4月 08

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

大林監督の尾道3部作(「転校生」「時をかける少女」)を見たのは、すでに30年以上前。
寺社仏閣と古い街並み、海岸近くまで張り出した山(坂道)と海とが一体となった地勢に引き付けられて、一度行ってみたいと思っていました。

それが今回実現しました。

連日、ゼミ生のA君が案内をしてくれました。尾道は彼の郷里なのです。
A君のおかげで、尾道の現地の方々と、尾道の問題や文化について語り合うことができました。
それがとてもありがたかったです。尾道が私の内側に入ってきた実感があります。

3日間を振り返り、
須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 尾道の3日間 ◆◇

 2015年1月17日から19日までの3日間を、1日ごとに振り返りたいと思います。

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1月17日

(1)昼から尾道市立美術館で学芸員の方に案内してもらい、展示中の小林和作の絵(代表作20点ほど)を見ました。
彼は小林を「ヤクザの親分のような人」「尾道の天皇」と称していました。
小林が尾道で後半生を過ごすことになった理由では
「尾道では人との関係ができたから居座ったので、尾道の風景と彼の絵画には関係はない」と説明していましたが、
彼の風景画は、この尾道の地勢、気候、風土において確立したのだと思います。須田はそう言っています。
 なお、バブル期に地方でもたくさんの美術館が設立されています。その設立はよいとして、
その後の維持費は人件費も含めて大変な負担になっていると推測します。
尾道市立美術館の学芸員は1人しかいないようです。

夕方に、尾道駅から近い「おだ画廊」で和作の絵を10点ほど見せてもらいました。
日本画も数点あり、掛け軸も見せてもらいました。掛け軸は素晴らしかった。
和作にとって日本画も西洋画も、それほど違いはないように感じました。

その店主と話しました。先代が和作との直接の付き合いがあったようです。
地方での美術館と画廊との提携などについても聞いてみました。
一部の美術館では画廊と学芸員が協力して展示を企画するようなことも実現しているようですが、尾道にはないようです。

(2)美術館の周辺のロケ地めぐりもしました。

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18日

(1)昼からお隣の福山市に行き、ふくやま美術館(福山市立)で「須田国太郎と独立美術協会」の展示
(収蔵品の展示ですが、常設展示の一部を企画展風にしたもの)を見ながら、
学芸員の方に話を聞きました。
須田の水墨画風の松図(屏風)、和作らとの共作の掛け軸や共作で絵付けした焼き物などもありました。

尾道美術館とふくやま美術館。美術館によって、企画力に大きな違いがあることを痛感します。
ふくやま美術館では常設展の中にも、一部に年数回の企画展を実施しています。
美術館それぞれの予算や、スタッフ数などは違いますから、ふくやま美術館には余裕があると言えるかもしれません。
しかし、何よりもそれは、志の高さの問題であり、トップの考え方によるのだと思いました。

(2)その後、古い民家の再生と斡旋仲介(尾道全体の再生)をしているNPOが再生を試みているガウデイハウス(と呼ばれる)など、
彼らの拠点と駅の裏の散策からロケ地めぐりをしました。「転校生」で2人が入れ替わってしまう場面の神社とその石段を見ました。

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19日

(1)午前中は小林和作の旧宅を訪れました。ここを須田がしばしば訪れて、2人で語り合ったり共作していたのかと思うと、感慨がありました。
さらに、尾道大学の美術館で小林和作のスケッチ10点ほどを見ました。

(2)尾道のロケ地めぐり(「転校生」の主人公の家)をし、タイルのある小道(「時をかける少女」)を発見して喜んだり、ミーハーそのものですね。

(3)午後に、古い民家の再生をしているNPOの代表・豊田雅子さんと話しました。
  JTBの海外のツアーガイドをしていた普通の女性が、故郷にUターンしてからNPOの代表として大活躍をするまでの物語も面白かったです。

