7月 08

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その3)
                                中井 浩一
   【9】【10】【11】【19】【21】段落

   ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

   ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
   ・(1)(2)などは私の注釈の番号

   ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
    私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程
     
 【9】 ある労働過程から〔新しい〕使用価値〔生産物〕が現れてくるとき、
    それ以前の労働過程から生まれた別の使用価値〔生産物〕は〔次の
    生産物のための〕生産手段として〔新たな〕労働過程にはいって行く。
    以前の労働の生産物が持っていた使用価値が、今度は新たな労働の
    生産手段〔という使用価値〕になる。それだから、生産物は、
    労働過程の結果(39)であるだけではなく、同時にその条件(39)
    でもあるのである。

 ◇注釈
 (39)「労働条件」という用語はヘーゲルの『小論理学』の現実性の箇所を
     思わせる。「労働条件」というくくりには、労働対象も労働手段も、
     人間もすべてが入るはず。

 【10】 鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを
     開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている
     採取産業もある。しかしそれは例外であって、他のすべての産業部門が
     取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された
     労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。たとえば
     農業における種子がそれである。自然の産物とみなされがちな動植物も
     〔本当はそうではなく、人間労働の産物なのだ。しかも〕、おそらくは
     前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態になるまでには、
     いく世代にもわたって、人間の制御のもとに人間労働に媒介され続けてきた
     変化の産物である(40)。しかし、特に労働手段について言えば、
     その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示している
     のである。

 ◇注釈
 (40)人類史の中での労働と人間と自然の関係がまとめられている。無いのは、
     人間自身もその過程で作り上げられてきたことだ。

 【11】 原料は、ある生産物の主要実体(41)をなすことも、または
     ただ補助原料(41)としてその生産物の形成に加わることもありうる。
     補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草が
     ひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、
     または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、
     染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を
     起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や
     採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。
     主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。
     なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として
     現われるものはなにもないからである。

 ◇注釈
 (41)この「主要実体」は単に、「補助原料」の対でしかないが、本当は
    「実体への反省」が書かれなければならなかった。人間の使命、自然が
     人類を生んだ意味を導出するべきだった。つまりNachdenkenになって
     いない。
     マルクスがそれをできなかったので、許萬元が代わりにそれを行い、
    『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を刊行する必要が出たのだ。
     許はそれを行ったが、それをしなかったマルクスの批判は行わない。

 
 【19】 労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを
     食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この
     生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている
     個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の
     働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。
     それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は
     消費者とは別な生産物である(42)。

 ◇注釈
 (42)消費との関係で書かれているが、生産物は普通の意味の生産物だけではなく、
     人間自身もそうだと言うことが、ここに示される。これをもっと展開する
     べきだった。

 【21】 これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきた
     ような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、
     人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然との
     あいだの物質代謝の一般的な(43)条件であり、人間生活の永久的な
     自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく(43)、
     むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なもの(43)である。
     それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要が
     なかった(44)のである。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある
     自然とその素材、それだけで十分だったのである(44)。小麦を味わって
     みても、だれがそれをつくったのかはわからないが、同様に、この過程を見ても、
     どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわからない。たとえば、
     奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、
     あるいはまたキンキンナトゥス〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した。
     国民文庫の説明〕がわずかばかりの大地の耕作でそれを行なうのか、
     それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか※、というようなことは
     なにもわからないのである(45)。

 ◇注釈
 (43)「一般的な条件」「かかわりなく」「等しく共通なもの」という言葉が、
     マルクスが普通のレベルに落ち込んでいることを示している。冒頭の段落と
     同じだ。このために次の注(44)のようなことになる。
 (44)本当は、「労働者を他の労働者との関係のなかで」一般的に「示す必要」が
     まずあり、次にそれを具体的に示す必要があったのだ。だから以下のような
     叙述が出てきてしまう。
 (45)この段落で、注(44)の直後からラストまでの叙述が必要になるのは、
     もともと、個々の特定の社会状態を無視して、労働過程を書くことはできない
     のに、そうしたからだ。本来は、一般論の後に、唯物史観の立場から
     人類社会の発展を簡潔に示すべきだったのだ。

