4月 13

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
<個人公式サイト>
http://sasamoto.net
<個人公式ブログ>
http://sasamoto.sblo.jp

さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。昨日に続いて、以下の3.4.を掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

=====================================

◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

3.問題は基準の明確化である

本当の「公平、公正」とは、すべてを「同じ」扱いにすることではなく、その「違い」をはっきりさせ、明確な「区別」をすることではないか。「選別」「えこひいき」を積極的にするべきではないのか。

問題になるのは、「区別」「選別」をすること自体ではなく、その基準が示されないことなのだ。その基準を明示し、それがきちんと説明される限り、「区別」「選別」は奨励されるべきことだ。問題は「区別」「選別」ではない。問題は「区別」「選別」の基準それ自体であり、その基準の是非になる。それこそが、議論されるべきなのだ。

実は今でも、人気の高い人や話題になる人には、「読者や視聴者の関心がある」ということで「えこひいき」「選別」が平然と行われている。ただし、その理由、基準は「読者や視聴者の関心がある」からなのだ。つまり、新聞が売れること、テレビの視聴率が取れるか否かが基準なのだ。しかし「公器の責任」などときれいごとを言うだけで、そうした基準を明示せずにごまかしている。

では正面から問おう。選挙報道で報道するか否かの、候補者選別の基準は、「読者や視聴者の関心がある」で良いのか。

例えば、今回の地方統一選の報道であれば、その基準はどうあるべきなのか。
今の時代をどう考え、今の政治、地域の課題をどう理解するか、それを解決するには、どのような人材、どのような政策が必要か。それが基準になるだろう。

それをまず明確に示し、その基準にかなった人を推薦、紹介し、そうでない人を批判し、無視すべき人は無視する。
それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命を果たすことではないか。

マスコミが「公平、公正」を盾にして、候補者を横並びにしたがるのには、保身の他に、より根本の原因がある。それは、マスコミの多くには、こうした選別の基準を用意するだけの能力も覚悟もないということだ。それが「公平、公正」を振り回す一番の理由ではないだろうか。

もちろん、こうなる経済的な理由がある。広告収入に依存している事情や、大新聞の「全国紙」というありかた、地方紙も各県に1紙しか存在せず寡占状態になっていることなどが挙げられるだろう。

4.「政治的な中立」

さいごに、マスコミの「政治的な中立」について触れておこう。私のようなことを主張すれば、すぐにこの問題が持ち出されるからだ。

まず確認すべきことは、そもそも政治的にも経済的にも、文化的にも、およそ「中立」などというものは存在しない、という事実である。すべての人間、組織には、それぞれのおかれた立場があり、その能力も限られており、限定された立場を持っている。
こんな当たり前のことを確認しなければならないことが情けない。

したがって、今回「公平、公正」で主張したことを、この問題でも繰り返すしかない。つまり、「中立でないこと」や「立場」があることが問題なのではない。その「立場」を明示せず、中立を装うことが問題なのだ。責任を求められる人や組織は、自分の立場を明示し、その上で、意見を言い、報道をし、表現活動をすればよいだけだ。

私たちがすべきことは他人に「中立」を求めることではない。求めるべきは、その立場をきちんと表明することであり、その立場を個々の報道においてわかりやすく説明することである。私たちはそれらを比較検討し、自分の「立場」を考え、個々の事実や事件の評価を決めればよいだけだ。

さて、こんな当たり前のことがなぜ通用せず、おかしなことになっているのか。それを考えることは重要だ。東西冷戦という時代背景も、日本的「ムラ社会」も、価値判断の客観性の問題も、これに関わるだろう。

しかし、いいかげん、こうした低いレベルで議論することを止めなければならない。

なお、蛇足ながら付け加えておく。今回取り上げた「公平、公正」の問題は、行政や教育界にも蔓延している。それらの問題も基本的には同じ原則で解決できると、私は思っている。

