1月 05

愛犬を看取る

 私の愛犬が死にました。名前はモモ、雑種のメスで12歳でした。生まれてまもない子犬を1匹もらってきたのです。白地で、背中に茶色の島模様が3つあり、とてもかわいかったのを覚えています。中型犬になりましたが、洋犬(おそらくグレーハウンド系)と和犬の雑種のようで、胸は外側に大きなカーブを描き、お腹がキュッとくびれ、鼻は長く、瞳が青色なのがきれいでした。一方、背中に乗っかる太めのしっぽはクルッとまるまり和犬であることを示しています。人懐っこく、散歩に連れて行くと、犬好きな人を見つけては甘えるのが上手で愛嬌がありました。妻の背中におぶさるのが好きで、周囲の人が驚いていました。

 この12年間は、犬とともに生きることの幸せをかみしめる日々でした。私は犬を観察しては、動物と人間の違いを考え続けました。自己意識の有無の意味、それ以外では、動物と人間にはほとんど違いがないこと。犬は自己意識がなくバカですが、それゆえに、私たち人間にとっての癒しの対象であること。

 犬の散歩で近くの公園を毎日散歩するようになり、犬を連れた方々と友達になりました。こうした「犬仲間」という付き合い方があることも知りました。犬を媒介に、人と人とがつながっているので、主役は犬です。そして、その中には、実に立派な犬がいました。雑種ですが、凛として自立しており、静かで近寄りがたい風格がありました。不思議な存在感に圧倒されました。それに対して、わがモモはごく普通のバカ犬です。しかし、それでも大切なパートナーで、なくてはならない友であり、わが子であり、わが娘のようでもありました。

 年に数回、犬猫病院で見てもらうのですが、5、6歳の時に内臓の調子がよくないと言われました。しかし、幸いにも特段のことは起こらず、10歳をすぎました。鼻先の黒かった毛が白くなってきて、だんだんと老化が見えてきます。12歳になった昨年の9月のおわり頃、散歩のときの様子がおかしく、なかなか歩こうとせず、うずくまるようにしました。病院で診てもらうと、膵臓に腫瘍(癌でしょう)があり腹内出血しているとのことで、手術の可能性も言われました。しかし、危険だとも言われ、手術はせず薬で処置する選択をしました。
 それからは、あと何日か、という思いで見守りました。しかし、回復の気配もあり、散歩の際も普通に歩ける日々もありました。そして、2週間が過ぎた10月15日に亡くなりました。私が東北の被災地に取材に出ていて、5,6日ぶりに深夜帰宅し、翌朝、妻といつものように近くの公園に散歩に出ました。その時は、ずいぶんとしっかりと歩き、これはまだ数カ月頑張れるのではと思われました。
 しかし、昼ごろから、急に様子が変になり、足元がふらついたり、庭で苦しんでいたりしたようです。私は自室で仕事をしていたのですが、妻に「様子が変だから来て」と呼ばれました。
 いってみると、横たわっているのですが、長い舌をだらりと出し、息も弱々しく苦しげです。妻と二男が傍で見守っています。私は背中や頭を何度もなでさすりましたが、何となくこのまま死んでいくことがわかりました。私も横になり顔を近づけ、モモの眼と眼があうようにして、その青い瞳を見ました。光が弱まっていくように感じます。「ありがとう。お前との12年は楽しかった。本当にありがとうな」と話しかけました。
 呼吸が止まったのがわかり、「死んだよ」と言いました。二男はしばらくなでさすっていました。まだまだ温かく、死んだようには思えないのです。妻はまぶたを閉じさせ、そのまま抱き上げて、しばらくそうしていました。3者3様ですが、「看取る」とはこういうことなのだと、思いました。

 私は翌日早朝にまた東北に行くことになっていました。そうすると、モモは私の帰宅に合わせて亡くなったことになります。「私を待っていてくれた」。妻はただの偶然だと笑いますが、私にはそうは思えません。
(2012年1月3日)

11月 04

震災後の国立大学の対応の取材

10月17日から19日は仙台の東北大と宮城県歯科医師会を取材しました。
東北大では医学部、歯学部、病院。地域イノベーション研究センター。

10月21日から23日は盛岡の岩手大学を取材しました。
岩手大ではINS(産・官・学の連携組織)、地域連携推進センター、本部。23日の震災復興への取り組みの報告会を取材。

