3月 31

東京国立博物館で4月28日(火)?6月7日(日) 特別展「鳥獣戯画―京都 高山寺の至宝―」が開催される。
国宝「鳥獣戯画」の実物を見るチャンスだ。

実は、この特別展は、昨年秋に京都で開催されていた。
それの巡回なのである。

私は昨年、京都にこの展覧会を見に行った。
そこで感ずるところがあり、それをきっかけに、考えたことをまとめた。

それはすでに昨年2014年10月28日のブログに掲載した。

本日、再度、掲載しておく。

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高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」 中井浩一

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
明恵が青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる』で次のように説明する。「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、
「あるべきようわ(何か)」という問いかけである。

「ある」=存在 を問うことが、生き方(当為)を決める点が、真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。

「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

2014年10月28日

3月 30

4月以降のゼミの日程が決まりました。
読書会テキストは決まり次第、またお知らせします。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。ただし文章ゼミは1回2000円。

2015年4月以降の予定

基本的に、文ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

4月
11日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
26日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

5月
9日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
24日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

6月
6日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
21日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

7月
4日土曜日 文ゼミと「現実と闘う時間」
19日日曜日 読書会と「現実と闘う時間」

8月合宿
20日から23日

3月 07

絵の好きな人のために

ロベール・クートラス展を渋谷でやっています。

まったく知らない人でしたが、
NHKの「日曜美術館」での数分の紹介で知りました。

見てすぐに、これはいかなくては、と思いました。
(こうしたことはめったにない。5年に一度ぐらい)

すぐに見に行って、今も、その余韻の中に沈んでいます。
これは不思議な力を持っています。

詳しくは以下です。

渋谷区立松濤美術館 〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14 TEL : 03-3465-9421 FAX : 03-3460-6366

「1930-1985 没後30年 ロベール・クートラス展 夜を包む色彩 カルト、グワッシュ、テラコッタ」
会期: 前期:2月8日(日)?22日(日)
     後期:2月28日(土)?3月15日(日)
会期中休館日:3月2日(月)、9日(月)
※2月23日(月)?27日(金)は展示替えの為ご覧いただけません。
 本展は会期中、展示替えは予定しておりません。
開館時間:午前9時?午後5時(最終入館は閉館30分前まで)

画像 ©Robert Coutelas

  パリ・モンパルナスで生まれたロベール・クートラス(1930-1985)は苦学し、リヨンの美術学校で学びました。画廊と契約を結び幾つかの個展を開きましたが、それはどれも彼の理想とはかけはなれているものでした。画廊と決別したあとは、ひたすら一人だけの孤独な作業にのめりこむしかありませんでした。
 クートラスは亡くなるまでの長い時間をタロットカードの様に切りぬいたボール紙に描くカルト(carte)の制作に没頭していきました。どこで発表するでもない6000枚にも及ぶこのアトリエでの密室での作業は、クートラスの孤独な夢想のなかから生まれた、彼の人生そのものでしょう。
 本展ではそんなクートラスの代表作ともいえるカルトを中心に、グワッシュ、テラコッタなど約150点を展示致します。

 協力:岸真理子・モリア、Gallery SU

上記は松濤美術館のホームページ(以下)より引用
http://shoto-museum.jp/05_exhibition/index.html

1月 03

日本語の基本構造と助詞ハ  その5

三 日本語の基本構造と助詞ハ            中井浩一

 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
  2.1 現実世界で対象が意識される場合
(1)対象として意識する
(2)名付け
(3)文(判断)が生まれる 
(4)「判断のある」と「存在のある」
(5)「存在のある」と他の性質  
(6)「存在のある」と他の動詞
(7) 肯定と否定 
(8)全体から部分へ、部分から全体へ 
  2.2.言語世界で対象が意識される場合
(1)文全体が意識された場合
(2)文から述語部に

                                     