4月 12

4月の統一地方選で山梨県議選(山梨県甲府市)に、友人の笹本貴之君が出馬した。
彼は、全国で初めて「ワインツーリズム」を企画・運営し成功をおさめた。地方紙はもちろんだが、全国紙でも紹介された有名人だ。

私は、学習会中心の政治運動を提唱し、1年以上前から彼を応援してきた。「学習会中心の政治運動」という理念、その学習会のナカミの1例(コミュニティービジネスからみた「ワインツーリズム」)はこのメルマガの165から169号で紹介した。

その結果が一昨日4月10日に出た。次点で、夢は叶わなかった。
本当に、残念に思う。

これからその総括作業をすることになるが、地域の政治を変えるためには彼の活動が必要だと思う。

このメルマガの読者で山梨の甲府にお住まいの方はぜひ、彼のブログなどをお読みいただきたい。また知人に甲府在住の方がいたら、ブログなどを是非ご紹介いただきたい。

笹本 貴之
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さて、今回述べたいのはそのことではない。マスコミの言う「公平・公正」について考えてみたいのだ。以下の3.4.は明日掲載する。

■ 目次 ■

マスコミの「公平・公正」 中井浩一
1.報道されなかった記者会見
2.マスコミの建前と本音
3.問題は基準の明確化である
4.「政治的な中立」

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◇◆ マスコミの「公平・公正」  中井浩一 ◆◇

1.報道されなかった記者会見

笹本さんは、すでに2カ月ほど前の2月7日に、山梨県庁の記者クラブで出馬の記者会見を行った。彼は記者会見の冒頭で学習会中心主義の話をし、学習会で1年間かけてつくった「政策集」を発表した。

笹本さんは地元の「有名人」なので、20人近くの記者が駆けつけて大盛況だった。集まったのは山梨日日新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHK、テレビ朝日、テレビ山梨、山梨放送など。

政策の内容は評価され、その日の「知事報告事項」として県庁の広聴広報課でテープ起こしと政策分析をしたようだ。しかし、その記者会見が記事になることはなかった。新聞でもテレビでも報道はされなかった。その理由を、ある新聞社の記者は「他の候補者との公平性を守るために報道はできない」と説明したという。

さて、では考えてみよう。マスコミにとっての公平、公正とは何なのだろうか。
今回のように、すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしないことが公平、公正なのだろうか。

2.マスコミの建前と本音

マスコミがどう弁解しようが、実際の彼らの行動は「すべての候補者を横並びにして、差を付けた扱い方をしない」ものではない。著名人や、話題になっている人は、特別に扱うのが普通なのだ。
ただし、その時は「読者が、視聴者が知りたいことだから」という言い訳を用意しているだけなのだ。

では笹本さんの記者会見だけを報道すれば、何が起こるだろうか。おそらく、他の候補者、諸政党や「有力政治家」からの批判、疑問の声が寄せられ、圧力がかかるだろう。一部の読者からもそうした批判がおこるだろう。マスコミはそれを恐れているだけではないのか。
そうした圧力が予想され、それへの言い訳が用意できないときには、報道しないことで身を守る。そして「公平、公正」を持ち出して、報道しないことを正当化する。

だから彼らの「公平、公正」はあくまでも建前であり、外部からの圧力から自分を守りたいのが本音であり、他方で商売になるとなればいくらでも「不公平」なことをしても平気でいられるのだ。

しかし、マスコミにとって「公平、公正」が建前だとしても、「公平、公正」の理念そのものはあくまでも正しいと思う。問題はその本当の意味が理解されず、都合のいいように使われていることだ。そこで、その使用法のおかしさを示し、その本来の意味を明らかにしたいと思う。

