3月 20

人間の平等の根拠は何だろうか。

西洋では、キリスト教の「神の前での平等」が根拠となっていると聞いたことがある。
本当だろうか。

加藤周一の「近代日本の文明史的位置」ではそうして前提での議論が行われた。
こうした議論がずっと気になっていた。
読者のみなさんはどうお考えだろうか。

私も、この問いを抱えて、考えてきた。
やっと自分なりの考えがまとまってきた。それを公表しておきたい。

■ 目次 ■

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等
2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」? 
3 失楽園の物語
4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある
5 加藤周一とは何者か

==============================

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等

 人間は相互に平等であるということは、今では当たり前になっている。
これに正面から反対することは難しいだろう。それは差別主義者として批判される。
しかし、多くの人が本音では、その反対のことを意識している。「女はしょせん?」とか
「田舎者は?」とか「家柄や育ちが大切」とかは普通の意識であり、したがってそうした見解は
しばしば表現され、外化される。出自や階層、地域や民族間の差別意識なども一般的だろう。
ヘイトスピーチはそれが露骨に外化したものだが、もともと内にあるから外に出てくるだけだろう。
普段は抑圧しているだけなのだ。
歴史的には、人間が対等であったことはなかった。常に奴隷が存在したし、今でも人身売買が
公然と行われている。人間の普遍的な権利として政治上の平等が主張されたのは、フランス革命、
アメリカの独立宣言が始めである。その後、それがどこの国の憲法でも保障されるに至っているが、
それは建前であることが多い。政治上の平等だけではなく、経済上の平等も求めるのが社会主義運動
だったが、それは破綻し、資本主義内で格差が広がらないようにという程度に、その欲求は押さえられている。
さて、人間の平等、政治上の平等、経済上の平等を基本的な人権とする考えは、
一体どこに根拠を持つのだろうか。ただの理想で、実現は無理なのだろうか。
しかし、それが理想とされるには、それなりの根拠がなければならないはずだ。それは何か。

2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」?
 
人間の平等の根拠としてキリスト教を挙げる人たちがいる。神の前の平等、神との関係における平等は
キリスト教で確かに謳われてきたことであり、それが社会的に一般化した権利として平等を考えるのだ。
たとえば、加藤周一の「近代日本の文明史的位置」である。加藤は人間の平等の根拠を問題にし、
それを日本と西洋との比較から考えている。
加藤によれば、西洋での民主主義(人間が平等であるという意識)は、個人主義を前提とし、
「その個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である」。「人間が平等であるという
考え方は、自明の事実に基づくものではない。社会的経験は、むしろその反対を暗示している」。
そして「神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない」と言う。
つまりキリスト教の「神のもとでの平等」、「神と個々人の関係の絶対性」に、平等の根拠を見ているらしい。
その上で、日本人の意識を問題にする。「日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、
明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で
演じてきたのは、感覚的な『自然』である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、
思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された」。
平等の根拠が、日常生活の直接の経験のレベルには存在しない以上、それを超える価値を生み出せなかった
日本人に、平等の意識は生まれないのではないか。それが加藤が問う問題である。
加藤はその困難さを受け止めつつも、「われわれの側に主体的な要求のあること自体が、半ば、その可能性を
証明しているのだ」としてこの文章は終わっている。平等を求めるのは人間の根源的な欲求だとしているのだろう。
しかし、その根拠は示されない。
このテキストは60年以上も前の1954年の文章である。しかし、こうした議論は、今も続いているのではないか。

3 失楽園の物語

加藤周一は、キリスト教が人間の平等の考えを生んだと推測する。しかし本当は逆なのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等の根拠が事実として存在していたのではないか。
そして、それを自覚していく過程の中から、ユダヤ教が生まれ、キリスト教も生まれてきたのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という根拠が存在していたとは、どういうことか。
人間が人間として現れた時、つまり他の動物の1つ上のレベルの存在として新たな種として人類が生まれた時に、
すでに人間は潜在的に平等であり、それ以外にありえなかったのである。それは人間を他と区別する
人間の本質とは意識の内的二分にあったからだ。
意識の内的二分とは、意識が分裂し、自己意識と他者(対象)意識が生まれたことを意味する。
それは外の自己と他者(対象)とを区別することであり、同時に内的に意識内が分裂し、
意識内に自己と他者(対象)への分裂が起こることである。
もちろんこの分裂は分裂に止まるものではなく、その統合への活動を引き起こし、それが人間社会を
発展させてきたのである。これが思考、善と悪との始まりであり、目的意識と労働、社会意識の始まりである。