  そして今後の課題の課題から出てきた
「港町は職人を育てない」「職人を育てる枠組みを作りたい」とのコメントが、尾道を理解するうえで、興味深かったです。

3月 31

東京国立博物館で4月28日(火)?6月7日(日) 特別展「鳥獣戯画―京都 高山寺の至宝―」が開催される。
国宝「鳥獣戯画」の実物を見るチャンスだ。

実は、この特別展は、昨年秋に京都で開催されていた。
それの巡回なのである。

私は昨年、京都にこの展覧会を見に行った。
そこで感ずるところがあり、それをきっかけに、考えたことをまとめた。

それはすでに昨年2014年10月28日のブログに掲載した。

本日、再度、掲載しておく。

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高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」 中井浩一

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
明恵が青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる』で次のように説明する。「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、
「あるべきようわ(何か)」という問いかけである。

「ある」=存在 を問うことが、生き方(当為)を決める点が、真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。

「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

2014年10月28日

3月 30

4月以降のゼミの日程が決まりました。
読書会テキストは決まり次第、またお知らせします。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。ただし文章ゼミは1回2000円。

2015年4月以降の予定

基本的に、文ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

4月
11日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
26日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

5月
9日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
24日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

6月
6日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
21日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

7月
4日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
19日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

8月合宿
20日から23日

3月 07

絵の好きな人のために

ロベール・クートラス展を渋谷でやっています。

まったく知らない人でしたが、
NHKの「日曜美術館」での数分の紹介で知りました。

見てすぐに、これはいかなくては、と思いました。
(こうしたことはめったにない。5年に一度ぐらい)

すぐに見に行って、今も、その余韻の中に沈んでいます。
これは不思議な力を持っています。

詳しくは以下です。

渋谷区立松濤美術館 〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14 TEL : 03-3465-9421 FAX : 03-3460-6366

「1930-1985 没後30年 ロベール・クートラス展 夜を包む色彩 カルト、グワッシュ、テラコッタ」
会期: 前期:2月8日(日)?22日(日)
     後期:2月28日(土)?3月15日(日)
会期中休館日:3月2日(月)、9日(月)
※2月23日(月)?27日(金)は展示替えの為ご覧いただけません。
 本展は会期中、展示替えは予定しておりません。
開館時間:午前9時?午後5時(最終入館は閉館30分前まで)

画像 ©Robert Coutelas

  パリ・モンパルナスで生まれたロベール・クートラス(1930-1985)は苦学し、リヨンの美術学校で学びました。画廊と契約を結び幾つかの個展を開きましたが、それはどれも彼の理想とはかけはなれているものでした。画廊と決別したあとは、ひたすら一人だけの孤独な作業にのめりこむしかありませんでした。
 クートラスは亡くなるまでの長い時間をタロットカードの様に切りぬいたボール紙に描くカルト(carte)の制作に没頭していきました。どこで発表するでもない6000枚にも及ぶこのアトリエでの密室での作業は、クートラスの孤独な夢想のなかから生まれた、彼の人生そのものでしょう。
 本展ではそんなクートラスの代表作ともいえるカルトを中心に、グワッシュ、テラコッタなど約150点を展示致します。

 協力:岸真理子・モリア、Gallery SU

上記は松濤美術館のホームページ(以下)より引用
http://shoto-museum.jp/05_exhibition/index.html

1月 03

日本語の基本構造と助詞ハ  その5

三 日本語の基本構造と助詞ハ            中井浩一

 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
  2.1 現実世界で対象が意識される場合
(1)対象として意識する
(2)名付け
(3)文(判断)が生まれる 
(4)「判断のある」と「存在のある」
(5)「存在のある」と他の性質  
(6)「存在のある」と他の動詞
(7) 肯定と否定 
(8)全体から部分へ、部分から全体へ 
  2.2.言語世界で対象が意識される場合
(1)文全体が意識された場合
(2)文から述語部に

                                     

 1.松永さんの論文について

 松永さんは東大の大学院で野村剛史氏のもとで日本語学を研究してきた。20代の後半に始め、
すでに10年以上の期間になる。松永さんの評価できる点は、日本語の助詞、特に助詞ハの研究に
専念してきたことだ。助詞は日本語の根底をなしており、その中でもハは核心だ。こうした大きな
研究対象に取り組むことは普通は避けられる。大きすぎ、根本すぎて、すぐに成果は出ない。
評価されにくい対象なのだ。

