11月 24

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、本日から4回に分けて、掲載します。

■ 全体の目次 ■

「痴呆を通して人間を視る」(その1)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討
→ ここまで本日(11月24日)掲載

(3)第2章の検討
(4)第4章の検討
→ ここまで11月25日掲載

(5)第3章の検討
(6)第5章の検討
→ ここまで11月26日掲載

5.読書会に参加しての感想
6.記録者の感想
→ ここまで11月27日掲載

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■ 本日の目次 ■

1.はじめに
2.参加者の全体的な感想
3.中井の全体的な感想
(1)全体について
(2)構成と言葉の定義
(3)親子関係について
4.各章の検討
(1)「はじめに」の検討
(2)第1章の検討

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1.はじめに

・日時 2012年7月14日
・参加者 中井、社会人2名、大学生1名、浪人生1名、内部生1名、
     内部生の保護者1名の計7名   
・テキスト 小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』岩波新書
・備考 今回の読書会は、鶏鳴学園に通う高校生の保護者にも参加を
    呼び掛けた
・記録者 金沢 誠

2.参加者の全体的な感想

・この本を読む前に自分が持っていた介護の仕事のイメージは、低賃金、
 汚い、暗いという印象だったが、本を読んでみて、介護の仕事は、
 人間の本質が表れる仕事だと思った。自分の母親との対立の問題など
 を考えながら読むことができた。

・自分の身近な高齢者を見ていて、この本に書いてある「身体のささいな
 変化が、老人にとっては精神的なショックと結びつく」ということを
 考えさせられた。
 原発事故で家を追われた高齢者の方たちの環境の変化は、大変なものが
 あったのだろうと思った。

・精神医学に興味を持っていて、一番近い人で、もっとも依存すべき相手
 だからこそ、その人に攻撃してしまうという部分に思う所があった。

・特養ホームに入院している親戚がいるが、そのことに関わることが
 ほとんどなく、避けて来ていた。
 これまでは痴呆の人に会っても意味がないだろうと思っていたが、
 この本で「ボケてもこころは生きている」という所を読んで、驚いた。
 痴呆の問題だけでなく、日常の自分の人との関わりのことで、
 考えることが多かった。

・以前、職場で痴呆や介護のことを勉強したことがあったが、その時に
 習ったことと、今回のテキストの著者の言っていることとは違うと
 感じた。
 痴呆の初期の親戚がいて、その時にどう接したらいいのかなどを
 考えたい。

・特に3章ではっきり表れていると思うが、たくさん問いが立っている
 と思った。
 それから、この著者は、明確な否定のある人で、そこからこの人の仕事が
 始まっていると思った。

3.中井の全体的な感想

(1)全体について

 この本を読んで感動した。認知症を外から理解しようとする本は
 たくさんあるが、この本は、認知症を生きている人の側に立って、
 その人の世界を理解しようとする立場から書かれている。

 人間そのものの本質に迫っている。この本に取り上げられている問題は、
 すべて自分の問題として考えることができる。逆に言えば、この本が
 他人事にしか読めない人はおかしいということ。

 この人の文章は、圧倒的に問いが立っていく。問いが立つということは、
 現在、世間で行われていることがおかしいのではないかという、
 強い疑いがあるということ。

(2)構成と言葉の定義

 本の構成に問題がある。
 1章と2章は序論。本論は3章、4章、5章だが、本論を3章(周辺症状)
 から始めるのは間違い。4章(中核症状)から始めなければいけない。
 その次に、妄想などの周辺症状を取り上げた3章が続き、最後に、
 全体を踏まえたうえで、ではどうしたらいいのかということを問題にした
 5章が続かなければいけない。この読書会では、この順番で取り上げる。

 この著者は、このようなことができていない。こういうトレーニングを
 していない。精神科の医者で、特に無意識ということを扱う人たちは、
 意識的にトレーニングをするということをなおざりにしがちなのではないか
 と思う。