旧約聖書の創世記の失楽園の物語を思い出していただきたい。神は土くれで人(アダムとイブ)をつくり、
エデンの園においた。アダムとイブは裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。神はエデンの園に
あらゆる木を、園の中央には生命の木と善悪を知る木を生えさせた。神はアダムに命ずる。
「園にある木の実は何を食べても良いが、善悪を知る木の実は食べてはならぬ。それを食べたら死んでしまうから」。
 ところが、ヘビに誘惑されたイブは善悪を知る木(の実)を食べてしまい、
ともにいたアダムにも与えたので、アダムも食べた。すると2人の目があき、自分たちが裸であることを知った。
2人は恥じらいを知り、いちじくの葉を腰に巻いた。
神は、2人が善悪の木の実を食べたことを知る。神はイブに呪いをかけ、出産と生活に苦しむようになると言い、
神はアダムに呪いをかけ、土地を耕すことに苦しむようになると言った上に、「おまえは土くれだから土に帰る」
と言う。そして神は「人がわれらのようになった。今にも人は生命の木の実も食べて永遠に生きるかもしれないと言い、
人をエデンの園から追放した。
これが人間が善悪を知り、呪いを受けるとともに、神のようになったという物語である。
これがユダヤ教の人間観なのだ。
この神話では、善悪の知識によって、人間がまず最初に恥を知ったことが強調される。
この恥こそが、人間の意識の内的二分によって生まれたものなのだ。
恥とは自己意識の分裂が生みだしたものだ。それは他者の視線を意識し、他者から見られる自分を意識する。
それは外界に自分と他者の区別が生じたことであり、それは同時に自己内に見る自分(他者)と見られる自分
との分裂が起きていることである。ここに人間の平等の根拠があると、私は考える。

4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある

意識が自己意識と他者(対象)意識に分裂し、意識内に自己と他者の両者が意識される時、
この両者は意識内では対等に並ぶことになる。これが「特殊」であり、特殊は特殊に対して、同格であり、
対等である。これは同時に、外の他者と自己とが対等に並ぶことでもある。
その分裂は、もちろん分裂のままにはとどまらない。見る自分(他者)と見られる自分との分裂が正しく
統合されると、自己相対化が起こり、自己理解が深まっていく。
特殊が特殊として同格でただ並ぶだけの段階から、この特殊性を超えて、全体をとらえた時に、
普遍、類がとらえられ、それが人類である。
そこには特殊と普遍の分裂があるのだが、この分裂から、人間の本質と、自分の特殊性とをともに意識して、
自分は人としてどう生きるかが問われ、その答えを出した時に、それが個別である。
これがヘーゲルが普遍、特殊、個別、の発展として考えていることだろう。

こうした全体の過程の中で、特殊の段階としては自己と他者のそれぞれが、特殊として相互に同格であり、
対等である。ここに、人格の平等の根拠があるのではないか。
そしてここから対等な関係である「契約」という意識が生まれ、人間と神との関係すらも、
この「契約」としてとらえるユダヤ教が生まれ、神と人との契約関係から、すべての人間同士の平等の自覚が
明確になっていったのではないか。こうした前提の上に、キリスト教は成立している。
以上を考えてくると、人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という論理が存在していたと、
私には思われるのである。それはキリスト教から生まれたのではなく、逆にキリスト教の基本の原理を生みだした。
そして人間の平等は、西欧とか、キリスト教とかに関係なく、すべての人類に共通する普遍的な関係性
なのではないだろうか。どのような歴史的背景や精神的背景があったかには関係なく、
人がある自覚の段階に達すれば、必ず意識され、自覚されていく原則なのだ。
それは人間の本質である自己内二分から必然的に生まれてくるからだ。

5 加藤周一とは何者か

加藤周一を例として取り上げたので、最後に加藤の評価について触れておく。日本では加藤の評価は
大きく二つに分かれるようだ。一方には加藤を「知の巨人」として持ちあげる人々がいる。
他方で、ただのデイレッタントとして低く見る人々もいる。
 加藤にはその視野の広さと認識の深さがある。西洋と東洋の対立、そのキリスト教理解、宗教的理解の的確さ、
日本文化への見識。この幅と深さのレベルに達している日本人は少ないのではないか。したがって、
こうした意味で、加藤は評価されるべきなのだ。しかし、それ以上に持ち上げるのもおかしい。
 加藤周一の真価は、その問題提起、問題の把握の仕方にあると思う。どうでもよい問題ではなく、
根本的で根源的な問題をつかめたこと、そのつかみ方でも明確な対立・矛盾を示すことができたことが
その優れた点だ。今回取り上げた問題提起がまさにそれだと思う。
加藤の限界は、自分が提起した問題の本当の解決、本当の答えには到達できない点ではないか。
対立、矛盾を示すまでで、それを超えることができない。ヘーゲル的に言えば、彼は悟性のレベルにとどまり、
彼ができることは対立と矛盾の提示に止まる。その解決は彼の役割ではない。
加藤のこの両面をしっかりと理解していれば、加藤周一を有効に活用できる。その問題提起は大いに参考になる。
その答えは不十分だから、自分で代案を出せばよい。

(2016年7月11日)

3月 19

親子関係はいかにあるべきか

これまでは高校生を主な対象として親子関係を考えることが多かった。
高校生にとって、進学・進路の選択は重要だ。それは高校生が自分の人生を自分で選択すること。
つまり親の影響力から自立するための大きな1歩になる。
同時にそれは、親(特に母親)にとっては子離れという大きな課題であり、それは親の自立の問題なのである。

しかし、私の父が2年前に亡くなり、母が一人で暮らすことになった。
その母をどう支えるかが一人息子である私の責務になっている。

また、中井ゼミで師弟契約をするメンバーの年齢も20代から50代までと幅広くなっており、
親の立場から成人後の子どもへの関わり方が問題になったり、高齢の親の介護や遺産相続の問題に
直面したりするメンバーも出てくる。こうしたことを考えながら、親子関係のそれぞれの年代での課題、
つまりその全体像がはっきりと見えてきた。

それをここでまとめておきたい。

■ 目次 ■

親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則  
                                中井浩一

