1月 02

日本語の基本構造と助詞ハ  その4

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

6. 否定と対比

「大学生ではない」と述べても、「大学生」の特定の対立者は存在しないため、「大学生でない何かである」
ことまでは特定されない。しかし、「大学生ではない」と述べるためには、少なくとも、「大学生」との差
異は意識されていなければならない。

(33) がらんとした控室に、ひとりでぼんやり佇んでいると、不意に、これではない、と
いう思いがこみあげてきた。(中略)試合は終った。だが、何ひとつ見えてくるもの
はなかった。これではないのだ、とまた思った。これではない。しかし、これではないとしたら、いったいどんな
試合なのだろう。いったいどんな試合を作ればいいのだろう。(一瞬の夏)

上例は、「これではない」と述べることで、「これ」との差異は認識されているものの、それが「どんな試合」
であるかということまでは認識されていない。「Aではない」によって表されたAとの差異が、はっきりAとB
との対立として認識されると、たとえば次のような文となる。

 (34) 山田は、大学生ではなく、社会人である。

この「大学生」と「社会人」とがいかなる意味で対立関係にあるかは文脈次第であるが、たとえば(34)を
「山田は大学生ですか?」という質問に対する答えとして見れば、この「大学生」と「社会人」とは、
偽と真という意味で対立している。

6.1 AではなくB

あらためて表(2)を見ると、(34)と同じ「?ではなく(て)」という単純接続の例が20例ある。この20例は
「AではなくB」とパターン化できるもので、そのすべての例がデハナイの直後にその対立規定の現れる例、
つまり、AとBの対比的用例である。

(35) 最初の日にあたしを担当してくれたのはパパではなくて若い頼りないデンティス
トで、あたしを神経過敏にしておびただしい唾液を分泌させてばかりいました。
(聖少女)

(36) たとえば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー・テーブルであると考えたとこ
ろで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう? 
(世界の終わりと…)

これらの例に付した波線部の二項がいかなる意味で対立関係にあるかといえば、(35)は、「パパ=望ましい」
と「若い頼りないデンティスト=望ましくない」という意味で、肯定的評価と否定的評価の対立であり、(36)は、
「球状の物体=常識」と「巨大なコーヒーテーブル=反常識」という意味で、普通の認識と異常な認識という対立
である。名詞述語の場合、その名詞が何と対立関係をもつか、「AではなくB」のAとBがいかなる意味で対立関
係にあるかは、文脈上の解釈によるしかないことが多い。それはともかく、この「AではなくB」というパターン
をもつ用例が、疑問用法を除いた計87例中、20例である。

 6.2 BであってAではない

加えて、表(2)の終止法57例にも対比的用例がある。まず、「AではなくB」を逆さまにしたような、「Bであって
Aではない」というパターンをもった例が、計6例ある。

(37)  読唇術というものは非常にデリケートな作業であって、二カ月ばかりの市民講座
で完全にマスターできるというような代物ではないのだ。(世界の終わりと…)

この例は、A「二カ月ばかりの市民講座で完全にマスターできるというような代物」を、「簡単に習得可能な業」
とでも言い換えれば、B「非常にデリケートな作業」との対立関係が分かりやすくなる。この「Bであって、Aでは
ない」というパターンは、「AではなくB」と同様、「Aではない」の対立規定が同一文中に現れるというものである。
同一文中の対比、である。

 6.3 Aではない。B

さらに、「Aではない」の対立規定が、「Bである」などの形で、直前ないし直後の別の文で現れる例が、
計37例を数えた。

(38) 「タバコ?……タバコだって?」男は思わず吹き出してしまう。「問題はそんなこ
とじゃないんだ……毛屑ですよ、毛屑……分らないかな?……毛屑のために、賽の
河原の石積みたいなまねをしたって、仕方がないだろうってことですよ。」(砂の女)

 (39) もちろん私は機械の故障や係員の不注意が現実に起り得ないと言っているわけで
はない。逆に現実の世界ではその種のアクシデントが頻繁に起っていることを私は
承知している。(世界の終わりと…)

(38)で、A「そんなこと=タバコ」と、直後のB「毛屑」との関係は、相手の主張するもの(問題)と自らの主張
するもの(問題)との対立、言い換えると、ある主張とそれに対する反論、という意味での対立である。また、(39)
に付した長い波線部のうち、Aの中の「起り得ない」と、Bの中の「頻繁に起っている」だけを見れば対立が分かり
やすい。

ここまで見た(35)-(39)の例は、「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」といったパタ
ーンをもち、「Aではない」の対立規定が文脈上に現れていた。つまり、表(2)の疑問用法を除いた87例中63例までが、
対比のある例であった。

6.4 対比なし

そして、終止用法の残る14例は、対比のない例、と見られた。
(40) それはなんだかトルコ語のように響いたが、問題は私がトルコ語を一度も耳にした
ことがないという点にあった。だからたぶんそれはトルコ語ではないのだろう。
(世界の終わりと…)

 (41) もちろん砂は、液体ではない。(砂の女)
 (42) おれの思いつきも、まんざらじゃない。(砂の女)
 (43) あたしの腕のなかで煙突になってるパパは好きじゃないな。(聖少女)

まず、(40)は、主語「それ」が「トルコ語ではない何かである」とまでは認識されているものの、具体的に何である
かまでは認識されていないため、対立規定が現れない。一方、(41)は、「もちろん」という語の示す通り、砂が「個体
である」ことを常識として略している。(40)は、差異(違和感)だけが認識され、それが対立の形で捉えられていない
デハナイ、(41)は、対立が認識されているがそれが表現されていないデハナイの例である。

特に、(41)のような例の存在が示唆することは重要で、それはすなわち、名詞にも形容詞や動詞同様、それ自体が特定
の対立を意味するものはいくらでもある、ということである。「男ではない」とか、「素人ではない」とか、「子供で
はない」とか、こうした「名詞+ではない」の場合、対立規定を必ずしも必要としない論理であり、すなわち、対比の
ない例も十分にあり得るわけである 。

次に、(42)「まんざらじゃない」は、対応する肯定表現が普通でないことから、デナイ終止法にもあった「尋常でない」
などと同様、熟語的、一語的で、否認という意識が薄い。類例として、「冗談じゃない」、「たいしたことじゃない」、
「それどころではない」があって、(42)を含め、計4例である。
さらに、(43)「好きじゃない」に類する例は、「簡単なことじゃない」(2例)、「あまり気分のよいものではない」、
「とくに驚くべきことではない」、「とても追いつくもんじゃありません」、「あたし、みてるんじゃありません」、
「並大抵の歳月ではない」があり、(43)と合わせると計8例である。これらの例に共通することは、デハナイの否定の
対象自体が、元々対立関係にある、というところにある。あえて語彙的に言い表せば、「好き/嫌い」、「簡単な/難し
い」、「よい/わるい」、「驚くべきこと/普通のこと」、「追いつく/逃げられる」、「みてる/他所を向いている」、
「並大抵の歳月/非常に長い歳月」、などとなる。すなわち、前節でデナイ終止法に見られた例と同類である。

最後に、疑問用法のデハナイを除いた、表(2)の「単純接続2」の2例、「順接確定」の5例、「逆接確定」の3例につい
ても、対比のない例であったことだけを報告しておく。以上、疑問用法を除いたデハナイ87例中、対比のある例が計63例、
対比のない例が計24例という結果であった。

6.5 否定と対比

一般に、助詞ハについて論じられる時、「対比」ということが言われるが、それは助詞ハの本質的機能であるのか、
あるいは他の何かから出て来る派生的機能であるのか、とすればそれはどういう理屈で派生するのか、という問題がある 。

助詞ハは、主語名詞の内的二分を反映して主語と述語の間に位置する。また、述語の内的二分を反映してデハナイを
成立させた。デハナイは、否定の対象を明瞭にする。そしてデハナイに限らず、否定文一般において、助詞ハは否定の
対象を明瞭にする。ここから、助詞ハの第二の機能とも言うべき、いわゆる「対比」の機能が出て来る論理が考えられる。
すなわち、否定の対象を明瞭にすることによって、同時に、捨象されたものの存在が暗示されるという論理である。
輪郭を定めると、輪の内と外が生じるようなものである。場合によっては、対象外とされた存在者が、対立的に暗示される。

(44) 山田は、朝食を全部は食べない。

たとえば(44)は、助詞ハによって「全部」を明瞭に否定することで、それと対立する「部分」が否定の対象外として暗示
される。だから、(44)の言外に、「少し食べる」とか「ほとんど食べる」といった内容が解釈される。同様に、「朝食は
食べない」とすれば、「朝食」と対立する「昼食」ないし「夕食」などが否定の対象外として暗示され、「昼食や夕食は
食べる」といった内容が言外に解釈される。さらに、(44)で、「山田」にも助詞ハが付いている以上、それも否定の対象
となり得るから、否定の対象外として「山田以外」の存在が暗示されて、「他の人は全部朝食を食べる」といった内容が
言外に解釈されることもある。このような言外の解釈が実際に表現されると、次例のような一般的な対比の用例になる。

(45) 山田は、朝食は食べないが、昼食と夕食は食べる。
(46) 山田は朝食を食べないが、竹田は朝食を食べる。

無論、「対比」一般の問題がこれで片付くわけではないが、以上、「対比」の否定起源説を述べた。

7. おわりに

デハナイは、述語の内的二分を反映し、対象化された認識を否定する。「XはYである」という認識がまずあって、
その認識を対象化して否定するのがデハナイである。認識の対象化は認識の認識であり、デハナイは観念的な否定の表現
である。しかしながら、「XはYである」が基本文である以上、その否定文が「XはYではない」となるのは実は自然なこ
とでもある。助詞ハの本質は二分することにあり、否定がその対象を明瞭にしようとすればそこにハを介在させることで、
否定の対象と否定とが明瞭に二分されるからである。かくしてデハナイはデアル述語の一般否定形となる。