 1.松永さんの論文について

 松永さんは東大の大学院で野村剛史氏のもとで日本語学を研究してきた。20代の後半に始め、
すでに10年以上の期間になる。松永さんの評価できる点は、日本語の助詞、特に助詞ハの研究に
専念してきたことだ。助詞は日本語の根底をなしており、その中でもハは核心だ。こうした大きな
研究対象に取り組むことは普通は避けられる。大きすぎ、根本すぎて、すぐに成果は出ない。
評価されにくい対象なのだ。

 そのハの研究にあっても、デハナイに着目したことも、すぐれた直感だったと思う。ここにはハの
根源的な機能が隠されていると思う。

 問題に気づけた人は、その答えを出す能力を持っている人だ。マルクスがそう述べているが、
松永さんにもそれが言えるはずだ。ただ、助詞は、そしてハは、ムズカシイのだ。日本語の基本構造が
そこにあり、それをつかまない限り、真相は見えてこない。

 この4年間、私は松永さんと一緒に野村氏の助詞ハ、ガ、ノに関する論考や関口存男の『冠詞論』を
読みながら、言語一般の発生(名詞の生成)からの展開、文(判断)の成立の意味、名詞の変質・消滅
までを考え続けてきた。

 同時に、ヘーゲルの判断論、アリストテレスの形而上学を読みながら、人間の認識そのものの成立過程、
展開過程を考えてきた。その両者は基本的には同じことなので響き合い、相互に深まりあうことになった。

 松永さんはこの2年ほど、繰り返し、デハナイの意味について論考を書いてきた。しかし、それはまだ
まだバラバラで混乱していた。1つの原理原則から、すべてを押さえようという覚悟が感じられないのが、
一番不満だった。それを繰り返し指摘してきた。名詞の生成と分裂(判断)から、すべてを捉えつくせ!

 今回掲載した論文(今年の3月に書き上げられた)で、松永さんは初めて、それをなんとかやりとげたと思う。
全体を1つの原理で貫徹しようとしたことが、何よりも優れている。全体も、細部も、一応は論理的に展開され
ているし、「3.デハナイ」と「6.否定と対比」がよく考えられていると思う。その志の高さから、すでに可
能性としては、日本語学の研究者の中ではトップだろう。

 それだけに、これからどう生きるかが重要だ。それは学会との関係や距離を定め、在野の存在で終わることも
覚悟し、ひたすらに真理に向かって突き進めるかどうかだ。

 その点で、一番気になったのが、今回の論文を野村氏の理論を踏まえて展開したことだ。踏まえるのは良いが、
対立点が明示されず、野村氏の理論に対する自分自身の立場を表明していないことだ。これは「ひよっている」の
ではないか。このことは、もっと根本的には学会との関係、そこで前提とされている専門用語の使用法としてあら
われている。

 今回の論文は、多くの前提を持っている。主語と述語、肯定と否定、文と単語、名詞、判断、個別と普遍、
助詞、助詞ハの基本用法、確定と仮定、用法などなど。しかし、本来は一切の前提なしに、それらすべての生成の
根源から説明しなければならない。そうでなければ、助詞ハには迫れない。それに迫るには、そもそも言語とは何
かを、一切の前提なしに解き明かさなければならない。その覚悟があるのだろうか。

 そのことと重なるが、今回の論文の内容で言えば、デハナイを「述語部」内の分裂と理解した点が致命的な誤り
だと思う。私は、デハナイは、文が文のままに対象化されたものととらえる。

 今、松永さんに問われているのは、どこまで根底的に、根源にさかのぼって言語、日本語を捉える覚悟があるのか、
という点だ。

 2. 代案

テーマは、助詞ハとは何かだ。今回の松永さんの論文に即して批判をすることは不可能なので、端的に、
私の代案を示しておく。

 2.1 現実世界で対象が意識される場合

(1)対象として意識する
 言葉の始まりが問われる。それは人間に、外界の現実世界の何かが対象として意識されることだ。
「ムッ!」「ウン!」。ここにすでに対象と自己との分裂が起こっており、その対象は何かという疑問、
問い(つまり自己内二分)が潜在的に存在している。人間の個人的レベルでは、赤ん坊の空腹や排泄物での
不快感などを想像してほしい。それが人間集団のレベルでは狩猟・採取段階の労働や家族関係の中でも生まれてくる。