0.親子関係の特殊性
1.第1段階  親>子どもの段階
 (1)親子関係が親>子どもの段階
 (2)子どもの本質は未来の社会の働き手
 (3)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
 (4)子どもの進路、進学の選択
 (5)緊急避難
2.第2段階  親=子どもの段階
 (1)親子関係が親=子どもの段階
 (2)社会人としての関係、結婚後の関係
 (3)子どもの自立が真に問われる
 (4)親子のつきあい方は両者の合意に基づく
3.第3段階  親<子どもの段階  (1)親子関係が親<子どもの段階  (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか  (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある  (4)死に方、看取り方  (5)どのような社会を目指すのか ============================== 親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則                                  中井浩一 0.親子関係の特殊性 最初に確認しておきたいことは、 親子関係は特殊な関係であり、もっと一般的な他者や世間とのつきあい方が、 ここではより厳しく、より深く問われるということだ。  親子の「つきあい」方は、親子関係以前に、その人の他者一般、世間との関わり方の原則とその能力の現れである。 他者一般ときちんとした関係を築けない人は、親子関係では一層、難しくなる。 なぜなら親子関係は血縁関係であり、その特殊性は、相手を選択できないことだからだ。 他者一般では、付き合う相手も、つき合い方も選択できる。それゆえに自分の価値観や原則を貫徹しやすい。 ところが、親子関係となるとその選択ができないのだ。 つまり、親子関係をきちんとした原則で律するには、そもそも他者一般と対等な大人同士の関係を 築けるかどうかが問われるのだ。 そこでは意見の違いをどう解決してきたか。どう解決しているか。 相互の関係の問題をどうとらえ、どう解決してきたのか。 他者一般と対等な大人同士の関係を築ける人が初めて、親子関係でもきちんとした関係を築ける。 以上を前提に、 親子関係のあるべき姿を、以下の3段階で考えたい。   1.第1段階  親>子どもの段階

(1)親子関係が親>子どもの段階
夫婦関係が作られ、そこから子どもが生まれる。
親は子どもを育て、教育する権利と義務を持つ。
子どもは両親の保護下にあり、それがなければ死ぬ。
法律でも親の教育権、子どもの法的権利の代行を求めている。
親>子どもの関係
子どもは親の支配下にある。
衣食住だけではなく、生き方、物の見方、価値観においてもそう。

(2)子どもの本質は未来の社会の働き手
子どもの尊厳性の根源は、未来の社会の働き手ということから生まれる。

子どもは夫婦の、両親の所有物ではなく、
子どもは神(社会)からの授かりものであり、社会の働き手として育て、教育し、社会へと返すものである。
(この考えは堺利彦が明示している)

(3)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
子どもの自立とは、未来の社会の立派な働き手になることだが、
そのためには、子どもが自分自身の夢とテーマを持ち、それを生きる覚悟と能力を持つことが必要である。

そのためには、子どもが親から自立する過程が必要で、それを保障しなければならない。

それが難しい。
子どもの側では、親から承認されたいという強い欲求があるからだ。
この承認欲求がどれほど強いものかを、深く理解する必要がある。
兄弟姉妹で、親からの承認欲求をめぐる争いと、その後遺症の大きさを理解しなければならない。
この両親や世間からの承認欲求は、成長への動機にもなるが、阻害の動機にもなる。
この真の克服は、両親や世間の価値観とは独立した自分のテーマと思想を確立することになる。

また、子どもの自立が難しいのには、親の側にも大きな問題がある。親もまた自立(子離れ)できないでいる
ことが多いからだ。

親は子どもへ過干渉、過保護になりやすい。
しかし、放任や放置は違う。親自身の考えをきちんと説明し、子どもの言動で批判するべきは批判する。
問題提起をするべきだ。
おしつけと、適切な意見や批判提言の違い。距離の取り方

母親が子育て、教育を自分の仕事、役割としている場合、子離れは難しい。失業になるから。
母親は子どもと一体の関係になりやすい。
親子の間の共依存関係になりやすい。
母親と息子の関係よりも、母親と娘の関係の方が難しい。同性ゆえに、距離が取りにくい。

父親は社会での仕事があり、仕事の目標やテーマを持つことが普通であり、
子育てを仕事としていないので、子離れはしやすい。
両親の子離れの過程での父親の役割は、母子の一体関係を壊し、母親と子供の両者が自立していくことを支えること

(4)子どもの進路、進学の選択
子どもが自立する過程では、経済的援助を含めて、親からのさまざまな支援が必要になる。
そこでは親が、子どもの進路、進学で、親の意向による方向付けをしようとしがちだ。

しかし、自立とは、親の価値観や思想からの自立をも含む。
それなしで、子どもが未来の社会の立派な働き手になることはできない。
未来には未来のための新たな価値観、新たな目的、新たな思想が必要なのだ。

親が子どもを支援するのは、親の価値観に従わせるためではない。
子どもが未来の社会の立派な働き手になるためである。それによって人類と社会に貢献するためである。

子どもは、そのことを忘れてはならない。自らは親や社会のお陰で成長できた。
そのお礼とは、第1に、未来の社会の立派な働き手となり、人類や社会に貢献することで果たすべきだ。
そして、いつかは自らの子どもたちを生み育てる。それが次の未来への働き手となるように。