デハナイの一般性は、「名詞+ではない」に限らず、「?のではない」、「?わけではない」などの形で形容詞や動詞を
も名詞化する形、さらには次例のように、連用成分、各成分を直接否定する形にまで及ぶ。

(47) 槍に向ってではなく青い空に向って歩き出して間もなく、加藤は、槍ヶ岳の肩のあ
たりで、小屋が作られつつあるのを見て取った。(孤高の人)

(48) 当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。
  (風に吹かれて)

また、表(2)の調査には現れなかったが、次例のような「禁止」の用法もある。

(49) 「そんなシーンがありましたか? おかしいな、ぼく、そんなシーンを入れたおぼ
えはありませんがね」
「ごまかすんじゃない。あのシーンは無意味だ。カットしたまえ」(ブンとフン)

 さらに、今回対象外とした、「?ではないか」などの疑問用法に至ると、すでに「否定」が止揚され、さらに、
確認用法とでも言うべき「いいじゃない」のような用例では、助詞ハ自体が埋没し、「じゃない」というこの形で
一語的になる。また、形容詞にも「美しくはない」、動詞にも「食べはしない」という形があり、またもう一方には
肯定の「美しくはある」、「食べはする」、デハアルという述語形もある。以上のようなデハナイの更なる進化の方向を
たどる道が今後の課題である。

2014/03/08 

1月 01

日本語の基本構造と助詞ハ  その3

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

4. 形容詞や動詞の否定

(15) 山田は、美しくない。
(16) 山田は、朝食を食べない。
(17) 山田は、大学生ではない。

デハナイと、形容詞や動詞の一般的否定形とでは何が違うか。何をどう否定するのか。形容詞述語の否定文
(15)、動詞述語の否定文(16)はこれらの一文自体で一定の規定を為した文であると感じられるのに対して、
名詞述語の否定文(17)は、この一文だけでは規定不十分であり、大学生ではないとしたら何なのか、という
問いを喚起する文である。ここが本節の肝である。

形容詞の否定は「よくない」のように「連用形+ない」という形が一般的であり、動詞の否定は「動かない
(ず)」のように「未然形+ない(ず)」という形が一般的である。以下、形容詞の一般否定形のことをクナイ、
動詞の一般否定形のことをシナイと称する 。

4.1 クナイ

(18) 「きみ、そんな考えはよくない。危険だ。きわめて危険だよ」(砂の上の植物群)

(19) 「窓開けてもいいわよ。わたし寒くないわ。その方が気持いいでしょう、富士山が
見えて」(あすなろ物語)

(20) 「でも顔は赤くないわよ。まだ、大丈夫よ」
    智美の方は水割りでぐいぐいやって平然としている。(女社長)

一般に、形容詞は、質や量などの属性を表し、クナイはその属性を否定すると同時にその対立属性を意味する。
たとえば、(18)の「良くない」は、「良い」を否定すると同時に「良い」の対立属性を意味する。それは対義語
「悪い」で表される属性とほぼ同義と言える。厳密に言って、「良くない」は属性の否定であって、別段「悪い」
という対立属性を「言い表している」わけではない。しかし、「良い」という属性は、「悪い」との普遍的、
一般的対立関係の中にあるから、「良くない」は論理的に「良い」の対立「悪い」を意味する。つまり、「対立を
意味する」というのは、現実に対立関係にある、ということである。

なお、クナイが対立属性を意味するということと、クナイがその対義語と同義であるということは別の話である。
たとえば、(19)の「寒くない」は「暑い」と同義ではなく、むしろ「気温が適度である」ことと同義である。それは、
「寒い」の表す属性が、「常態」と対立するということである。すなわち、「良い/悪い」という対義語関係は、
自らが相手の否定であるという矛盾関係であるのに対して、「寒い/暑い」という対義語関係は、否定を媒介しない
単純な反対関係である。さらに、形容詞「赤い」の一般的な対義語はないと思われるが、(20)のように、「赤い」が
マイナスの価値を帯びて使われている場合、この「赤くない」は、(19)の「寒くない」同様、マイナスの価値との対
立属性、すなわち常態を意味する。

形容詞の表す属性は、対立関係の中に存在する。クナイはこの現実上の対立を直接的に反映した否定表現であり、
対立の片方の排除であるから、(15)はこの一文だけで一定の規定を果たす文である。それに対して、(17)の名詞述語
「大学生」の表す属性は、特殊な社会関係を意味し、他との一般的な対立関係を持たない。したがって、「大学生で
はない」とは、それ自体、論理上無限の差異を意味することになってしまい、この一文だけで規定不十分な文と感じ
られるのである。

 4.2 シナイ

 (21) 今にも降り出しそうな空を気にしいしい、信夫は吉川の家にむかって歩いていた。
風がにわかにぴたりとやんで、家々の庭の草木も動かない。(塩狩峠)

(22) じゃあ、僕、決めたいんだ。僕、明倫は行かない。北川へ行かしてよ(太郎物語)

(23) 女三の宮の方へは、もう、全く行かない。紫の上のそばにつききりであった。
(新源氏物語)

動詞は一般に運動を表す語であり、シナイは運動の否定を表すが、同時にその運動の未実現状態を意味する。
運動とは可能性の現実化するプロセスのことであり、可能性が可能性のままにあるのが未実現状態である。運動と
その未実現状態とは、現実性と可能性という意味で対立関係にあるため、シナイはそれ自体で一定の規定を果たす
述語となる。たとえば、(21)の「動かない」は静止状態を意味し、それは「動く」と反対の意味を表す「じっとして
いる」などと同義である。特に、「開く/閉じる」のような対義語をもつ動詞の場合、「閉じない」は「開いている」、
「開かない」は「閉じている」のように、一般的、普遍的対立を意味するが、言うまでもなく、シナイのすべてが
このような一般的で特定の対立を意味するわけではない 。たとえば、(22)の「(明倫へ)行かない」は「北川へ行く」
との対立を、(23)の「(女三の宮の方へ)行かない」は「紫の上のそばにつききりである」との対立を意味している。
この対立は個別具体的なものである。おそらくは、自動詞(一項動詞)は一般特定の対立を意味し、他動詞(多項動詞)
はそうとは限らないというおよその差があるように思われる。

また、(22)のシナイが「明倫へ行く」の否定であり、(23)のシナイが「女三の宮の方へ行く」の否定であるという
ように、動詞の否定は、動詞を超えてその補語にまで及ぶことがある。ここにもう一点、デハナイとの違いがある。
それは否定のしかたの違いである。

(24) 全部食べない 
この(24)の「ない」が動詞だけを否定しているとすれば、「全部」は「全く」と同意の「ない」に係る呼応副詞で
あるが、かたや、「ない」が「全部」までをも否定しているとすれば、この(24)は部分否定になる。すなわち、
次のような二通りの解釈が可能である。

 (24)´ 全く食べない
 (24)´´全部は食べない

シナイは、動詞と「ない」とが一体融合的であるが、副詞「全部」もまた動詞を直接規定する語であるため、
動詞と一体的である。故に、(24)の「ない」は動詞を透過して「全部」とまで一体になり、(24)´´の解釈も可能になる。
これは、シナイの「ない」のもつ否定範囲の曖昧さを示す事実である。

デハナイの場合、助詞ハによって、否定の対象が明瞭に捉えられている。ハが前後二項を明瞭に分離し、前項
「?で」を後項「ない」の対象とするからである。このデハナイの性質を生かした発展形として、「?のではない」、
「?わけではない」などがある。

(25) マホメッド二世は、若さにまかせてただやみくもに、父親さえ成しとげられなかっ
たという理由だけで、コンスタンティノープルを欲しがったのではない。
 (26)  僕は戦争を懼れていた。僕は理論としてこの戦争を絶対の悪だと言い切るだけの
内容を持っていたわけではない。それは寧ろ多分に個人的な感情だった。

この「?のではない」「?わけではない」という形のデハナイは数が多い。表(2)のデハナイ134例中の××例である。

「活用語+の/わけ+で+は+ない」という形式から分かるように、動詞や形容詞などに形式名詞「の」、「わけ」
を接続させることによって、事柄相当の認識を否定の対象(波線部)とすることが可能になっている。言わば、射程
の広い否定である。ただしよく見れば、 (25)(26)は名詞述語文「XはYではない」と同じ構造であり、Yにあたるもの
が「の/わけ」によって名詞化された句であることも分かる。この種のデハナイは、動詞や形容詞などで作られる句
を名詞化して否定する。それがシナイやクナイと異なるのは、対象化された認識の否定であるというところにあり、
否定の範囲が明瞭に対象化されることによって、(24)のような曖昧さをもつ文でなくなる。実際、(24)も、「全部食
べるわけではない」とすれば明瞭な否定文になる 。

5.デナイ

クナイ、シナイと同様、助詞ハを介在しないデナイという否定形もある。表(2)(3)の調査結果をふまえると、
論点は二つに絞られる。第一に、仮定条件節においては、デハナイが現れず、専らデナイが現れるという事実は何を
意味するか、第二に、非常に稀ながらもわずかに存在するデナイの終止法は、いかなる特殊な性質をもつのか、の二
点である。