もし、彼らの言う「公平、公正」、つまりみなを「同じ」扱いにすると、どんな結果になるだろうか。
今回の笹本さんのような、やる気のある人、能力の高い人が正当な評価を受けず、やる気のない、能力の低い人に合わされてその中に埋没してしまう。その結果、やる気のある人の足を引っ張ることになる。
記者会見をやれるだけの準備をしてきた人は、本来評価されるべきであり、記者会見をやらない(やれない)人、きちんとした政策を発表できない人と同じ扱いを受けるのは、「不公平」そのものではないのか。

本来は、むしろ、やる気のある人、能力の高い人を応援し、積極的に紹介するべきだ。そうしてこそ、全体に刺激を与え、全体のレベルを押し上げ、ひいては社会を良くすることになるだろう。それが真の「公平、公正」であり、マスコミの使命なのではないか。
現状の「悪平等」な対応は、そうしたマスコミの使命の放棄であり、無責任極まりないと思う。

4月 11

3月末を以て江口朋子さんがめでたく「修了」しました。

それをきっかけに、ゼミの原則を策定しようとしています。
これは、20代の若い方々に示す、これから10年の目標であり、人生の設計図です。

これらは、これまで江口さんや守谷君たちゼミの若い人たちを指導してきて、実際に問題に直面し、その都度、その問題解決をする中で確認されてきたものばかりです。年期が入っています。私と多くのゼミ生の血と汗と涙と、そして歓喜とでびっしりと裏打ちされています。ゆっくり、しっかり、噛みしめて欲しいと思います。

こうした原則は、文字面は理解できたとしても、すぐに「わかる」ものではありません。しかし、前もってその全体を示しておき、個々の場面で、この原則の意味を繰り返し考えてもらうことが大切だと思っています。

理念とは、そのようにしてしか理解できないし、そのような形でしか役立たないものだと思うからです。
理念はすぐにわかるものではなく、問題をすぐに解決できるものでもありません。しかし、それは、その人の人生の中に繰り返し現れてきます。その都度、その理念に触れることで、少しずつそれが感じられるようになり、その理解が進むのだと思います。そして、理念の理解が進むほど、自分と社会と世界の成り立ち、その問題とその解決の道筋が、シンプルな形ではっきりと見えるようなります。それが理念だからです。

したがって、これらの原則は、守るべき規則といったものではなく、自分の位置を確認する羅針盤のようなものです。そのように受け止め、その意味を繰り返し考えていって欲しいと思います。

■ 目次 ■

中井ゼミの原則 (特に20代の若い方々に)
1 目標 「自立」をめざせ
2 目標達成の方法、大きなプロセス 
3 親から自立せよ
4 「先生を選べ」 
5 「正しい学ぶ姿勢」を確立せよ
6 「民主主義者の原則」
7 立場の問題

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中井ゼミの原則 (特に20代の若い方々に)

1 目標 「自立」をめざせ
(1)「自立」とは何か
主体性の確立(=依存をしない)。
・自分のことは、自分で考え、自分で決め、自分で実行して、自分で責任をとる。
・親や「先生」や世間やマスコミなどに依存をしない。

(2)「自分とは何か」の答えを出せ。
「自分とは何か」の答えは、結局は「自分の人生のテーマ、人生の中心」に他ならない。
その答えは、10代、20代前半では、進路・進学で問われ、先生、友人、恋人などの選んだ人間関係で問われ、仕事のナカミで問われる

(3)目標2つ
?「自分の人生のテーマ、人生の中心」をしっかりと作る
?そのテーマを貫いて生き、テーマを実現するための能力と姿勢を身につける

※世間で良く言われる「テーマ探し」はダメ。探して見つかるような簡単なものではない。
「テーマ作り」「自分作り」という意識で取り組むべき

2 目標達成の方法、大きなプロセス 

(1)「テーマ作り」「自分作り」のための最大の障害が親の影響。
親からの直接的な働き掛けだけではなく、むしろ無自覚な親からの影響こそが、自立を妨げる。
そこで、10代、20代では、親からの自立が大きな課題になっていく。
  → 「親から自立せよ」