 ※への原注
      たぶんこの最高に論理的な理由からトレンズ大佐は未開人の石のうちに
     発見するのである?資本の起源を。「未開人が野獣を追いかけながら
     投げつける最初の石に、手のとどかない果実を落とすために彼がつかむ
     最初の棒に、われわれは、他の財貨の獲得を目的とするある財貨の取得を
     見るのであり、こうして発見するのである?資本の起源を。」
     (R・トレンズ『富の生産に関する一論』、七〇、七一ページ。)
     なぜ英語ではstock〔木の幹〕が資本と同義なのか、これも、たぶん、
     この最初の棒〔stock〕から説明できるのであろう(46)。

 ◇注釈
 (46)資本の起源を最初の道具に見ている。

7月 07

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

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 ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その2)
                              中井 浩一
   【3】【4】【5】段落

  ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
   〔 〕は私の補足や語句の説明。

  ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
  ・(1)(2)などは私の注釈の番号

  ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
   私が判断した箇所に入れた。

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  第一節 労働過程

 【3】 労働過程の単純な諸契機には〔3要素がある。それは〕、合目的的な
    活動または労働そのもの(19)と労働対象(19)と労働手段(19)である。

 ◇注釈
 (19)この3つの出し方は内在的なものではなく、外的で機械的で悟性的なもの。
     この3つしかないことは、どこにも証明されていない。

 【4】 人間のための食料や生活手段として最初から完成したものを用意
    しているから、この大地(経済的には水もそれに含まれる)は、
    人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象(20)として
    存在する。自然界によって与えられたすべての物は、労働によって
    ただ大地との直接的な結びつきから引き離される(21)だけで、
    労働対象となる。たとえば、魚はその生活環境である水から引き離されて
    捕えられ、木は原始林から伐り倒され、鉱石は鉱脈から掘り出される。
    これに反して、労働対象(21)で、それ自体がすでに過去の労働によって
    いわば濾過されているならば、われわれはそれを原料(21)と呼ぶ。
    たとえば、すでに掘り出された鉱石が洗鉱されたならば、それが原料である。
    すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象は原料であるとは
    かぎらない。〔なぜならば〕労働対象が原料であるのは、ただ、すでに
    それが労働によって媒介されて変化を受けている場合だけ〔だから〕である。

 ◇注釈
 (20)この「一般的」と言う用語がわからない。本来は、人間が自らの対象
     である自然を労働手段と労働対象に分裂させ、特殊化する、と展開する
     べきだった。
 (21)この原料(労働による)と労働によらない労働対象の区別にどういう意味が
     あるのかわからない。「引き離す」こと自体も「労働」ではないか。

 【5】 労働手段とは物またはいろいろな物の複合体(22)であり、
    労働者(23)はそれを自分と労働対象とのあいだに入れて対象に
    働きかけるのである(24)。労働者は、労働手段としてのいろいろな物の
    機械的、物理的、化学的な性質を利用して、自らの目的が達成できるように、
    他のいろいろな物(生産対象)にたいする人間の労働を伝える手段とする。
    労働者が直接に支配できる対象は、労働対象ではなく、労働手段である
   (25)。ただし、生活手段として完成しているもの、たとえば果実などの
    つかみどりでは、人間自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ
    のであるが、このような場合は別である。こうして、自然的なものが
    それ自身〔労働手段として〕人間の活動の器官(26)になる。
    その器官を彼は、聖書の言葉にもかかわらず、彼自身の肉体器官に
    つけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばす(27)のである。
    大地は人間にとっての根源的な食料倉庫であるが、同様にまた
    人間の労働手段の根源的な武器庫(28)でもある。それは、たとえば
    石を供給するが、人間はそれを投げたり、こすったり、圧したり、
    切ったりするのに使う。《大地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、
    それが農業で労働手段として役だっためには、さらに一連の他の労働手段と
    すでに比較的高度に発達した労働力とを前提する》。(29)
    およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された
    労働手段を必要(30)とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具
   (31)や石製の武器(31)が見出される。加工された石や木や骨や貝がら
    といった〔無生物〕(31)のほかに、人類史の発端でも、すでに労働に
    よって変えられた、つまり馴らされ、飼育された動物(31)が、
    労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用や創造(32)は、
    萌芽としてはすでにいくつかの動物も行なうことだとはいえ、それは
    人間特有の労働過程を特徴づける(32)ものであり、それだからこそ、
    フランクリンも人間を道具を作る動物だと定義(33)しているのである。