 この著者は、ケアと治療を概念として区別している。しかし、その定義が
 曖昧。著者の代わりに整理すると、治療とは直接の医療行為のことで、
 これは医者や看護師の仕事。ケアとは、直接の医療行為以外のすべてのこと。
 生活、生き方を含めたもの。

(3)親子関係について

 今回のテキストで考えたいことは親子関係のこと。
 鶏鳴学園では親からの自立ということを強調しているが、自立ができた
 後のことは、これまで問題にしてきていない。

 親から自立できた後には、自分の親が生活する能力を失う時が来て、
 介護の問題が出てくる。親子関係の最後には、親の死を看取るという段階が
 ある。そこで、親の最後に対して、どういう関わり方をするかという問いの
 答えを出さなければいけない。死までを踏まえて、親子関係の問題を
 考えておかなければならない。

 それと同時に、もう一つの大きなテーマである、死ぬということを
 どのように受け止めるかという問題がある。親が死ぬこと、
 自分も死ぬということ。

4.各章の検討
(「→」で示した部分は、すべて中井の発言をまとめたもの)

(1)「はじめに」の検討

・iiページ「悲惨を見極めた者だけが到達できる清明な達観が
     ここにはある。」
 → 絶望したことのない人間は、ろくなものではない。私は絶望の先に
   何かを手に入れた人間以外は、相手にしたくない。

(2)第1章の検討

・P14「私は、これまでケアに行き詰ったときには、いつもこの言葉に
    立ち戻って考えてきた。たとえば、『一生懸命に生きている』
    という言葉。長年、痴呆を病む人たちとおつきあいしていると、
    本当にそう思う。私よりよほど彼らの生き方は懸命だなあ、
    と感じるのである。」
 → どんなに優れている人でも、懸命に生きていない人がいる。
   私はそういう人を軽蔑している。

・P14「これまで痴呆を病む人たちが、処遇や研究の対象ではあっても、
    主語として自らを表現し、自らの人生を選択する主体として
    立ち現れることはあまりに少なかった」
 → 相手の主体性を、徹底的に尊重していくということが、この著者の立場。

11月 23

7月の読書会のテキストは『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、明日から4日に分けて、掲載します。

『痴呆を生きるということ』は感動的な本でした。
私の思いは、読書会の案内として、メルマガ(6月25日配信)の号外に、書きました。
読書会の記録の掲載の前に、再録します。

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◇◆ 人間そのものの本質に迫る本 『痴呆を生きるということ』 ◆◇

『痴呆を生きるということ』 (岩波新書847) 小澤 勲

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出版社/著者からの内容紹介

痴呆老人は,どのような世界を生きているのだろうか.

彼らは何を見,何を思い,どう感じ,
どのような不自由を生きているのだろうか.

痴呆老人の治療・ケアに20年以上携わってきた著者が,
従来ほとんど論じられてこなかった痴呆老人の精神病理に光をあて,
その心的世界に分け入り,彼らの心に添った治療・ケアの道を探る。

(アマゾンより引用)

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これは素晴らしい本です。
認知症という特殊な病を理解するために
大いに有効なだけではありません。

