1月 23

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その5

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

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 (4)概念の判断

 実然判断 この家は良い この人の行為は正しい

 蓋然判断 この家は良いかも知れない
      この家が○○ならば、この家は良い
      この人の行為が○○ならば、この行為は正しい

 確然判断 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い
      この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい
     
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 1)カントまでの理解

  実然判断    → 蓋然判断   → 確然判断
(?かも知れない) (?だよ(断定)) (?に違いない)

 2)概念の内容は示されない → それは自然哲学、精神哲学の内容そのものだから

 3)全体に

【1】いよいよ「概念」が現れてくる
 「真理」 対象とその概念との一致

 
【2】実然判断 → 蓋然判断 → 確然判断
 実然判断の中に、その根拠が内在していて、それが概念。
 それを表に出し始めたのが蓋然判断。
 

 その対象と概念が一致するか否かが問われ、
 その結果が述語で示される(概念のナカミそのものではない)
 述語が価値そのもの
 この前段が、表に現されると、文が2つになり、蓋然判断、確然判断
 概念の内容が現れている。

【3】個別は普遍

【4】確然判断
 個別と特殊と普遍の3項で、推理に
 確然判断の後段はそのまま、実然判断

【5】蓋然判断、確然判断
 これは、本当に判断なのか。すでに推理ではないのか。

 4)実然判断 (この家は良い。 この人の行為は正しい。)

 家の概念、人の概念 が問われている
 根拠=概念 潜在的に概念が問われている。
 なぜなら良い、正しいは、存在と概念の一致だから
 この家、この人、は個別で、根拠は特殊か?

 5)蓋然判断
  (この家が○○ならば、この家は良い。この人の行為が○○ならば、この行為は正しい)

 「○○ならば」は特殊か?

 6)確然判断

 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い 
 この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい

 前文は判断の根拠。後半は蓋然判断

 四.その他

 (1)ヘーゲル「大論理学」の判断論で、例文をほとんど出さない理由

 1つの文で、4つの判断の2つにまたがって例を出すことは無理。
レベルが違うから。
それぞれの判断の内部でも、その達意眼目において違う例文が必要になる。
だから、ヘーゲルは大論理学では、あえて、例文を出さないのではないか。

 (2)「生活のなかの哲学」 

 日常用語を哲学のカテゴリーとして使用する理由
 哲学の使命は、日常の人々の経験の意味を、
言葉にすることで、人々に気づきをうながすこと。
(『大論理学』3 寺沢恒信訳 以文社 193、194ページ)
これが牧野紀之「生活のなかの哲学」になる。 

 (3)大論理学と小論理学

 大論理学について誤解していたと思った。以前は、小論理学に対して、
大論理学の方が「詳しい」と思っていたのだが、不正確だった。

 大論理学は必要十分なことを、簡潔に述べている。
だから具体例も少ない。「詳しく」はない。むしろ小論理学の方が饒舌。
一部は小論理学の方が「詳しい」。(「補遺(付録)」部分に限らない)。

 小論理学は、大論理学を書いたあとで、一般学生にわかりやすく説明しなおしたもの。
大切な論理の説明も、一部ははしょっている。受け狙いの個所もある。
これをヘーゲルの真意だと思うと失敗する。
小論理学で具体例が多いのはありがたいが、その例として的確かどうかは考慮の余地がある。

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One Response to “ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その5”

  1. 大絶画 Says:

    中井浩一様

    はじめまして大絶画と申します。
    復刊ドットコムにヘーゲル著『大論理学』の文庫化をリクエストしました。
    中井様をはじめ記事をご覧の皆様の投票しだいで文庫化される可能性があります。
    投票ページへはURLからアクセスできます。投票へのご協力をお願いします。
    なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

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