まず、第一点について表(3)で再確認すると、デナイ全12例中、その順接仮定条件の用例は計7例もあって、
「?でなければ」(6例)、「?でなくては」(1例)である 。対して、デハナイ135例中に、「?ではなければ」
とか「?ではなくては」といった用例は1例もなかった。また、逆接仮定条件についても、デナイの「?でなくとも」
1例あるのみで、デハナイのそれは1例もなかった。付言すると、『新潮文庫の100冊』全体 で、「?ではなければ」
「?ではなくては」、また「?ではなくても(とも)」という形に限って調べた結果、1例も見出せなかった。
これはデハナイの一般汎用性に反する事実であるから、ここには何か特殊な事情があるはずである。

仮定条件とは、非現実を条件提示するものであり、一方、デハナイは、対象化された認識の否定である。
3.1、3.2節で、この「対象化された認識」の具体例をいくつか見たが、たとえば(13)では、下人が老婆の心中を推し
量り、それを対象化、すなわち表現して提示していた。この例のように、デハナイには、相手の心中など、仮想的に
しか捉えられないものを提示して否定する例がある。デハナイの本質は、対象化された認識の否定であるが、「対象
化された認識」には、仮想的な認識も含まれ、「?では」という形態が仮想提示の用をも果たすということである。
実際、「明日が雨では困る」のような「?では」という仮定条件形も存在する。つまり、「学生ではなければ」とい
う形は、デハナイの仮想提示と、バ節の仮定条件が重複することになって、避けられる、と考えられる。
ただし、「?ではない」には「?じゃない」という変種があり、この「?じゃない」は仮定条件節に入ることができる。

 (27) 「アリは、この間、ああいう負け方をしたけど、今度はまったく違う闘い方をする
と思うんだ。そうじゃなければ、アリはグレイテストでも何でもない、ただのボク
サーということになる。(一瞬の夏)

次に第二点について。まず表(3)のデナイ終止法3例は、表(2)のデハナイ終止法57例に対して極めて数の少ない存在
(デハナイ:95.1%、デナイ:4.9%)であった。この3例のみでデナイ終止法の特徴を明らかにすることはできないから、
デナイ終止法の実例をもっと広く見ることにする。『新潮文庫の100冊』全体に調査対象を広げた結果、デナイの主文
末終止用法計69例を集めた 。なお、同じ調査対象、方法による、デハナイの主文末終止用法の数は、計1883例であった。
すなわち、出現率を比較すれば、デナイ3.7%に対してデハナイ96.3%であるから、デナイ終止法が極めて稀な存在であ
ること、銘記されたい。この極めて稀なデナイ終止法の69例について分類したのが、下表である。

表(5) デナイ終止法69例の分類
ア形容動詞の否定形(「容易でない」など) 27
イ熟語的なもの(「尋常でない」など) 10
ウ名詞(句)+でない(「からすでない」など) 9
エ助詞+でない(「?だけでない」3例、「?のみでない」1例、「?ばかりでない」1例、「?からでない」1例) 6
オ助動詞の否定形(「?べきでない」2例、「?ようでない」1例) 3
カその他(「同じでない」2例、「おありでない」4例、「?ものでない」5例、「?話でない」1例、「そうでない」2例) 14
計 69

まず、最も用例数の多いアについてだが、ここでは、連体形で「?な」という形態をとることを「形容動詞」の基
準とした。「確かでない」のように「?かでない」という形をとったものが計12例、「効果的でない」のように
「?的でない」が計3例、その他は、「容易でない」、「充分でない」、「明瞭でない」など計12例、以上の27例である。

(28)  それにしても、いかに健全な経営だったとはいえ、銀行と無関係に今後の営業を
つづけてゆくのは容易でない。(人民は弱し官吏は強し)

(29)  方法はやはり万国共通で、一番多いのが隣の答案をこっそり盗み見るという手で
あるが、数学の試験では、ちょっと覗いたくらいでは前後の脈絡が掴めないから、
この方法は効果的でない。(若き数学者のアメリカ)

上例は、それぞれ「難しい」とか「ダメ」とでも言うべき対立属性を意味している。対立属性を意味するという点で、
これらのデナイは、形容詞の一般否定形クナイと本質的に同じ否定である。
ついで、イ「熟語的なもの」とは、「尋常でない」(3例)、「ただごとでない」(2例)、「一通りでない」(2例、
「お上手者でない」(2例)、「気が気でない」(1例)、以上の計10例である。

 (30) 急に、走りづらくなった。やたらに、足が重い。この足の重さは、尋常でない。
   (砂の女)

 あえて分析すれば、この(30)は程度の否定である。「尋常」は「普通程度」を意味し、「尋常でない」はその対立、
極度を意味する。ただ、「尋常である」という肯定形の用法が普通でない点が熟語的であり、肯定形がないとすれば
それは否認という意識が薄いとも言えて、この「尋常でない」という否定形で一語の形容動詞相当と見ることが可能、
むしろ、一語化することで独特のニュアンスを帯びているようにすら見える 。他の諸例も同様で、対立属性を意味
する点、クナイと同じ否定である。

 問題は、ウ「名詞句+でない」である。まず、全9例のうち、「閑人でない」、「大きなことでない」、「小さなこと
でない」の計3例は、特定の対立を意味するものであり、クナイと同類の否定であると見ることができる。さらに、
「アント でない」、「主人もちでない」、「一人でない」の3例も、それぞれ「シノニムである」、「浪人である」、
「複数いる」などといった特定の対立を意味する。そして残る3例とは、「からすでない」、「お金でない」、「笑顔
でない」、であり、特定の対立を意味しないものであるが、これらデナイの用例は、むしろデハナイの使われるべき
典型的文脈の中にある 。

(31) 「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」(銀河鉄道の夜)

(32)  「だって、学校へはいるといったって、……」
「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」
(人間失格)

 上例いずれも直前の文脈に表された認識の否定であり、デハナイの使われるべき否定構造がそこにある。
そして、両例ともに、「Aでない」の後にその対立規定「Bである」が述べられている点に注目されたい。
この点が次節の論点となる。

 なお、表(5)のエ?カについて簡単に述べておく。エの5例中4例は「限定の副助詞+でない」であるが、
限定は排除と対立関係にあるため、「Aだけでない」と言えば、排除されたA以外の肯定になる。オの「(?スル)
べきでない」2例と、カの「おありでない」4例は、シナイと同類で、特定の対立を意味する例である。また、カの
「?ものでない」5例中3例についても、「あるものでない」のように、「動詞+ものでない」であるからシナイと同類、
カの「地理も歴史も要った話でない」1例もシナイと同類である。最後に、カの「同じでない」2例は、品詞認定は
ともかく、同一性の否定であるから差異性を意味しており、つまり、特定の対立を意味している。

 以上、デナイ終止法69例中、アの27例、イの10例、ウの6例、エの4例、オの2例、カの10例、少なくとも
計59例には、クナイやシナイとの共通点があると言い得る。すなわち、これらのデナイは対立関係を意味した否定である。

12月 31

日本語の基本構造と助詞ハ  その2

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
2. XはYである
3. デハナイ
4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
6. 否定と対比
7. おわりに

                                  

2. XはYである

表(1)から明らかなように、デハナイはデアルと対立する存在である。故に、「XはYである」という
基本文からデハナイの成立する論理を考えなければならない。かつ、「XはYである」を考えることは、
助詞ハの基本を考えることと本質的に同じである。助詞ハは名詞のもつ論理から生成すると考えるのが
本稿の立場である。まずはここから始める。

野村(2010)によれば、名詞は「?であるx」と分析される。一語の名詞の中には「述語+主語」という
判断の構造が内在化されている。野村氏によれば、文とは判断の表現であるが、そもそも、一語の名詞の
中に判断の構造が潜在的にある。この考えは、既に野村(1993)において、「一つの名詞『犬』は、ある実体
(個体であっても個体の集合であっても)を表そうという側面と、『犬性』という属性を表そうという側面
を持っている」と述べられており、この名詞の分析から助詞ノとガの意味を明らかにされている。名詞のも
つ論理から助詞の意味を考えられた点に革新的なものがあると思う。氏の名詞論に習い、以下で私は助詞ハ
について考える。

(6) 山田は大学生である。

ここにある二つの名詞について、「山田」はある存在者xを表すように感じられ、「大学生」はそのxの属性
を表すように感じられる。ところが、位置を逆にして「名前は山田である」という文にすると、この「山田」
は属性を表すものと感じられ、「大学生は欠席した」となれば、この「大学生」はある存在者を表すように感
じられる。これは、元々一つの名詞の中に、ある存在者xを表そうとする側面と、xの属性を表そうとする側面
とがあるという野村氏の名詞分析を裏付けると同時に、(6)の助詞ハの前後で名詞がその表す側面を変えるとい
うことも意味している。