 そのハの研究にあっても、デハナイに着目したことも、すぐれた直感だったと思う。ここにはハの
根源的な機能が隠されていると思う。

 問題に気づけた人は、その答えを出す能力を持っている人だ。マルクスがそう述べているが、
松永さんにもそれが言えるはずだ。ただ、助詞は、そしてハは、ムズカシイのだ。日本語の基本構造が
そこにあり、それをつかまない限り、真相は見えてこない。

 この4年間、私は松永さんと一緒に野村氏の助詞ハ、ガ、ノに関する論考や関口存男の『冠詞論』を
読みながら、言語一般の発生(名詞の生成)からの展開、文(判断)の成立の意味、名詞の変質・消滅
までを考え続けてきた。

 同時に、ヘーゲルの判断論、アリストテレスの形而上学を読みながら、人間の認識そのものの成立過程、
展開過程を考えてきた。その両者は基本的には同じことなので響き合い、相互に深まりあうことになった。

 松永さんはこの2年ほど、繰り返し、デハナイの意味について論考を書いてきた。しかし、それはまだ
まだバラバラで混乱していた。1つの原理原則から、すべてを押さえようという覚悟が感じられないのが、
一番不満だった。それを繰り返し指摘してきた。名詞の生成と分裂(判断)から、すべてを捉えつくせ!

 今回掲載した論文(今年の3月に書き上げられた)で、松永さんは初めて、それをなんとかやりとげたと思う。
全体を1つの原理で貫徹しようとしたことが、何よりも優れている。全体も、細部も、一応は論理的に展開され
ているし、「3.デハナイ」と「6.否定と対比」がよく考えられていると思う。その志の高さから、すでに可
能性としては、日本語学の研究者の中ではトップだろう。

 それだけに、これからどう生きるかが重要だ。それは学会との関係や距離を定め、在野の存在で終わることも
覚悟し、ひたすらに真理に向かって突き進めるかどうかだ。

 その点で、一番気になったのが、今回の論文を野村氏の理論を踏まえて展開したことだ。踏まえるのは良いが、
対立点が明示されず、野村氏の理論に対する自分自身の立場を表明していないことだ。これは「ひよっている」の
ではないか。このことは、もっと根本的には学会との関係、そこで前提とされている専門用語の使用法としてあら
われている。

 今回の論文は、多くの前提を持っている。主語と述語、肯定と否定、文と単語、名詞、判断、個別と普遍、
助詞、助詞ハの基本用法、確定と仮定、用法などなど。しかし、本来は一切の前提なしに、それらすべての生成の
根源から説明しなければならない。そうでなければ、助詞ハには迫れない。それに迫るには、そもそも言語とは何
かを、一切の前提なしに解き明かさなければならない。その覚悟があるのだろうか。

 そのことと重なるが、今回の論文の内容で言えば、デハナイを「述語部」内の分裂と理解した点が致命的な誤り
だと思う。私は、デハナイは、文が文のままに対象化されたものととらえる。

 今、松永さんに問われているのは、どこまで根底的に、根源にさかのぼって言語、日本語を捉える覚悟があるのか、
という点だ。

 2. 代案

テーマは、助詞ハとは何かだ。今回の松永さんの論文に即して批判をすることは不可能なので、端的に、
私の代案を示しておく。

 2.1 現実世界で対象が意識される場合

(1)対象として意識する
 言葉の始まりが問われる。それは人間に、外界の現実世界の何かが対象として意識されることだ。
「ムッ!」「ウン!」。ここにすでに対象と自己との分裂が起こっており、その対象は何かという疑問、
問い(つまり自己内二分)が潜在的に存在している。人間の個人的レベルでは、赤ん坊の空腹や排泄物での
不快感などを想像してほしい。それが人間集団のレベルでは狩猟・採取段階の労働や家族関係の中でも生まれてくる。

この対象を対象としたという意識には助詞ハも潜在的には生まれている。それは「その対象ハ何か」という形で意識
される(これが主題のハの潜在的状態)。また、「存在のある」も潜在的には生まれている(後述)。

(2)名付け
 次の段階では、とりあえず、その対象をAと名付ける。これが名詞の始まりであり、ドイツ語では無冠詞。このAが、
その対象は何かという問いへの一応の答えであり、一応の解決になっていることに注目したい。(この点は関口存男
の『無冠詞』)から学んだ)。

