4月 05

4月以降の文章ゼミ(文ゼミ)と読書会の日程は以下です。
読書会のテキストについては、後日発表します。
参加するには条件があります。前もって、鶏鳴学園まで連絡ください。
連絡は以下にお願いします。
e-mail:
  sogo-m@mx5.nisiq.net

 4月
  11日 文ゼミ

 5月
  16日 文ゼミ
  30日 読書会

 6月
  13日 文ゼミ
  27日 読書会

 7月
  11日 文ゼミ
  25日 読書会

 ※ヘーゲル学習会は5月より開始します。

4月 01

 あるビジネスマンから、私の2月20日(2009年)のブログ(拙著『日本語論理トレーニング』の第1章)の感想をいただきました。それを紹介します。
 
 彼は「外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してき」た人です。その彼は、海外で日本の一流大学、大学院出身者がまるで通用しない事実を知って愕然とします。日本人の論理力の圧倒的な低さです。
 そして、その理由を考えていきます。そして、日本の国語教育の酷さに行き着きます。

 まったく違う仕事をしてきた二人が一致した結論に到るというのは面白いものです。
 経験から感じた疑問を、執念深く考え続けている彼の姿勢は、とても立派です。実は、論理よりも、こうした姿勢こそが重要なのだと思います。論理力はその結果でしかないと思います。

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中井浩一様

 ブログで日本語論理と国語教育に関する文章を拝読し、私と同じ意見をお持ちの方を発見したことに感激し、メールをさせて頂きました。

 日本人の論理力と日本語教育に関して全く同意見です。私の場合、教育を通してではなく、ビジネスの現場を通して同様の意見を持つようになりました。私は長年経営コンサルタントとして、外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してきました。ご存じかと思いますが、経営コンサルティング、特に欧米で経営戦略コンサルティングと言われている分野は、情報、データの分析と言語による論理構築とプレゼンテーション技術を含む説得が標準的な方法論です。

 欧米の経営コンサルティング会社は、所謂経営大学院(MBA)卒の多国籍エリート集団であり、日本人もすべて東大を中心とした日本の一流大学、大学院出身者です。また、彼らは日本人の秀才の中でもかなりの倍率の入社試験を勝ち抜いてきた人たちであり、理系の修士、博士修了者も含まれています。外国人の同僚との共同プロジェクトやトレーニングを経験する機会がありますが、残念ながら日本の秀才は、文系理系を問わず言語的論理構成力がかなり劣っています。更に、英語のコミュニケーション力不足も加わり、残念ながらグローバルな環境での知的競争力が全くありません。また、当然のことながら、英語に堪能で英語を論理ツールとして利用し仕事が出来る日本人は非常に限られています。

 一方、日本人は数学に関しては能力が平均的に低いわけではなく、記号論理としての論理力に関しては問題があるわけではないようです。以上のような経験を繰り返すうちに、日本人は言語操作を使った論理には非常に弱いのではないかという仮説を持つように至り、なぜそのようなことになるのかを疑問に思う日々を過ごしてきました。勿論、欧州言語に比較し日本語は情緒的な面、曖昧な面が多いように感じることもありますが、それも世界に多くの言語がある中で日本語のみが極端に非論理的な言語かはどうかは疑問が残ります。ちなみに、韓国、中国出身者に関しては、そのようなことが言われることは少ないと思われます。

 そのような日本人の傾向の起源が何となく理解できるようになったのは、3年前から娘が就学し学校の国語の教科書を見るようになり、国語の先生と話をするようになってからです。まず、教科書がご指摘のように日本的価値観、日本的情緒の教育に極端に傾斜しています。私のようなビジネス界の人間から見ると実生活ではほとんど役に立たない言葉の羅列にショックを受けました。グローバルな時代になり、国語学者或いは行政府の反動であるかと思えるほど極端に見えます。また、国語教師と話して理解したのは、教師が“論理”というものを全く理解していません。あまりの理解の低さに、会話を止めたほどでした。要するに、言語が思考の基礎であり、論理がユニバーサルな思考のツールであることが理解されていません。国語教師は、語彙と漢字と日本的情緒と価値観を教えればよいと思っているように見えてしまいます。

 想像ですが、国語の教科書を書いている人たちも、“論理”を理解していないのではないかと思います。日本語の語彙研究、文学研究は、思考のツールとしての“論理”、コミュニケーションツールとしての“論理”は無縁であろうし、また、日本という研究環境でのみ生きている日本語学者たちに、生死がかかるような厳しい“論理”の世界は理解不可能でしょう。しかしながら、現在の日本人が置かれているのは経済的にも政治的にもそのような環境であり、決して日本的情緒、価値観に逃げ込むことはできなくなっています。

