4月 08

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
毎日コラムを1つ転載します。

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「確認」と「発見」は違う(福岡伸一の「生きることと食べることの意味」)

福岡伸一は『生物と無生物のあいだ』で、一大ブレークした分子生物学者だ。
「動的な平衡状態」は彼のキーワードらしい。

しかし、彼のすごさは、分子生物学者としての優秀さにあるのではなく、
ムズカシイ分子生物学を一般読者にわかりやすく、興味深く語れるその語り口にあるようだ。
テレビの教養番組で、生物の世界から、現代社会の問題まで、幅広く論ずる彼の姿をよく見る。
本テキストには、そうした福岡の本質がよくあらわれている。

分子生物学の凄さを語るには、分子レベルの観察によって、
従来の生物学、従来の世界観にどのような大きな変化が生まれたのかを説明する必要がある。
しかし、このテキストでそれが実行されたのだろうか。

著者が力を入れているのは、「生命の実態」「食べた物と体の分子がたえず分解と合成を繰り返す」という認識だが、
それは以前から「生物の新陳代謝」として「細胞レベル」では解明されていたことではないか。
人間は「堅牢不変の構造ではなく」、細胞レベルでは絶えず新陳代謝を繰り返し、古い細胞は死に、新たな細胞に入れ替わっている。
私は高校生の頃、生物学でこの不思議な事実を知って、心打たれた覚えがある。
今回の福岡の説明は、それを分子レベルで「確認」したにすぎないのではないか。
「確認」も大切だが、新たな事実、新たな世界を切り開いたのとは違う。
ましてや「コペルニクス的転回」と評価するに至っては、大袈裟すぎて笑ってしまう。

テキストの最後の方で「食い」「食われる」ことの説明がある。
ここから「地球上の生命すべて」「環境全体」に一気に拡大するのは、あまりに大きな飛躍だと思う。
しかし、それを認めたとしても、これも「食物連鎖」として有名な考えであり、周知のものではないか。
それが分子レベルで「確認」されたからといって、それが何なのだろうか。

私は、分子レベルの観察によって、従来の世界観が根底から覆されるような発見を知りたい。
もしそうしたことがあれば、それを「コペルニクス的転回」として認め、分子生物学に対して深く頭を下げよう。

4月 07

今年の4月から全国の高校で使用される、大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、「国語総合」に収録された評論を取り上げ、そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、その考え方を私が批評するコラムをつけている。

指導者が指導する上でのヒントになるように、テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このブログの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、このブログにも
本日から毎日コラムを1つ転載します。

■ 目次 ■

ネット社会での「白」の行方(原研哉の『白』から)
「確認」と「発見」は違う(福岡伸一の「生きることと食べることの意味」)
「オタク」の勝利宣言(四方田犬彦の『「かわいい」論』から)
全肯定からルールは始まる(竹田青嗣の「いたずら ?大人たちへの挑戦」)
香山リカは空気を読む(香山リカの「空気を読む」)
鷲田清一の「目をそむけるな! 逃げるな!」(鷲田清一の「他者を理解するということ」)
「自立」と「依存」の関係は?(姜尚中の『悩む力』から)
「ミクロの政治」と「マクロの政治」(橋爪大三郎の『政治の教室』から)

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ネット社会での「白」の行方
(原研哉の『白』から)

原研哉が本テキストで語っている「不可逆性」や「完全性の美意識」などの問題そのものは、すでに語りつくされたことだと思う。
この著者のオリジナリティは、それを「白」と表現したことだろう。それは本来、色とは別の問題だから。
それは文字や印などのシンボルと、それを書きとめる物質との関係の話だ。書き留めるのは主に「紙」だが、
昔は紙は貴重だから竹や布に書いていた時代もあった。
紙に限定しても、それが「白」であるのは例外で、薄汚れた色だったことだろう。
そこに生ずる問題を、著者は精神や意識として、文化としてとらえ、さらにはそれを「白」としてとらえる。
日本では「白」には白無垢、武士の切腹の際の白装束というような、鮮烈さがある。
そうした文化的な意味合いを込めて「白」を考える時に、どういった世界が見えてくるのか。
本書『白』はサントリー文化賞を受賞している。