名詞の中に二つの側面があるということは、名詞が一語の中に分裂と統合を孕んでいるということである。
名詞「山田」は、「山田であるx」と分析することができ、ある存在者xとその属性とが一語の中に統合された
ものである。実際、名詞「山田」は、(6)のような文中では、ある現実の存在者を指示して使われているが、
一方、名札に「山田」とあれば、それは「(この名札の持ち主は)山田」という意味で属性記述的に使われている。
では、以上のことは一体何を意味するのだろうか。名詞とは何であるか。名詞は、この現実世界が絶えず生成流転
しており、不変不動の何者とてなく、あらゆる事物が必ず他者との関係の中に存在している、その現実世界に対して、
その中に止まって動かぬ物を、それ自体で存在する個物をつかみたい、という我々の欲求と対応してある。
ところが、手で物をつかむことはできたとしても、物自体は決して認識できず、その属性を媒介にして間接的に
認識することができるだけである。なぜ、属性は捉え得るか。属性は一般者、普遍だからである。ただし、その
属性とて現実には揺れ動く諸属性、「属性の束」であるから、つかみどころがない。つかめない物をつかむため、
つかみどころのない束(諸属性)に、とりあえず付けられた名前が名詞である。だから、「犬」が何であるかを
明瞭に理解している必要もなく、我々は名詞「犬」を使う。我々は名詞「犬」から、「犬である何か」を表象する
ことができる。しかし、それはあくまで漠然とした表象として捉えられた存在者に過ぎない。だから、名詞「犬」
は無限に再分裂して、「この犬は白い」とか、「犬は哺乳類である」とかいった文を生成する。つまり、これらの文
は、名詞に内在する分裂が外に現れたものである。名詞に内在する二側面、「何か」の存在を表そうとする側面と、
その属性を表そうとする側面とが、二項として外化(表現)する。この分裂運動が判断であり、分裂した二項が主語
と述語である。(6)について言えば、この主語と述語の関係は、存在者とその属性という関係、もっと抽象化すれば、
個別と普遍である。

助詞ハは、名詞の分裂(判断)に対する意識を反映した助詞である。助詞ハがなくとも、「これ、おいしい」とか、
「あれ、鳥」とかいった形での判断の表現が可能であるように、恐らくはこうした表現が何度も繰り返される中で
助詞ハが二項の間に位置するようになったものと思われる。図式化して言えば、名詞Xが分裂して「X─Y」という
二項として外化し、その分裂を意識して生まれたのが助詞ハである。助詞ハは、名詞Xの存在者を表す側面を「Xは」
と明瞭に分離して提示し、述語と結合する。結合される述語は、名詞Xのもう一つの側面であり、(6)では属性である。
この分離と結合は、名詞の内的二面の分離であり、結合はその再統合である。単なる二項の外的結合ではないから、
助詞ハの結合力は強い 。

以上、ハは名詞の内的二分を反映して生成した助詞であるということを論じたが、助詞ハ一般について述べた以上、
触れなければならない諸問題がある。以下、三点に触れる。

第一に、「主題・題目」という用語について。助詞ハによって提示された名詞Xは、「何か」の存在を表す側面が
前面化するため、無規定的で空虚な存在者である。この名詞Xの無規定性に重点をおいた別名が、いわゆる「主題・
題目」である。かたや、(6)の述語「大学生である」は、「山田」という存在者の具体的なあり方を規定するから、
「解説部」となる。ただ、主題論の課題は、デハナイなど、他のハの用法との連続性を説明すること、また、
「対比」と呼ばれる助詞ハのもう一つの用法との関係を説明することにある。本稿では、6節において、「対比」を
「否定」から説明する。

第二に、助詞ハとガの違いについて。たとえば、「犬が歩いている」のような文について、「犬」と「歩いている」
の二項が、助詞ガによって結合されている、と言うことは可能である。しかし、「犬が歩いている」は、個別具体的な
ある現象を捉えた文である。だから、「犬が」の名詞「犬」は、名詞の二側面を分裂させることなくその一体性を保持
し、眼前に個別に存在する「犬」を直接的に反映した表現と考えるべきである。つまり、格助詞ガのついた名詞は、
属性を帯びた個別具体的な存在者、すなわち、主体を表す。それが「歩いている」と結合する時、「犬が」が「歩いて
いる」の内容を限定し、同時に、「歩いている」が「犬」の内容を限定することによって、さらに個別具体的になる。
これが、描写文である。かたや、ハのついた名詞は、具体性をほとんど剥ぎ取られた空虚な存在者である。特に、
「Xとは」とすれば、「Xと呼ばれているものは」となって、名詞Xが名前だけの存在者になる。その内実を明らかに
するのは偏に述語であって、ハの文には、空虚なものがその姿を表す過程、分からないものが分かるようになる認識の
過程が反映している。それは説明文である。

第三に、指定文「犯人は山田である」の問題について。まず、この助詞ハも、犯人たる「誰か」という空虚な存在を
提示したものである点、(6)と同じであって、違うのは、述語名詞「山田」も存在者を表す側面を前面化させていると
ころにある。「(存在者)は(存在者)」となり、その存在者が特定される。このハの用法は、「(存在者)は(属性)」
というハの基本文からの派生用法であると考えられる。

最後に、「XはYである」の「である」について考察する。「である」のない「山田は学生」でも二項の分断結合が
十分に表されている以上、「である」の意味は別に考えなければならない。まず、「Yである」の「で」、ないし
「だ」という形は、名詞Yを属性として表示する形式、指定文の場合はYを存在者として表示する形式である。
まとめれば、名詞Yを述語化する形式である。名詞に二つの面があって、「Xは」とすれば存在を表す側面が前面化し、
「Yで」「Yだ」とすれば属性ないし存在者を表す側面が前面化するわけである。むしろ問題は、「Yである」の「ある」
をどう見るかである。この「ある」は、存在者の面を表すXが「ある」、すなわち、存在を表すものと考える。つまり、
(6)は、「山田という存在者は大学生という属性で存在する」と読める。

3. デハナイ

 3.1 デハナイの構造

 (7) 山田は、大学生ではない。

 助詞ハは、「XはYである」において、主語と述語を明瞭に分離するが、(7)の述語「大学生ではない」の場合、
助詞ハが介在することによって、「大学生で」という連用形と、否定を表す形式「ない」との二項が明瞭に分離された
形になっている。それをはっきり示すと下図のようになる。

図(1) [大学生で] は [ない]

 まず、助詞ハの前項として表出する「大学生で」という連用形をどう見るか。この「大学生で」は、述語の一部で
あって、助詞ハによって「ない」と明瞭に分離されている。この「大学生で」は、肯否のまだ決しない形で捉えられた
属性、肯定も否定もされていない属性認識である。すなわち、デハナイは、述語をあたかも何かの存在者であるかのよ
うに対象化し、それを否定する。デハナイは、対象化された認識の否定である 。

 かたや、後項の「ない」は、助詞ハによって分断されることによって自立的に現れている。ちょうど「それはない」
という文があって、この「ない」は自立語であるが、この文には、「それが存在しない」という不在の意味と別に、
「それは違う」という意味で否認の意味もある。デハナイの「ない」は、後者の「ない」と近い存在である 。
 以上をふまえ、デハナイの構造図(1)と、(6)の構造図(2)とを比較する。

図(2)  [山田] は [大学生である]

 「山田は大学生である」においては主語名詞「山田」の表す存在者、「何か(x)」の存在が提示されるのに対して、
デハナイにおいては「大学生で」という属性の認識が提示されるという差異がある。この差異がどこから生じるかと言えば、
前者の主語名詞「山田」は、その内的二分の一側面、存在者を分離提示したものであるのに対して、後者の「大学生で」は、
述語の内的二分の一側面、属性認識を、対象化し、あたかも存在者であるかのように提示する。そして、述語のもう一側面
とは、肯定と否定である。つまり、述語の中にも二側面があって、述語「大学生である」の中には、属性認識を表す面と
それを肯定否定する側面とがあるということである 。デハナイは述語の中から抽出され、対象化された認識を否定する。

 なお、このような議論は観念的過ぎると思われるかも知れないが、実際、デハナイは、高度に観念的な否定なのである。
そこで、一見同じ意味の文に見える、下例(8)と(7)との違いを考えてみる。

(8) 山田が大学生であることはない。

(8)の構造図、図(3)を見られたい。比較のため、(7)の構造図、図(4)も並べる。

 図(3) [山田が大学生であること] は [ない]
 図(4) [山田] は [ [大学生で] は [ない] ]

 図(3)を見ると、「(名詞句)は(ない)」という形式であるから、(8)は、「山田が大学生であること」の不在、
ある事実の不在を述べた文であると言える。つまり、(8)は、「お金はない」などと同種の否定文、存在否定文である。
「お金はない」の「ない」は無を表すが、「お金ではない」は否認を表す。前者は存在の否定であり、言うまでもなく、
こちらの方がより根源的であり、単純な否定である。それに対して、デハナイの否定するものは、対象化された認識と
いう観念的存在者であって、この認識構造を反映して(意識して)、そこに助詞ハが介在するのである。3.2と3.3節で
デハナイの「対象化された認識」の具体例を見る。

 3.2 自らの認識の否定
(9) 三冬は立ちどまって、「雪か……」と、つぶやいた。闇の中に、はらはらと白く落
ちてくるものに気づいたからだ。実に、その瞬間である。佐々木三冬の頭上から、
得体の知れぬものが、ばさっと落ちてきた。これは雪ではない。投網であった。
(剣客商売)

 上例を要するに、「これも雪」と思ったがそうでなかった。このデハナイは、自分で前に認識した内容を改めて
取り上げ、否定している。自分の認識を自分で否定しているわけだが、それは再認識であり、そこには自らの認識の
相対化がある。

(10) おれは学校騒動には加担しない。現実を大事にし、自分の立場を大事にしなくて
  はならない。これはエゴイズムではない。社会人としての当然の義務でもある。
  (青春の蹉跌)

 このデハナイは、直前の「自分の立場を大事にしなくてはならない」という文脈から推論される「(自らの考えが)
エゴイズムである」という内容を否定している。この推論は世間一般の有するような意見であり、それを対象化、
相対化して否定している。

(11) 朝子が夜学に通ってくるのは、昼間勤めているためではない。朝子が家業を嫌って
いて、夜学へ通っていれば店の手伝いをする時間がそれだけ少なくなるためだ、と
いう噂も聞いていた。(樹々は緑か)