(2)自分のテーマ作りを達成できるような先生を選びテーマ作りに励む。その一方で親の価値観を相対化する
    → 「先生を選べ」「正しい学ぶ姿勢を確立せよ」

(3)選んだ先生の元で修業し、その先生の弟子たち(仲間)との研鑽を積み重ねる
→ 「民主主義者の原則」の理解と実行

以下、順にこれらの原則を示し、説明する

3 親から自立せよ

?親の言うことを、ただおとなしく聞く。(=依存そのもの)
?親に反撥、反抗する。(=依存の裏返し)

この?でも?でもダメ。

?両親の階層、価値観、生き方、知識と能力などを、徹底的に相対化、客観化し、自分のどこにどういった両親の影響があるかを自覚せよ

【解説】
本当の自由(自立)は必然性の自覚から生まれる。
自分が今あることの必然性とは、直接的には自分の両親(その出自、階層、価値観、生き方、知識と能力など)にある(間接的には全自然史、世界史、この人間社会にある)。
したがって、両親を客観的に深く理解しない限り、自分のことが理解できず、自立もできない。

人は両親の決定的影響を受けて成長し、無自覚にその影響下にある。表面的には「従順」でも「反抗」していても、同じである。親との一体化は骨の髄まで進んでいる。
できることはそれを自覚し、相対化し、その上で自分自身の生き方を選択すること。

これを押し進めるには「先生を選べ」の過程は不可欠

これは20代で終わらず、一生の課題でもある。
自分自身が結婚する(しないと決める)時に、
また親になって子どもを育てる時に、
自分はどんな原則で生きるのかを問われる。

4 「先生を選べ」 →牧野紀之「先生を選べ」「道場の3原則」を参照
(1)学ぶ目的をはっきりさせろ
(2)その目的にあった先生を選べ
(3)先生から徹底的に学んで、目的を達成せよ

※ 牧野の「道場の3原則」を少し変えてある。学ぶ側の主体性(目的の達成)を強調したことと、「先生に対する批判の禁止」を外し、むしろ積極的に「先生やゼミに問題提起をせよ」(「民主主義者の原則」の(3))とした点が違う。後者は、民主主義と集団的思考を徹底するためだが、「先生に対する批判の禁止」の本来の意図は、「学ぶ姿勢」の原則で「先生への反抗」を禁ずることで達成できると考える。

5 「正しい学ぶ姿勢」を確立せよ →牧野紀之「先生を選べ」を参照
「正しい学ぶ姿勢」、つまり「自分でやって先生の批評を聞く」を守り、実行せよ。
まず自分自身で考え、その考えを文章にしたり、実行して結果を出せ。その上で批評を受けろ。
質問・相談は、まず自分自身で考えをまとめてから、または実行して結果を出し、その意味を考えてからにせよ

※以下はいずれも間違いである。
?先生(親)の言うことを、ただおとなしく聞く。(=依存そのもの)
?先生(親)に不満を言ったり、反抗したりする。(=依存の裏返し)

6 「民主主義者の原則」
(1)自分について
自己反省と自己理解を第一とせよ
・ 他者についてあれこれ言う前に、自分自身を反省せよ
・ 他者を批判するときは、その批判点が自分に当てはまらないかどうか考えよ
・常に「自分とは何か」を第1に考えよ。
(2)他者との関係について
?他者への批判・疑問は、直接本人に言え
?他者からの批判・疑問・意見は、冷静に聴いて、よく考えよ
(3)自分に対して、他者に対して、全体に対して、常に問題提起せよ(「突っ込み」を入れろ)。中井やゼミへの対応も同様で、問題提起を奨励する。
 KYの逆をせよ

※感情的な言動への対応については別にまとめてある

7 1?6の原則に対する態度(立場の問題)
以上の1?6の原則に同意する必要はない。同意や反対をするには、その前にそれを理解することが必要になる。だから、この原則の意味を考えていくことだけが求められる。