     死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと
    同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の
    遺物がもっている(34)。何がつくられるか〔労働対象と成果〕ではなく、
    どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を
    区別する(35)。労働手段は、人間の労働力(36)の発達の測度器である
    だけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係(37)の
    表示器でもあるのだ。

     労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と
    呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけで
    その全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、
    たとえば管や槽や寵や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかに
    より決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業で
    はじめて重要な役割を演ずるのである(38)。

 ◇注釈
 (22)あくまでも物質である。しかし、後で「動物」も労働手段となることが
     指摘される。
 (23)注の13で指摘したが、「人間」ではなく「労働者」を主語にしている。
 (24)わかりやすい「媒介」。3項からなる。しかし、これは労働過程の3項を
     前提とした説明方法で、内在的な説明にはなっていない。
 (25)人間は、直接に支配できる対象にしか関わることができない。それが道具である。
     だから重要なのは道具なのだ。しかし、何が労働対象で、何が労働手段なのかは、
     固定的に決まらない。
     問題は、人間が直接に働きかけることができる対象と、その対象を媒介として
     間接的に働きかけるしかできない対象とに区別されると言うことだ。そして、
     道具は次々と拡大していく。
 (26)この指摘はさすがである。道具は人間の手足の延長だと言うのだ。
     人間は科学技術と機械力を生み出し、産業を発展させてきた。これはすべて、
     人間の肉体の延長だと言うのだ。大きく言えば、これは大地全体(この地球の
     総体)のすべてが人間化したということだ。これは逆に言えば、人間の
     すべてが自然化したということでもある。
     そしてここから出てくる人間の使命とは何か。人間は自然の真理であり、
     自然を完成することがその使命なのだ。
 (27)前とこことで、労働手段は人間の肉体の延長だとする。
 (28)これが一般的労働対象から労働手段が分裂することのマルクスの叙述である。
 (29)これは傍流で補注の位置づけ。こういう傍流を入れまくるのが、マルクスの
     悪い癖だ。
 (30)労働手段(道具)の開発と、思考(目的意識)と、人間社会の成立とは
     同時なのである。
 (31)無生物の道具だけではなく、生物をも道具にする。人間を道具にしたのが
     奴隷だが、人間は人間(自分も含む)をも手段にする。資本家は労働者を、
     否、資本家たちをも道具にしている。ここから「生産関係」の話をするべき。
 (32)「労働手段の使用や創造」ができるかどうかが、猿と人間を分ける
 (33)人間と他の動物との違い
 (34)その社会の発展段階を決めるのは生産力であり、それは道具の威力に
     他ならないのだ。マルクスの凄みがここにある。石器時代、青銅器時代、
     鉄器時代といった区分が想定されている。
 (35)重要なのは生産物ではなく、それを生み出した労働手段(道具)だと
     いうのだ。それは正しいが、それだけを言うのは一面的だろう。
     最終的にはやはり生産物こそが重要で、それがその社会を決める。
     それは「何を」(what)と「どのように」(how)で、重要なのは
     最終的には「何を」(what)だということだ。手段は目的に従属するからだ。
 (36)ここと次の注が、マルクスが唯物史観らしきことを述べた唯一の箇所。
     唯物史観の生産力は道具の威力。
 (37)唯物史観の生産関係を規定するのは生産力。ただし、どういう関係で
     こう言えるのかは説明されていない。
 (38)この段落も、傍流的ではないだろうか。本来は、注36、注37で
     説明した内容を、くわしく展開するべきだった。それをしないで、
     枝葉末節の話に流れてしまう。これはマルクスの叙述の大きな問題だ。

7月 06

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。                 
 
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2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注
                              中井 浩一

 ・訳文は国民文庫版の訳文を下敷きに、自由に私(中井)が手を入れた。
〔 〕は私の補足や語句の説明。

 ・【1】【2】などは原文の形式段落につけた番号
 ・(1)(2)などは私の注釈の番号

 ・《   》は本文で傍流部分(語句の注釈であり、なくてもわかる範囲)と
私が判断した箇所に入れた。
マルクスの文章には傍流が多く、それが読者にとって読みにくくしている。
それだけではない。そもそものマルクス自身が本来書くべきことを
見失っているようなことも多いように思う。
それを示すための工夫である。