(3)文(判断)が生まれる
 しかし、それはただ名をつけただけで、その対象が明らかになっているわけではない。さらにその問いに答える
ためには、対象世界自らが分裂し、自らの本性を示すことが必要だ。それがその対象から1つの性質(B)が現れること
である。

A=B、A ist ein B、

AはBであると表現される。この時、その対象は何かという問いへの答えは、より深く、対象の
内実に迫っている。これを判断と言う。ここで対象は対象としてはっきりと意識され(それが主語になる)、それに
ハがつく(主題のハの顕在化)。

 主語(主題)とは対象として意識された対象のこと。対象から分裂して現れた部分を述語部という。
AからBが現れたのだが、これをヘーゲルはAがAとBに分裂したと言う。判断は外的世界の二分と統一だが、同時に
それを認識する意識の内的二分とその統一でもある。そして判断においてA(主語)はナカミの空虚な入れ物でしかなく、
そのナカミはB(述語)で示されるとヘーゲルは言う。ここで意識はA(主語)からB(述語)へと重心を移動している。

(4)「判断のある」と「存在のある」

A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花は美しい

 こうした判断の中に現れてくる「ist」や「である」は「判断のある」と言われる。

 これに対して、A ist.  Aはある
これを「存在のある」と呼ぶ。

 ここで、「判断のある」と「存在のある」の関係が問題になる。しかし、本当は、この「ある」がそもそもどこから
生まれてくるのかが問われるべきだ。

 それは対象を対象として意識した時、そこに対象の存在が潜在的に含まれているのだ。それが顕在化し、外化した
ものが「存在のある」なのである。つまり、対象Aを対象(A)として意識する時、それは(存在したA)であり、
それを意識した時にAは(が)ある。A ist. と表現される
 
 そして判断とは、その意識された対象Aが分裂し、そこから性質(B)が現れることなのだから、そこに「存在の
ある」が存在しており、それが転じて「判断のある」が現れていくるのだ。つまり、「判断のある」は、対象Aに
潜在化していた「存在のある」から生まれたものと言える。ただし、以上は、論理的な説明で、時間的な順番ではない。

(5)「存在のある」と他の性質 
 A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花はきれいだ

 これは判断である。
 ではA ist.  Aはある  Die Blume ist. この花は(が)ある
は何か、これも判断なのか。

 私は、これも先の判断文と同じ判断であり、Die Blume「この花」の分裂の1つだと考える。ist(sein)「ある」も
「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、
「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。

 しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも
根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。

 なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、
「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」
とは「この花はある」ということなのだ。

(6)「存在のある」と他の動詞
(1) Die Blume ist. この花は存在する
(2) Die Blume riecht.  この花はにおう
(3) Diese Blume zieht Leute an.  この花は人を引き付ける

 私は先に、(1)「この花は存在する」は判断だと述べた。では(2)や(3)はどうなるのか。
(2)や(3)も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断
とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、
述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質が外化したものでしかないということだ。
その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

(7) 肯定と否定
 判断で肯定と否定の形があるが、それはどこから生まれるか。それは「存在のある」(sein)とその否定、つまり
「存在しない」=「無」(nicht)から生まれる。
この「無」は対象(A)として意識された対象(A)が実際に存在しなくなる、消滅したり変化したりすることで意識される。
この「存在」と「無」が、判断の形式のレベルで捉え直されたときに、「肯定」と「否定」が意識されるようになる。
ここに「否定」が生まれ、「反対」「対極」という考えが生まれる。肯定の否定は否定だが、その否定の否定は肯定である。
この花は赤い、この花は美しい、この花はバラだ、この花は香る といった肯定表現に対して
この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない、この花は香らない が否定表現だ。

(8)全体から部分へ、部分から全体へ
 認識が進むと、最初に意識した対象全体から、その部分へと意識が移ったり、その逆に部分から全体へと意識が移っ
たりする。その意識の中には全体を否定し、その反対の部分へという意識があり、それは「否定」「反対」という考えが
前提となっている。これが全体と部分の「対比」の意識にもなる。