(5)緊急避難
児童虐待などの暴力や養育のネグレクトなど親の側の問題が大きい場合、
社会が子どもを親から引き離し、守らなければならない。

子どもには何ができるだろうか。
残念だが、子どもは親を変えることはできない。
子どもは自分自身を守るために、児童相談所などの公的施設に助けを求めることはできる。
場合によっては、緊急避難的には家出をし、一方的に親子関係を切り捨てることもできる。
一般的には社会人となり、経済的に自立すれば、親から独立できる。

2.第2段階  親=子どもの段階

(1)親子関係が親=子どもの段階
子どもが就職し、社会人になれば、経済的に自立し、それは対等な大人同士の関係になることを意味する。

(2)社会人としての関係、結婚後の関係
対等な大人同士の関係にも2つの段階がある。

一、独立した社会人としての対等とは、親子の個人としての対等関係である。

二、それが結婚をすることで、夫婦としても対等な関係になる。
男女の夫婦関係は、根底に性関係があり、それは閉じた関係であり、他者がそこには踏み込めない領域を持つ。
親といえども、子どもの夫婦間のプライバシーには踏み込めない。
子どもも、両親の夫婦間のプライバシーには立ち入れない。
親子がそうした領域をともに持ち、それが自覚されることは、真に対等の関係をうながす。

結婚式は、親子の親子としての最終局面、それ以降は対等な大人同士の関係になるということだ。

本来は個人(社会人としての子ども)としての関係でも、性的な領域、信仰や信念、思想などで、
踏み込んではいけない領域、距離を置くべき領域はあるのだが、無視されやすい。
それが、結婚によって自覚されるという側面がある。

※注釈
師弟関係は特別。弟子の夫婦関係にも踏み込むことができる

(3)子どもの自立が真に問われる
親子が対等になった時点で、子どもの「自立」が真に問題になる。
なぜなら、すでに子どもは、生き方、物の見方、価値観において、無自覚ではあるが、
両親の圧倒的な影響を受けているからだ。
自立するためには、親の価値観や思想を相対化し、それに対置する形で、子どもは子ども自身の生き方、
物の見方、価値観を、自覚的に作っていく必要がある。
※ここで、テーマと先生がどうしても必要になる。

(4)親子のつきあい方は両者の合意に基づく
親子は、人生の節目節目で意見交換ができればよい。
大学進学、就職、結婚、離婚、定年、遺言

その結果、親子の価値観の違いがはっきりと現れる場合もある。
政治的なこと以外に、生活上の礼儀や習慣でも、違うことが起こる。
結婚観、人間観、社会観、つまり思想一般においても

価値観が違っても、それを認め合ってつきあうことは可能。
しかし、そのためには、その違いを表明し、それを受け入れ合う話し合いの過程が必要。

それが不可能なら、親子関係を終わりにする(絶縁、絶交)ことも可能。親子は対等なのだから。

つきあうなら、どうつきあうかは、対等な関係として決まる。一方の要求だけではだめで、
両者の合意があった範囲のつきあいかたになる。
場合によってはルールを提示し、その合意を確認し合うことも必要。

「どうつきあうか」といっても、「つきあう」限りは、そこから生ずる義務・責務がある。
どういうつきあいかたをするかは、最低限の責務の上にある。
「つきあう」こと自体が無理ならば、絶交するしかない。

3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 親の体力や知力が衰え、自立が不可能になり、介助や介護が必要になる段階 力関係が逆転する。 親<子ども (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか 老人の尊厳性の根源とは、これまでの社会の担い手であり、働き手であったことである。 老後の介護は、その子どもたち家族だけではなく、第1に社会全体がになう必要がある。 (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある 人生の目標を失う。 新たな目標が必要。 前半生での目標は達成した。 子育て、子どもの自立 これが父親の場合も深刻だが、母親の場合はもっと深刻になりやすい。 これは本来は、親の自己責任。 子どものできることは少ないが、アドバイスは可能。 (4)死に方、看取り方 人の生涯の最後の段階の過ごし方、最終段階では何のために生きるのか それを静かに深く考えていく必要がある。 介護が必要な老人とどう関係するか、どう支えるか。   死の迎え方、死までの見送り方 (5)どのような社会を目指すのか 大家族制度は崩壊し、2世代家族(核家族)が中心になったが、3世代家族の見直しもありうる。 大家族制度が復活することはない。墓制度の崩壊 血縁関係にこだわらない集団生活もアリだ。 新たな社会の構想力、思想こそが必要だ。      2016年10月4日初稿、2017年3月10日改訂 

3月 02

3月のゼミですが、
3月26日のゼミは中止とし、
3月11日のゼミで読書会を行います。

読書会ではヘーゲル『精神哲学』を読みます。

参加希望者は
早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1.3月読書会テキスト

3月11日(土曜日)午後2時からの読書会テキストが決まりました。

ヘーゲル『精神哲学』岩波文庫下巻の37節から106節までを範囲とします。

人間は動物と何が違うのか、人間の本質とその使命とは何か。
それへのヘーゲルの解答がここにあります。

いつものように
補遺は飛ばして、全体の関係を読むようにしてください。

2.4月からのゼミのスケジュール

基本的に、ゼミの開始は午後2時、
読書会後の「現実と闘う時間」は開始を午後4時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

4月
9日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
23日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

5月
7日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
21日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

6月
4日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
18日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

7月
2日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
16日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

8月には合宿があります。
8月16?19日

2月 19

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。それから1年半が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