  ■ 全体の目次 ■

  【1】【2】段落 →ここまで本日に掲載
  【3】【4】【5】段落 →ここまで明日7日に掲載
  【9】【10】【11】【19】【21】段落 →ここまで明後日8日に掲載

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  ■ 本日の目次 ■

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注(その1)
 
   【1】【2】段落

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 第一節 労働過程

 【1】 労働力〔という商品の使用価値〕の使用が労働そのものなのである(1)。
    労働力の買い手〔資本家〕は、労働力の売り手〔賃金労働者〕に労働をさせること
    によって、労働力を消費(2)する。このことによって、労働力の売り手
    〔賃金労働者〕は、それ以前にはただ可能性として労働力、労働者(3)
    だったのだが、それが現実に活動している労働力、労働者(3)になるのだ。
    賃金労働者が〔自らの〕労働を商品にするためには、それをなによりもまず
    使用価値に、〔人間の〕何らかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に
    表わさなければならない。しかし、労働者がどんな特殊な使用価値、
    どんな品物を作るかを決めるのは、資本家であって賃金労働者ではない。
    〔しかし〕〔このように資本主義社会での〕使用価値または財貨の生産は、
    資本家のために資本家の監督のもとで行なわれるのだが、そのことによって
    使用価値の生産はその一般的な性質(4)を変えることはない。それゆえ、
    労働過程はさしあたっては、どんな特定の社会的形態〔たとえば資本主義社会でも〕
    からも独立して(5)、考察されなければならないのである。

 ◇注釈
 (1)労働と労働力を区別し、その両者の関係をこのように定式化するまでには、
    何十年にもわたるマルクスの研鑽があった。
 (2)「消費」と「使用」は同じ。マルクスはこの後で「消費」と「生産」が
    一体であることを説明する。
 (3)この可能性から現実性への発展を見ていくのが、ヘーゲルの「現実性」論だが、
    マルクスはそれをそのまま踏襲する。これは本来は実体に反省するため。
 (4)このように時代に無関係に、すべての時代の根底にあるものとして
   「一般的」ととらえるのは、ヘーゲルのいう「外的反省」の立場で、低い。
    マルクスはこう言いながらも、次の2段落(注の11,注の18)などで、
    繰り返し資本主義社会での特殊例を出す。これは、もともと、マルクスの
    この切り捨て方が無理だったからなのだ。
 (5)注4と同じで、「独立して」はダメ。

 【2】 労働は、まずは人間と自然とのあいだの過程である。この過程で
    人間は自分と自然との物質代謝を、自分自身の行為によって媒介し、
    規制し、制御するのである。人間は、自然素材(6)にたいして
    自分自身をもまた自然力(6)として相対する。〔つまり〕
    その自然力とは人間の肉体にそなわったもので、腕や脚、頭や手(7)
    の持つ能力である。人間はそれらを働かせることによって、
    自然素材を、自分自身の生活のために使用されうる形態にしてわがものとする。
    人間は、それらの能力を動かすことによって自分の外の自然に働きかけて
    それを変化させる(8)が、それだけではなく、同時に自分自身の自然〔天性〕
    を変化させる(8)のだ。人間は、自分自身の自然のうちに眠っている
    可能性を〔能力にまで〕発展(9)させ、その能力の発揮〔労働〕(9)
    を自分のコントロール下に置く。

     ここでは、労働の最初の形態、つまり動物が本能的に行う労働は
    問題にしない。《労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に
    現われるという状態に対しては、人間労働がまだその最初の本能的な
    形態から抜け出ていなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられて
    いるのである。》(11)われわれは、〔動物ではなく〕ただ人間だけが
    行うような労働をここで考えよう。〔たとえば〕くもは、織匠にも似た作業を
    するし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。
    しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのだ。
    なぜならば、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いている(12)
    からである。労働過程の終わり(12)に出てくる結果とは、労働の始め
    (12)にすでに労働者(13)の心像のなかにあった、つまり観念的には
    すでに存在していた(14)のである。労働者は、自然的なものの形態変化を
    ひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の
   〔観念的な〕目的を現実のものとする(15)のである。その目的は彼が
    知っているものであり、自らの行動の仕方を規定する掟として、
    自分の意志を従わせなければならない(16)のである。

     そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。
    労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志(17)が
    労働の継続期間全体にわたって必要である。《しかも、それは、労働がそれ自身の
    内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、
    したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的話力の自由な営みとして
    享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。》(18)

 ◇注釈
 (6) これは唯物論。自然を人間が変革できるのは、人間が自然と同じ物質としての
     側面を持つからだ。
 (7) これも唯物論。頭(脳)を特別扱いせず、肉体としてとらえる。しかし頭と手を
     並べることで、「手が物をつかむ」ことが1つ上のレベルに止揚したものが
    「頭が観念をつかむ」ことを暗示している。両者を同一としながらも、発展的な
     とらえ方にもなっている。
 (8) 人間の自然に対する労働は、自然を変え、人間自身を変える。この両面を
     おさえるのが、マルクスの圧倒的に優れた点。
 (9) 可能性から現実性へ。人間の肉体面の能力もそうだし、言葉の獲得などの思考や
     精神面もそう。感情や感性面の表現もそう。集団形成や組織的行動もそう。
 (10)牧野紀之の「素質・能力・実践」で説明された「素質」→「能力」→「実行」
     を思わせる。
 (11)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。
 (12)「始め」と「終わり」の同一性が目的論の核心。
 (13)人間論のはずが、直前の資本家と労働者の話に引きずられ、ここから「人間」
     ではなく「労働者」が主語になってしまう。「資本家」は労働していないかの
     ような仮象を与えている。
 (14)当たり前だが、マルクスは「観念」を否定していない。
 (15)観念と現実。可能性と現実化である。
 (16)こうした側面を見ているのが、さすがマルクスである。
     人間は自分勝手な目的実現をめざすことはできるが、本気でそれを
     実現するためには、その目的を実現するために必要なこと(それは
    「掟」であり客観的なものだ)に自分もまた従うしかないのだ。
      一方的に自分の恣意を他者に押し付けるだけでは事は済まない。
     人間は目的を他者や自然に押し付けるのだが、同じ目的にその人間自身も
     また従うしかないのだ。そのために、人間は自分自身をも変えていく
     (成長する)しかない。ここに、人間の概念、自然の概念がちらっと顔を
     のぞかせる。
      ここの掟(Gesetz)が自覚され、蓄積されて、「学問」「科学技術」
     として体系化されていき、自然科学や社会科学となった。
 (17)目的=合目的的意志
 (18)この文は資本主義の説明で、ここでは不要なはず。

7月 05

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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 ■ 本日の目次 ■

  1.マルクスの労働過程論 ノート(その2)   中井 浩一
B マルクスの労働過程論の構成
C 本来の構成(代案)

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B マルクスの労働過程論の構成

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係の話から、
     一般的な労働過程論へ    …1段落

(2)一般的労働過程の内部構造
    [1] 人間と自然の物質代謝が労働  …2段落
    [2] 人間は労働で人間のために自然を変えてきたが、
      同時に人間自身を変えてきた  …2段落
      ・人間はその潜在的能力を労働によって発展(開花)させてきた
    [3] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 思考=目的意識性
       …2段落
    [4] 労働過程の3要素  …3段落
       人間労働(合目的的活動)→直前の[3]にあたる
       労働対象 →次の[5]にあたる
       労働手段 →次の[6]にあたる
    [5] 労働対象  …4段落
    [6] 労働手段  …5段落
    [7] 傍流 空間が前提 …6段落
    [8] 労働過程の結果・成果、それを止揚したのが生産物
        …7段落

(3)生産物の立場からの、労働過程の検討
    [1] 生産物の立場からの労働過程を振り返る 「追考」の宣言
       …8段落
    [2] 過去の生産物から新たな生産物が生まれ、それが次の労働の条件になる
       …9段落
    [3] 人類史からの事実命題 人間は労働の蓄積で、世界を変えてきた
       …10段落
    [4] 大工場内部での労働の蓄積
      ・主原料と補助原料 …11段落
      ・1つの生産物が多様な原料になる …12段落
      ・1つの労働過程で、1つの生産物が、
       次の生産の労働手段にも労働対象にもなる …13段落
      ・中間生産物 …14段落
      ・全体の中での役割で、何になるかは決まる …15段落
      ・すべての過程を止揚したものが生産物 …16段落
        止揚されていないのは欠陥物

