人文研に
有給の講師として移動。65年の定年まで在籍。今西は研究所に
社会人類学の部門を創設し、梅棹忠夫、岩田慶治、中尾佐助、
上山春平、佐々木高明、谷泰、米山俊直らと共同研究を行なった。
伊谷純一郎、吉良竜夫らも時々参加したらしい。

桑原は学問の世界だけではなく、ジャーナリズムの方面でも
近代化をめぐる根本的問題提起を次々に行い、大論争を巻き起こして
いく。「第二芸術論」が典型だが、日本の前近代的なあり方を
独自の視点から批判するものが多く、そこでは、思想だけではなく
感性的な領域をも視野に入れていた。桑原は近代主義者だが、
同時に伝統主義者でもあり、共同研究や共同討議方式を可能に
したのは、京都の知的サロンの伝統だったはずだ。

また彼は出版ブームの火付け役でもある。岩波書店、中央公論社等の
出版社との連携も強く、『文学入門』、『日本の名著』など、
新書のベストセラーを生み出している。

3.文明論の大家・梅棹忠夫

 この桑原が開拓した方面をさらに発展させたのが梅棹忠夫
(1920年?2010年)だ。彼は、探検のチームメンバーとして
今西に徹底的にしごかれて育った研究者だ。今西と同じく
生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、
比較文明論に研究の中心を移す。日本における文化人類学の
パイオニアであり、情報社会論や未来学などの梅棹文明学とも
称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えた。

今西のような巨人には多様な側面があり、それを多数の弟子筋が、
それぞれに分業的に引き継いでいくのだが、今西の根源性や射程の
広がりを受け継いだのは梅棹である。今西の研究が人類の誕生から
現代までを射程に入れているのに対して、梅棹はさらに現代から
未来までを視野に論理を展開しようとした。

梅棹は同時に、桑原の弟子でもあり、論争的な著作を数多く発表し、
それが時代に大きな影響を与えた。鶴見俊輔らと『思想の科学』の
同人としても活躍し、生活の中の思想を展開した。
1957年「女と文明」を書いて「妻無用論」を唱えた。
これが「主婦論争」の始まりとなった。

また共同討議方式の応用では、1961年から10年ほど、
新聞紙面上で日本社会の文化や歴史上で多数の問題提起を重ねた。
それらは『日本人の知恵』『新・国学談』『日本史のしくみ』など
として出版されてよく読まれた。

今西との調査隊で行ったモンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、
生物地理学的な歴史観を示したのが『文明の生態史観』
(1957年に雑誌に発表。1967年に本としての刊行)。
西欧と日本が同じ生態系に属し、そこに日本が近代文明の
担い手になる使命があることを論じたもので、大きな反響を呼び
論争を巻き起こした。

1963年には『情報産業論』を発表。未来の「情報化社会」の在り方
からその課題まで、文明論的な観点から大きな見取り図を示した。
そもそも「情報産業」という言葉の名付け親は梅棹である。

また、フィールドワークや京大人文研での共同研究の過程で
開発された具体的方法論をまとめた『知的生産の技術』
(岩波新書 1969年)は爆発的に売れ、長くベストセラーとなった。

梅棹のすごさは、文明論的にみた時代の発展と現代の意味を、
自らの社会的活動で実際に生きてみせた点だろう。

こうした桑原や梅棹らの活躍の背後には、1960年代から
70年代にかけての全世界の大転換があった。
日本に「反乱」「反抗」の嵐が吹き荒れた時代だ。
学問が根源的に問い直されることになり、
従来の狭いアカデミズムを越えた学問が求められた。

生き方と1つになった学問、縦割りの「タコつぼ」ではない
総合的な学問、西欧の物まねではないオリジナルな学問、
わかりやすい言葉で語られる学問、そうした普遍的な魅力を持つ学問。

それが求められた時、今西らが脚光を浴びたのは当然だったろう。
今西たちは従来のダメな学問への代案として、大衆や学生らに
熱く支持された。私もその熱狂的な支持者の群れの中にいた。

そうした流れの中で、今西への評価の高まりと
『生物の世界』の復刻出版もあったのだ。

当時は文庫や新書だけではなく、シリーズ物のブームがあった。
『世界の歴史』『日本の歴史』『世界の文学』『日本の文学』
『世界の思想』『日本の思想』といったタイトルのものだ。
そして、そうした1つ、『世界の歴史』河出書房版25巻が、
桑原たち京大の人文研メンバーを中心として企画された。