 ご存じの通り、欧米には言語による論理の学としての哲学の伝統があり、歴史の差があることは否定できません。しかしながら、今だに言語における“論理”の存在にすら気づいていない日本の国語教育界には失望を感じます。更に、コミュニケーションツールとしての英語教育も惨憺たる状況であり、思考のツールとコミュニケーションツールを欠いた日本人は、今後どうなるのか心配になります。また、英語教育の問題が指摘される度に、まず正しい日本語を勉強することが重要と言われます。それは正しい議論だと思いますが、英語コミュニケーションの基礎としての日本語とは、当然思考ツールとしての母語という意味が重要だと思います。残念ながら、今の日本語教育は、外国語教育の基礎にもなり得ない母語教育だと思われます。ぜひ、中井様には、日本語における論理の方法論を日本に教育界に広めて頂き、次の世代がグローバルな世界で希望を持てるような時代にして頂きたいと思います。

3月 19

高校作文教育研究会の2月の例会は、2月15日(日)に行われた。
この研究会は、私が代表を務めている全国的な研究会だ。

 報告の内容は以下の3本

(1) ハンセン病患者への聞き取り調査
               愛知県 日本福祉大学付属高校 今田 和弘

 文化祭でハンセン病を取り上げ、高校生と一緒に聞き取り調査を開始。しかし、文化祭学級企画では1年限り。そこに「総合」学習の導入があり、継続的に高校の授業で、聞き取り調査を通じてハンセン病を追い続けてみた。
本校でスタートさせた「地域とむすぶ総合的な学習の時間」で、FWを含むハンセン病と人権講座を行った。聞き取り調査を通じて「テープ起こし」をする力の意味を再発見!「レポートつくり」や「レジュメを作っての発表」。そして、地域での「ハンセン病パネル展示会」などを通して、高校生の力と総合のもつ可能性を発見した報告です。

(2)「短い論文」における「経験の一般化」の指導
      ?中井メソッドの指導理念と方法論にのつとって?
                 茨城キリスト教学園高校 程塚 英雄

 中井メソッドによる「短い論文」や「小論文」は、「経験」の部分とそれを「一般化」した部分に分かれ「一般化」した部分は「問い」、「分析」と「答え」で構成される。しかし、「経験」から 「一般」への飛翔は、『脱マニュアル小論文』も指摘するように、「多くの高校生にはムズカシイ」(P171)。この報告では、今年本校の三年生が書いた「短い論文」を数編読んでいただき、どうすればその壁を乗り場えさせられるか、皆さんと一緒に考えてみたい。

(3)「経験文を書く」―大学での実践例―
聖心女子大学 准教授(フランス中世史) 印出 忠夫

 中井浩一著『脱マニュアル小論文』で提唱された作文指導法を、大学一年生対象の半期の教養演習「経験文を通して自分を知る」の場で実践した経験を報告します。大学生といってもまだ新入生ということもあり、高校生の場合と比べてなにほどか新味のある結果をお話できるかどうかは良く分かりません。報告者は作文の指導経験が皆無なので、この機会にさまざまなご意見をいただければ嬉しく思います。

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(1)は、「聞き書き」シリーズの一環。

 これには、以下の事情がある。

 高校作文教育研究会は、昨年秋から1年間ほど、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。
 私たちの例会に、毎回各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をします。もちろん、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えます。
 この成果は、研究会として本に出版する予定です。そのために、まずは今年の6月頃から雑誌「月刊 国語教育」に1年の連載をすることが決まりました。アンカーは古宇田栄子さんです。

 さて、今回の「ハンセン病患者への聞き取り調査」の報告は、実は3年前にも例会でしてもらい、共同討議をしている。今回は、その後の実践を踏まえての再報告であり、再検討だった。
 この調査は高1の文化祭の試みとして始まったが、その後総合学習として組織されて毎年全国の「ハンセン病患者」への聞き取り調査を行っている。
 学校のある愛知県は、県からハンセン病患者を一掃した県だ。保護者の中には、子どもを調査に行かせない人も出てくる。その学校の地元から追放された患者たちと、高校生は出会う。そして、何人かは、その事実と思いを、帰ってから自分の家族と話す。それは彼らを変えていく。高1で引っ込み思案だった女子は、家族と話し合う。この経験で大きく成長して、生徒会長を引き受けるまでになった。