成果は、雑誌や本で発表する予定です。

10月 05

島田紳助が暴力団との交際が発覚して芸能界を引退した。
紳助の某番組での発言に怒った右翼団体から街宣活動をかけられ、それに困り果てて、知人を介して暴力団の幹部に解決を依頼したのが関係の始まりだという。

島田紳助と同じく、暴力団との交際が噂されているのがビートたけしだった。そのたけし本人が、その詳細を語った(「週間文春」2011年9月29日号)。

たけしも、街宣活動をしばしば受けたらしいが、その対応が違っていたようだ。そして、その違いが、伸助は引退し、たけしは今もトップの地位にいる結果になっている。

たけしはフライデー事件で逮捕され、懲役6カ月・執行猶予2年の判決を受けて謹慎し、半年後に復帰した。その際に、日本青年社に「復帰が早すぎる」と街宣をかけられた。たけしは、事務所が何もしてくれないから「自分で話をつける」と決め、住吉会の当時の会長の堀正夫のもとに行き、謝罪した。住吉会のトップに会ったのは、その幹部に日本青年社の結成者がいたからだ。堀に、その幹部と日本青年社の会長のところに行くように言われ、たけしは謝罪に行った。2人には、芸能界を辞めることを申し出たが、当時の事務所を辞めることで、話がついた。以降も、そうしたことが何回かあったようだ。

紳助とたけしのこの違いについて、「伸助は『芸』がなかった」とたけしは言う。しかしこれは「芸」のある、なしと言うよりも、生き方そのものの違いだろう。

そういえば、そもそものフライデー事件の際にも、たけしは講談社のフライデー編集部に乗り込んで、直接に話を付けようとした。

講談社では暴力を振るい、他方では暴力団の圧力に屈服しているように見える。いずれにしても、暴力への親密度がそこにはある。
紳助にもそうした面がある。吉本興業の女性マネージャーに暴力をふるって謹慎していたことがある。

しかし、そうした共通性の一方で、誰にも頼ることなく、自分一人で問題を解決しようとするたけしと、紳助のそれとは大きく異なる。

こうしたたけしのスタンスと覚悟が、彼がここまでやってこられた最大の力なのではないだろうか。

今回のことで、暴力団と芸能界との関係がいろいろに言われているが、今回の事件の核心は1つだと思う。自分の言論に対して、右翼団体などからの街宣活動を受けたときには、どうしたらよいのか。これは広く考えれば、言論の自由はどう守られるか、自分の言論をどう守るか、と定式化できる。つまり、憲法の保障する「言論の自由」の問題なのだ。

そうとらえれば、これは私たち一人一人の問題なのだということがわかる。自分の言論の後に、私たちはどれだけの覚悟を持っているだろうか。

なお、今回の事件の報道や言論で、私のような視点はほとんど出ていない。この状況はとても危険なのではないか。

9月 13

9月6日から9日まで、福島県、宮城県の被災地を取材しました。
私の取材は、主に「教育」という観点からの取材ですので、学校、教育委員会、大学などが取材先です。福島では中小企業家同友会もたずねました。

7月にも、1週間ほど福島、宮城、岩手県をまわっていて、今回はそれに続く取材です。
10月にも、追加取材する予定です。

3月 13

2月11日の大震災の時、私は鶏鳴学園で授業の準備をしていました。
もちろん授業は中止になり、その日は帰宅できず鶏鳴学園に泊まりました。
ただし、元気でいます。

長野県の知人から次のようなメールが届きました。
「まだ全貌が見えませんが、今回の地震は東北地方だけの問題ではなく、
日本という国そのものの存亡に関わるような大惨事のような気がしてい
ます」。

私も、今回の地震の意味は大きいと思います。

自己決定ができず漂流している今の日本に、
その怯懦を改め、新生をはたすことを、
強くうながすような、大きな働きかけのように思います。

私たち一人一人が、自分自身の使命にどこまでしっかりと向き合っているか、それを再度チェックし、実践をしていきたいものです。