(4)生産と消費
    [1] 消費されない生産物は、使用価値が無になる
       …17、18段落
    [2] 生産=消費 …19段落
       2つの消費=2つの生産物=生産物と人間自身
    [3] 注釈 人間の労働によらない大地がある …20段落

(5)一般的な労働過程論のまとめ …21段落

(6)資本主義社会の労働過程の特色
    [1] 一般的な労働過程論から資本家と賃金労働者の関係にもどる
       …22段落
    [2] 資本主義社会の労働過程の2つの特色 …23段落
      ・労働も資本家のもの …24段落
      ・生産物も資本家の所有物 …25段落

    骨子は(2)労働過程内部、(3)その生産物から労働過程を振り返る、
   という2つ。この方針自体が、唯物史観をきっちり説明するには不十分。

    仮に、マルクスの大枠の方針を認めたとしても、本来は、
   (3)の[4]と(4)の[1]は、(2)の[6]の後に入れるべき。
   整理されていないので、読みにくい。

    マルクスがここで実際にやっていることは、労働関係の用語〔(3)の[4] 〕
   (原料、労働対象、労働手段、中間製品、など)を、全体の労働過程に
   位置づけることで、その用語の意味を確定すること。

    しかし、ここは本来は、そんなことをやる場所ではないはず。

C 本来の構成(代案)

      マルクスは労働過程論を、本来はどう書くべきだったのか。
     唯物史観の3要素はどこからどう導出されるべきなのか。
     以下に、私の代案を示す。

(1)資本主義社会の資本家と賃金労働者の話から、労働過程論へ

       資本主義社会の資本家と賃金労働者の関係が
      なぜ生まれたのか、
      そしてそもそも労働が価値であるとはどういうことなのかを
      理解するために、労働とは何か、人間労働が他の動物と
      何が違うのかを考えなければならない。

(2)労働における人間と動物の違い

    [1] 生物と自然の物質代謝が労働 
 
    [2] 動物一般や昆虫と人間の労働との違い 目的論
       目的意識性
      → 人間の思考(内的二分)
      → 対象世界をも二重化することを可能にした。

    [3] 自然への働きかけの変化 自然界を二重化した
       人間は、対象の自然を労働対象と労働手段に分け、
       労働手段で労働対象に働きかける方法に変わった。
       労働対象の説明
       労働手段の説明 →これが社会の生産力を規定する 

    [4] 人間は労働で、人間の社会を二重化した
       人間の現実の社会(存在)と、それを反映した法律、思想(当為)の世界
       これが生産関係と上部構造
       人間社会は対立分裂し、それによって発展する
       法律や思想もそれを反映する

    [5] 唯物史観 生産力を高め、発展するための発展
       労働手段を改良して生産力を高め
       人間の生産関係を発展させ
       法律や思想も発展させてきた。
       この3つの関係は相互関係であるが、従来は大きくは
       上が下を規定してきた。
       ヘーゲルの思想が生まれた以降は、思想が全体を指導する

(3)実体への反省 発展とは本質に反省する変化

      人間は労働過程を通して人間になってきた。
      自然も労働過程で本来の自然になってきた。
      可能性が現実化したと展開したのは、実体へ反省する準備で
      なければならない。
      人間の使命、自然が人類を生んだ意味を示す。
      自然の概念、人間の概念を説明する。

(4)唯物史観の立場からの人類史のスケッチ(人類史における労働過程)

      自然と人間の発展過程
      唯物史観による生産力、生産関係、上部構造の発展の過程

(5)資本主義段階の社会の簡潔な説明(その生産力、生産関係、上部構造)

7月 04

昨年の秋に、マルクスの労働過程論(『資本論』の第3篇第5章第1節)を
丁寧に読んで、労働価値説と唯物史観について考えてみました。

 今回考えたことをまとめ(「マルクスの労働過程論 ノート」)、
その考え方の根拠となる原文の読解とその批判(「マルクス「労働過程」論の訳注」)
を掲載します。

 ■ 全体の目次 ■

 1.マルクスの労働過程論 ノート
  A 全体への批判
  B 構成
  C 本来の構成(代案)