その第1巻は今西担当の『人類の誕生』、
24巻『今日の世界』が桑原担当(「戦後の世界」というタイトルに変更)、
ラストの25巻が梅棹担当でなんと『人類の未来』。

シリーズは1968年に今西担当の『人類の誕生』からスタートしたが、
これがベストセラーとなり、今西は一躍時の人となる。

72年には30年ぶりに『生物の世界』の文庫版での復刻出版、
74年からは『今西錦司全集』の刊行も開始される。

こうした転換期の時代の流れに乗った彼らの頂点は、
1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の開催と、
その後の国立民族学博物館を設立だった。
万博開催に当たっては、当時の若手の研究者、芸術家、
建築家たちが多数その企画段階から参加した。
そのグループの中心の一人が梅棹忠夫である。

梅棹は世界の民族の展示を担当し、それらの収集品を元にして、
1974年万博の跡地に国立民族学博物館を設立することに成功する。
初代館長は梅棹。今西が先鞭をつけ、梅棹が進めてきた民族学と
文化人類学と文明論や未来論の研究と展示の殿堂がここに完成する。
これが彼らの頂点だったのではないだろうか。

10月 06

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その3)   中井 浩一

■ 目次 ■

第2節 『生物の世界』から学ぶ
4.「支配階級」の交代
5.人類の誕生
6.相対主義への転落
7.仲間や師弟関係の問題

なお本稿での『生物の世界』からの引用は「 」で示し、
講談社文庫判のページ数を示した。
そこで強調したい個所には〈 〉をつけ、
中井が補った箇所は、〔 〕で示した。

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第2節 『生物の世界』から学ぶ
 
4.「支配階級」の交代

 さて、地球規模にまで生物の社会が拡大し、その世界が
一応完結した段階を見たならば、そこには支配と被支配の
複雑な構造ができあがっている。そしてすべての頂点に君臨する
生物が存在する。しかし、そこにも交代がある。
「1つの全体社会は、その発展の頂点に達したならば、
それはおそかれ早かれ自己解体を起し、その崩壊によって
今度は新たに別な特徴を持った全体社会が発展しはじめる」
(135ページ)。

この「発展の頂点における自己解体」といった考え方は
ヘーゲルやマルクスを思わせる。今西が使用する用語には、
経済学やマルクス主義の用語が多い。「分業」「階級」などの用語が
中心的な解明の箇所で使われる。生物の進化の過程、その
トップの交代も「支配階級」の交代として説明される。

例えば、恐竜の滅亡後の哺乳類の台頭について、
今西は次のように問いを立てる。
「この一躍時代の寵児となった哺乳類、このような偉大な
創造性を発揮した哺乳類というものは、そもそもどこから
現われてきたのであったか。爬虫類の時代には彼らは
どんな社会の隅に潜んでいたのであるか。そして
どうして他の動物ではなくて彼らが爬虫類を継ぐべき
支配階級となり得たのであるか」(140ページ)。

今西の回答はこうだ。
「哺乳類の時代を建設して行った哺乳類の先祖というものは、
どこから出て来たものでもない、実は爬虫類の時代に
すでにその爬虫類の社会自身のうちに〈胚胎されていた〉
ものと考えざるを得ないのである。つまり爬虫類の社会が
変革を経て哺乳類の社会へ変ったと見るから、そこに
〈断絶されたものがある〉ようにも思えるが、この変革を
通して爬虫類が哺乳類に変態したと見れば、それは
〈つづいている〉のである」(142ページ)。

この「胚胎」という用語や「発展の頂点における自己解体」と
いった語句が、いかにもヘーゲル的な内在的な発展観を想起させる。
生物の主体性を重んじる今西は、恐竜滅亡にも環境の側の問題よりも、
生物の側の理由を根本とする。それが「断続」と「継続」の
関係の説明にもなる。

「〔恐竜滅亡の〕原因はむしろ生物の側にあり、その全体社会の
自己完結性に内在していたものと見なさなければならない」。
この「自己完結性」に、今西は「生物の社会の平衡」や
「全体社会としての全体性」の根拠を見ようとする。

5.人類の誕生

 次いで哺乳類の台頭から人類の支配が説明される。

「中生代以後の歴史は要するに支配階級としての脊椎動物共同体の
興亡史でもあり、またその発達史でもある。人間は哺乳類共同体の
中から起り、哺乳類に代って一応は生物の社会の支配階級を占めた
ものであるといえる。それから後の歴史が正しく人間の歴史であろう」
(146ページ)。