本テキストで気になるのは、ネット社会を、「白」の文化の対極の世界として提示しながら、
その対比の意味が展開されないままに、放置されていることだ。
この著者のオリジナルの1つは、従来の議論に、現代のネット社会を対置したことにあるだろう。
だからこそ、次に問われるべきなのは、「不完全」を前提にしたネット社会にあって、
これまでの「白」の文化、「白」の美意識はどういう影響を受けるのかだ。
「白」の文化は消滅する運命なのだろうか。
それとも、ネット社会の中で、次の展開が待っているような強靭な文化だろうか。

11月 27

 「痴呆を通して人間を視る」(その4)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は4回目です。

■ 目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その4)
  7月の読書会(小沢勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠
 
5.読書会に参加しての感想
6.記録者の感想

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5.読書会に参加しての感想

 ・要は、生き方次第だと思った。自立した生き方ができるかできないか次第で、
  痴呆になるかならないか、また痴呆になった時に、どういう症状が表れてくるか
  が、決まると思った。それから、痴呆の人の心が見えるか見えないかも、
  その人の生き方次第だと思った。

 ・攻撃性は喪失感から来るという話しを聞いて、知り合いの事例で、疑問に
  思っていたことがあり、それが理解できた。

 ・痴呆症の人間というと、もうその人とは理解不能と考えてしまいがちだが、
  この本を読んで、こちら側の働きかけ方で、見えてくるものがあると思った。
  それから、自分自身の普段の人間関係を考えていく時の参考になった。

 ・攻撃性の心の裏に、寂しさと不安があるという所は、自分の経験で、
  よく分かった。こういう本を読んでいると、自分の行動の意味を、自分で
  理解することができるようになる。

 ・この本で取り上げられていることは、すべて自分の問題だったということに、
  自分一人で読んでいた時には気がつくことができなかった。「自分のなかで
  取り引きをしている」という話しでは、自分はこれをやっていると思った。

 ・自分の母親との関係のことを見直すことができた。

6.記録者の感想

 3年ほど前から、定期的に「社会人・大学生の学習会」に参加しているが、
 最近思うことがある。

 これまでの読書会では、東日本大震災関連の本が取り上げられてきたが、
 今回は、認知症の問題を扱った本が取り上げられた。だが、今回、この読書会の
 記録を作成していて思ったことは、どんな本を取り上げても、中井さんは、
 同じこと、一つのことを問題にしているのではないかということだった。
 それは、自立ということだと思う。
 痴呆になり、妻盗られ妄想などの周辺症状が出る人間と出ない人間の違いは
 どこから来るのか。それは、自立した生き方ができているかどうかということ
 だと思う。

 では、自立した生き方ができているとは、どういうことか。
 そのことを考えていて、思い出したのが、一年ほど前に、中井さんがゼミの場で
 話題にした「釜石の奇跡」のことだった。3月11日の地震の際、
 釜石の学校の生徒が、ハザードマップを鵜呑みにせず、自分で考えて判断し、
 津波から逃げて、自分の命を自分で守った行動は、自立した生き方の模範だと思う。

 それから、今年の5月、6月の読書会で、『福島原発事故独立検証委員会 
 調査・検証報告書』を取り上げ、そのなかで、「吉田所長や、菅首相は、
 自分の命をかけて仕事をした」という中井さんのコメントがあった。
 このことを考えていて、思い出したのは、2009年の6月の、佐藤優著
 『国家の罠』の読書会のことだった。そこで、中井さんが、その著者の生き方
 について、「圧倒的な自己相対化の力がある。自分の逮捕や有罪判決よりも
 大事なものがあり、そのために生き、闘っている。」とコメントしていたことを
 覚えているが、自立した生き方ができているということは、こういうことでもある
 と思う。そして、こういう生き方のできる人が、強い人間なのだと思う。

11月 26

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は3回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その3)
 7月の読書会(小沢勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
 記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(5)第3章の検討
(6)第5章の検討

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4 各章の検討
(5)第3章の検討

・P73「それが見えないのは、私たちが見ようとしていないだけである。
    遠くからこわごわ眺めていては見えない。」
 → 見ようとしない人には何一つ見えない。

・P81「話し始めると止まることがない。」
 → 話しを聞いてくれる人がいれば話す。

 → ここでの問題は、家族という閉じた空間で起こっているということ。
   閉じた関係のなかでの解決は不可能。第三者が、中に入らないと
   解決できない。だから、外に、助けを求めなければならない。

・P82「彼らが激しい攻撃性によってこころの奥底に潜む不安と寂しさを
    覆い隠そうとしているに違いない」
 → 攻撃的な人の根本にあるのは、寂しさと不安。そもそも、なぜ攻撃的に
   ならなければいけないのか分からない。自分が壊れてしまうから攻撃的になる。