 2.マルクス「労働過程」論(『資本論』第1部第3篇第5章 第一節)の訳注                           
 
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■ 本日の目次 ■
1.マルクスの労働過程論 ノート(その1)
 A 全体への批判

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1.マルクスの労働過程論 ノート
                    2013年10月22日 中井浩一

  A 全体への批判

 (1)唯物史観の導出ができていない

     マルクスが『資本論』のここに労働過程論を入れたのは、
    労働価値説の証明と、唯物史観の導出のためである。

    ところが、2つともにできていない。

     唯物史観の導出ができていない点については、
    道具(労働手段)が生産力と関係することを言うだけで、
    生産関係や上部構造がどこから出てくるのか、
    またこの3者の関係はどうなっているのかを示せない。

     これは唯物史観を主張するマルクスにとって
    致命的な欠落だったのではないか。

     それは冒頭で、一般的な労働過程論を展開するとしたことで、
    避けられなくなった。資本主義社会といった特定の社会段階から
    切り離した、共通部分として書くと言う。
    抽象的悟性の立場、外的反省の立場に立ってしまった。
    しかし、資本主義社会から切り離して論ずることは実際にはできない。
    そこで、資本主義社会のことが、無原則に労働過程の本質論に入り込む。

     当初は「人間」論のはずが、2段落以降で「労働者」が主語に
    なってしまう。「資本家」は労働していないかのような仮象を
    与えている。

     人間は労働によって、自分たちの都合のよいように、この世界を
    変えてきた。しかし、同時に、自分自身をも変えてきた。
 
    思考、目的にあった労働形態を作るために、
    つまり生産力を高めるために、道具などの生産手段を生みだし、
    それにふさわしいように自分自身の能力(肉体的にも精神的=思考にも)
    を高め、さらには人間の生産関係を変えてきた。

    この点を言えなかったのは、唯物史観の創始者にとって致命的だった。

     ある思想の創始者には、創始者としての責任がある。
    この資本論の労働過程論は、人間の本質を明らかにし、
    唯物史観の意味を鮮明に描き出すべきところだった。
    それがまるでできていない。

 (2)「実体」への反省が不十分

    (1)の結果に終わったのは、「実体」への反省が不十分だからだ。
    構成上は、次の B「構成」で示す「(3)生産物の立場からの、
    労働過程の検討」の中で、結果論的な考察(Nachdenken)、つまり
    「実体」への反省がなされなければならなかった。

     そして、人間の使命、自然が人類を生んだ意味を導出する
    べきだった。
    人間はなぜ労働をするのか。自然と人間はどういう関係なのか。
    自然の概念、人間の概念、労働の概念とは何か。
    そうしたすべてが明らかにされないままに終わっている。

     つまり本来の結果論的な考察(Nachdenken)になっていない。
    そこで、許万元が『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』で
    マルクスの代わりにそれを実行した。
    しかし許は、マルクスの批判は行わない。

 (3)マルクスのこの文章ならびにその構成はかなりひどい。
    点数をつければ30点ほど。

 100点満点でのもの。
    以前はマルクス大先生の文章は常に80?90点ほどだと
    買いかぶっていたが、今回はそのひどさに愕然とした。

     この文章の目的、ねらいは何か。
    そのために、何をどういう順番に書くべきなのか。
 
    それを十分に考えて、全体の構成を練り上げてから
    執筆するべきだった。
    ところが、マルクスはそれが不十分なままに、出たとこ勝負で、
    行き当たりばったりで執筆しているように思う。

     本来の目的を見失い、本当に書くべきことが書かれていない。
    これでマイナス30点。
    全体の構成の練り上げが不十分で、必然的な構成ではなく、
    行き当たりばったりの個所が多い。これでマイナス30点。
    また、傍流が多く読みにくい。これでマイナス10点。

    以上の結果、総合評価は30点である。

 
 (4)この(1)から(3)の問題点について、いまだ誰も批判を
    していない

    せいぜい牧野紀之の批判的な言及があるだけだ。