10月 09

10月以降の読書会を以下のように行います。

(1)10月の読書会
10月23日午後5時から7時まで
テキストは宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書696)を取り上げます。

春の読書会で取り上げた『コミュニティ・ビジネス入門』の「社会資本」という概念の創始者自身による説明です。
この概念は、これからの地域の自立を考えるために、とても有効だと思っています。
そのナカミについての理解を深めておきたいと思います。

(2)11月の読書会
11月20日午後3時から5時まで
テキストは徳永 進 (著)『野の花の入院案内』講談社

鳥取に、ホスピスケアのある19床の有床診療所「野の花診療所」があります。
「自由な、その人がもっている死のかたち」を実現することが目的で設立されました。

この本は、その設立者がその診療所での日々をやさしく語ったものです。
「酒もたばこも当然OK。余命3週間の患者が望めば、焼肉屋にも連れて行くし、花見もできます。ホスピスケアのある有床診療所がめざすのは、家庭的な船出なのです」

(3)12月の読書会

12月18日午後5時から7時まで
テキストはアリストテレスの『分析論』(推理論)の予定です

8月 26

「大学生・社会人のゼミ」(文章ゼミと読書会)の9月から12月までの日程です。今から予定に入れておいてください。開始時間は原則午後5時です。

9月の読書会のテキストは、アリストテレスの「カテゴリー論」「命題論」です(後述)。
10月以降の読書会のテキストなどの詳細は、決まり次第、また連絡します。

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◇◆ 9月から12月までのゼミ(文章ゼミと読書会)の日程 ◆◇

9月
11日 文ゼミ
25日 読書会
 
10月
9日 文ゼミ
23日 読書会

11月
6日 文ゼミ
20日 読書会

12月
4日 文ゼミ
18日 読書会

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◇◆ 9月の読書会テキスト ◆◇
アリストテレスの判断論を読みます。
テキストは「カテゴリー論」「命題論」(岩波版アリストテレス全集第1巻に収録)

「判断論」の重要な古典を読みたいと思います。
7月の読書会で取り上げたカントは、このアリストテレスの判断論を改作して、彼のカテゴリー表を作り上げた。人類の哲学史で判断論の古典であり、カント哲学の源泉となった「カテゴリー論」「命題論」を読んでみます。
テキストはコピーをお渡しします。
早めにお申し込みください。

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◇◆ 毎週月曜日のゼミ ◆◇

(1)ヘーゲル原書講読
 9月13日から毎週月曜日午後5時から行います。
  (ただし時間は原則で変更があり得ます。必ず確認して下さい)
『小論理学』の推理論を読みます。

(2)関口存男氏の『冠詞論』の読書会 
世界的なドイツ語学を築いた関口氏の『冠詞論』に挑みます。
今は『不定冠詞』を読んでいます。
9月13日から毎週月曜日午後7時から行います。

7月 01

7月24日(午後5時より、鶏鳴学園で)の読書会テキストが決まりました。
 カントの『プロレゴーメナ』
     (中公バックス版『世界の名著 カント』)です。

 これは、『純粋理性批判』をカント自身が要約したものです。
『純粋理性批判』は膨大で全体がつかみにくいですが、
この『プロレゴーメナ』は中公バックス版で約100ページ。
これなら全体を見渡せます。
その上で、自分が気になったところは、実際に『純粋理性批判』を読めばよいでしょう。

 『プロレゴーメナ』は実は、約5年前にも、このゼミの学習会で丁寧に読みました。
それを再度取り上げるのには意味があります。
今、ヘーゲルの『小論理学』で「判断論」を読んでいるのですが、
この下敷きになっているのが、カントのカテゴリーの表です。
ヘーゲルを読むと、カントの偉さがますますわかってくるようになります。

 今回は、『プロレゴーメナ』から、カントのカテゴリーの表の部分を
再読してみたいのです。特に第2部「いかにして純粋自然学は可能か」
(§14?§39)です。
可能な人は、他も(特に前半)通読しておいてください。

 テキストですが、中公バックス版『世界の名著 カント』か、
中公クラシックス版『プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ』を
用意してください。
岩波文庫版は使用しませんから、注意してください。

 中公クラシックス版『プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ』は
アマゾンで、以下で購入できます。
早めに購入しておいてください。

4月 11

家庭、親子関係を考える その1 2009年秋の読書会

2009年秋の読書会では、以下の3冊を取り上げた。
10月 斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)
 11月 斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)
 12月 中井久夫『精神科医がものを書くとき』 (ちくま学芸文庫)

 この内、斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』と斎藤環『社会的ひきこもり』は4年前にも取り上げたのだが、新たなメンバーも増え、読んでいないメンバーが増えてきた。
しかし、すべての若い人々は、その青年期には、親子関係について振り返っておくこと、その本質について一度は考えておくことが重要だと気づいた。昨年夏の合宿で親子関係の悩みをうち明ける人がいて、その場で参加者の一人から感情的な発言が飛び出すのを見たからだ。そこでこの2つの本を再度取り上げた。
また、これは鶏鳴学園の塾生(高校生)の保護者にも参加を呼びかけた。親の立場からも考えてほしいと思ったからだ。
ダブル斎藤氏はいずれも精神科の医師である。ところが、二人とも現在の精神医療や精神科の医者に批判的だった。そこで多くの人(斎藤環もその一人)に支持されている中井久夫『精神科医がものを書くとき』で、精神科についても考えてみた。この一連の読書会で考えたことを報告する。
家族や親子関係がテーマになるので、この問題について私見を述べた「堺利彦の『家庭論』」も掲載する。若い方々に、また親の世代の方々に是非考えていただこうと思ってのことだ。