・P84「最も依存すべき相手だからこそ」
 →「実は彼らが妄想対象に依存したいというこころを秘して」いる。

・P87、88「もの盗られ妄想」
 → なぜ、ものを盗られたという妄想になるのかというと、自分が依存したいのに
   できないという感情と、ものを盗られて大切なものがなくなった時に味わう
   感情が似ているということ。感情的に近い現象として表現することで、
   自分の思いを伝えている。

・P89「喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的な感情」
 → 攻撃性の方しか表には見えない。その後ろには、寂しさがある。

・P90「老いを生きる」
 → 家族や友人が死に、だんだん周りがいなくなっていく。このような喪失体験を
   重ねていく。その時に、それでも寂しくないという生き方をつくっておかないと
   いけない。

・P93「痴呆進行の加速度」
 → 痴呆に加速度がつく時に、周辺症状がたくさん表れてくる。
 → これから自分はどうなっていくのか分からないという怖さ。その人が、
   このような不安、怖さの中に生きているということを感じられる人が、
   その人のまわりに一人でもいるか、いないかでは、その人の周辺症状の表れに
   違いが出てくる。

・P103「人柄」
 →「人柄」とは、これまで生きてきた、その人の生き方のこと。

・P104「波乱万丈の人生」
 → このページで紹介されている例は、波乱万丈の人生ではない。波乱万丈の
   人生ならば、人に助けを求めるということを何度もやったはず。

・P111「女性のエネルギー」
 → 10代から高齢者まで、女性の方が圧倒的にエネルギーを持っている。

・P115「優位な立場で妻を所有することによってようやく維持される価値しか
    自分には残されていないと感じる人たちが嫉妬妄想に追いやられる。」
 → これは母親が子供に対して、子供を所有するという形で、優位な立場を
   確認することと同じ。このことも特別に、痴呆によって出てきている問題
   ではない。そもそも、こういうことが自分の存在証明になるような生き方を
   している人はどうしようもない。

・P126「漠然とした事象に一つの言葉が与えられると、本来その事象が含んでいた
   さまざまな差異が無視され、同一の事象とみられがちになる。」
 → このような指摘ができるこの著者は、他の人とレベルが違う。
   本来は、区別しなければいけないことが、一緒くたになってしまっている
   ことはとても多い。この著者はそれを区別して説明していく。

・P136「帰宅願望」
 →「帰る」は、女性で、「家に帰る」。「行く」は、男性で、「会社に行く」。
   今の日本の多くの男が「行く」という時、「会社に行く」となっているのは
   事実だと思う。「会社に行く」ではなく、自分自身のテーマがあり、
   そのテーマを解決するために、会社のチームの仲間や、そこで付き合いの
   あった相手方の所に行くならば、問題にはならない。

・P140「徘徊」
 → 付き添いの人と一緒に歩いて、疲れたから帰ってくるのではなく、一緒に
   歩いて自分の話を聞いてくれた人との関係があるから、その関係性をその間に
   作れたから、その関係のある所に、帰ってくることができる。

・P144「偽会話」という究極のコミュニケーション
 → 現象的には会話になっておらず、見せかけの交流のように見えるが、
   実際には、コミュニケーションが成立している。なぜなら、お互いの存在を
   確認しあうようなことが、そこで行われているから。こういう時には、
   話の中身はどうでもよい。コミュニケーションの究極の段階。だが、それほど
   特別なことでもない。人間と人間は、そういう所でつながる部分がある。

(6)第5章の検討

・P191「最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応が要求される」
 → もっと重要な課題は、自分が死ぬということを、最後の段階で、一人ひとりが
   やらなければいけないということ。最も適応する力が衰えた時に、死に向かって、
   自分で、一つ一つやっていかなければいけない。

・P198「急がず時間をかけて、繰り返し繰り返し語られる彼らの言葉を、
   こころをこめて聴く」
 → 相手に語ってもらって、それを聞くことが大切。
 → こういうことを施設の人に期待することはできない。自分でやらなければ
   いけない。ただ、痴呆になってからでは遅い。

・P199「ストーリーの真偽」
 → この場合のストーリーは本当なのか、という場合の「本当」とはどういう意味か。
   その話が客観的な事実と一致していなくても、その人が実際にそれを支えとして
   生きているということが大事。