 この例は、推論というよりむしろ、「(夜学に通うのは)昼間勤めているためである」という一般常識を否定している。
一般常識とは普段無意識的に有している認識のことであり、それを対象化、意識化して否定している。

3.3. 相手の認識の否定

(12) 「いったい文太郎はなにをしているのだろうね、こっちの気も知らずに」
「もうしばらくお待ちください。文太郎は必ず来ます。文太郎に限って、約束を
たがえるような男ではありません。きっとなにかあったのです。(孤高の人)

 この例は、相手の発言内容から、相手が「(文太郎が)約束をたがえる男である」と考えていることを推論して
否定している。相手の推論を対象化、表現して、否定している。

(13) 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の
前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で
息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のよ
うに執拗く黙っている。(中略)そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔
らげてこう云った。
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の
者だ。(羅生門)

 この例には、(12)と違い、相手の発言がない。ただ「黙っている」だけの老婆の心中を推し量り、
「(下人が)検非違使の庁の役人だ」という老婆の認識を対象化、表現して否定している。

(14) 行助はちょっと考え、いや、寄らないことにしましょう、と院長を見て答えた。
「寄りたくないのか」
「いえ、そうではありません。仮出所する目的がちがうのですし、それに、安の
葬儀だけで時間がいっぱいだと思います」(冬の旅)

この(14)は、相手の発言を、指示語「そう」で受けて、直接的に否定している。この種のデハナイは、
「そうではありません(そうではない)」というこの形のままで一文相当になりかけているように思われる。

 以上、デハナイの本質は、対象化された認識の否定というところにある。認識とは、感覚的な知覚、想像、
推論、常識などであるが、それらが否定の対象として助詞ハによって明瞭に意識され、提示されるところが
デハナイの本領である。それでは、デハナイと、形容詞や動詞の一般的な否定である「美しくない」とか
「食べない」という否定とでは何が違うのだろうか。この問題を次節で扱う。

12月 30

日本語の基本構造と助詞ハ  その1

松永奏吾さんの日本語学の論文「デハナイ」と、それに対する私の考えを掲載します。

松永さんの論文「デハナイ」は今年2014年3月に東大大学院の野村剛史氏のゼミで発表されたものです。
注の部分は省略しました。

また、この論文の概要(構成の説明と要約)を松永さん自身が野村ゼミでの発表のためにまとめた
ものを最初に出しました。これを読んでから、または並行して眺めながら論文を読むと、
読みやすいでしょう。

■ 目次 ■

一 「デハナイ」論文の概要     松永奏吾

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
→ ここまで本日 2014年12月30日に掲載

2. XはYである
3. デハナイ
→ ここまで12月31日に掲載

4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
→ ここまで2015年1月1日に掲載

6. 否定と対比
7. おわりに
→ ここまで1月2日に掲載

三 日本語の基本構造と助詞ハ  中井浩一
 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
 → ここまで1月3日に掲載

==============================

一.「デハナイ」論文の概要           松永奏吾

1 全体の構成

(1)デハナイの一般性……1節
・「デアル/デナイ/デハナイ/デハアル」の数値比較。1533/12/134/2
・「デナイ:デハナイ=1:10」によって、デハナイの一般汎用性を示す。
・終止法で比較すると、「デナイ:デハナイ=1:20」。

(2)「XはYである」の論理……2節
・「XはYである」、ないし、助詞ハの生成する論理の考察。
・主語名詞Xの内的二分(存在者と属性の二側面、主語性と述語性)から、
「XはYである」が生成した。

(3)「XはYではない」の論理……3節
・「XはYである」から「XはYではない」が生成する論理の考察。
・「XはYではない」の構造  [Yで] は [ない]
・述語名詞「Y」の内的二分(属性と肯否の二側面)から、「Yではない」が生成。
・デハナイとは、対象化された認識の否定。認識の認識。否認。

(4)クナイ、シナイとの違い……4節
・クナイ(形容詞の一般否定形)は、属性の否定であると同時に対立属性を意味する。
・シナイ(動詞の一般否定形)は、運動の否定であると同時に未実現状態を意味する。
・クナイもシナイも対立を意味するが、デハナイ(「名詞+ではない」)は差異しか意味しない。
・シナイは否定の範囲が曖昧になり得るが、デハナイは否定の対象を明瞭に提示する。

(5)デナイとの違い……5節
・仮定条件でデハナイが避けられる(デナイが選択される)のは、
デハナイの仮想提示と低条件が重なるため。
・デナイ終止法(69例)の分析によれば、形容動詞の否定形「容易でない」など、
そのほとんど(59例)が対立を意味する点、クナイやシナイと同類の否定である。

(6)否定と対比……6節
・「AではなくB」(20例)、「Bであって、Aではない。」(6例)、「Aではない。B」(37例)
のようにパターン化すると、デハナイ87例中(疑問用法47例を除く)、対比を示す用例が63例ある。
・「対比」が否定から導かれることの考察。対比否定起源説。

2 全体の要約

 形容詞や動詞の否定と異なり、デアルの否定には助詞ハが介在してデハナイとなるのが一般的である。
そもそも「XはYである」とは、主語名詞Xの内的二分(存在者と属性)が「X─Y」と分裂し、
その分裂を反映(意識)した助詞ハによって一文が二分された文である。
「Yではない」は、助詞ハによって、述語名詞Yの内的二分(属性と肯否)が意識された述語であり、
対象化された認識の否定、である。

一方、クナイやシナイは否定と同時に対立を意味する点、それと、否定の範囲が明瞭でない点が
デハナイと異なる。
(デハナイは否認と同時に差異しか表さないが、クナイやシナイやデナイは否認と同時に対立を意味する。)

デナイもまた本質的にクナイやシナイと同類で、対立を意味する。仮定条件でデハナイが避けられるのは、
デハナイの仮想提示と仮定条件が意味的に重なるためである。
デハナイには「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」などのパターンで
対比を示す例が多い。(デハナイは差異しか表さない場合が多く、その場合、対立規定が文脈上に現れる。)
対比は、助詞ハが否定の対象を明瞭にすることによって、対象外とされた存在者が暗示される、
という論理から生じる。

※「XはYである」→「XはYではない」→「XはYではなくZである」という展開。

2014/03/15 

                                         

二.デハナイ 松永奏吾

0. はじめに

 (1) 山田は大学生である。
 (2) 山田は大学生ではない。
 (3) 山田は大学生ではある。

 助詞ハは、(1)のように主語と述語とを二分するような位置に現れる一方で、(2)や(3)のように、
「述語内部」とも見えるような位置にも現れる。(2)は否定述語内部に、(3)は肯定述語内部に、
それぞれ助詞ハの現れた一例である。そして、そのこと自体は、動詞述語でも形容詞述語でも同様である。

(4)に否定の例を、(5)に肯定の例を、述語の形だけ挙げる。
(4) 食べはしない  美しくはない 
(5) 食べはする  美しくはある 

 以上の(2)-(5)は、その形態的特徴から見るだけならば、諸品詞の違いを越え、かつ、肯否の区別とも関
係なしに、ただ一様に述語内部に助詞ハが現れる、という現象を示しているだけのように見える。
しかし、(2)の「?ではない」だけは、他の(3)(4)(5)と根本的に異なる。以下、結論を先取りして述べる。
 まず、(3)の「大学生ではある」は、(1)の「大学生である」という一般的な述語に対する特殊な述語であり、
同様に、(4)もそれぞれ、「食べない」「美しくない」の方が一般的、(5)も「食べる」「美しい」の方が一般
的な述語である。つまり、助詞ハを内部に含んだ(3)(4)(5)は特殊な述語の形であって、助詞ハの特殊用法と
言って構わない。しかし、(2)の「大学生ではない」だけは、助詞ハを含んだこの形で、一般汎用的に使われる。
すなわち、「?でない」ではなく「?ではない」が、「?である」と肯否の対を為して使われる、一般的な述
語の形なのである。のみならず、(1)のような「XはYである」という形式の文を日本語の基本文の一つと見る
ならば、その否定文としての(2)もまた「XはYではない」というこの形式で基本文と見るべきである。故に、
そこに現れる「?ではない」という用法は、助詞ハの基本用法の一つと言い得る重要性をもつはずである。

 本稿の1節では、調査報告により、「?ではない」の一般汎用性を事実として確かめる。2節では、「XはY
である」という基本文の問題を論じ、それをふまえて、3節で、「?ではない」が一体いかなる否定述語なのか
を考察する。4節で形容詞や動詞の否定形との違いを述べ、5節では助詞ハのない「?でない」という否定形と
の違いを述べる。最後に6節で否定と対比の問題を論じる。

1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル

 本節は、助詞ハの介在した「?ではない」という述語の一般汎用性を、調査事実によって明らかにする。
以下、「?である」という述語を、デアル述語と略称し、「デアル」という表記によって、述語としての「?で
ある」を意味して使う。同様に、「?でない」を「デナイ」、「?ではない」を「デハナイ」、「?ではある」
を「デハアル」と略記する。