この対象を対象としたという意識には助詞ハも潜在的には生まれている。それは「その対象ハ何か」という形で意識
される(これが主題のハの潜在的状態)。また、「存在のある」も潜在的には生まれている(後述)。

(2)名付け
 次の段階では、とりあえず、その対象をAと名付ける。これが名詞の始まりであり、ドイツ語では無冠詞。このAが、
その対象は何かという問いへの一応の答えであり、一応の解決になっていることに注目したい。(この点は関口存男
の『無冠詞』)から学んだ)。

(3)文(判断)が生まれる
 しかし、それはただ名をつけただけで、その対象が明らかになっているわけではない。さらにその問いに答える
ためには、対象世界自らが分裂し、自らの本性を示すことが必要だ。それがその対象から1つの性質(B)が現れること
である。

A=B、A ist ein B、

AはBであると表現される。この時、その対象は何かという問いへの答えは、より深く、対象の
内実に迫っている。これを判断と言う。ここで対象は対象としてはっきりと意識され(それが主語になる)、それに
ハがつく(主題のハの顕在化)。

 主語(主題)とは対象として意識された対象のこと。対象から分裂して現れた部分を述語部という。
AからBが現れたのだが、これをヘーゲルはAがAとBに分裂したと言う。判断は外的世界の二分と統一だが、同時に
それを認識する意識の内的二分とその統一でもある。そして判断においてA(主語)はナカミの空虚な入れ物でしかなく、
そのナカミはB(述語)で示されるとヘーゲルは言う。ここで意識はA(主語)からB(述語)へと重心を移動している。

(4)「判断のある」と「存在のある」

A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花は美しい

 こうした判断の中に現れてくる「ist」や「である」は「判断のある」と言われる。

 これに対して、A ist.  Aはある
これを「存在のある」と呼ぶ。

 ここで、「判断のある」と「存在のある」の関係が問題になる。しかし、本当は、この「ある」がそもそもどこから
生まれてくるのかが問われるべきだ。

 それは対象を対象として意識した時、そこに対象の存在が潜在的に含まれているのだ。それが顕在化し、外化した
ものが「存在のある」なのである。つまり、対象Aを対象(A)として意識する時、それは(存在したA)であり、
それを意識した時にAは(が)ある。A ist. と表現される
 
 そして判断とは、その意識された対象Aが分裂し、そこから性質(B)が現れることなのだから、そこに「存在の
ある」が存在しており、それが転じて「判断のある」が現れていくるのだ。つまり、「判断のある」は、対象Aに
潜在化していた「存在のある」から生まれたものと言える。ただし、以上は、論理的な説明で、時間的な順番ではない。

(5)「存在のある」と他の性質 
 A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花はきれいだ

 これは判断である。
 ではA ist.  Aはある  Die Blume ist. この花は(が)ある
は何か、これも判断なのか。

 私は、これも先の判断文と同じ判断であり、Die Blume「この花」の分裂の1つだと考える。ist(sein)「ある」も
「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、
「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。

 しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも
根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。

 なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、
「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」
とは「この花はある」ということなのだ。

(6)「存在のある」と他の動詞
(1) Die Blume ist. この花は存在する
(2) Die Blume riecht.  この花はにおう
(3) Diese Blume zieht Leute an.  この花は人を引き付ける

 私は先に、(1)「この花は存在する」は判断だと述べた。では(2)や(3)はどうなるのか。
(2)や(3)も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断
とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、
述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質が外化したものでしかないということだ。
その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

(7) 肯定と否定
 判断で肯定と否定の形があるが、それはどこから生まれるか。それは「存在のある」(sein)とその否定、つまり
「存在しない」=「無」(nicht)から生まれる。
この「無」は対象(A)として意識された対象(A)が実際に存在しなくなる、消滅したり変化したりすることで意識される。
この「存在」と「無」が、判断の形式のレベルで捉え直されたときに、「肯定」と「否定」が意識されるようになる。
ここに「否定」が生まれ、「反対」「対極」という考えが生まれる。肯定の否定は否定だが、その否定の否定は肯定である。
この花は赤い、この花は美しい、この花はバラだ、この花は香る といった肯定表現に対して
この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない、この花は香らない が否定表現だ。