これは、人間そのものの本質に迫っている本なのです。

認知症を、外から理解する本は多数あります。
この本は、そうした本ではなく、
認知症をその内側からとらえようとするのです。

徹底的に患者本人に寄り添い、当人の心の世界を、
当人の側から理解しようとします。

彼らはどのような世界を生きているのか。
それを理解し、その世界をともに生きようとします。

この本は、認知症の人の世界を解き明かしただけではありません。
それを通して、すべての人間の本質、社会と家族との関係で
生きることの本当の意味を浮き彫りにします。

それほどの深さと広がりを持った本です。

最近、私の父が入院しました。

腰をいため、食事がとれなくなったからです。
そして入院生活の中で、認知症の症状がはっきりとわかりました。
約2年前から、認知症は進行していたようです。

私が気づくのが遅すぎました。しかし、そんなもののようです。

父と一緒に生活し、介護していた母も、父を認知症だとは思わず、
「寝ぼけている」とか、「意地が悪くなった」とかと、こぼすだけでした。

私の妻の母は20年ほど前から認知症で、
その義母との関係で私もそれなりに認知症を理解しているつもりでした。

しかし、そうではなかった。
直接の当事者か否かでは、それほどに違うようです。

今は、少子・高齢化社会です。
家族が認知症になり、その介護で悩み苦しんでいる方が
多いことと思います。

他人ごとではなく、また介護側としてだけではなく、
私たち自身が認知症になる可能性も高いのです。

本書をゼミの7月の読書会のテキストにし、認知症への理解を深め、
人間の本質を考えてみたいと思います。

最後に本書を読む上でのアドバイスを。

本書は、全体としてのまとまりが弱く、読みにくい部分があります。
特に本論である、3章?5章の関係、
特に3章と4章の関係がわかりにくいと思います。

一番大事で核心的なのは3章です。ここだけでも読めますし、
ここをしっかり読むだけでも、圧倒的に学べると思います。

3章と4章の関係については、本書の続編である『認知症とは何か』
(岩波新書942) を読むとわかります。

つまり、大きく言って、中核症状(4章)と周辺状況(3章)との
区別なのだと思います。
本書に感動した人には、『認知症とは何か』を併読することをおすすめします。

1月 16

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その5

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか

 (1)「精神現象学」派と「論理学」派

 竹田は、ヘーゲル哲学に、特に『精神現象学』に大きな影響を受けたと言う。
彼にはヘーゲル哲学を論じた多数の本があるし、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』という、すごいタイトルの本も出している。
その「はじめに」を読むと、竹田が論理学をほぼ全否定していることがわかり驚いた。

 「『大論理学』は哲学としてはもはやほぼ使い道が無く
  過去の遺物であり(中略)『精神現象学』の注釈くらいに考えていい」。
 

 ヘーゲル哲学に関心を持つ人は、「精神現象学」派と
「論理学」派にはっきりと分かれるようだ。「文学的な」人が、
精神現象学派には多いように思う。彼らの直感的で感性的な体質に
合っているのは、精神現象学であって、論理学ではないだろう。
論理学は論理そのものだが、精神現象学は具体的な叙述が多く、
内容を捉えやすいことも関係するだろう。

 竹田は、精神現象学派の典型と言って良い。
精神現象学を高く評価する一方で、論理学を否定する。
しかし、すでにここで大きな疑問が起こる。そもそもある人の思想内容と、
その論理展開を切り離すことができるのだろうか。ヘーゲルの思考内容を
評価するなら、その内容はどこから生まれたのだろうか。それは最終的には、
彼の思考能力、つまり論理的能力以外にはないのではないか。
まさか、ヘーゲルが「直観」だけで真理を把握したとは言うまい。
「直接知」の立場を徹底的に批判したヘーゲル自身が、
そうだったとでも言うのだろうか。

 「精神現象学」派と「論理学」派の対立を考えるとき、
牧野紀之の下で起きたある事件を思い出す。牧野は40年前から
ヘーゲルを指導する学習会を主催していたが、そこには精神現象学と
論理学のそれぞれの原書講読のクラスがあった。受講者はどちらかに分かれ、
両方を受講する人は少なかったようだ。精神現象学を読んでいた人たちは
吉本隆明好きで、ある時、吉本を批判した牧野に反旗を翻し、
ほとんどが辞めていった。論理学のクラスではそうした劇的な場面はなかった。

 牧野自身は論理学派だと思うが、その立場から精神現象学も
丁寧に読み込んでいる。その記録が、彼の『精神現象学』の翻訳と注解だ。
私も牧野と同じスタンスである。特に、その序言、序論は重要だと思う。