2016年秋からの学習会2つの報告を掲載します。

■ 全体の目次 ■

1、3月の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)のご案内
→2月17日

2、土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』学習会(2016年11月26日)報告
 →2月18日

3、尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(2016年12月11日)報告
 →本日2月19日

==============================

3、尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(2016年12月11日)報告
                                  田中由美子

尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』(岩波ジュニア新書2009年)をテキストとして、2016年12月11日(日曜)に学習会を行いました。
中学生、高校生、大学生の保護者の方、6名が参加されました。

今の子どもたちの生活に大きな影響を与えているケータイ・スマホの問題は、私たちにとって新しい問題であり、前々から気になりながらやっと手を付けられたというのが正直なところです。
参加者の方と日頃の悩みや疑問を出し合い、本来この問題はどう考えていくべきなのか、話し合いました。

学習会を終えての私の感想と、参加者の感想の一部を掲載させていただきます。

スマホ問題の解決を通して「自分づくり」を

1.  「自分づくり」ができないスパイラル

親や学校にとっての子どものケータイ・スマホの悩みの多くは、使い過ぎによって勉強時間が少なくなるという問題のようだ。
子どもが勉強のためにきちんと「時間管理」をしてほしいというのが多くの保護者の願いである。
実際、最近の高校生のケータイ・スマホ利用時間は、一日平均2時間にもなるという。
3時間、5時間も、また実質的に24時間スマホに「支配」されているような状況も珍しくない。

一方、尾木氏の問題意識の中心は、中高生の最重要課題である「自分づくり」がケータイによって妨げられるのではないかというものだ。
思春期にある中高生が自分自身について深く考えることなく、ケータイでの安易な自己確認や自己顕示に走ることを懸念する。

無論、勉強も「自分づくり」の大切な要素だが、実際に、子どもがスマホやタブレットの「時間管理ができない」と嘆く保護者は多く、「時間管理をしなさい」という指導はあまりうまくいっていないのも事実だ。

彼らは、勉強を怠けてスマホで楽しんでいるというよりも、スマホや、スマホを通しての友人関係に流されないほどの確かな自分自身をまだ持たず、スマホに吸い寄せられているのではないだろうか。

瞬時に友だちとつながる高機能は、思春期の強い自意識や友だち依存の特性とあまりに相性がよい。
下校後にも学校の友人関係に配慮して延々とラインを続けたり、またライン外しのようないじめや陰口の問題もある。
子どもたちが、思春期という不安定な成長過程にあって友人関係に悩むのは当然だが、スマホによって問題はよりややこしくなっている。
そもそも学校での友人関係に問題があるから下校後にまで引きずるのだが、スマホはそれを可能にしてしまう。

「自分づくり」が進まないからスマホやタブレット、またゲームに流れ、ますます「自分づくり」が進まないという悪循環が生じているのではないか。

学習会では、中学生の息子にもっと思春期らしく「悩んでほしいのに…」という思いや、大学生の娘が「友人と会って話したナカミなどよりも、写真や動画をSNSやYouTubeにアップすることに忙しい」ことへの心配も語られた。

2.  「友情」よりも、自分のテーマ

尾木氏はテキストの中で、大学生のひきこもりが増えているという問題を挙げている。
中高生のときに自分自身の意思で行動した経験がなく、「親の価値観や学校で教えられた価値観」しか持たず、動けなくなる大学生だ。
そうならないように「自分づくり」が必要だと説く。

確かに、ケータイ・スマホ問題に現れている子どもたちの本当の問題は、今現在の問題に留まらず、この先も、大学生、社会人として、周りや社会とどう関係して生きていけるのかという問題だ。

ただし、彼の考える「自分づくり」のナカミは、思春期の心、「内面」の成長に偏っているように思われる。
「友情」や「思いやり」、「人を傷付けない」ことを学び、「自分らしく」生きるというところに留まる。
確かに、思春期の葛藤がどれほど大切かという問題提起は重要だが、自分自身として何をテーマとして生きるのかという、「自分づくり」の核心が抜け落ちているのではないか。

それではひきこもり問題も、スマホの問題も解決できない。
子どもたちの多くは人間関係を軽視しているのではなく、むしろそれは重く、「自分づくり」の方は進められずにひきこもり、またスマホにかじりついているのではないか。

また、子どもがスマホを持たなければ「自分づくり」が進むという訳でもない。
社会全体が目的を見失った現代における、子どもたちの「自分づくり」の難しさが、スマホ問題によって浮き彫りになっているだけではないか。

尾木氏が現役教師だった時代の、テキストに登場するかつての子どもたちの大人への反抗は、今はぐっと弱まって、そのエネルギーがより多く子どもたちどうしに向けられているように感じる。

本来は、スマホや友人関係に関して今実際に起こっている個々の問題に向き合うことを、彼らの「自分づくり」に組み込まなければならないのではないか。
子どもたちの「自分づくり」は、そういった子どもたちの生活に根付き、そして彼らの生きるテーマをつくっていくようなものでなければならない。
また、そういった「自分づくり」の一環としての取り組みでなければ、スマホにまつわるトラブルも解決しないのではないか。

3.  「管理」でも「放任」でもなく

ところが、大方の中学、高校は、建前としてのケータイの持ち込みや使用の「禁止」と、そのルール違反に対する「没収」でお茶を濁している。
当然、ラインのトラブルや下校後のスマホ依存に対しては何もできない。

