4月 10
日本教育新聞に4月6日から毎週4回にわたってコラムを連載しています。
4月6日は拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の宣伝をかねて、以下の問題提起をしました。
「思考力・判断力・表現力」の育成のために
次期学習指導要領の改訂の柱は「思考力・判断力・表現力等の育成」「言語活動の充実」である。すべての教科で「観察・実験やレポートの作成、論述」の指導が求められる。そして「これらの学習活動の基盤となるものは、数式などを含む広い意味での言語であり、その中心となるのは国語である」(以上、中教審答申より)。
私は四半世紀にわたり、高校生を主な対象とした国語専門塾を主宰しているが、こうした方針には全面的に賛成である。しかし実際の国語教育の現場では、本来すべきことと正反対のことが、長く行われてきたのではないか。つまり「文学教育」と「道徳教育」である。
小中高の国語の授業では、評論よりは物語や小説に多くの時間がさかれている。それもテキストの分析や論理の解明よりも、情緒的で「文学」的なことに大きく偏っている。それは国語が道徳教育になっていることと結びついているだろう。
学校教育全般がそうだが、特に国語の時間は、道徳や倫理のすり込みに特化していることが多いようだ。求められるのは、決まり切った道徳的結論を探し出すことでしかない。きれいごとや建前が支配し、本音や現実のリアルな部分が切り捨てられる。しかし、本来は現実に深く切り込み、現実を動かしている「論理」と徹底的に格闘することこそが、国語力ではないか。そうであって初めて「思考力」が鍛えられ、現実をしたたかに生きていく力を得られるはずだ。
その実際の方法をまとめた本をこの2月に上梓した。『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)である。これは評論の読解、論理トレーニングの本だが、日本における国語教育、大学の一般教養教育、国語学や言語学などに対する問題提起の書でもある。本紙の読者の皆さんにも、是非、私の問いを受け止めて、一緒に考えていただきたいと願っている。
4月 09
高校作文教育研究会は、昨年秋から1年間ほどの予定で、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。
私たちの例会に、各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をします。もちろん、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えましょう。
この成果は、本年6月から雑誌「月刊 国語教育」に1年の連載の形で発表されることが決まりました。
みなさんの積極的な参加を希望します。
4月の例会では、東京の私学から正則高校と海城学園中学(社会科)の実践を検討します。共に、長期にわたって行ってきた実践で、すぐれた作品がたくさん生まれています。
聞き書きの指導では、どのような準備と指導過程を必要とするのか。そこではどのような能力を獲得できるのか。またその課題は何か。生徒たちの成長を実際の作品に照らし合わせて検討したいと思います。
参加希望者は以下に簡単な自己紹介(所属、年齢、国語、表現での問題意識など)を添えて申し込みください。
メールアドレス ko-nakai@js6.so-net.ne.jp
1 期 日 2009年4月26日(日)10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園御茶ノ水校
東京都文京区湯島1?9?14 プチモンド御茶ノ水301号
? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください
3 報告の内容
(1)「学習旅行」で試みた「聞き書き」の取り組み
東京 正則高校 宮尾美徳
毎年二年生の三月に行う「学習旅行」で、今回は各クラスにICレコーダーを持たせ、現地のお話すべてを録音して持ち帰った。そして、それをクラス一同で文字に起こす「事後学習」を進めた。
この試みは生徒の認識をどれだけ深めることが出来たのか、検討したい。
(2)海城高等学校における「総合社会」の目的と現在
?取材・フィールドワークで自らの研究課題に取り組んで?