次の二点を留意されたい。

一、デアル述語は、「大学生である」「穏やかである」
「ゆっくりとである」「行くべきである」「行くわけである」等々あって、「である」の上接語は多様であること、

二、デアル述語には、口語的な「だ」、敬体の「です」「であります」等も含めて考えること、またデハナイの
口語体「じゃない」も含めること、の二点である。

 さて、デアル、デナイ、デハナイ、デハアルという四種の述語について、文庫本約210ページ 中におけるその
出現数を調べたところ、表(1)の結果が得られた。

表 1. デアル述語の出現数比較
デアル デナイ デハナイ デハアル
1533 12 134 2

この調査によって、次の事実が確かめられる。まず、肯定述語の数値に関して見ると、デアル1533例に対して
デハアル2例であるから、助詞ハを介在させたデハアルが非常に特殊な存在であることが分かる。ところが、
否定に関して見ると、デナイ12例に対して、デハナイが135例であるから、その出現率においてデハナイの方が
圧倒的に優勢であり、デナイの10倍以上である。つまり、肯定の場合と関係が逆転し、助詞ハを介在させた述語、
デハナイの方がむしろ普通一般の存在であることが分かる。
 さらに、この「デナイ/デハナイ」の関係に絞り、より詳しく内実を見る。下の表(2)と表(3)は、それぞれ表(1)
のデハナイ134例とデナイ12例について用法分類したものである。

表 2. デハナイ134例の用法分類
終止(主文文末の用法) 57
単純接続1(「?ではなく(て)」 20
単純接続2(「?ではないし」) 2
順接・確定(「?ではないので」「?ではないから」) 5
逆接・確定(「?ではないが」「?ではないけれども」など) 3
疑問(「?ではないか」「?ではあるまいか」など) 47
計 134

表 3. デナイ12例の用法分類
終止(主文文末の用法) 3
単純接続1(「?でなく」) 1
順接・仮定(「?でなければ」「?でなくては」) 7
逆接・仮定(「?でなくても」) 1
計 12

 なお、用例が1例もなかった用法は項目を略した。さて、表(2)と表(3)を比較すると、次の四点の事実が注目
される。

 第一に、各表中の一段目、終止用法について比較すると、デハナイの終止用法57例に対して、デナイの終止
用法はわずか3例である。主文末終止用法こそが最も基本的な述語の在り方であるとすれば、デハナイがデナイ
の20倍近い比率で終止用法に現れるというこの結果は、デハナイの一般汎用性を改めて示す事実である。

 第二に、「単純接続1」とした用例について比較して見た場合も、「?ではなく(て)」20例に対して、
「?でなく」1例という極端な差がある。かつ、この「?ではなく(て)」20例は、表(2)のおよそ15%を占め、
終止と疑問を除けば際立って用例数が多い。

 第三に、仮定条件のみ、デナイが優勢を示している。どころか、デハナイの仮定条件用法は1例もない。
順接仮定条件の「?でなければ」とか「?でなくては」という用例7例に対して、「?ではなければ」とか
「?ではなくては」といった用例は1例もなく、逆接仮定条件の「?でなくても」1例に対して、「?ではなくても」
といった用例は1例もなかったということである。これは、さしあたり、デハナイの一般汎用性に反する事実である。

 第四に、表(2)の「疑問」とした項目を見れば、「?ではないか」とか「?ではあるまいか」といった用例数が
47例ある。かたや、デナイにそれに類した用例は1例もなかった。付言すれば、肯定のデアル1533例中、疑問用法
の数は50例あったから、それと比較しても、デハナイの疑問用法が47例あったという事実は特筆すべきものである。

 以上、「デナイ/デハナイ」の用法比較により、注目すべき事実四点を挙げたが、本稿は第四点、すなわち疑問
用法についての考察はしない。疑問用法のデハナイは「否定」から生じたものではあっても、すでに「否定」を離れた
デハナイの特殊用法である。本稿は、第一点、すなわち、デアル述語の一般的否定形が、助詞ハを含んだデハナイである
という事実のもつ意味を明らかにすることを中心課題とし、第二点、第三点についても論じる。

12月 23

ずいぶん遅くなってしまいましたが、
夏の合宿の報告をします。

今年も例年と同じく山梨県の八ヶ岳の麓の清里で、8月21日(木)から24日(日)の
3泊4日の合宿を行いました。ヘーゲルの原書購読では、目的論(大論理学)を読みました。

ヘーゲルの『法の哲学』(翻訳)では全体の構造と第1部を確認し、第2部のラストの善悪、
第3部の第1章の家族の範囲を読みました。

2日目、3日目、4日目の午前は、参加者の現状報告とそれをめぐる意見交換の時間でした。
参加者は大学生(男子)1人、社会人が5人(男子2、女子3)でした。
参加者の感想と私(中井)のコメントを掲載します。
関心のある方は、ゼミに見学に来てください。

■ 目次 ■

1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方 畑間 香織
2.「家族」に個人は存在しないのか 田中 由美子
3.悪を進める 松永奏吾
4.聞く人にとって話がわかりやすいということ  小堀 陽子
5.自己への制限が自己を発展させる 加山 明
6.「他者と関わる」とは何か 掛 泰輔 
7.コメント 中井 浩一

========================================

1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方  畑間 香織

 合宿でヘーゲルを集中的に読むたびに思うが、今自分が課題として思っていることが結果的に深まる。
言い換えれば、ヘーゲルが語っていることは、現実世界に根差した普遍的な理念であるからこそ、
自分の成長がいかなる段階であろうと、響く。それだけ徹底して理念が貫かれている。

 具体的に今回響いた部分を言うと、「法の哲学」の第三部「倫理」の第一章の「家族」で
一番多くのことを感じた。理由は、私自身が親元を離れ、社会人としての生活を数年送り、
家族とは本来何なのか、結婚とは何か、自分はどのような家族をつくりたいのか、
ということを考えるようになっていたからだ。
夫婦のあるべき姿をたえず無意識に考えている自分がいたからこそ、余計ヘーゲルが語る結婚や
家族という部分にひきつけられた。

 法の哲学の中の記述で、結婚は二人で一つの人格を為し、個人を止揚したものであるという点が、
特に魅力的だった。人間としての可能性がさらに広がる印象を受けた。
人間であることが、ヘーゲルのレベルまで到達できれば、この上ない幸せな存在としてあるのだと思い、
勇気づけられた。
まだ、私は家庭を持っていないからこそ、余計魅力的に思えるのかもしれない。
と同時に、そのレベルまで到達できるような生き方をしなければ、
その感覚は一生味わえないのだとも感じた。単純に家庭を作れば人間の可能性が広がるわけではない。
意識的にその可能性が広がるような生き方をしていきたいし、していくしかないのだと思っている。

2.「家族」に個人は存在しないのか   田中由美子

 これまで私は、長年家庭を営んできたこと、子どもを育ててきたことを、半ば卑屈に、感性的、
自然的な行為として低く捉えていた。
ところが、人間の自由の意志を起点に人間社会を展開した『法の哲学』を読んで、確かに「家族」は
その初めの段階に現れるものではあるが、理性の展開には変わりないものとして捉え直した。

 考えたいことは、「家族」の中には個人という人格は存在しないという、
ヘーゲルの家庭観についてである。それは具体的にはどういうことなのだろうか。
「市民社会」には個人が存在するとしているのだから、その個人とは、自分自身の基準、
テーマを持って生きる人間、というほどのレベルの個人を意味しているのではないだろう。
資産を「所有」する個人というレベルの個人であれば、家庭内にも存在するというのが、
近代の家庭の概念ではないだろうか。

 確かに、ヘーゲルの叙述から、当時、そしておそらくヘーゲルの属していた階級では、
女性が外で活動することもないような状況下で、家庭の中に個人は存在しなかったと言えるだろう。
しかし、他の階級ではどうだったのか。また、現在はどうなのだろうか。

 また、確かに、主婦が、○○さんの妻、○○ちゃんの母親という形でしか存在せず、
家族と一体化しやすいということは、私自身が経験してきたことである。
しかし、それは他者を基準としてきた私の生き方の産物でもあり、家庭において、親子関係は別にしても、
夫婦がそれぞれ対等な個人として相対しているケースも一定程度存在し、
それ故に、あるいはそれを目指すがために破綻する、というケースも増えているのではないだろうか。

 人間にとっての婚姻というものが、ヘーゲルが言うように、対等な二人の人間が止揚されて
一人格となることだとしても、実際の家庭生活の中に個人が存在しないという形は、
現在衰退の方向にあるのではないか。そういう従来の家庭なら持ちたくないという若者が増えており、
また、個人の存在する家庭でなければ、家庭として成り立たないという、
そういう本来の家庭に発展しつつあるのではないだろうか。

 あるいは、ヘーゲルの書いたことは、こういうこととは別次元の話なのだろうか。

3.悪を進める                松永奏吾

 今年の夏の合宿で、これまで「悪」という言葉で漠然と思っていたものについて、考え直した。
ヘーゲル『法の哲学』は、第一部「抽象的な権利、法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」となっており、
その第二部「道徳」の最終章で、「悪」に関する長い叙述がある。

 これまでの自分の中では、「悪」という言葉はまず、嫌悪の対象であり、憎むべきものの総称だった。
暴力、いじめ、強欲、感情に支配された状態(怒りで我を忘れるなど)、無責任、卑怯、怠惰、下品、など。
ところが、この「悪」は、感情の対象というよりむしろ、私の中で動く私の感情そのものである。
どうしても動いてしまうのが感情なのだから、それは認めるとしても、
これだと相手に囚われてしまって、その先に何も考えようがない。
ただ私の中に嫌悪の感情があるというだけか、せいぜい対象を「低い」と言っているに過ぎない。
さらに、この感情の中を泳ぐようにして考えを進めると、
悪とは、この世界の「正体」であり、自分自身の本体でもあり、ゆえに神とは悪のことであり、
自分も悪であり、したがって生きていても意味がない、となって苦しかった。
今でもこの方向に傾くことがある。