1?6の原則の背景には、明確な立場がある。それは「発展の立場」(ヘーゲル哲学)である。このゼミは、この「発展の立場」からすべてのことを考えようとしている。
したがって、この立場の理解のために、前提となるいくつかの学習を求める。
牧野紀之やへーゲルや私の文章である。

4月 10

ゼミのメンバーである守谷航君の修士論文「精神医学・精神医療における精神分析の役割」を掲載したが、この論文への私見を述べる。

「歴史」の存在しない日本医学界 守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について
 
3.その他の問題
4.体と心と →4月10日

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「歴史」の存在しない日本医学界 ?守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について? 

3.その他の問題

この論文は、私にとっては大いに刺激的で、いろいろなことを考えさせられた。例えば以下のようなことだ。

(1)医療行為と治療行為について
医療行為(国家による管理下の近代医学)と治療行為(広く一般的で日常的な行為)の区別は守谷君から聞いた概念だが、これは今の医療問題を考える上で大きなヒントになると思う(メルマガ174号の「『医療行為』と『治療行為』」参照)。日本における明治維新の近代化、国家による医療管理によって、何が失われていったのか。失われたのは自然治癒の考えであり、民衆の素朴で健全な感覚や治癒行為であり、その意味での「民間療法」である。本来それらは「止揚」されるべきなのだが、単に切り捨てられただけなのではないのか。その回復運動の芽が、精神分析であり、チーム医療や地域医療なのではないか。そうした大きな方向性を考えておく必要があると思う。

(2)カウンター・カルチャーと薬(ドラッグ)
アメリカの歴史(1章)で、60年代に精神医学の中で急に精神分析が勢力を拡大したのを読んで、久しぶりに当時のカウンター・カルチャーを思い出し、なつかしかった。
当時、ベトナム戦争の長期化と厭戦気分でアメリカは揺れ動いていた。反戦運動、学生紛争とカウンター・カルチャー(ヒッピー・ムーブメント)、1くくりにすれば「反体制運動」が拡大していた。カウンター・カルチャー(反文化)とは、従来の学問、科学、体制に反対して、「今、ここ」と感性、無意識、身体性を強調するものだ。東洋思想や禅、瞑想などが流行し、精神分析なども流行っていた。その思想的リーダーだったオルダス・ハクスレーを思い出した。彼の『島』、『知覚の扉』などがその典型だが、「今、ここ」に集中するための強烈なツールは薬(ドラッグ、マリファナ、LSD)だったし、性格改造のために積極的に薬物を使用する。
こうした時代背景から、精神分析が力を持ったのならば、そこから薬物療法の流れが強まることは当然予測されるのだ。「精神分析」と「生物精神医学」(薬物療法)は、単純に対立させてだけ考えることはできない。少なくとも、カウンター・カルチャーの中で両者は1つだった。そうした視点からも、カウンター・カルチャー運動の弱さを考えるべきだと思った。これは20代にその強い影響を受けた私自身の課題として述べている。
なお、「反精神医学運動」が出てくるが、これは何なのだろうか。カウンター・カルチャーの1つか。

(3)精神分析の流れにあるユングはアメリカではどうして臨床心理学として位置付けられてしまったのか。『破壊』の著者でもあるフロムや、中井久夫が傾倒しているサリヴァンは、どこにどう位置づけられるのか。