(8)全体から部分へ、部分から全体へ
 認識が進むと、最初に意識した対象全体から、その部分へと意識が移ったり、その逆に部分から全体へと意識が移っ
たりする。その意識の中には全体を否定し、その反対の部分へという意識があり、それは「否定」「反対」という考えが
前提となっている。これが全体と部分の「対比」の意識にもなる。

 以上は、そもそも現実世界からある対象が意識される段階から始めて、名前が生まれ、さらには判断が生まれてくる
段階を見てきたのだが、そうした判断の形式が、普通の日常で、ごく普通に使用されるようになると、現実世界とは
別の言語世界(観念の世界)で、同じことが繰り返されるようになる。

 2.2.言語世界で対象が意識される場合

 ここからは、対象は現実世界のものではなく、言語世界での文や語句になる。ある判断(文)や、文の中のある語句
や単語が、対象として意識されるのだ。

 そこで、ここでは、わかりやすいように、意識された対象を(  )でくくって示すことにする。

(1)文全体が意識された場合

 ある文、判断が対象として意識される場合を考える。
(A ist ein B)、(AはBである)が対象として意識される。
「ムッ!」「ウン!」。ここにはすでに対象と自己との分裂が起こっており、対象化された判断への問い(つまり自己
内二分)が内在化して存在している。

 その問い、疑問には、対象化された判断への「否定」(疑い)が内在化されている。逆に言えば、まったくの「肯定」
の場合には、対象と自己との分裂が起らず、その判断が意識の対象とはならない。

 その否定を外化させれば、次のようになる。
(AはBである)はない。
(AはBで)はない。

 「ムッ!」「ウン!」とある判断が対象として意識され、その判断への疑問、問い(つまり自己内二分)が自覚され
るが、検討の結果、最終的には「否定」でなく「肯定」になった場合は次のようになる。

(AはBで)はある。
これは(AはBである)はない。と思ったが、結局は(AはBである)であった。ということだ。

 なお、松永さんが仮定条件にはデハナイが現れない理由を考えているので、それへの私見を出す。人に文が意識され
れば、その文を意識してハが現れるのが普通だ。仮定条件とは、その(意識された文)が仮定条件として意識されるこ
とだ。それが「?デナイならば」と表現され、「?デハナイならば」とならないのはなぜか。「ならば」の機能の中に、
文を意識するというハと同じ機能が含まれているからだ。

 これは、人は1回に、1つのことしか意識できないことをも意味する。ある文(肯定文)を意識した時に、
デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件
「ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、1つの対象(焦点)
が意識されては消えていく。関口なら「達意眼目は常に1つだ」と言うだろう。

(2)文から述語部に

 ここで意識の対象が文(判断)全体から、その述語部Bに集約される場合を考える。

それはBが意識される場合であり、Bへの疑問が潜在的にある場合だ。それが自覚された表現は次のようになる。
Aは(Bである)はない。
Aは(Bで)はない。

 次に、このBの否定が意識されると、そこに内在化された問いは「それに対する肯定は何か」になる。
Aは(Bではない)。 (Cで ある)。
(Dで ある)。
(Eで ある)。
(Fで ある)。

否定と肯定でBとCDEFなどの他の性質が比較され、性質同士の関係が差異から区別、対立、矛盾へと進展していく。
これが「ハ」の「対比」の機能とされるものの内実である。

なお、
Aは(Bで はない。(Cで ある)。

ここから、
Aは(Bで はなく)、(Cで ある)。
また、Aは(Cで あって)、(Bで はない)。
が出てくる。

もう1点補足する。今検討したAは(Bで)はない、と「1.」で取り上げた AはBでない、とはどう違うのか。

この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない と
この花は赤くハない、この花は美しくハない、この花はバラでハない。 