 初回の高校生も大学進学し、すでに社会人になっている。衝撃的な聞き取り調査が、一人一人のその後の人生にどういった影響を与えたか、それを考えるだけの時間がすぎた。今回は、そこまで踏まえた議論ができて良かった。
 前回私が評価した二人は、その後、大学生になっても、この聞き書きに参加し、後輩たちのめんどうを見ていたという。一人は社会福祉関係、一人はトヨタに就職した。
 わたしが評価しなかった女子高生たちは、卒業後も高校に遊びに来て、聞き取り調査で出会った患者さんを懐かしがると言う。
 参加者のある年輩者からは「電車に乗っていると、老人にひょいと席を譲ってくれる気のいい茶髪の女子高生がいるが、彼女たちの文章がこうしたもんだ」「思ったこと、感じたことを、何の考えもナシに書いてしまう」。そうした文章も、またそうした「気のいい」彼らの自己表現として、的確に評価されることが必要だとの指摘だ。
 こうした指摘から、さまざまな高校生たちの文章の読み方を学んでいける。

(2)の程塚英雄さんの報告は、極めて重要な問題提起だ。
 それは、高校生が論文を書く目的は何か、経験を一般化することにどういう意味があるのか、という問題だ。高校生の日常と普遍世界をどうつなげばよいのか、という指導方法に関する問題でもある。「経験」から「一般」への飛翔は、いかにしたら可能なのか。この問いに、すべての教師は自分の答えを用意しなければならないはずだ。

(3)は大学の初年次教育、基礎教育の在り方を考える上で重要だ。
 繰り返し試みて、練り上げていって欲しいと思う。
 

3月 11

 今月の『中央公論』誌(2009年4月号)に、「大学病院、その赤字経営の実態とは」というサブタイトルの原稿を掲載しました。
 本タイトルは「アルバイトで隠れる医師の本当の給与体系」です。
 こちらは、内容全体の一部しか表していませんが、刺激的なタイトルを編集部はつけたがるのです。

 大学病院を国立大と私大の両面から、その経営・財務面で考えるための、いくつかのポイントを提示しました。
 これは問題の入り口でしかなく、問題提起でしかありません。

 これを入り口にして、問題の全容と、その解決策をまとめて、新書で刊行する予定です。

 教育問題も、医療問題も、同じ構造があります。
 表の顔と裏の顔があり、裏の顔は関係者しか知らないことです。そして、表の面だけが議論され、進められていきます。
 裏も含めた全体を表に出すことからしか、何も始まらないでしょう。

3月 05

 2月28日に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」にゲストとして参加した。

 このフォーラムは、教育委員会(大阪府教委)と学校現場と研究者(大阪教育大)の3者が共同討議する場として用意されている。詳しいことは、拙著『大学「法人化」以降』の第5章の?に書いた。
 今回の現場は府立高校の「中堅校」だ。中堅の普通科高校は、「個性」化のもっとも難しい学校だ。そこでの改革の様子が報告された。

 会の終わりで、私が述べたコメントは以下の通りだ。

?教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者が、実際の学校現場の改革のために協力し合うことは、諸事情でとても難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近い場合もある。そうした中で、この大阪の試みは希有な例であり、現場の方々にとってはとてもラッキーなことだ。

?研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がないが、それが難しいのが実状だ。それがここではできている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。これこそ、現場の参考になる討議だ。

?「個性化」が大流行だが、この言葉は現場から出てくる発想ではなく、上からの押しつけで画一的なものになりやすい。外的でいかにも浅薄なものが多い。そのために、進学校や教育困難校ならいいが、中堅校になると、どうしていいのかわからなくなる。そのことが、この言葉の理解の浅さ、軽薄さをよく現している。

 「個性」とは、その現実の問題の中にあり、それを解決していく中から生まれてくるものだ。各学校の個性とは、その学校の課題、眼前の生徒たちの課題と、その克服から生まれる。それ以外にはないのだ。その課題にどこまで的確に、深く関わったかで、その個性が決まってくる。これは人間個人の「個性」も同じなのだ。

 今回の大阪府教育委員会の試行は、各学校の課題発見、課題解決を「個性化」としてとらえようとしている。この方向性は真っ当であり、あくまでも正しい。それを3者が協力して実現しようとしている点がすばらしい。