東京 海城学園 林 敬
併設の中学で3年間、週2時間の授業を通じて、生徒個々が関心のある社会問題に対して文献調査、取材、フィールドワークを通じてレポートを書かせてきた。
こうした学習によって、中学生がどのように成長し、社会や自己への認識を深めることができたかを検討したい。
4 参加費 1,500円(会員無料)
4月 05
4月以降の文章ゼミ(文ゼミ)と読書会の日程は以下です。
読書会のテキストについては、後日発表します。
参加するには条件があります。前もって、鶏鳴学園まで連絡ください。
連絡は以下にお願いします。
e-mail:
sogo-m@mx5.nisiq.net
4月
11日 文ゼミ
5月
16日 文ゼミ
30日 読書会
6月
13日 文ゼミ
27日 読書会
7月
11日 文ゼミ
25日 読書会
※ヘーゲル学習会は5月より開始します。
4月 01
あるビジネスマンから、私の2月20日(2009年)のブログ(拙著『日本語論理トレーニング』の第1章)の感想をいただきました。それを紹介します。
彼は「外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してき」た人です。その彼は、海外で日本の一流大学、大学院出身者がまるで通用しない事実を知って愕然とします。日本人の論理力の圧倒的な低さです。
そして、その理由を考えていきます。そして、日本の国語教育の酷さに行き着きます。
まったく違う仕事をしてきた二人が一致した結論に到るというのは面白いものです。
経験から感じた疑問を、執念深く考え続けている彼の姿勢は、とても立派です。実は、論理よりも、こうした姿勢こそが重要なのだと思います。論理力はその結果でしかないと思います。
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中井浩一様
ブログで日本語論理と国語教育に関する文章を拝読し、私と同じ意見をお持ちの方を発見したことに感激し、メールをさせて頂きました。
日本人の論理力と日本語教育に関して全く同意見です。私の場合、教育を通してではなく、ビジネスの現場を通して同様の意見を持つようになりました。私は長年経営コンサルタントとして、外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してきました。ご存じかと思いますが、経営コンサルティング、特に欧米で経営戦略コンサルティングと言われている分野は、情報、データの分析と言語による論理構築とプレゼンテーション技術を含む説得が標準的な方法論です。
欧米の経営コンサルティング会社は、所謂経営大学院(MBA)卒の多国籍エリート集団であり、日本人もすべて東大を中心とした日本の一流大学、大学院出身者です。また、彼らは日本人の秀才の中でもかなりの倍率の入社試験を勝ち抜いてきた人たちであり、理系の修士、博士修了者も含まれています。外国人の同僚との共同プロジェクトやトレーニングを経験する機会がありますが、残念ながら日本の秀才は、文系理系を問わず言語的論理構成力がかなり劣っています。更に、英語のコミュニケーション力不足も加わり、残念ながらグローバルな環境での知的競争力が全くありません。また、当然のことながら、英語に堪能で英語を論理ツールとして利用し仕事が出来る日本人は非常に限られています。
一方、日本人は数学に関しては能力が平均的に低いわけではなく、記号論理としての論理力に関しては問題があるわけではないようです。以上のような経験を繰り返すうちに、日本人は言語操作を使った論理には非常に弱いのではないかという仮説を持つように至り、なぜそのようなことになるのかを疑問に思う日々を過ごしてきました。勿論、欧州言語に比較し日本語は情緒的な面、曖昧な面が多いように感じることもありますが、それも世界に多くの言語がある中で日本語のみが極端に非論理的な言語かはどうかは疑問が残ります。ちなみに、韓国、中国出身者に関しては、そのようなことが言われることは少ないと思われます。
そのような日本人の傾向の起源が何となく理解できるようになったのは、3年前から娘が就学し学校の国語の教科書を見るようになり、国語の先生と話をするようになってからです。まず、教科書がご指摘のように日本的価値観、日本的情緒の教育に極端に傾斜しています。私のようなビジネス界の人間から見ると実生活ではほとんど役に立たない言葉の羅列にショックを受けました。グローバルな時代になり、国語学者或いは行政府の反動であるかと思えるほど極端に見えます。また、国語教師と話して理解したのは、教師が“論理”というものを全く理解していません。あまりの理解の低さに、会話を止めたほどでした。要するに、言語が思考の基礎であり、論理がユニバーサルな思考のツールであることが理解されていません。国語教師は、語彙と漢字と日本的情緒と価値観を教えればよいと思っているように見えてしまいます。
想像ですが、国語の教科書を書いている人たちも、“論理”を理解していないのではないかと思います。日本語の語彙研究、文学研究は、思考のツールとしての“論理”、コミュニケーションツールとしての“論理”は無縁であろうし、また、日本という研究環境でのみ生きている日本語学者たちに、生死がかかるような厳しい“論理”の世界は理解不可能でしょう。しかしながら、現在の日本人が置かれているのは経済的にも政治的にもそのような環境であり、決して日本的情緒、価値観に逃げ込むことはできなくなっています。
ご存じの通り、欧米には言語による論理の学としての哲学の伝統があり、歴史の差があることは否定できません。しかしながら、今だに言語における“論理”の存在にすら気づいていない日本の国語教育界には失望を感じます。更に、コミュニケーションツールとしての英語教育も惨憺たる状況であり、思考のツールとコミュニケーションツールを欠いた日本人は、今後どうなるのか心配になります。また、英語教育の問題が指摘される度に、まず正しい日本語を勉強することが重要と言われます。それは正しい議論だと思いますが、英語コミュニケーションの基礎としての日本語とは、当然思考ツールとしての母語という意味が重要だと思います。残念ながら、今の日本語教育は、外国語教育の基礎にもなり得ない母語教育だと思われます。ぜひ、中井様には、日本語における論理の方法論を日本に教育界に広めて頂き、次の世代がグローバルな世界で希望を持てるような時代にして頂きたいと思います。
3月 19
高校作文教育研究会の2月の例会は、2月15日(日)に行われた。
この研究会は、私が代表を務めている全国的な研究会だ。
報告の内容は以下の3本
(1) ハンセン病患者への聞き取り調査
愛知県 日本福祉大学付属高校 今田 和弘
文化祭でハンセン病を取り上げ、高校生と一緒に聞き取り調査を開始。しかし、文化祭学級企画では1年限り。そこに「総合」学習の導入があり、継続的に高校の授業で、聞き取り調査を通じてハンセン病を追い続けてみた。
本校でスタートさせた「地域とむすぶ総合的な学習の時間」で、FWを含むハンセン病と人権講座を行った。聞き取り調査を通じて「テープ起こし」をする力の意味を再発見!「レポートつくり」や「レジュメを作っての発表」。そして、地域での「ハンセン病パネル展示会」などを通して、高校生の力と総合のもつ可能性を発見した報告です。
(2)「短い論文」における「経験の一般化」の指導
?中井メソッドの指導理念と方法論にのつとって?