この「は」が入るか否かの違いは何か。これは現実世界の否定がただ反映された表現と、言語世界で述語部が意識され、
そのが否定が意識された表現との違いである。

以上で松永さんが問題にした諸点についての私見の概要の説明を終える。なお、以上の説明ではこれを主に認識の運動
として表現したが、もちろん、対象世界がそのように運動するから、人間がそれを認識できるのである。

また、「1.」では現実世界と意識との関わり、「2.」では言語世界内での意識の動きを説明したが、「2.」の
言語世界は「1.」の現実世界の反映として、現実世界とつながっているから、文や語句の意識といっても、現実世界
の対象意識とも重なることは当然である。しかし言語化された上での意識とそれ以前の意識を区別することは重要だと思う。

                     2014年10月31日

1月 02

日本語の基本構造と助詞ハ  その4

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

6. 否定と対比

「大学生ではない」と述べても、「大学生」の特定の対立者は存在しないため、「大学生でない何かである」
ことまでは特定されない。しかし、「大学生ではない」と述べるためには、少なくとも、「大学生」との差
異は意識されていなければならない。

(33) がらんとした控室に、ひとりでぼんやり佇んでいると、不意に、これではない、と
いう思いがこみあげてきた。(中略)試合は終った。だが、何ひとつ見えてくるもの
はなかった。これではないのだ、とまた思った。これではない。しかし、これではないとしたら、いったいどんな
試合なのだろう。いったいどんな試合を作ればいいのだろう。(一瞬の夏)

上例は、「これではない」と述べることで、「これ」との差異は認識されているものの、それが「どんな試合」
であるかということまでは認識されていない。「Aではない」によって表されたAとの差異が、はっきりAとB
との対立として認識されると、たとえば次のような文となる。

 (34) 山田は、大学生ではなく、社会人である。

この「大学生」と「社会人」とがいかなる意味で対立関係にあるかは文脈次第であるが、たとえば(34)を
「山田は大学生ですか?」という質問に対する答えとして見れば、この「大学生」と「社会人」とは、
偽と真という意味で対立している。

6.1 AではなくB

あらためて表(2)を見ると、(34)と同じ「?ではなく(て)」という単純接続の例が20例ある。この20例は
「AではなくB」とパターン化できるもので、そのすべての例がデハナイの直後にその対立規定の現れる例、
つまり、AとBの対比的用例である。

(35) 最初の日にあたしを担当してくれたのはパパではなくて若い頼りないデンティス
トで、あたしを神経過敏にしておびただしい唾液を分泌させてばかりいました。
(聖少女)

(36) たとえば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー・テーブルであると考えたとこ
ろで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう? 
(世界の終わりと…)

これらの例に付した波線部の二項がいかなる意味で対立関係にあるかといえば、(35)は、「パパ=望ましい」
と「若い頼りないデンティスト=望ましくない」という意味で、肯定的評価と否定的評価の対立であり、(36)は、
「球状の物体=常識」と「巨大なコーヒーテーブル=反常識」という意味で、普通の認識と異常な認識という対立
である。名詞述語の場合、その名詞が何と対立関係をもつか、「AではなくB」のAとBがいかなる意味で対立関
係にあるかは、文脈上の解釈によるしかないことが多い。それはともかく、この「AではなくB」というパターン
をもつ用例が、疑問用法を除いた計87例中、20例である。

 6.2 BであってAではない

加えて、表(2)の終止法57例にも対比的用例がある。まず、「AではなくB」を逆さまにしたような、「Bであって
Aではない」というパターンをもった例が、計6例ある。

(37)  読唇術というものは非常にデリケートな作業であって、二カ月ばかりの市民講座
で完全にマスターできるというような代物ではないのだ。(世界の終わりと…)

この例は、A「二カ月ばかりの市民講座で完全にマスターできるというような代物」を、「簡単に習得可能な業」
とでも言い換えれば、B「非常にデリケートな作業」との対立関係が分かりやすくなる。この「Bであって、Aでは
ない」というパターンは、「AではなくB」と同様、「Aではない」の対立規定が同一文中に現れるというものである。
同一文中の対比、である。