 また、伝統校や新設校、学習以前の生活態度の改善に集中する学校や、そうした段階から学習へと集中する段階の学校、部活参加の割合を高めなければならない学校から、そのエネルギーをどうしたら学習にもまわせるかを問題にする段階の学校。そうした多様性が、中堅校の全体、その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなどを得られる結果になっている。それが、良い点ではないか。

?一番感動したのが、学校教育の目的をすべての高校生の「伸びしろ」を大きくすることにあると喝破している発言が出て、みなに共有されていることだった。

 改革の「成功」の基準をどこに置くのか。求められる「アウトカム」は何か。これは大問題だ。

 「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになる。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。

 「成功」の基準は、あくまでも、入ってきた生徒が3年間で、どれだけ伸びたか。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。

 こうした発言が共有される大阪の教育現場の秘密はどこにあるのだろうか。こうした研究会がそれを支えているのか。

 以上が、私のコメントだ。会終了後の「飲み会」で、?の「秘密」については、大阪の府立高校では何十年も「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史があり、みなで大阪の教育全体を支える意識が徹底されているという意見をうかがった。

 また、成果のアウトカムの考え方だが、「初めて浪人する卒業生が出た」事実を聞いて、その意味を考えた。それまでは大学は「全入」だから、入れるところに行っていて浪人は出なかった。「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたこと。これはすごいことなのだ。それを、教育成果としてどう評価できるか。評価者の側が問われている。

 中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。私はそのシンプルさに賛成だが、「仕事」にさらに「家庭」を加えたい。「結婚しない」ことも含めて、「家庭」の課題に答えなければ、人間になることはできない。

 規定では学校に通学できない生徒は、「おれの友達だから」といって校長室に来させ、授業を受けさせる、と語る校長。生涯一教師として、生徒に向き合いたいという教師に、主席(東京の主幹)を引き受けさせた校長は、「クラス担任や教科担任は自分のクラスの生徒しか救えないが、管理職になれば、学校の多くの生徒を救える」と、自らの行動で示す。

 大阪「らしさ」を深く感じた半日だった。

 このフォーラムの背景については以下を参照して欲しい。事務局長の大阪教育大の大脇康弘さんの説明文からの引用。
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 第8回スクールリーダー・フォーラムは『学校の自己革新と支援体制―学校革新プロジェクト2008』をテーマに掲げた。これは「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を、4年目に当たる今年1年間かけて振り返り、さらなる実践的展開と理論的整理を行うことを主眼としている。

 「経営革新プロジェクト」(2005年?2007年度)は、大阪府教育委員会が主催する規模の大きい事業で、府立学校21校が経営革新推進校として参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んできた。大阪教育大学スクールリーダー・プロジェクトは、この事業に参画し、学校を支援する取り組みに深く関わってきた。毎年度、推進協議会が年3回開かれ、21校の教職員と担当指導主事、大学教員の50名近い人々が、実践報告と研究協議を重ね、学びを重ねてきた。さらに、大学教員と担当指導主事が連携して、アクションリサーチ校4校、比較対照校4校を訪問調査し、学校の観察調査と意見交換を行った。

 そして、昨年度の第7回スクールリーダー・フォーラムは「学校課題への挑戦?経営革新に取り組んだ3年間?」と題して、21校すべてのポスターセッションとパネルディスカッションを実施した。これには、高等学校の校長・教頭、首席、教諭、教育委員会職員、大学教員など191名が参加し、経営革新という堅いテーマをめぐって、幅広い交流がなされた。第8回は、この成果を総括し、さらにグレードアップを図るべく、次のような枠組を設定した。

 第一に、事例校を5校に絞り、ミドルリーダーによる学校革新の歩みの整理、校長による学校革新のマネジメントの報告、研究者による学校革新の特徴と課題の分析を交錯させることを通して、立体的な把握を試みた。

 第二に、学校革新を支援する教育委員会および大学の在り方を実践的に整理し、理論的な問題提起を試みることにした。

 第三に、学校革新や高校教育の研究に造詣が深い人々を招き、私たちの取り組みを位置づけ評価してもらうこととした。水本徳明(筑波大学准教授、学校経営学専攻)、中井浩一(鶏鳴学園学長、教育評論家)、服部憲児(大阪大学准教授)、大野裕己(兵庫教育大学准教授)、芹沢利弘(筑波大学大学院、高校教諭)の方々にゲスト参加をいただいた。

 第四に、5校の事例校のミドルリーダーが、このフォーラムの主体となって報告、研究協議、そして司会運営を行うよう企画した。
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