保護者も戸惑っている。
学習会の参加者は、スマホに関しては子どもの知識の方が親を上回ることへの不安を語った。
尾木氏も、そんなことは「子育てと教育の歴史上はじめてのこと」と述べる。
また、この全く個人的なツールは、子どもが何をしているのか、ナカミが見えないブラックボックスである。
子どもが家庭の固定電話を使っていた頃のように、それとなく様子を知ることもできない。
犯罪を含めたトラブルの心配もある。

なんと難しい問題が、子育てに登場してしまったのだろう!
容易に管理もできなければ、さりとて様々な危険性に目をつぶる訳にも、また彼らが「自分づくり」を進められないままに放任する訳にもいかない。

尾木氏は、「現実の日本社会をいかに人権尊重とモラルに満ちた民主主義社会に変革することができるのか、その本質的な問いかけが、ネットによるバーチャルタウンの出現によって試されている」と述べる。

つまり、ネット依存や、いびつな自己顕示、人権侵害などの問題は、私たちが普段の生活や社会の中で、まだ十分に対等で民主的な人間関係を築けていないことの反映でしかなく、ネット問題解決のためには、現実社会をよりよくする以外にはない。

私たちはいよいよ、子どもの教育についても、これまでの「管理」か「放任」かという二択の教育ではどうにもならないところまで追い詰められたのではないだろうか。
子どもたちが親や学校にこれほど強く管理される現代に、逆に、大人が容易には管理できないようなスマホが現れたのは不思議な矛盾だ。
私たちは、スマホという難しい宿題によって、一方的な管理教育でもなく、「子どもは自由にさせています」でもない、一つ上のレベルの子育てへ進むようにと背中を押されている。

子どもの自立、「自分づくり」を目指す私たちは、スマホ問題について、「禁止」と「没収」、「管理」と「放任」を超える代案を出していかなければならない。

◆参加者の感想より

□思春期の子供たちが抱える問題は、思った以上に深刻であった。思春期という心身ともに不安定な中で、現社会のみならず、大人たちが作り上げたネット社会の中に一旦足を踏み入れたら、もしくは、引きずりこまれたら、自分の知らないもう一人の自分が一人歩きをしてしまうのではないかという怖さがある。「携帯・ネット」の問題は、親である私たちがその全体像を把握できていないところにもある。いじめの手段や中傷の書き込みはどこまでどう広がっていくのかわからないのが怖いのである。このような複雑な環境の中で振り回されずに自分を見つめることはとても難しいと思う。
しかし、ネットの中で繰り広げられているバーチャルな社会も、「れっきとした社会現象にすぎない」と、著者は述べている。「私たちのこのアクチュアル(現実的)な生活そのものなのです」とある。
結局、「携帯・ネット」問題は、現社会に生きる私たちの問題そのものであり、いじめや、自立の問題なのである。これからも、子供たちと一緒に「携帯・ネット」を勉強しながら、自分探しをしていくしかない。

□まず、学習会に参加して良かったと思うことがあります。それは普段、忙しさを理由になかなか読書に手が届かない日々を過ごしてきましたが、このように期限と課題があると時間の合間をぬってできるものだと痛感いたしました。
そして読書した後もテーマについてあれこれ考えることが、今までに無い時間を過ごすことができとても有意義でした。
子供たちの携帯の所持率が上がりつつある頃、私は好ましいこととは思いませんでした。学校で友達と会っている時に話せることを家に帰ってから何故わざわざ携帯を使って連絡し合わなければならないのかと。
その後も携帯が及ぼす悪影響についてばかりが耳に入り、この先子供たちは大丈夫なのかと不安にさえなりました。
しかし、我が家の息子達は今となっては携帯が及ぼす悪影響についてもだいぶ熟知し、逆に便利なツールについての知識が増えてきて上手く付き合えるようになってきました。
著者も語っていたように携帯を子供たちから塞ぎ込むのではなく充分に子供たち自身に携帯について考えたり話し合う機会を設け、それは家庭から学校、地域で取り組むべきなのだと共感いたしました。
そして親も一緒に学ぶ努力も必要だと改めて思いました。

□デジタル時代に生きるということで、インターネットやラインなどは当然主要なコミュニケーション手段です。ただ、あまりにも簡単につながれるということから、依存してしまうのも理解できます、自分自身のことも含めて。
今日の会では、自分づくりに思春期のなかで、どう取り組んでいくかが最重要だなと感じました。コピペ、絵文字が簡単に使え、画一的な表現、自分づくりしかできなくなっているのかも、それにこそ、危機感を持つべきじゃないかと感じました。
個の確立をどう手助けできるかということで、これから高校生になった時、スマホを与える機会を、単に使用のノウハウだけでなく、アナログ時代の親とデジタル時代の息子との、それぞれの思い、心配、期待などをシェアする場にしたいと思いました。
自分づくりは、一生涯の仕事ということは、日頃から私自身痛感することでもあります。それはデジタルで気軽な方法だけではできないということをなるべく早く気づいて欲しいと感じました。一人っ子、男子校、共働きと、リアルな生活も非常に限定的な中で、夢中になれるものが一つでも見つかってほしいです。