(4)日本の歴史(2章)で、河合隼雄、土居、中井久夫など、日本の有名な人たちは、どこにどう位置づけられるのだろうか

4.体と心と
最期に、この論文の裏事情に触れておきたい。守谷君がこの論文をまとめる作業には、論文そのものとは別に、もう一つの大きな目的があった。

守谷君は、医学部編入試験の準備の中で「ぎっくり腰」になることで、体から強烈なしっぺ返しをくらった。そこから自分の体と心の関係を考えざるを得なくなる。しかし、守谷君はその問題を表面的にごまかすことはしない。それまでの自分の生き方と結びつけて深く理解しようとする。そして、その問題の本質をさぐる中で、論文の作業を、問題解決のための練習として、医学部編入試験の予行演習として行っていたのだった。これには驚いたし、感心した。
守谷君が精神分析に関心を持ったのは、自分の中の体と心の葛藤からだろう。それを日々見つめながら、その意味を考え、その解決方法を試してみる。これはすでに精神分析であり、自己治療である。
今回の論文はそうした中から生まれている。それがこの論文のまっとうさを、二重にも保障する。自己理解の深さは、他者理解の深さに広がっていく。それが今後の彼の医師としての可能性を保証すると思う。

なお、守谷君は「修論を書き終えての総括」のような自己批判、自己理解の文章を、卒論についても、京大の大学院進学が決まった時点でも書いている(メルマガ127から130号参照)。ことあるごとに、自分の中での目的とその達成度、その人生における意味を考え続けている彼の姿勢は立派なものだと思う。そして蛇足ながら、それこそが、「精神分析」に含意された、その真理(真意)なのではないかと思う。

4月 09

ゼミのメンバーである守谷航君の修士論文「精神医学・精神医療における精神分析の役割」を掲載したが、この論文への私見を述べる。

「歴史」の存在しない日本医学界 守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について
 
1.反省のない医学界
2.「真っ当さ」と叙述の問題 →4月9日

3.その他の問題
4.体と心と →4月10日

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「歴史」の存在しない日本医学界 ?守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について? 

守谷君は精神分析に関心を持ち、2009年の1月には卒論でフロムの『破壊』についてまとめた(メルマガ114?116号)。フロムの『破壊』では人間精神へのアプローチとして本能主義(生物的側面)と環境主義(社会的側面)とが取り上げられ、その両者を止揚したものとして精神分析を位置づけている。その意味を考えるのが卒論の内容だった。その後、守谷君は京大の大学院で精神分析を学んだが、精神医療の現場、地域医療やチーム医療に強い関心を持ち、医者として医療現場に深くかかわることを目標にするようになる。
昨年は、医学部への編入試験の準備をしながら、修士論文をまとめた。それが今回の論文である。これは、日本の精神医療や精神分析の歴史、発展を、アメリカとの比較からとらえようとするもので、特に精神分析が医療現場に与えた影響に焦点を当てている。この背後には、地域医療やチーム医療への守谷君の強い関心がある。今回、アメリカの精神医学の中に力動精神医学、社会精神医学、生物精神医学の3種類を取り上げているが、これは卒論で取り上げた精神分析、環境主義(社会的側面)、本能主義(生物的側面)の延長上にあることがわかるだろう。つまり、これは卒論の発展したものなのだ。