 ヘーゲルは、悪を「分裂」と捉え、それは概念がまだ普遍と一致していない状態、とする。
そこで、もう一方の善を普遍、「統一」と捉えてみれば、
「分裂→統一」という運動の基本が「悪→善」で言われているのだと思った。
悪とは否定であるが、その否定(否定の否定)をもってはじめて運動になる。
だから、判断とは分裂だという場合、判断とはまさしく悪のことでもある。
要するに、生きるというのは「悪を進めること」である。
こんなにひどい世界が動いて成長し、どうやら「善」に向かっていることに対する驚き、
は私の中にもある。私の感情の対象であり私の感情そのものだった悪が、今回の合宿を経て、
捉え直され始めた気がする。

 肝心な点は、「悪=分裂」の中にある肯定面を見ることができるか、否定の否定まで行けるか、である。
失敗や間違いや犯罪や暴力や戦争や対立は、それらは放っておけば単なる悪であるが、
その中にあるアンジヒなものを外化させ、より激化させること、私自身の中にある悪を外化させること、
である。

 最後に、前々から不思議だと思っていたのだが、
「良い」を否定した「良くない」という言葉はイコール「悪い」を意味するが、
「悪い」を否定した「悪くない」は、イコール「良い」を意味するだけでなく、
「まあまあ良い」とか「なかなか良い」といったニュアンスがある。
上記の「悪」の捉え方でこの感覚をよりつきつめてみれば、
「悪くない」とは、「まあまあ良い」なんて甘いものではなく、
実は、イコール「良くない」、イコール「悪い」のことではないか。
「悪くない」すなわち「悪がない」というのは、「良い」と同様、発展の芽がない、ということではないか、
とすら思えてきた。

4.聞く人にとって話がわかりやすいということ  小堀 陽子

 今回の合宿で改めて意識したことは、Aの話が聞いていてわかりやすい、ということだった。
「現実と闘う時間」でAが中井さんとやりとりした内容は、私には理解しがたい事柄だったにも関わらず、
今どんなことについて話しているのか、例えば、業界の仕組みの話をしている、とか、
どこがAの意見なのか、とかがわかりやすかった。
口述筆記したら、そのまま読みやすい文章になるだろう、と思って聞いていた。
Aはレジュメの形式は整理が不十分だったが、話を聞くと、頭の中が整理されているのが、わかった。

 対して、Bの話はわかりにくい時があった。わかりにくい、と感じたのはどんな時かというと、
話の論点がずれてしまった、と感じた時だった。けれど、話がずれてしまった、と感じた時に、
どこがずれてしまったのかを指摘することが、私にはできない。

 そして、私自身の話について言えば、聞く人がわかりづらく、辛抱が要るだろうと思った。
合宿でレジュメを準備しなかったために、話しているうちに迷子になってしまった。
Aはレジュメがなくても聞きやすく話ができるが、私にはそれはできない。
松永さんから「小堀さんの話は長くて、聞いていて辛いなと思った。」と指摘されたが、
そうだろうと思った。
そして、聞く人が辛いのは、話が長いことよりも、整理されていないことについてなのではないか、
と思った。

 私は、整理して話をすることができないことを自覚している。3年くらい前だったと思うが、
やはり「現実と闘う時間」で、レジュメを用意せずに報告をしたことがあった。
友人の自殺についてで、気持ちも整理できていなまま話して、長くなった。
話しながら自分の気持ちを確認している作業をしていたのだと思う。
後日のゼミで、Aから、「先日の小堀さんの話は長くて、これは女性に特有のことかもしれないが、
今度あまりに話が長くなることがあったら、言おうと思っていた。」と批判を受けた。
私はレジュメがなく話すと、また同じことになってしまうと思って、
その後は、短くても必ずレジュメを用意するように心がけてきた。

 通常のゼミでは、レジュメを準備した上で、話が無駄に長くならないように、
レジュメ以外の余計なことは言わないようにしよう、と頭の隅で思って話してきた。
でも、そのブレーキが、必要なことまで言わないことにもつながっているかもしれない。
なぜなら、私は大事なこととそうでないことの判断ができていないだろう、と思うからだ。
合宿の報告をした時、中井さんから、「Xのことは、経営上の重要な事柄だから、
僕の質問に答えてついでのように出す話ではなく、レジュメを準備して始めから話すべき内容だ。」
と指摘を受けた。私は、レジュメを準備していたとしても、Xの話をぬかしてしまっていたかもしれない、
と思った。それは、重要な内容とそうでない内容の区別ができていないからだ、と思った。

 合宿3日目の晩の「現実と闘う時間」を終えて女子棟に帰った後、Bと話をした。
通常のゼミと異なったのは、帰りの時間や翌日の仕事のことを気にしないで話ができたということだった。
考えながら質問することができたり、ゆっくりした気持ちで話を聴くことができたりした。

 話した内容について思ったことがある。
Bから、合宿の予習に取り組む話や中学生クラスの話を聴いていて、「優等生風なB」とは違ったBを感じた。
例えば、「法の哲学」を読んでいて、とても心に響いた箇所があったという話や、
ゼミを辞めたら後がないと思っている、という話は、Bの中に切実な何かがあるのだと、感じられた。
そして、私がBのことを「優等生風」と感じるのは、自分の影をBに重ねているだけなのかもしれない、
と思った。自分に理解しやすいように、自分の影を重ねてしまっているのではないだろうか。
自分の影を通して理解しようとすれば、それとは違ったBの本質は、私には見えないだろう。

 もうひとつ思ったことがある。頭がゆるんだからこそ、浮かびあがってくる話がある。
気ままに話す中で、自分の思いや考えを改めて意識できることがある。
話をする中で、自分が整理されていくことがあって、自分はゼミではその作業はするべきではないと思ったが、
その作業はひとつの過程として大事だと思った。

 けれど、自分で話しながら迷子になってしまった時に、迷子になったことが自覚できるようになれば、
他の人の話の迷子も「迷子になっていますよ」と指摘することができるようになるだろう。

 店で話をするお客さんで、とりとめもなく話す人がいる。
たまに来るお客さんと音楽に関係ない話をするのはいいと思っている。
けれど、来る度に愚痴っぽい話ばかりする女性の長居は、困る。
今回考えて、話相手によって愚痴でない方向に行ける可能性があるのかもしれないと思った。
たぶん相手のペースに任せていたら、とめどなく愚痴になってしまう。
けれど、私の対応で、違うものが引き出せる可能性があるのではないかと思った。

5.自己への制限が自己を発展させる  加山 明

 法の哲学の第三部では、家族、市民社会、国家と、個人を「制限」するものが順次展開されている。
そして、自己陶冶の重要性も繰り返し語られている。ヘーゲル哲学の核心は「発展」であるが、
その要諦を社会のレベル、個人のレベルの双方で示したのだと思う。

 論理学の目的論でも、目的のために自己を制限することの重要性
(これを明示的に書いていたのは確かマルクスであったが)が導き出される。
囚人が実は自由である、という極端な例もヘーゲルは出している。

 精神現象学でも、自己吟味によって無限の成長が可能であるとされている。
そして、人間は「承認をめぐる闘争」に身を投じる。
自己吟味は個人(=自己)を制限する社会(=他者)において為される。

 個人は社会において、自己自身よりも優先されるべきものに出会い、ぶつかり、自己を成長させ、
そのことによって、また新たな、より高いものに出会うことができるようになって、再びぶつかる。
これをひたすら繰り返していくが、この過程こそが社会の発展でもある。
それを構造的に示したものが法の哲学なのだと思う。

 家族を持たないという選択もあり、結婚をしない、結婚しても子供を持たない、
という生き方を選ぶ人も増えている。
だが、基本的には、自己を発展させる相手と一体となって、自己よりも優先される「かすがい」である
子供をもうけ、自己を制限することで、人はより大きく成長し、以て、社会を発展させるのだと思う。

 何より、自己よりも優先されるもののない人生は、どこか虚しい。
こう言うと、宗教やカルトが連想されることもあるだろうが、
しかし、それすらも決して無意味な「依存」では無いと思う。
例えば、人生に何の目的も無いような、あるグレた青年も、自らの人生を懸けるに足る相手と出会い、
その相手のために懸命に自己を捨てて働く。
そのことによって、真っ当さを獲得して、成長していくこともあるだろうし、
その相手自身も社会の中で吟味されていく。
結局、自己が選んだ、自己を制限し、自己より優先されるもののレベルによって、
その自己自身のレベルも定まってくるというだけの話であって、
最終的には、その人間がどこまで登りたいのかに依存する。

6.「他者と関わる」とは何か    掛 泰輔 
 
 私は現在、慶応大学環境情報学部3年に在籍し、今年の5月から来年の3月まで学校を休学し、
福島県の原発被災企業でインターンシップ(職場体験)をしている。
その中で現在は社長と新規事業「被災地研修ツアー」をつくろうとしている。

 合宿前半の目的論の講読で、中井さんは何度も「外化」、ということを言っていた。

 その意味の一つは「外に向かわなければ中にも向かえない。そうなれば自分の本質がわからないまま終わる」
ということだが、では外に向かい、他者と関わるとはどういうことなのか。

 私はこれまで、外に向かって行動していき、インタビュー等で相手と話し、
相手の本質を引き出そうとなるべく努めてきた。時に成功した部分もあった。
しかしそうしてインタビューした内容、結果を媒介にして、
ある組織の中で仲間・上司と意見をぶつからせるわけでもなく、
ただ中井さんの批判に晒すということに留まっていた。