 6.3 Aではない。B

さらに、「Aではない」の対立規定が、「Bである」などの形で、直前ないし直後の別の文で現れる例が、
計37例を数えた。

(38) 「タバコ?……タバコだって?」男は思わず吹き出してしまう。「問題はそんなこ
とじゃないんだ……毛屑ですよ、毛屑……分らないかな?……毛屑のために、賽の
河原の石積みたいなまねをしたって、仕方がないだろうってことですよ。」(砂の女)

 (39) もちろん私は機械の故障や係員の不注意が現実に起り得ないと言っているわけで
はない。逆に現実の世界ではその種のアクシデントが頻繁に起っていることを私は
承知している。(世界の終わりと…)

(38)で、A「そんなこと=タバコ」と、直後のB「毛屑」との関係は、相手の主張するもの(問題)と自らの主張
するもの(問題)との対立、言い換えると、ある主張とそれに対する反論、という意味での対立である。また、(39)
に付した長い波線部のうち、Aの中の「起り得ない」と、Bの中の「頻繁に起っている」だけを見れば対立が分かり
やすい。

ここまで見た(35)-(39)の例は、「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」といったパタ
ーンをもち、「Aではない」の対立規定が文脈上に現れていた。つまり、表(2)の疑問用法を除いた87例中63例までが、
対比のある例であった。

6.4 対比なし

そして、終止用法の残る14例は、対比のない例、と見られた。
(40) それはなんだかトルコ語のように響いたが、問題は私がトルコ語を一度も耳にした
ことがないという点にあった。だからたぶんそれはトルコ語ではないのだろう。
(世界の終わりと…)

 (41) もちろん砂は、液体ではない。(砂の女)
 (42) おれの思いつきも、まんざらじゃない。(砂の女)
 (43) あたしの腕のなかで煙突になってるパパは好きじゃないな。(聖少女)

まず、(40)は、主語「それ」が「トルコ語ではない何かである」とまでは認識されているものの、具体的に何である
かまでは認識されていないため、対立規定が現れない。一方、(41)は、「もちろん」という語の示す通り、砂が「個体
である」ことを常識として略している。(40)は、差異(違和感)だけが認識され、それが対立の形で捉えられていない
デハナイ、(41)は、対立が認識されているがそれが表現されていないデハナイの例である。

特に、(41)のような例の存在が示唆することは重要で、それはすなわち、名詞にも形容詞や動詞同様、それ自体が特定
の対立を意味するものはいくらでもある、ということである。「男ではない」とか、「素人ではない」とか、「子供で
はない」とか、こうした「名詞+ではない」の場合、対立規定を必ずしも必要としない論理であり、すなわち、対比の
ない例も十分にあり得るわけである 。

次に、(42)「まんざらじゃない」は、対応する肯定表現が普通でないことから、デナイ終止法にもあった「尋常でない」
などと同様、熟語的、一語的で、否認という意識が薄い。類例として、「冗談じゃない」、「たいしたことじゃない」、
「それどころではない」があって、(42)を含め、計4例である。
さらに、(43)「好きじゃない」に類する例は、「簡単なことじゃない」(2例)、「あまり気分のよいものではない」、
「とくに驚くべきことではない」、「とても追いつくもんじゃありません」、「あたし、みてるんじゃありません」、
「並大抵の歳月ではない」があり、(43)と合わせると計8例である。これらの例に共通することは、デハナイの否定の
対象自体が、元々対立関係にある、というところにある。あえて語彙的に言い表せば、「好き/嫌い」、「簡単な/難し
い」、「よい/わるい」、「驚くべきこと/普通のこと」、「追いつく/逃げられる」、「みてる/他所を向いている」、
「並大抵の歳月/非常に長い歳月」、などとなる。すなわち、前節でデナイ終止法に見られた例と同類である。

最後に、疑問用法のデハナイを除いた、表(2)の「単純接続2」の2例、「順接確定」の5例、「逆接確定」の3例につい
ても、対比のない例であったことだけを報告しておく。以上、疑問用法を除いたデハナイ87例中、対比のある例が計63例、
対比のない例が計24例という結果であった。