1.反省のない医学界
この論文は精神医学の歴史をまとめようとしたものだが、そのナカミを問う前に、その試み自体が画期的なものであることを強調したい。他に類がない試みだからだ。しかし、それを逆に言えば、こうしたたぐいの歴史的な調査や研究がほとんど日本では行われていないという事実が浮き彫りになったとも言える。これは大きな問題だ。
明治以降のヨーロッパ(ドイツ)型の医療から、敗戦後にアメリカ型の医療への大転換が行われた。しかし、講座制や医局などの非民主的な制度は変わらないままだった。この過程とその意味を、全体として大きく振り返るような研究が、日本にはないようだ。高度経済成長下で、病院数(病床数)が飛躍的に拡大した際に、国立や公立病院よりも私立病院に圧倒的に依存したという事実(これは教育界でもまったく同じ)。この大きな弊害もきちんと振り返られていない。精神医療でも同じ事がおきていた。
60年代に火を噴いた学生紛争。これが東大医学部から始まったことは象徴的なことだ。最も近代的であるべき場が、最も非近代的な組織だったのだ。精神医学界でもそれは同じであるが、人間の精神を対象とするだけに、その矛盾はより深刻だったはずだ。医学部や医局を巻き込んでの糾弾、紛糾、そして妥協。良心的な学生、医師ほど深刻な反省を迫られ、医学部や医局を、日本を去る者も多かった。そして……日本の医療現場は何も変わらなかった、のではないか。精神医学でも、精神医療の現場の諸問題を糾弾する運動が起こっていた。しかし、こうした糾弾運動ではほとんど何も改善されることがないままに、時は流れた。そこで何が問題提起され、その内の何がどれだけ解決されたのかどうか。そうした総括は、今もなされていないのだ。
これは、医学界に、精神医学界に、過去を根本的に反省しようという意思がないことを意味する。結局はその場しのぎでやってきて、全体を大きく振り返り、本質を反省し、未来への可能性をとらえようとする意志がない(そして、結局は大学法人化のどさくさの中で外部からの強制力で「改革」が行われた)。
例えば、「臨床心理学」への対応がそうだ。これは精神医学とどう関係し、どう位置づけられるのか。そうした本質論がないままに、国家資格が云々され、「スクールカウンセラー」といった現場の対処療法として認めようとしているだけだ。すべてがこうしたレベルで行われている。
こうした問題を守谷君は明らかにした。他の誰もやらないのだから、守谷君がやるしかないだろう。今後は、アメリカに留学などして、その地域医療やチーム医療を学んでくる必要があるだろう。

2.「真っ当さ」と叙述の問題
さて、論文のナカミだが何よりも、その目的の真っ当さを指摘しておきたい。これは、守谷君にとっては、生き抜くために、医師としての自分を支えるためにどうしても必要な論文だった。彼は精神分析に関心を持っているのだが、現在の精神医療の現場では、精神分析的手法はほとんど壊滅状態だ。そうした状況の中で、精神分析のあるべき位置とその役割を明確にすること、そのあるべき未来像を示すことは、医局での彼のこれからの長い修業(奴隷)時代をしのいでいくために、必須の要件だった。
さてその結果だが、その目的は一応クリアーできたのではないか。日本の精神医学の問題を考えるために、アメリカの精神医療の歴史との比較から考える、という方法は正しいだろう。そして何よりも大きいのは、彼が全歴史を「精神分析」の立場から1つの物語(発展)として把握しようとし、一応それをやりとげたことだ。立場が明確なので、全体として主張は明確だ。
しかし、それを逆にいえば、何もかにもを強引に「精神分析」と結びつけ、他の要因を切り捨てる結果にもなっている。例えば、アメリカの歴史でも、チーム医療や地域医療の捉え方は一面的だ。精神分析との関係でしか見ていないからだ。精神分析の立場に立つとは、すべてを精神分析と直接に関係づけることではない。他の社会的、歴史的要因も丁寧に考えなければならないだろう。
そうした一面性はあるものの、私は全体としては、この論文を評価したい。立場もなしに、個々の事実を並べるだけの歴史叙述の方がはるかに簡単だし、それは生きるための論文にはならないからだ。
守谷君は、今後はこの仮説をもとに、実際に現実と闘っていき、その中で仮説の修正をしていけば良いだろう。その時に、仮説をもっていることの意義は大きい。羅針盤なしに荒海にこぎ出すことはできないから。
もちろん、短期(数か月)で仕上げたこの論文には欠点も多い。特に叙述には大きな問題がある。教科書をなぞっているアメリカの歴史ではそこそこ書けているが、日本の歴史になると不十分さが目立つ。まだまだナカミが薄すぎるし、叙述も統一性が弱い。また自説と他説(参考文献)の区別があいまいなことも気になる。しかし、参考になる文献があまりに少なすぎるのだから、今はこれで我慢するしかない。これらの解決はすべて今後に待ちたい。