 (2)竹田による「自己意識論」の解釈

 竹田の読解は直感的だが、実際の生活経験を振り返り、
的確なヘーゲル理解に到達している部分がある。例えば、
『自分を生きるための思想入門』(芸文社)の25?29ページでは、
『精神現象学』の「自己意識論」を、身近な具体例からわかりやすく
説明している。

 ストア主義の例に、教室でわかっていても手を挙げない
反抗的な子どもを出し、懐疑論では、どのような意見や主張に対しても
シニカルにかまえて水を差す青年の例を出す。不幸な意識の例では、
マルクス主義やキリスト教への「信仰」を出す。そうした大きな物語に
自分を一体化して他人の上に立つことは、同時に大儀のための自己犠牲をも
要求されるという矛盾であることを示している。そこでは自己否定(忠誠心)の
度合いの競争になり、依存を深めて自立を妨げることになりやすい。
それを見抜き、この不幸な意識の例としているのは、さすがに卓見だと思う。

 竹田が読まれているのは、こうしたすべての人の生活経験から
論理を拾い上げる力が、一般のレベルと比較すれば抜きんでているからだろう。
これは、自身や周囲の経験を、繰り返し考え続けて、そこから
自分の思想を作ろうとする竹田の姿勢から生まれている。その正しさが、
ある深さに達しており、それが人々の共感を呼ぶのだろう。

 竹田が取り上げた3つの例は、竹田自身の経験の反省から
生まれたものだと思うし、私自身にも思い当たることが多い。
特に不幸な意識の矛盾は重要だ。これは政治、宗教、学問などで
無数の例を出せるだろう。共産党と知識人の関係などでも、
多数の不幸な例(スターリン信仰や文化大革命、連合赤軍の粛正事件など)を
出してきた。

 実は、同じ事は、牧野紀之の下でも起きていた。
「先生を選ぶ」ことが、依存を強め、先生の奴隷になってしまう。
そうした人も出たし、私にもある時期そうした段階があった。
「先生を選べ」の原則を作った、その牧野の足許で、同じ事が起こるのだ。

 (3)竹田の限界

 竹田のすぐれた面を指摘してきた。しかし、竹田が論理学を否定したことは、
竹田の論理力にそのまま跳ね返っている。彼の思考の荒さや弱さだ。

 牧野は訳注(358ページ 注1)で、すぐれた説明として竹田説を紹介、
長々と引用している。しかし、評価するだけで限界を言わない。
私がその問題点を指摘しておく。

【1】竹田が出した3つの経験と、そこにある論理は確かに重要な問題を提起している。
  ヘーゲルの論理との対応関係もある。
  しかし、3つの例はすべて、「3つの範型」として、バラバラに
  事例として出しているだけで、そこに論理必然性はない。
  自分が考えた3つの経験を、ここにただ当てはめただけだ。

【2】だから、ストア主義と懐疑論が対立、相互関係として捉えられていない。
  また、ストア主義と懐疑論に対して、不幸な意識は両者を止揚した
  上のレベルなのだが、それも無視されている。

【3】「自分が他人より優れている、上に立っている」。この表現が一面的だ。
  主と奴の関係が逆転したことを前提に、ヘーゲルはここで展開している。
  したがって、上下関係は相対的なものでしかないことは、すでに明らかになっている。

【4】ストア主義の例
  これを「他人の承認を求めていない」と竹田は言うが、そうだろうか。
  「バカにした他者からの承認」を否定し、その否定とは自己を自己が
  承認しているのだから、それも「他者からの承認」と言えるのではないか。

【5】懐疑論の例。「相対的に上位」、【6】不幸な意識。「他人より上位に立つ」
  これらも違うと思う。「他人の下位」でも、承認になるのは、いじめの論理が証明する。