・P209「ズレとギャップ」
 → ギャップを無くそうとするのは間違い。ギャップがなかったら成長しない。
   ただ、ギャップがあるから絶えず苦しい。でも、それを引き受けるしかない。
   そのギャップが、自分の生きる原動力になっていくような生き方をしたい。

・P211「障害受容論」
 → いきなり第5段階の受容にはいかないということ。一人一人が違うプロセスで、
   最後に向かって、一歩、一歩、歩いていくしかない。

 → これは死の問題だけでなく、人間が成長できるかどうかという問題。
   自分の弱さ、能力の低さ、勇気や覚悟のなさ、などのことを受け入れない限り、
   成長はない。ところが、多くの人は受け入れない。自分のなかで自分と
   取引きをして、あの手この手で認めようとしない。人に「助けてください」
   と言えない。だから先に進むことができない。

・P217
 → 最後の時間を、誰とどのように過ごしたかということが、その人が死を
   受け入れることができるかどうかを決め、また、その人とともにいた人も、
   その人の死を受け入れることができるかどうかを決める。つまり、個人の
   問題ではない。人は関係のなかに生まれてきて、関係の中で死んで行く。
   だから、そのような関係のないなかで、一人で死んで行く、というのは
   非常につらい死に方だと思う。

 → 受容は一人ではできない。それが一人でできる人は普通ではない。だから、
   どういう関係のなかで、ある人の死を受け入れるか、どういう関係の中で、
   自分が死んで行くのか、ということ。これならば普通の人にもできる。
   信仰は、その相手を神に求める。

11月 25

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録

7月の読書会のテキストは
『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)でした。

その読書会の記録を、4回に分けて、掲載しています。本日は2回目です。

■ 本日の目次 ■

 「痴呆を通して人間を視る」(その2)
  7月の読書会(小沢 勲 著『痴呆を生きるということ』 岩波新書)の記録
  記録者  金沢 誠

4.各章の検討
(3)第2章の検討
(4)第4章の検討

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4.各章の検討
(3)第2章の検討

・P36「痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、
    時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。
    今を過去が照らし、過去を今が彩る。」
 → これは痴呆に関わる人だけのことではない。人間ならば誰でも、
   このように生きている。

・P36「彼らにかかわる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。
    それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけは
    忘れてはなるまい。」
 → だが、今の実際の介護の現場では、一人ひとりの後ろにある、それまでの
   人生の重さを受け止めてくれる人がいない。
   ただ、それは個人の問題ではない。特別養護老人ホームも老人保健施設も、
   スタッフの数が少なく、物理的に無理なのだ。それは行政の問題。
 → だが、本来どうあるべきかを考えた場合、目の前にいる痴呆の人には、
   その人なりの人生があり、そのすべての人生の上に、今、そこに存在
   している、ということが前提だ。

・P43「ケアには相手の心根を汲むという作業が何よりまして大切である。」
 → これはケアに限らない。人間が、人と関わる時には当然のこと。
   ただ、痴呆の場合には、このことがより重要になる。

・P45「痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える
    目をもたねばならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望に至る道
    をも見いださねばならない。」
 → 悲惨を見つめることはきつい。しかし、そこから目をそらしては、
   希望に至る道は見えないはず。これは痴呆を病む人だけのことではない。
   人間は、関係性のなかにしか生きられない。どういう人間と、どういう
   関係をもって、生きていくことができるかということによって、
   その人間が、幸せになれるかどうかが決まる。そのことが、
   痴呆になることで増幅されるにすぎない。

・P48「罪の意識」 
 → 罪の意識で、妻の介護をするような人生を生きてきた男は情けない。
   現在の高齢者が、このようになることは、社会的に仕方ない面がある。
   だが、今の若い人が、こうなったら、すべて自己責任。

・P50「生きるエネルギーが衰えていく」
 → 精神科の医者は、すぐに薬で抑え込もうとする。それは生きる
   エネルギーを奪う。薬によって病気を抑えようという発想が正しいのか。
   正しくないことは明らか。
   しかし実際の治療の現場では、薬で抑え込もうとする。

・P52「『かわいいー』とはやし立てる」
 → 怒りを覚える。相手を人間として見ていない。介護の現場のスタッフの
   なかにおかしい人がいることは事実。その場合には、その都度、
   その当人や責任者に、おかしいと批判しつづけなければならない。
   そうしなければ現場は一歩も変わらない。