そして「人間の次に世界を支配するものは何だろうか」と
問いを立て、次のように答える。
「恐らく人間の支配はまだまだつづくことだろうが、人間の発展にも
限度があると考えられてよいと思う。しかし心配しなくても今の人間に
代って立つべきものは ─もはや人間と呼ばれるべきもので
ないかも知れぬが─ 今の人間の中に〈胚胎〉されていなければならぬ。
〈今の人間の中から〉つくり出されねばならぬ。それが進化史の
教えるところである」(147ページ)。

先にも出てきた「胚胎」という用語が繰り返されているが、
ここに今西とヘーゲルの非常に近い関係がある。しかし
人間が登場する時点で、その違いも決定的になってくる。

今西は人間の次を今の人間に内在化されているとしか言えない。
進化の過程の最終ゴール、終局を示さない。生物進化の原因を、
「主体性」や「分業」の原理や「階級支配」の交代で説明しながら、
それによって究極的には何が達成できるのかを示せない。
端的に言って、人間とそれ以前の生物の違いが明示されず、
人間が生まれたことの意味を示せないのだ。

今西は生物の「自己完結性」を強調する。それは
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ることのできぬ限定的な保守的な社会」(137ページ)
である。だから、恐竜の死滅の説明にしても
「もっとも可能性の少ないのは、次いで勃興するべき哺乳類との
生存競争の結果、爬虫類が知能的に破れたと考える説」だとし、
「生物の社会における階級としての同位複合社会は、
お互いの間を断絶によって結ばれた関係」だと説明する。

それほどに生物の「自己完結性」は強固なものなのだが、
その中で人間だけが外部に対しても、その内部でも
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ること」ができるのだ。人間の特異性、異常性は
空前絶後である。
しかし、今西は人間と他の生物との違いの本質を示せない。

ヘーゲルはその違いを、自己意識の有無に見る。
自己意識とは自我であり、内的2分による思考を持つことになり、
それは自己内の葛藤、社会内部の闘争を必然にした。
これが他の生物との決定的な違いである。

また、人間が生まれたことの意味を、ヘーゲルならこう言うだろう。
「自然の真理が人間だ。この地球は自らの真実を実現するために、
その真実を認識し実践する可能性を持った人間を生んだのだ。
人間が生まれたのは必然だった。私たち人間の使命は
『地球の真理の実現』にある」。

地球の進化、発展は、次のような過程を経てきた。
地球(物)→生命。生命内でも、単細胞→植物→動物。
動物内では、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類。
哺乳類内では、サル→霊長類→人間といった過程である。

この過程の中に、個々の偶然的な要素があったとしても、
基本的には人間が生まれるまでの過程は必然的な過程だった。
進化の過程は、最終的には人間を生むことで第1段階を終了する。

次の過程は、人間によるこの過程の意味の認識と、
その意味を実現する過程に移る。

人間が生まれたことは、第1段階のゴールであり、
それまでの進化の個々の過程とは決定的に違う。
霊長類から人間の発生は、一歩の違いだが、絶対的な違いである。

6.相対主義への転落

 こうしたことが今西にはわからない。それは今西や彼の弟子たちが、
霊長類の研究から人間社会を解明しようとしたことによく現れている。
今西たちは、チンパンジーなどの霊長類の社会から人間社会を考える。
また狩猟採集社会や遊牧民たちの社会の研究から現代人の社会構造を考える。
それは原理的に不可能だ。そのことがわからない。

マルクスが「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」と
述べたことは有名だが、今西たちは
「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」と言うのだ。
それはどこまで正しいのか。

一般に言って、発達した動物や社会は、未発展の段階の
動物や社会を考えるための大きな手がかりになる。
未発達の段階にあっては、その様々な要素のうちの
どれが将来につながる芽なのかは分からない。
しかし、発展した段階を知ってから過去を振り返るならば、
未発達の段階のどの要素が将来につながるものだったのかが明らかになる。

では、その逆はどうか。
ヒントにはなっても、解明にはつながらないだろう。
未来は過去の単純な延長上には存在しないからだ。
社会の発展は過去のそのままの延長ではなく、
必ず「否定」(今西の「断絶」)がつきもので、
しかもこの否定にこそ新たな展開、つまり真の発展の芽がある。