茨城キリスト教学園高校 程塚 英雄
中井メソッドによる「短い論文」や「小論文」は、「経験」の部分とそれを「一般化」した部分に分かれ「一般化」した部分は「問い」、「分析」と「答え」で構成される。しかし、「経験」から 「一般」への飛翔は、『脱マニュアル小論文』も指摘するように、「多くの高校生にはムズカシイ」(P171)。この報告では、今年本校の三年生が書いた「短い論文」を数編読んでいただき、どうすればその壁を乗り場えさせられるか、皆さんと一緒に考えてみたい。
(3)「経験文を書く」―大学での実践例―
聖心女子大学 准教授(フランス中世史) 印出 忠夫
中井浩一著『脱マニュアル小論文』で提唱された作文指導法を、大学一年生対象の半期の教養演習「経験文を通して自分を知る」の場で実践した経験を報告します。大学生といってもまだ新入生ということもあり、高校生の場合と比べてなにほどか新味のある結果をお話できるかどうかは良く分かりません。報告者は作文の指導経験が皆無なので、この機会にさまざまなご意見をいただければ嬉しく思います。
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(1)は、「聞き書き」シリーズの一環。
これには、以下の事情がある。
高校作文教育研究会は、昨年秋から1年間ほど、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。
私たちの例会に、毎回各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をします。もちろん、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えます。
この成果は、研究会として本に出版する予定です。そのために、まずは今年の6月頃から雑誌「月刊 国語教育」に1年の連載をすることが決まりました。アンカーは古宇田栄子さんです。
さて、今回の「ハンセン病患者への聞き取り調査」の報告は、実は3年前にも例会でしてもらい、共同討議をしている。今回は、その後の実践を踏まえての再報告であり、再検討だった。
この調査は高1の文化祭の試みとして始まったが、その後総合学習として組織されて毎年全国の「ハンセン病患者」への聞き取り調査を行っている。
学校のある愛知県は、県からハンセン病患者を一掃した県だ。保護者の中には、子どもを調査に行かせない人も出てくる。その学校の地元から追放された患者たちと、高校生は出会う。そして、何人かは、その事実と思いを、帰ってから自分の家族と話す。それは彼らを変えていく。高1で引っ込み思案だった女子は、家族と話し合う。この経験で大きく成長して、生徒会長を引き受けるまでになった。
初回の高校生も大学進学し、すでに社会人になっている。衝撃的な聞き取り調査が、一人一人のその後の人生にどういった影響を与えたか、それを考えるだけの時間がすぎた。今回は、そこまで踏まえた議論ができて良かった。
前回私が評価した二人は、その後、大学生になっても、この聞き書きに参加し、後輩たちのめんどうを見ていたという。一人は社会福祉関係、一人はトヨタに就職した。
わたしが評価しなかった女子高生たちは、卒業後も高校に遊びに来て、聞き取り調査で出会った患者さんを懐かしがると言う。
参加者のある年輩者からは「電車に乗っていると、老人にひょいと席を譲ってくれる気のいい茶髪の女子高生がいるが、彼女たちの文章がこうしたもんだ」「思ったこと、感じたことを、何の考えもナシに書いてしまう」。そうした文章も、またそうした「気のいい」彼らの自己表現として、的確に評価されることが必要だとの指摘だ。
こうした指摘から、さまざまな高校生たちの文章の読み方を学んでいける。
(2)の程塚英雄さんの報告は、極めて重要な問題提起だ。
それは、高校生が論文を書く目的は何か、経験を一般化することにどういう意味があるのか、という問題だ。高校生の日常と普遍世界をどうつなげばよいのか、という指導方法に関する問題でもある。「経験」から「一般」への飛翔は、いかにしたら可能なのか。この問いに、すべての教師は自分の答えを用意しなければならないはずだ。
(3)は大学の初年次教育、基礎教育の在り方を考える上で重要だ。
繰り返し試みて、練り上げていって欲しいと思う。