□親でも扱うことの難しいスマートフォン。まだ持っていない息子にとてもタイムリーな話題でしたので、今回参加をさせていただきました。
本書では、中高生の成長を通しての携帯との付き合い方について書かれていました。中でも気になったのは、現在の「大学生」についてでした。私の中の「大学生」という存在は、完成された大人のイメージでしたが、最近の大学生は引きこもりなど問題があるように思います。「本当の自分」がわからず、あるのは親の人生観や学校で教えられた価値観ばかりと気付いた子達が心のバランスを崩してしまうようです。
そうならないためには、中高生時代の「新しい自分づくり」が大切だと本書では言っています。壁にぶつかったときに身軽に検索で答えを求めてしまう、またはメールやラインで友だちと共感を得るなど、現代の子達は簡単に回答を手に入れてしまいます。とても便利であると思う反面、自分と向き合う大切な時間を見失ってしまう可能性もあります。
この情況は子供だけに限ったことではないと思います。自分の学生時代を振り返ると、今みたいに便利ではなかったこともあり、何かしら不安を抱え込んでいて、自問自答を繰り返していたように思います。しかし、大人になり、スマートフォンという便利なものに出会ってからは、簡単に回答を得てしまう自分がいました。そして何の解決にもなっていない自分にも気が付きました。今の子供達はより慎重に上手に付き合うことが大切だと思います。

2月 18

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。それから1年半が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

2016年秋からの学習会2つの報告を掲載します。

■ 全体の目次 ■

1、3月の「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)のご案内
→2月17日

2、土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』学習会(2016年11月26日)報告
 →本日 2月18日

3、尾木直樹著『「ケータイ時代」を生きるきみへ』学習会(2016年12月11日)報告
 →2月19日

==============================

2、土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』学習会(2016年11月26日)報告
                                       田中由美子

『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット2004年)をテキストとして、2016年11月26日 に学習会を開催し、鶏鳴学園の生徒の保護者の方と、卒塾生の保護者、および卒塾生が参加されました。

休憩時間中もお話し合いが絶えず、ひとりで悩むことの多い子育ての問題について、他の保護者と話し合えてよかった、気が楽になったとの声もありました。

また、参加者の方から、学習会の感想として、「個性」とは結局何なのかという戸惑いの声と共に、それぞれの答えが寄せられました。

今回、「個性」という難しいテーマが焦点になりましたが、みなさんの関心の高さに背中を押されました。
子どもたちももちろん悩んでいますが、それがはっきりするまでに相当時間がかかるのに対して、私たち大人はすでにいろいろな問題意識がコップ一杯になってあふれていると感じました。

そのことに十分応えられるように、より一層よく話し合えて、学び合える学習会にしていきたいと思います。

以下に、学習会を終えての私の感想、特に個性についての考えを掲載します。
また、参加者の感想の一部も掲載させていただきます。

問題意識こそ、個性

1. 友人関係の息苦しさ

今の多くの子どもたちの友人関係は、とても息苦しいもののようだ。
その状況を知る入門書として、本書を取り上げた。
参加者の一人は、初めてその状況が少しわかって、以前子どもに、その友人関係について的外れなことを話したと振り返った。
時代の変化は早く、私たち大人が今の子どもたちのことを理解するのは難しい。

土井氏は、彼らの「友だち関係の重さ」や「優しい関係」、その息苦しさを的確に指摘する。
また、特殊な事件の根底にある、広く一般の子どもたちに共通する問題が、調査に基づいてわかりやすく説明されている。

2. 生きる目標や指針がない

ただし、本書には問題解決の展望がない。

子どもたちの「親密圏の重さ、公共圏の軽さ」という現象を現象のまま捉えたのでは不十分であり、その本質は、「親密圏」、「公共圏」を問わず、あらゆる人間関係の「軽さ」、「他者の不在」である。

また、それは子どもたちだけの問題ではなく、大人社会の同じ問題の反映でしかない。
たとえば、現在保護者と学校は、学校や家庭の問題について十分に話し合えるような状況にはなく、同じく、子どもたちどうしも互いの対立やトラブルが表立たないように気を遣い合って、深くは関わり合わない。

それでも、人間は本来他者との関係の中でしか自分を展開できず、大人も子どもも手近な親密圏の人間関係に頼りがちである。
その重くて薄い関係には、問題があると同時に、潜在的には外とつながる本来の生き方への希求があるのではないか。

しかし、私たちにはまだその指針がない。

経済成長を目的に生きた祖父母や、親の、次の世代として、何を目標に生きればよいのか、私たち自身が戸惑っている。
今の社会には、皆で共有できる、わかりやすい目標はない。
たとえば、偏差値の高い学校を目指すことも、かつては社会全体の経済発展という目的を共有することでもあったが、経済発展の難しい今は、たんなるお互いの競争になりがちだ。

子どもたちもどう生きたらよいのかわからず、彼らの意識が人間関係や処世術に吸い寄せられ、その苦しみが「いじめ」やその特質としても現れているのではないか。

3. 問題意識こそ、個性

私は、土井氏の主張する、個性が「社会規範」と化しているという矛盾が問題だとは思わない。
問題は、個性のナカミだ。

また、個性が他人との比較による相対的なものだという土井氏の考えに反対だ。
「比較」は、子どもたちが自分の生き方を考え始めるために必要だが、その一契機でしかない。

彼らが「自分の感覚こそが、ともかく最優先」という状況だとも、それを個性だと本気で考えているとも思わない。
表面的な感覚を優先していたとしても、肝心な感覚は抑圧し、それをおいそれとは外に出せないのが、子どもたちの実態だ。