 以上の批判に対して、私の代案は三.と四.に書いたとおりだ。

 竹田の論理的思考の弱さを指摘してきたが、これはただの揚げ足取りだろうか。
こうしたことは問題にならないだろうか。竹田は不幸な意識の矛盾を的確に指摘できた。
しかし、それだけでは、その問題を真に解決することはできないと思う。
事実、竹田によるこの問題の解決策は書かれていないと思うのだが、どうだろうか。

 一方で、論理的には竹田を圧倒する牧野紀之は「先生を選べ」の原則を出し、
この問題への解決策を示すことができた。それはまさに論理の力だろう。
しかし、その牧野の下で、「牧野信仰」が起きていたのも事実である。

 そもそも、ヘーゲル自身はどうだったのか。この『精神現象学』執筆の
時点では問題にならなかったろう。『精神現象学』の「不幸な意識」の平板さは、
こうした問題を考えていなかったことも関係するだろう。
しかし、ヘーゲルがベルリン大学の教授になり、多数の弟子に囲まれて
名士に成り上がってからは、どうだったのだろうか。おそらく多数の
「ヘーゲル信仰」の若者や学者たちが、その取り巻きの中にいたことだろう。
ヘーゲルはそれには何も語っていないように思う。
さて、今度は私の番である。私はこの問題を解決できるだろうか。

 なお、竹田は、『自分を生きるための思想入門』で出した例を、
『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』の自己意識論の箇所では出していない。
これはどうしてなのだろうか。

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1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。

12月 28

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

 関口にとって、人間の意識こそが中心であり、世界は意識に反映された限りで問題にするにすぎない。これが現象学の立場だから当然だが、ここで世界が人間の意識を規定するのか、人間の意識が世界を規定するのかが改めて問われるだろう。それには判断中止し、世界は意識に反映された限りで問題にするのが現象学の立場だ。
 ここにこそ、関口と、ヘーゲル、マルクスの対立がある。もちろん、言語表現を直接の対象にしている研究者にとっては、それで十分だということはできる。それどころか、関口は言語に反映された限りで世界に迫り、そこらのヘーゲル、マルクスの研究者以上に、果敢に世界の本質に迫っている。

 しかし、だからといって、両者の違いが大きいことも明らかだ。関口は言語世界の運動と現実世界のそれとの関係を語らない。例えば、名詞論の始まりで、関口はヘラクレイトスの「万物は流転し止まることなし」を受け、「これはまた少し違った意味で『言語』という現象にも通用する」(183ページ)と述べる。しかし「少し違った意味」とは何かが、説明されることはない。

 なぜ名詞に無限のニュアンスが生まれ、無限の「含み」が生まれるかと言えば、根本的には世界そのものが矛盾し、それゆえに運動しているからだろう。その世界の矛盾と運動を、言語では静止したもの「として」もとらえなければならず、その矛盾が言語や名詞の無限のニュアンスや「含み」を生みだしているのだろう。しかし、世界の運動は、他方では人間を生み、人間の意識の世界をも生みだしている。その人間の自己意識の世界もまた、それ自体矛盾し運動している。その世界をも言語表現は静止した形で表現するしかできない。したがって「含み」が生まれるのは二重の意味で必然なのだ。関口の「含み」の理解は、このレベルにまで深めて理解すべきだろう。

 ヘーゲルやマルクスならこう言うだろう。「人間の意識の矛盾や運動は、世界の運動の結果生まれた物であり、それが世界を反映することは最初から決まっており、その反映の仕方も、対象と同じく、矛盾と運動によるしかない」。こうした理解の上で、関口が「含み」を研究したらどうなっていただろうかと、想像しないわけにはいかない。その「含み」は人間を解き明かすだけではなく、この全自然の「含み」をも明らかにしただろう。それはそのままに全自然史の展開になり、ヘーゲル哲学に近い物になっていたのではないか。そうした夢想を引き起こすほどに、それほどに関口のすごさは圧倒的なのだ。しかし、一方で、それはどこまでもハイデガーの立場に身を寄せてもいる。これもまた、この世界の矛盾の一つでしかないのだろう。