しかも「否定」(「断絶」)されうる点はたくさんあり、
そのどれが発展へとつながるものかは過去の時点だけでは
予測が難しい。

発展を考えるには、それが発展の芽かどうかを判断する客観的な
基準が必要である。しかし、今西はそれに明確には答えられない。
それは今西の発展観には曖昧な点があり、不徹底であることを意味する。

ヘーゲルの発展観は、「移行(違い=否定)の運動が、
本質に反省する運動になっているときに、それを発展という」
というものだ。
「本質」への深化が実現しているかどうかが決め手になる。
では本質とは何か。地球の真理とは何か。
それが研究されねばならない。
一元論も絶対的なものなら究極目的(地球の真理)を示さねばならない。
そうでないと、相対的な目的しか示せず、相対主義に転落する。
それは本来の一元論ではない。

今西は、相対主義に落ち込んでいるのではないか。
今西の考えでは「生物の多様性」「生態系の安定性(平衡性)」
「多種類の生物がこの地球上に繁栄する」といった曖昧な基準が
ゴールになりかねない。それは現代のエコロジー運動、
環境保護運動などに共通する弱点ではないか。

では、今西のダーウィンの進化論批判をどう評価するべきか。

「ダーウィンの進化論」を本書で取り上げている限りのものと
するならば、それへの反論としては、これで十分に有効だと思う。
それは機械論に対する目的論の優位性ということだ。
今西の優れた点は、地球の一元的な発展の立場に立ち、
それを基礎に置く目的論に立っていることだ。そこから見た時に、
機械論的な説明の欠陥は明確に見えてくる。

しかし今西にはダーウィンの進化論(自然淘汰説)の正しい面が
見えていないように思う。それはこの世界内や生物の世界内部の
対立や矛盾こそを進化を促す中心的な要因としてとらえている点であろう。

7.仲間や師弟関係の問題

 以上の今西の理解の不十分さは、その学問内容だけではなく、
研究集団のありかたの問題を論理的にとらえられないことにも出ている。
研究組織論や師弟関係論がないということだ。

人間社会に絶対的な矛盾と闘争があることを自覚すれば、
それはチームや師弟関係の中にも当然現れることになる。
そこにも下剋上の問題がある。弟子は師を追い抜くことで自立するが、
この過程で様々な葛藤が起こる。

世間でよくおこっている研究不正もここに根を持つ。
弟子の業績を奪うような教授の問題も、その逆もある。
その問題が今西にも起こっている。
例えば、梅棹忠夫の業績を今西が自分の物として
発表したことがあったようだ(梅棹自身がその不満を
述べていたが、今その出典が見つからない)。

なお、『生物の世界』(講談社文庫)で上山春平が執筆した
解説についても一言。
上山は京大人文研で今西の同僚で共同研究の仲間だったらしい
(第3節の「2.桑原武夫の功績」で触れる)。
しかし『生物の世界』での解説は、今西との正面からの対決を避け、
自分の専門の哲学的認識論の枠内でのみ発言している。
『生物の世界』の中で、認識論や世界観が描かれている
1章についてだけ詳しく解説して、その核心である4章(生物の世界の構造)、
5章(生物の進化)については賛否を言わず、当たり障りない範囲の
触れ方しかしていない。
これは今西の「棲み分け」理論の応用とも言えよう。
哲学にはコメントするが、生物学にはコメントしないという
棲み分けをしているからだ。

これは、上山が今西の賛美者としての役割に徹したともとれるが、
その批判者としての役割を放棄したことを意味する。
文庫の「解説」は初心者にわかりやすく説明する場で、
思想的対決をする場ではないと弁明するかもしれないが、
それは「逃げ」でしかない。

上山は、今西が西欧の物まねではない「自前の理論」を
作ったことを評価し、それを学んでほしいと解説で説教している。
それならば、今西の受け売りをするのではなく、今西を
きちんと批判することで、自らその範を示すべきだった。
それでこそ、本物の解説になっただろう。
こうした姿勢は、今西生前の全集の上山による解説
(5巻、10巻)でも同じだ。
それは自立した研究者のすることではないだろう。

しかし、こうした上山を批判せず、自らの取り巻きの一人として
置いておくのが、今西のやり方なのだ。
(今西死後の全集増補版の12巻の上山の解説には、
今西への厳しい言葉もあるが、「死後」であることに注意)