私の考える個性とは、他ならぬその人自身が、自分のそれまでの人生をどう理解し、この後の人生をどうつくっていきたいのかという自己理解である。
また、これからどう生きていくのかを考える中で、それまでの人生への理解を深めていく、その全体が、自己理解=個性だ。

また、それは単に自己満足的なものではなく、客観的、具体的なものでなければ、個性とは言えない。
自分は他者や社会とどう関係してきたのかを具体的に振り返り、そして今後はどう関係して生きていくのか、という客観性や具体性だ。

つまり、自分を含めた人間というものや、人間の人生を、またこの人間社会をどう理解し、どんな価値基準を持って生きるのか、その自己理解=他者理解=個性だ。

たとえば、中高生がどんな職業に就きたいのかが、個性や夢ではない。
個性や夢とは、医者になりたいという思いではなく、どんな医者になりたいのか、医者になって今の社会のどんな問題を解決したいのかという問題意識だ。

また、個性は若者だけの課題でも、夢でもない。
私たちは誰もが、自分の存在や人生は何だったのか、何なのかを死ぬまで問い続ける。
その日常生活の中での具体的な問題意識が個性であり、またそれが、自分の個性を全面展開する唯一の源だ。

現実にぶつかって心が折れる中にこれからの自分があると、自分に言い聞かせる毎日である。

◆参加者の感想より

卒塾生の保護者、Aさん

この春、高校を卒業して4月から大学生になった娘は、新しい環境で新しい友達と新しい付き合いが始まっている、はずであった。しかし、実際には、スマホを片手に以前と何も変わらない、差し障りのない言葉のやり取りをするその場しのぎのお付き合いが夜中を過ぎてもほぼ毎日続いている。

作者のいう、「優しい関係」である。

良好な関係を築くため(壊さないため)に、自分の気持ちよりもその場の空気を優先して、その時を乗り切っていく刹那的な関係は、常に気が休まらずにさぞかし疲れるであろう。

実は、親である私自身が言葉遣いに気を配り、極力波風を立てないような対人関係を目指し、「優しい関係」を築いて過ごしてきた。母親にでさえ、未だにストレートに本音や感情を表すことができずにいる。その結果、今になって、もどかしさや息苦しさが溢れ出して自分に大きくのしかかってきている。家庭論学習会に参加させていただき、少しでも何かを学びたいと思ったきっかけの一つである。

子供たちが小さい頃から、「たくさんのお友達を作って、みんなに優しくしてね。」と、伝え続けてきた子育てを振り返り、その言葉の意味を改めて深く考え、遅ればせながら親が子に与えた影響を学習会を通して考える機会をいただいた。今後、母と、そして、子供たちとどのように関わって過ごしていきたいのか。何より、子供たち自身は、本当は私とどのように付き合っていきたいと思っているのか、または、本当はどのようなことに負担を感じているのであろうか。

この、本当はどうしたいのか、本当は何をしたから辛かったのか、という心の奥底の声に素直に耳を傾けると、自分の「個性」が見えてくるのであろう。

生徒の保護者、Bさん

テキストについては答えが見つからずに終了したように思いましたが、私にとっては初めて皆さんとあのようにお話し合いができたことにとても意味のあった会でした。

現代の子供たちの友達関係は確かに複雑化しているように思いますが、1人1人は自分の目的を探す為に必死になっていてそれがなかなか見つからず友達との関係に固執してしまう傾向にあるのかな?と思いました。

我が家の息子達も今、自分のやるべきことが見えている時は友達とのLINEなどそれ程気にする事もなく上手く距離を置いて付き合っているように思いました。

大人も忙しくしている時は周りの人間関係をさほど気にせずにいて、時間を持て余すと余計なことまで考えてしまうように思います。

子供たち1人1人が自分のことに関心を持ってこれからのことを真剣に考えていけるような機会や場所が学校の中だけでなく、もっとたくさんあったら少しずつでも変わっていけたらなと願うばかりです。

生徒の保護者、Cさん

素の自分の表出・・・自分の思いを優先しストレートに発露する
装った自分の表現・・・自らの感情に加工を施して示す

本書では、この二つを対比させていましたが、私は「自分の思いを、偽ることなく 相手が理解したい、聞いてみようかな と思うような表現をする。」のが理想的だと思いました。娘がこんな風にできれば、いずれ社会に出たときに、苦労があったとしても 理解者を得て頑張れるのではないかと思っています。

自身を振り返ると 若いときは、伝えたい自分の思いがあったけれど、表現ができず 遠回りをして それでも伝わらず あきらめたり。今は経験で多少器用に、マシになったはずなのに 「自分はどうしたい?どう思う?」中身がわからなくて悩みます。

どの世代のどんな人も子どもたちの様に 自分自身を表現することは 難しく、勇気がいることだと思います。

ただ、娘が本書のように自分を偽って学生生活を送らなければならないなら 頭のどこかに本当の自分を消し去らないでおいてほしいと思いました。いつか、自分を表現できる時が来るまであきらめないでほしいです。苦しいこともあると思いますが そういうものを心に抱えながら生きていくことで、工夫をしたり、周りの人の気持ちに共感したり、想像したりできるようになるのではないかと個人的に思っているからです。

この学習会をきっかけに「個性」について、じっくり考えましたが、個性=性格なのか、個性的 と言われるちょっと人とは違った特別な何かなのか、混乱しました。はっきりとした正解がないことを深く考えるのは、普段とは違う感覚でした。