6.5 否定と対比

一般に、助詞ハについて論じられる時、「対比」ということが言われるが、それは助詞ハの本質的機能であるのか、
あるいは他の何かから出て来る派生的機能であるのか、とすればそれはどういう理屈で派生するのか、という問題がある 。

助詞ハは、主語名詞の内的二分を反映して主語と述語の間に位置する。また、述語の内的二分を反映してデハナイを
成立させた。デハナイは、否定の対象を明瞭にする。そしてデハナイに限らず、否定文一般において、助詞ハは否定の
対象を明瞭にする。ここから、助詞ハの第二の機能とも言うべき、いわゆる「対比」の機能が出て来る論理が考えられる。
すなわち、否定の対象を明瞭にすることによって、同時に、捨象されたものの存在が暗示されるという論理である。
輪郭を定めると、輪の内と外が生じるようなものである。場合によっては、対象外とされた存在者が、対立的に暗示される。

(44) 山田は、朝食を全部は食べない。

たとえば(44)は、助詞ハによって「全部」を明瞭に否定することで、それと対立する「部分」が否定の対象外として暗示
される。だから、(44)の言外に、「少し食べる」とか「ほとんど食べる」といった内容が解釈される。同様に、「朝食は
食べない」とすれば、「朝食」と対立する「昼食」ないし「夕食」などが否定の対象外として暗示され、「昼食や夕食は
食べる」といった内容が言外に解釈される。さらに、(44)で、「山田」にも助詞ハが付いている以上、それも否定の対象
となり得るから、否定の対象外として「山田以外」の存在が暗示されて、「他の人は全部朝食を食べる」といった内容が
言外に解釈されることもある。このような言外の解釈が実際に表現されると、次例のような一般的な対比の用例になる。

(45) 山田は、朝食は食べないが、昼食と夕食は食べる。
(46) 山田は朝食を食べないが、竹田は朝食を食べる。

無論、「対比」一般の問題がこれで片付くわけではないが、以上、「対比」の否定起源説を述べた。

7. おわりに

デハナイは、述語の内的二分を反映し、対象化された認識を否定する。「XはYである」という認識がまずあって、
その認識を対象化して否定するのがデハナイである。認識の対象化は認識の認識であり、デハナイは観念的な否定の表現
である。しかしながら、「XはYである」が基本文である以上、その否定文が「XはYではない」となるのは実は自然なこ
とでもある。助詞ハの本質は二分することにあり、否定がその対象を明瞭にしようとすればそこにハを介在させることで、
否定の対象と否定とが明瞭に二分されるからである。かくしてデハナイはデアル述語の一般否定形となる。

デハナイの一般性は、「名詞+ではない」に限らず、「?のではない」、「?わけではない」などの形で形容詞や動詞を
も名詞化する形、さらには次例のように、連用成分、各成分を直接否定する形にまで及ぶ。

(47) 槍に向ってではなく青い空に向って歩き出して間もなく、加藤は、槍ヶ岳の肩のあ
たりで、小屋が作られつつあるのを見て取った。(孤高の人)

(48) 当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。
  (風に吹かれて)

また、表(2)の調査には現れなかったが、次例のような「禁止」の用法もある。

(49) 「そんなシーンがありましたか? おかしいな、ぼく、そんなシーンを入れたおぼ
えはありませんがね」
「ごまかすんじゃない。あのシーンは無意味だ。カットしたまえ」(ブンとフン)

 さらに、今回対象外とした、「?ではないか」などの疑問用法に至ると、すでに「否定」が止揚され、さらに、
確認用法とでも言うべき「いいじゃない」のような用例では、助詞ハ自体が埋没し、「じゃない」というこの形で
一語的になる。また、形容詞にも「美しくはない」、動詞にも「食べはしない」という形があり、またもう一方には
肯定の「美しくはある」、「食べはする」、デハアルという述語形もある。以上のようなデハナイの更なる進化の方向を
たどる道が今後の課題である。

2014/03/08