 以上は、そもそも現実世界からある対象が意識される段階から始めて、名前が生まれ、さらには判断が生まれてくる
段階を見てきたのだが、そうした判断の形式が、普通の日常で、ごく普通に使用されるようになると、現実世界とは
別の言語世界(観念の世界)で、同じことが繰り返されるようになる。

 2.2.言語世界で対象が意識される場合

 ここからは、対象は現実世界のものではなく、言語世界での文や語句になる。ある判断(文)や、文の中のある語句
や単語が、対象として意識されるのだ。

 そこで、ここでは、わかりやすいように、意識された対象を(  )でくくって示すことにする。

(1)文全体が意識された場合

 ある文、判断が対象として意識される場合を考える。
(A ist ein B)、(AはBである)が対象として意識される。
「ムッ!」「ウン!」。ここにはすでに対象と自己との分裂が起こっており、対象化された判断への問い(つまり自己
内二分)が内在化して存在している。

 その問い、疑問には、対象化された判断への「否定」(疑い)が内在化されている。逆に言えば、まったくの「肯定」
の場合には、対象と自己との分裂が起らず、その判断が意識の対象とはならない。

 その否定を外化させれば、次のようになる。
(AはBである)はない。
(AはBで)はない。

 「ムッ!」「ウン!」とある判断が対象として意識され、その判断への疑問、問い(つまり自己内二分)が自覚され
るが、検討の結果、最終的には「否定」でなく「肯定」になった場合は次のようになる。

(AはBで)はある。
これは(AはBである)はない。と思ったが、結局は(AはBである)であった。ということだ。

 なお、松永さんが仮定条件にはデハナイが現れない理由を考えているので、それへの私見を出す。人に文が意識され
れば、その文を意識してハが現れるのが普通だ。仮定条件とは、その(意識された文)が仮定条件として意識されるこ
とだ。それが「?デナイならば」と表現され、「?デハナイならば」とならないのはなぜか。「ならば」の機能の中に、
文を意識するというハと同じ機能が含まれているからだ。

 これは、人は1回に、1つのことしか意識できないことをも意味する。ある文(肯定文)を意識した時に、
デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件
「ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、1つの対象(焦点)
が意識されては消えていく。関口なら「達意眼目は常に1つだ」と言うだろう。

(2)文から述語部に

 ここで意識の対象が文(判断)全体から、その述語部Bに集約される場合を考える。

それはBが意識される場合であり、Bへの疑問が潜在的にある場合だ。それが自覚された表現は次のようになる。
Aは(Bである)はない。
Aは(Bで)はない。

 次に、このBの否定が意識されると、そこに内在化された問いは「それに対する肯定は何か」になる。
Aは(Bではない)。 (Cで ある)。
(Dで ある)。
(Eで ある)。
(Fで ある)。

否定と肯定でBとCDEFなどの他の性質が比較され、性質同士の関係が差異から区別、対立、矛盾へと進展していく。
これが「ハ」の「対比」の機能とされるものの内実である。

なお、
Aは(Bで はない。(Cで ある)。

ここから、
Aは(Bで はなく)、(Cで ある)。
また、Aは(Cで あって)、(Bで はない)。
が出てくる。

もう1点補足する。今検討したAは(Bで)はない、と「1.」で取り上げた AはBでない、とはどう違うのか。

この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない と
この花は赤くハない、この花は美しくハない、この花はバラでハない。 

この「は」が入るか否かの違いは何か。これは現実世界の否定がただ反映された表現と、言語世界で述語部が意識され、
そのが否定が意識された表現との違いである。

以上で松永さんが問題にした諸点についての私見の概要の説明を終える。なお、以上の説明ではこれを主に認識の運動
として表現したが、もちろん、対象世界がそのように運動するから、人間がそれを認識できるのである。

また、「1.」では現実世界と意識との関わり、「2.」では言語世界内での意識の動きを説明したが、「2.」の
言語世界は「1.」の現実世界の反映として、現実世界とつながっているから、文や語句の意識といっても、現実世界
の対象意識とも重なることは当然である。しかし言語化された上での意識とそれ以前の意識を区別することは重要だと思う。

                     2014年10月31日