 つまり私は、外に出て行って人と会い、話をきき、自分の問いの答えを深める、
ということはできているが、その先に「仲間と何かを一緒につくりあげていく」ということができていない。
学校に行かなかったからそういう経験もない。
(私は高校は2ヶ月で中退しており、また中学でも集団で何かに必死で取り組んだ、といえるものがない。)
しかし今の私は「仲間と、あるいは上司・先輩と、一つのテーマ・事業をつくりあげていく」経験をしなければ、
今の段階を止揚できないのではないか、と思うようになった。
これは半年前の私にはほとんどなかった観点で、それは中井さんに批判され、
また今の福島でのインターン経験を通して少しずつ得られたものだ。

 具体的には、インターン先の企業のある女性従業員の方の話に僕は心動かされ、
こういう人と何か協力してやれないものか、と思うようになった。
彼女の故郷は、原発事故によって住めない土地になってしまった。
彼女の行政区は、平成の大合併で市に吸収され、震災後は区民の生活に根ざした独自の判断ができず、
市の「帰還方針」に区として従わざるを得ない。
従業員の間でも、震災後に結束して仕事に集中しなければならないのに、
賠償金の支払額の違いによる目に見えない従業員同士の分断や役員の方向性の見えなさで
現場の士気が上がらない、お昼ご飯は一緒に食べるが、震災後の生活のことについて本音で話す事はない。
津波で家が流された方がマシだった、結婚した後も盆と正月はふつうに帰れる家があるのに、
現実は帰れない、この身を切られる辛さ。
話すほど彼女の問題意識は大きく深くなっていき私は圧倒された。

 それまでの私はふつうの従業員や、原発事故で被災したふつうの人の、生活の中の言葉を
きいたことがなかったし、その必要も考えなかった。「被災地で新しい価値を創造しようとしている人」
というようないわゆる「すごい人」しか見えていなかった。

 しかし実際は、この人のような真っ当な感覚をもった生活者の立場こそ、
私の心を打ち、かつ客観的に、誰もが自分の「生活」、「家族」、「仕事」を振り返って考えられるような
強く深いものがあるのではないかと思う。

 現場で悩み、闘っている人と協力し意見をぶつからせることで、何かを一緒につくっていくことが、
今の自分を超えるには不可欠だという確信を強めつつある。
しかし事業の実施という意味での目に見える結果を出していないのが今の現状である。

 では今までの私のやってきたことと、これから私のやろうとすることの何が本質的に違うのか、
なぜ後者の方が高いのか、という問いの、今の段階での私の答えは、
「事業を進めようとする中で、対象の本質がどんどん明らかにされ、
その客観に対して私自身は自分を変え、また変えられない軸を相手と自分に対してはっきりさせ、
発展させなければならない状況に追い込まれること」だと思う。

 つまり他者と関わるとは相手に働きかけて本質を引き出し、こちらの本質も引き出される事で、
それによって私自身の側に過去の自分の認識の「断絶」をつくりだし、
同時に客観の側にも断絶をつくりだす
(対象を変える。相手は引き出された自らの本質に逆らう事はできない)ということなのだと思う。
これがヘーゲルのいう発展のひとつの意味なのではないか。

 人は可能性をもって生まれ、その可能性を最大限生かして生きる事が、
幸福につながるのだと中井さんは言う。
そして他者との関係でどういう自分の本質が現れるのか、そのとき現れた自分が自分の本質で、
その奥に本質はないという。すごく現実的だと思う。
その時に現象している自分の本質から逃げられない。
しかし逆に、どういう客観の関係の中に自分自身を関係づけるのかで自分の本質をいかようにも引き出し、
過去の自分との断絶をつくりだすことができる。 

 例えば私の場合、インターン先のある従業員の方と関係をつくり聞き出した話が、私自身の、
過去の私との断絶になり、断絶が起きたからこそ、あるテーマに絞り込む事ができ、目的は明瞭になった。
目的が明瞭になったからこそ、自分は今何を超えなければいけないのか、使える手段は何なのかが明らかになり、
「あとはやるだけ」というところまで自分と対象の本質を展開することができた。

 今は目の前の事で精一杯だが、大きく人生で考えたときに、
この心動かされる「断絶」を自分の中で何度つくり出すことができるかが、
自分をどれだけ発展させられるかという事なのだと思う。
そしてその断絶は他者(客観)と関わる事でしかつくりだせないということも、今回の合宿でその思いが強まった。

7.コメント 中井 浩一

掲載した合宿参加者の感想は、「現実と闘う時間」での意見交換のナカミには触れていない。
「現実と闘う時間」ではかなり個人的な問題を議論しているのでこのメルマガには掲載しない。
ヘーゲル哲学についての言及が多いが、原書購読(目的論 大論理学)よりは、
ヘーゲルの『法の哲学』(翻訳)を取り上げたものが多い。目的論はやはり難解なのだと思う。
なお、著者名の一部に仮名を使用したことをお断りしておく。

 では掲載した文章についてコメントする。

1.結婚、人間としての可能性を広げる生き方  畑間 香織
 合宿でヘーゲルの『法の哲学』を読みあっている時に、「オ?ッ!」という低く重い響きが聞こえた。
思わず吐き出された呻きのようだった。そんなことはこれまでなかった。
こうした声(音?)が出るほど深く心が動くことがある。
「難解な」ヘーゲル哲学でもこうした直接的な反応を引き起こすことがあるのか、と驚いた。
それは畑間さんの声だった。その時の思いの中身を本人が書いている。

2.「家族」に個人は存在しないのか 田中 由美子
 この文章には誤解があると思う。
個性や人格の平等が問題になるのは、市民社会の場で、他者や社会との関係の中であり、
家庭においては夫や妻、父や母という役割関係が前面に出るというだけのことだと思う。
第3部では第1部は止揚されているが、なくなっているわけではない。
 こうした誤解があるが、人は自分の現状や関心に引き付けて読むものだし、それ自体は正しい。

3.悪を進める      松永 奏吾
 ヘーゲルは性悪説の立場に立つ。この意味をどこまで深く理解できるかが重要だ。
ちなみに、マルクスは典型的な性善説の立場である。
 ヘーゲルは判断の正誤といったレベルの奥にもう1段深いレベルとして、
概念それ自体の真理を問うレベルを用意している。
間違え・誤り・誤解と、正解・正しさは対ではない。正しさとは間違いの中からしか現れることはない。
 善悪も同じだ。人間の外化の活動の中に、必然的に誤りも悪も引き起こされる。
しかしそれを克服する過程からしか善は生まれない。そこに過程と運動があり、そこにこそ発展がある。
 松永さんが悪を「感情」と結び付けて表現しているのは、
『法の哲学』の善悪の理解としては、レベルが違うから間違っている。
しかし、松永さんは人間の外化の活動を問題にし、人間が外化を避けようとする気持ちの底にあるものを
見つめようとしているのだろう。人は自分の課題と向き合うために本を読む。
松永さんにとって、外化と悪との問題は重要な問題なようだ。
それを考えようとした松永さんの姿勢は正しいと思う。

4.聞く人にとって話がわかりやすいということ  小堀陽子
 小堀さんは、「現実と闘う時間」での話し方に着目した。
「わかりやすい話」と「わかりにくい話」の違い。
そこからゼミでのそれまでの自分の言動、自分自身の日々の生活の反省をしようとしている。
実に真っ当だと思う。
 しかし、混乱がある。Aの話は仕事上の問題に関わるもので、小堀さんの友人の自死をめぐる問題とでは、
大きな違いがある。
主に思考上の整理に関わる問題と、感情の整理が大変な問題とは、同一レベルでは論じられない。
その両者の違いを発展的にとらえるべきだろう。
 Xに関わる問題は店の経営上の問題であり、これは思考の整理以前に、
経営や社会についての理解の深さの問題がある。
 Bについての言及で、合宿の効用はその通りだし、小堀さんの優しさが伝わってくる。
しかし「自分の影をBに重ねているだけなのかもしれない」と、
簡単に180度ひっくり返ってしまうのは軽薄である。
これまで見えなかった自分と同一の面に気づいたなら、その上で両者の違いの面もより深く見えてくるはずだ。
 「話をする中で、自分が整理されていく作業はひとつの過程として大事だ」はその通りだが、
それを「対象や自分を発展させること」というレベルで理解したい。
 店の客の問題が出てくるが、これも「対象や自分を発展させる」ためにはどうしたらよいのか、
という観点で考えてみるべきだろう。
話をしっかり聞くことも大切だが、時には疑問を投げかけたり、厳しく批判することも必要なのではないか。

5.自己への制限が自己を発展させる 加山 明
 『法の哲学』と精神現象学の自己吟味を結びつけて考えている。
抽象的な表現だが、自分の生き方(「先生を選べ」や結婚の問題)を問い直していることが伝わる。
ラストの「自己が選んだ、自己を制限し、自己より優先されるもののレベルによって、その自己自身のレベルも
定まってくるというだけの話であって、最終的には、その人間がどこまで登りたいのかに依存する」は、正しいと思う。
 自己吟味については牧野紀之が言及している(「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」)し、
制限と限界の弁証法についても許万元と牧野の言及(「サラリーマン弁証法」、『哲学夜話』に収録)がある。
それらも読んでみると良いだろう。

6.「他者と関わる」とは何か   掛 泰輔 
 生活を哲学するのが私たちの立場だが、こうした文章がその見本だろう。
生活や運動の中で出会った疑問や問題の意味を深く考えるために、人は学習し本を読むのだ。
 掛君は、福島県の原発被災企業でインターンシップをしている。
そこでの出会いが掛君を大きく変えた。その意味を言語化すべく努力している。
ここでの掛君はきわめて「実践的」だ。自分を作り、他者を作り、概念を作る作業に取り組んでいる。