4月 11

家庭、親子関係を考える その2 中井久夫の二面性 12月の読書会から

12月の読書会のテキストは中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)。
 精神科の臨床医である中井久夫については名前を知っているだけだった。『全体主義の時代経験』に収録された書評で、藤田省三が中井を絶賛していた。そこで彼のエッセイ集を読んでみたところ、断然面白かった。続けてエッセイ集を4冊ほど読み、有名な『最終講義 分裂病私見』(みすず)、『精神科治療の覚書』(日本評論社)も読んでみた。
中井久夫は文学にも造詣が深く、人間についての幅広い知識を持ち、深い人間洞察のできる優れた臨床医だと思う。しかし、どうにもしっくりこない点もある。

今回読書会で取り上げてみて、中井久夫の二面性を強く意識した。彼は個別性、特殊性の大家であるが、普遍性、一般化ではぼろぼろだと言うことだ。彼のエッセイが面白いのは、その個別面での能力の高さがよく表れているからだ。彼は実践家として、臨床家として非常に優れている。そして、個々の場面や、個々の事態への対応は見事で、そこから生まれる発見が、きらきら輝くような言葉で描かれる。それがたまらなく見事だし、面白い。
しかし、それらは断片的な知恵のようなものであり、事柄の本質を一般化して語ることはない。精神医療の歴史を長々と語り(「近代精神医療のなりたち」)、サリヴァンの業績と人生を長々と語る(「知られざるサリヴァン」)が、結局、それは何なのか、と振り返ると、ほとんど何も語っていないことに気づく。
結局、精神分裂病とは何なのか。結局、精神病とは何で、精神医療はいかにあるべきなのか。サリヴァンの仕事の精神医療における位置づけとはどのようなものなのか。その答えは、霧の中にただよっている。

読書会参加者から「こういう人はみなから好かれる」という発言があったが、そうだろうと思う。事実、多数のファンがいるようだ。本書には、中井にとっての先輩、同僚、後輩の精神科医が多数登場するし、個々に人物規定があるのだが、それらはするどく核心をついてはいるが、すべて断片的で、その人物の医療の本質や、精神医療全体における位置づけをしない。つまり、ここには根源的な批判がないのだ。これでは嫌われようがない。
そうした中井久夫の生き方がどのように成立したのか、それは「私に影響を与えた人たちのことなど」でわかりやすく示されている。
戦争中でも、彼の周囲には、祖父、大叔父、父など合理的な考えの大人たちが多く、日本の軍隊への批判などをよく聞いていたし、天皇の神格化などになじめなかった。そのために小学校では孤立し、よくいじめられた。周囲が集団ヒステリー状態にある中で、その空虚さを、冷めた目で眺めていたらしい。
戦後もそれは変わらない。アメリカ軍の占領政策による改革や、共産党や社会主義革命への狂騒に対して、中井は距離をとって冷ややかに眺めていた。しかし、中井はそうした運動や組織に距離を取りつつも、関係は持ち続けた。国内の左翼運動は、ソ連や中国の動きによって、しばしば外的な急旋回が行われ、その都度多数の思想難民が出ていた。彼らは精神的に深い傷を負い、中井はそのカウンセラーのような役回りになっていた。
こうして直接には政治や思想運動に関わらないが、悩み相談係として間接的に深く関わる。これが中井の位置である。そして、こうした関わり方を生涯の仕事にしたのが彼の人生だったのだろう。もちろんここには断念があり、自分の役割の自覚、明確な自己限定がある。だからこそ、「私に影響を与えた人たちのことなど」は読みやすく、分かりやすいのだ。

先に、中井久夫の二面性を指摘した。個別性、特殊性ではすぐれているが、普遍性、一般化の能力は低い。中井自身はもちろんこのことに自覚的であり、「エッセイかアフリズムしか書けない」と明言している。
本書の文庫版には斎藤環の解説があり、斎藤も中井の二面性を取り上げている。しかし、彼は「一般化のなさ」を肯定的にのみとらえ、中井への批判がいっさいない。しかし、それでは「ひいきの引き倒し」ではないか。
斎藤は中井久夫を「いっさい『体系化』を志向しなかった」とし、それゆえに精神医療を「カルト化」から守れたと評価する。確かにそうした面があるだろうが、反対に、一般化によって「カルト化」から守れる場合もあるのではないか。斎藤にとって「カルト化」とは、「ある種の思想やイデオロギー、すなわち『体系』が状況を支配する状態」だと言う。そして、「中井久夫のみがカルト化を解毒した」と言い、その理由を「いっさい『体系化』を志向しなかった」からとしている。
しかし「ある種の思想やイデオロギー」とは具体的に誰のどういった思想のことか、それを斎藤は言わない。本当にすべての『体系』が悪いのだろうか。斎藤の言う「状況を支配する」思想と闘えるのはどういう思想なのだろうか。まさか「状況に支配される」思想ではないだろう。「状況を支配しない」思想だろうか。それはどういう思想だろうか。「状況を支配しない」思想で、「状況を支配する」思想と本当に闘えるのだろうか。
中井久夫には二面性がある。中井の良い点は、それを自覚し、自己限定によってマイナス面が大きな欠点とならないようにしていることだ。しかし、それも十分ではなかった。斎藤は、中井が「原則として依頼原稿しか書かない」ことを、中井の自己限定として評価しているようだが、依頼原稿なら書いて良いわけではない。「近代精神医療のなりたち」や「知られざるサリヴァン」のような、彼に向かない仕事をも引き受けてしまい、その馬脚を現すことになっている。それを彼に注意できる人はいないようだ。