・P54「聖なるもの」
 → ここまで突き進むことができるかどうかが問題。

・P61「どんな悲惨な状況にあっても、いや悲惨だからこそ、ひととひととの
    つながりが『幸せ』を招き寄せる、と信じたい。」
 → こういう信念がなかったら、この厳しい現実のなかで、やっていけない。

・P69「しかし、耕の誠実は耕自身を確かに救ったが、彼女を救うまでには
    至らなかったのかもしれない。」
 → この著者は、こういう所で感傷的にならない。最終的な判断は、
   読者に委ねて、読者みずからが考えて、答えを出す以外にはない、と
   突き放す。

(4)第4章の検討

・P158 
 → 認知症の人が、このような表現活動、知的活動を続けることができて
   いる稀有な例。
   なぜそれが可能なのか。そばに完全にサポートしてくれる人がいるから。
   それがなかったら不可能。逆に言えば、そういう人がいると、かなりの
   ことができるということ。

・P161「記憶障害があれば痴呆か」
 → 記憶障害自体は、他にもたくさんある。だが、それらと認知症の
   記憶障害とは何が違うのか、という問い。
 → その答え。記憶障害それ自体が認知症ではない。記憶障害であると
   いうことに対する無関心、さらに、それの否定という所まで行くと
   認知症ということになる。

・P165「見当識障害」
 → だれでも迷子になる。そのことと認知症の見当識障害とはどう
   違うのか。その答え。人に助けを求めることができるかどうか。 
 → 人に助けを求めることができるということは、自分の力では解決できない
   という自覚があるということ。その時に「助けてください」と
   言わなければならない。
 → 認知症の人は、自分が迷子になっているということ自体は、かすかに
   分かっている。だが、何とかしなければいけないという自覚が弱い。
   さらに、その自覚はあっても、人に助けてもらわないと自分ではもう
   解決できないということが分からない。だから助けを求められない。

 → これは認知症に特有のことではない。実はすべての人間に言えること。
   自分が行き詰っているのに、それが認められない。なんとかなると
   思っている。自分の変なプライドがあり、人に「助けてください」
   などと、みっともないことは言えないと思っている。
   ここで問題になっていることは、人間の本質的な問題そのもの。
   これは認知症だから出てくる問題ではなく、人間すべての問題。
   それが認知症のなかに、非常にはっきり表れてくるだけ。

・P168「定常的スケジュール」
 → 人間は、こつこつ地味に努力して生きていく以外にはない。
   ある日、突然、何かすごい変化が起こるなどということはない。
   ただ、毎日の地味な努力の積み重ねがあるだけ。

・P169「実行機能の障害」
 → これは人間すべてにとって難しい。自分が間違っているということを、
   自分で認めることはつらい。だから、ほとんどの人は、できるだけ見ない
   ようにして、ごまかす。
 → 痴呆になって、こうした周辺症状がでるということは、もともとその人の
   生き方が、このようなものであったということ。それがより強く表れる
   というだけのこと。

 → 痴呆になっても、こうした周辺症状は出ない生き方があるということ。
   自分が間違った時には、それを認め、助けが必要な時には、人に助けを求める
   などのことをやって生きてきた人間は、こうした症状にはならないということ。
 → 人に「助けてください」と言える人が、自立した人間であるということ。
   自立している人間は、本当の意味で依存ができる。「助けてください」と
   人に言える。思い切って依存ができる人が、自立が出来ているということ。

・P174「ズレが存在する」
 → この本の著者の素晴らしい所は、このズレをなくそうとするのではなく、
   このズレを大切にしようという所。人間が現実からズレて生きていること
   自体は問題ない。むしろ、ズレがなかったら成長しない。
   問題は、このズレをどのように処理すればいいのかということ。
   痴呆の人の場合は、とりあえず妄想の形で、それを解決する。
   だが、痴呆の人だけでなく、多くの人も同じことをやっている。

・P175「うたこ だんだん ばかになる どうかたすけて」
 → これがなぜ賢い叫びと言えるのか。自分が、ばかになるということを
   自覚している人間と、実際は、ばかなのに、それを自覚していない人間と、
   どちらが、ばかなのか。
 → こういう所を読むと、詩の力というものがあると感じる。
   文学の力というものは捨てたものではないと思う。

・P181「新たな生き方の発見」
 → このこと自体も、人間関係のなかで、常に出てくる2つの面。
   ある人と関わりをもったら、その人に依存したいという思いと、
   その人から自立したいという思いを持つのは当然。